復帰摂理歴史の真実
日本における摂理的概要 <トップ> 仏教に影響を与えた景教

■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
     a. 神道とは何か


1. 統一思想から見た神道の本質

<参照>
 日本の伝統的国体法と神道 (法学者・憲法学者 小森義峯: PDF / 本サイト

 (1) 神の遍在性

  @ 神道における “神” について

 “神によって選ばれし民” と自負してきたイスラエル選民は、モーセの十戒を “人の従い守るべき正しいおしえ” として太古の時代から歩んできた。唯一神を拠り所とするはずの “失われた10支族” が日本に来て、なぜ先住民の “八百万の神々” を神話の中に取り入れたのか。日本に伝来した稲作漁撈を主とする太陽文明(長江文明)の特異な精神文化における精霊(spirit)を、10支族は “神の本質” としてとらえ、記紀神話においては日本の成り立ちとともに記したのである。

<参照>
 黄河文明と長江文明
 中国古代文明と日本
 古神道とは?(まとめ)

    (@)多神教としての本質

 神道とは、日本古来の、したがって、固有の精神文化であって、その内容は、神を尊崇することにより、神意に適合して、現実の生活を豊かならしめようとする生活原理である
 日本には、六世紀初葉までに百済を通して儒教・仏教・道教などの外来文化が伝えられ、西暦六〇〇年に最初の遣隋使が派遣されて以後は中国との直接交流も盛んになった。西暦六四五年には「大化の改新」が断行され、その後、中国の法制に倣って律令制度も整備された。しかし、神道は、日本人が、儒教・仏教・道教などの外来の精神文化、さらには律令制度などの外来の法制に接する以前から、古く日本人の間に行われてきた精神文化であり、生活原理である

ー 中略 ー

 神道では、「むすび(産霊)」が尊重され、この「むすび」を司る神としての「高皇産霊たかみむすび」と「神皇産霊かみむすび」の二神が殊の外尊崇されるが、「むすび」とは、万物を生み出すことであって、万物の生成発展の根源であり、生命の源泉をいう。また、神道では、「中今なかいま」の思想も強調されるが、「中今」とは、過去から未来へとつながって行く「現在」に最高の価値を見出し、最善の努力を傾けようとする神道的世界観の表現である。このように、「むすび」や「中今」が強調されるところにも、神道が、偉大な現世肯定の教えであり、宗教というよりも、生活原理と呼ぶにふさわしい内容を有している、ということができる。
 神道の本質は、何といっても、その独特の神の観念にある。
 神道における神は、天地を創造し、万物を主宰する全知全能の絶対者としての「ゴッド」ではない。神道における神は、人間を含めて、宇宙のすべての生物・無生物の中に宿る神霊または神性としての神である。神道によれば、人間はすべて神霊または神性を有するが故に、すべての人間が神である。つまり、「現人神」である。しかし、神霊は、唯に人間のみならず、山にも、川にも、野にも、海にも、石にも、木にも、森にも、動物にも、植物にも、鉱物にも、昆虫にも、細菌にも、空気にも、水にも、宇宙のありとあらゆる物の中にあまねく宿る。神道によれば、神は数限りなく存在するから「八百万の神々」と称される。(「日本の伝統的国体法と神道」p4〜p6)


 統一原理でよく使われる言葉に「主管」(ある物事を主となって管轄、管理すること)という言葉がある。これは「主宰」(人々の上に立ち、中心となって事に当たること)という言葉の意味とよく似た言葉である。 有史以来、ユダヤ教の神はこの主宰者としての神であり、人と万物の主宰(主管)者であったのである。しかし、イエスの十字架以降 “神は愛である” とされた。

 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守ることはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するものとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。この方は水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊” はこのことを証しする方です。“霊” は真理だからです。証しするのは三者で、“霊” と水と血です。この三者は一致しています。(「ヨハネの第一の手紙」4章16節〜5章8節)


 確かに、神は森羅万象を創造された主宰者であると同時に、被造万物の主管者であられる。しかし、何のために森羅万象を創造されたのか。

 神様の創造の動機は心情です。心情を動機として創造が成されました。『原理講論』では、心情が動機化されたと創造の動機を説明しています。心情は神様の本質的属性です。神様の属性の中でも最も根本となり、本質的な属性が心情です。心情は神様の真の愛の根源であり、人格の核です
 心情とは、対象を愛しながら喜ぼうとする抑制できない情の衝動です。情の衝動とは、与えたくて、大切にしたくて、愛したくてたまらない気持ちです。ですから、情の衝動を充足させるために、対象を創造しなくてはいけません

ー 中略 ー

 神様には愛したい、喜びたい抑制できない情の衝動がありますが、それを実現するためには、必ず実体がなければならないのです。実体がなければ、神様も愛と喜びを実感することができません。実体があってこそ、神様は愛しながらうれしく思い、対象は愛されながらうれしく思うのです。
 愛を与える主体は愛しながらうれしく思い、愛を受ける対象は愛されながらうれしく思います。愛したとき、主体に帰ってくるものは、対象が与える喜びです。心情とは、愛しながら喜ぼうとする情の衝動です。それは抑制することはできません。それで創造が始まったのです。(『原理本体論』p186〜p187)


 統一思想では、「神は愛なり」から更に一歩踏み込んで「神の本質的属性は心情である」とした。心情は愛によって具体的な喜びを得ようとする “意志” であり、その目的を指向するエネルギー的存在が “神” であるというのである。神道における「人間を含めて、宇宙のすべての生物・無生物の中に宿る神霊または神性としての神」とは、正しくこのことを意味している。
 また、キリスト教における「と水と血」の “” と、東洋医学の「血水」における “” は、下記の統一思想の見解から、神道における “神霊” と同じ意味の内容であると言える。

<参照>
 愛の正体とは? 4つの理論と考察を極限までわかりやすく解説
 こころとからだを同時に整える、東洋医学からのアプローチ 第2回「気血水」
 気血水
 父なる神とアダム国家

 創造目的を完成した世界においては、神の本性相と本形状の実体となっているすべての個性体は、みな、このように球形運動を起こし、神が運行できる根本的な基台を造成するようになっている。このようにして、神は一切の被造物の中に偏在されるようになるのである。(『原理講論』p62)


 以上のことから、神道における神(神霊)は、明確な目的を持たれたエネルギー的存在であり、その目的達成のため自ら発せられるエネルギーによって森羅万象を創造し、その被造万物の生存・繁殖・作用のために、神はすべての被造万物の中に “万有原力” として偏在されたのである。“万有原力” とは万物が所有する原力、“愛の基となる神から与えられた力” である。



    (A)“命” としての内命性

 人間に心と体があるように、あらゆる被造万物にも心のような内性があり、体のような外形があります。被造万物は人間を見本としてつくられたので、人間に似ているのです。
 動物にも人間の心のような動物心があり、その動物心に従って動く体、すなわち動物体があります。
 植物にも植物心があり、その植物心によって動く植物体があります。植物を観察してみると、走光性や屈光性によって植物が求める方向のとおりに動きます。アサガオの場合、花の種は非常に小さいものです。しかしその小さな種の中に、アサガオがツルをぐるぐる巻き、花が早朝に咲いて日が昇ればしぼむ属性が込められています。その小さな種の中に生命が入っていて、香りも入っています。動物や植物もみな、心と体に該当する部分があるということです。
 次に、鉱物界も同じです。分子にも人間の心に該当する内命性があります。陽イオンと陰イオンを結合して分子を形成するように、命令し監督する原因的な要素がまさに内命性です。内命性に従って、二つの水素(H)分子と一つの酸素(O)分子が出会って、水の分子(H2O)を形成します。分子を分解した原子にも内命性があります。内命性が、陽子を中心として電子に回るようにさせます。原子を分解した素粒子にも陽性と陰性があり、それも内命性によって動きます。
 内命性はエネルギーです。人間の肉身や心も最終的にはエネルギーとして存在します。存在世界が物質からなっていると規定しますが、実際はそうではありません。ここで言うエネルギーは二種類です。一つは精神的な分野といえる波動性エネルギーであり、他の一つは物理的な分野といえる粒子性エネルギーです。波動性エネルギーは、粒子性エネルギーが物体になることができるように命令します。「統一原理」では、この波動性エネルギーは宇宙の根本であり、その根源は神様のところに遡ります。(『原理本体論』p73〜p74)


 万物における生存・繁殖・作用とは、まず原子や分子、細胞が互いに作用しあって個体を形成(生存)し、個体が作用しあって繁殖する。作用は、生存とその繁殖における最も基本的なことである。ここで言う “作用” とは、「授受作用」を意味する。また 生存” とは、各個体としての存在と存続のことであるが、これは「内命性」という “” として宿るエネルギーによって成り立っていて、それは波動性(作用)エネルギー粒子性(形成)エネルギーであり、波動性(作用)エネルギーは “神の力”(原力)であるとしています。
 ハメロフペンローズの論文「量子脳理論」が、JCS(意識研究の分野に特化した学際的な査読付き学術誌)に発表されたのは 1996年のことで、『原理本体論』の初版発行は 2012年である。『統一思想要綱』において、 “作用エネルギー” と “構成エネルギー”“作用エネルギー” と “形成エネルギー” という言葉に置き換えられ、その後『原理本体論』で “波動性エネルギー” と “粒子性エネルギー” という言葉で表現されたのである。

<参照>
 量子脳理論と量子もつれと魂の世界
 ペンローズ博士の「量子脳理論」



    (B)作用エネルギーと形成エネルギー

 今日の物理学によれば、物質はすべて原子によって構成され、原子は素粒子によって構成され、素粒子はエネルギーからできているといわれている。したがって物質の本質はエネルギーであると見ることができる。統一思想から見れば神の形状の本質も一種のエネルギーである。しかしそのエネルギーは被造世界における物理的なエネルギーと同じではない。被造世界のエネルギーとして現象化する前段階のエネルギーである。これを「前エネルギー」あるいは物質になりうるという意味で「前物質」ということができよう。ともあれ、物質の究極がいかなるものであるかは科学の対象であるから、その解明は将来の科学の成果に期待しなければならない。
 目的を中心として本性相と本形状(エネルギー)が授受作用をすれば、エネルギーあるいは力が発生する。そのとき目的の違いによって、二つのエネルギー、すなわち作用エネルギー(作用力)と構成エネルギー(構成力)が生じると見る。作用エネルギーは神の力であり「原力」という。この原力が被造万物に働いて、主体と対象の授受作用を起こす力となって現れる。この力が「万有原力」である。他方、構成エネルギーは被造世界において、粒子の質量を形成する
 質量は、本来、全く規定性をもたない純粋な材料をいうが、なぜそれを形状と呼ぶのであろうか。それは一定の形をとる可能性をもっているからである。これを水にたとえて説明することができる。水は無形であるが、容器によっていろいろな形になる。したがって水は無形でありながら無限形であるといえる。同様に質量も無形であるが、無限な形を表しうる可能性があるのである。そういう意味で質量を形状と表現できるのである。
 現代の科学によれば、素粒子はエネルギーからできているといわれている。すなわち、質量のない真空の状態からエネルギーによって素粒子が生じてくるのである。ところが、真空の状態からエネルギーが振動して素粒子が現れるとき、そのエネルギーの振動は連続的でなく、段階的である。つまり、あたかも音楽において音階があるように、エネルギーが段階的に振動するのであり、その結果、限られた一定の規格の素粒子だけが出るのである。これはエネルギー自身に振動階というようなもの、すなわち一種の形があることを意味しているのである。目に見えないけれどもすでに形があって、その形どおりに素粒子が出てくるのである。このような意味で、統一思想では質量をも形状というのである。(1993年11月20日 初版発行 『統一思想要綱』p31〜p33)


注意!
 『統一思想』では下記を付け加えて、「構成エネルギー」を「形成エネルギー」に変更している。

 形成エネルギーは直ちに粒子化して物質的素材となり、万物を形成するのであるが、作用エネルギーは、万物に作用して、万物相互間に授け受ける力を引き起こす。その力を統一思想では原力と呼ぶ。そして原力が万物を通じて作用力として現れるとき、その作用力を万有原力と呼ぶのである。(2000年9月18日 初版発行 『統一思想要綱』p34)


 『原理本体論』(p186〜)には、神は心情を動機として森羅万象を創造し、心情は真の愛の根源であり人格の核であると記されている。先に述べたように、心情とは「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」(参照「再創造摂理と復帰摂理の分岐点」)であった。この情的な衝動を充足するために、愛の対象として人間を創造された。神は、人間から最高の喜びを得ようと、最も神御自身に似せて人間を男子と女子に創造されたのである。このとき、男子は神の本性相、女子は神の本形状の実体対象としての立場をとる(参照「父なる神とアダム国家」)。
 ここで注意しなければならないのは、心情とは “愛そうとするエネルギー” である。しかし、愛の実現のためには、愛する対象が必要である。本形状は、本性相よりこの “愛するエネルギー” を受けて “生むエネルギー” がその目的によって生じるのであるが、これを “前エネルギー” といい、前者を「作用エネルギー」、後者を「形成エネルギー」と呼んでいる。文先生は、これを “(神の)愛の力” と表現されました。

 本形状から授受作用によって形成エネルギーおよび作用エネルギーが発生するとき、愛の根源である心情が授受作用の土台となるために、発生する二つのエネルギーは単純な物理的エネルギーではなく、物理的エネルギーと愛の力との複合物なのである。したがって原力にも万有原力にも、愛の力が含まれているのである(文先生は1975年5月の「希望の日晩餐会」での講演以後、しばしば「万有原力にも愛の力が作用する」と語っておられる)。(2000年9月18日 初版発行 『統一思想要綱』p34)


<参照>
 再創造摂理と復帰摂理の分岐点



2. “けがれ” について

<参照>
 女人禁制の解除過程 (奈良女子大学・非常勤講師 島津良子: PDF / 本サイト

 一般に女人禁制の起源は弘法大師空海が高野山を出家者の厳格な修行の場とし、女性の存在は戒律遵守の妨げになるとしたことに始まるとされるが、氏の研究は、女人禁制の慣習には女性は男子よりも前世からの因縁で罪業が深いため、聖域である高野山上に立ち入ることは禁じられるという仏教の世界観と、女性は月水の穢れがあり、結界内には入れないという日本古来の穢れの観念の仏教化という二つの要素が融合していることを明らかにした。(論文「女人禁制の解除過程」より)


 穢れとは、「罪や災いと密接なかかわりをもつ、わが国古代からの不浄観念で、古代においては、穢れと罪の区別が判然とせず、罪も穢れのうちとして扱われている。仏教思想をはじめ、外来思想の伝来により、わが国古来の不浄概念に種々の影響がもたらされたことが推測されるが、穢れとして扱われてきたものに、人体に関しては死・出産・妊娠・傷胎・月事・損傷などがあり、 ー(中略)ー 不可抗力の場合も含めて、これらの穢れにかかわることを触穢しょくえといって極力避けてきたが、避けえない場合は、穢れの主体を隔離したり、禊祓みそぎはらえなどを行った。」(『日本大百科全書』より)とある。

 (1) “ケガレ” は “気枯れ”

  @ 穢れと気血水

    (@)“気”

 「」は、生きて活動するために必要な “生命エネルギー” で、陰陽では「陽」に分類され、身体の全ての機能を動かし、血液や水分の流れをスムーズにし、新陳代謝を活発にするなど温める作用があります。
 「気」には次の5つの作用があります。
  1. 推動すいどう作用:いろいろな作用を推し進める働き。成長発育や、臓器やホルモン分泌の活性化、血液やリンパ液などの循環の促進を行う。
  2. 防御ぼうぎょ作用:外部からの邪気を防いだり闘争する防御作用。免疫力や外界の変化に対する抵抗力を作って身体を守る。
  3. 固摂こせつ作用:過剰または異常な発汗や出血、排泄をコントロールして身体から失われないようにする働き。これが劣ると脱水症状が起きたり、出血多量になる。
  4. 温煦おんく作用:身体を温めて体温を維持したり、代謝を促進する働き。
  5. 気化きか作用:ものを変化させる働き。食べ物や空気中から得た物質を身体に必要な物質に作り変えたり、老廃物を排泄できる状態にする新陳代謝のこと。
<参照>
 目には見えない「気の異常」をセルフチェック|東洋医学から見た「気」の全てを解説します。



    (A)“血”

 東洋医学(中医学)でいう「けつ」は、みゃく(いわゆる血管のこと)の中を流れる「赤い液体」や、それによって運ばれる「栄養分」で、生命活動を維持する基本的な物質の一つ。栄養分や酸素などの「運ばれるもの」も含まれるので、西洋医学でいう単なる「血液」とは少し範囲が違います。
 「けつ」の機能には、大きく分けると2つあります。
  1. 身体に栄養を運ぶ滋養作用:臓腑や経絡、皮膚、筋肉、爪、髪などの全身に行き渡り、生命活動が営まれます。
  2. 精神状態を安定にさせる作用:東洋医学では、血が充実していることによってしっかりと意識が保たれたり睡眠が取れたり、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)が研ぎ澄まされるとされています。
 心の氣によって作られた血は、脈管に押し出されます。そしてかんのコントロールによって全身に栄養が運ばれていき、一部は肝に貯蔵されます。
 「血」の病症の一つにはお血(血行不良)があり、これは“気の不調”(氣虚や氣滞)や“邪気による影響”(寒邪による冷えや、熱邪による血の水分不足)と考えられています。



    (B)“水”

 「すい」は、血液以外の涙や唾液、汗、消化液、尿などの体内の全ての生理的な液体のことをいいます。  「水」のトラブルと言えば津液しんえき不足ですが、“津液”とは、(陽性の水分、清んで粘り気がなく、主として、体表を潤し、体温調節に関与し、汗や尿となって体外へ排泄される)と(陰性の水分、粘り気があり、体内をゆっくりと流れるもので、骨や髄を潤す。体表部では目、鼻、口などの粘膜や皮膚に潤いを与える)で構成される体内の水分の総称である。

<参照>
 むくみやシミの原因を東洋医学で見ると「血」と「水」の問題だった|「血と水の異常」をセルフチェックする方法



    (C)“気・血・水”と陰陽

 「気」が “陽” であれば、「血」と「水」は “陰” に分類されます。この陰陽には、“陽” と “陰” の相互依存関係があり、“陽” の要素は “陰” から生まれ、“陰” の要素は “陽” から生まれる。つまり、「気」から「血」や「水」が生まれる一方で、「血」や「水」は「気」に変化するということです。このため、過労などの理由によって「気」が消耗された場合、最初は「気」が減少しますが、やがて「血」や「水」も減少していきます。逆に、生理出血過多で「血」を失うと、徐々に「気」も失われてしまいます陰陽互根いんようごこん)。
 また、“陽” と “陰” との間で、お互いが過剰にならないように、互いに抑制し合う働きがあり、陰陽のバランスを取って平衡状態を保っています陰平陽秘いんへいようひ)。
 しかし、“陽” と “陰” はその上限と下限の範囲の中で、波のように変動を繰り返しており、正弦波のように頂点を迎えたら下降し、底辺に達したらまた上昇して頂点を迎えるような規則正しい変動です。その際、“陽” が高まってくれば “陰” は低くなり、“陽” が最高に達すると “陰” は最低の状態になるという具合です(陰陽消長いんようしょうちょう)。
 この様に、「気」は “生命エネルギー” であるとされていますが、これは “波動性エネルギー”、上記した “作用エネルギー” であり “神の力”(原力)であるといえます。正しく人間は「気」による “為に生きる” 営みを “善し” としているのです。

<参照>
 わかりやすい漢方薬解説・漢方理論解説 | 一般社団法人 女性とこどもの漢方学術院



    (D)穢れは “気枯れ”

<参照>
 血に対するケガレ意識 (智山伝法院 福崎孝雄: PDF / 本サイト

 つまり、神も「ケガレ」も同じ「この世界に何からの力を及ぼすもの」ではないだろうか。それが時には神になり、「ケガレ」になるものである。換言すれば、「何らかの力」が及ぶこと、すなわち「ケ(日常性)」でなくなることが問題なのである
 人々にとって関心があったのは、その力をいかにコントロールするかであったのではないだろうか。つまり、霊力のバランスである。したがって、血を豊穣の神としても、あるいは「ケガレ」としても霊力のバランスが崩れるという意味においては同じ事であり、人々の意識の中では大きな違いはなかったかもしれない。

ー 中略 ー

 この場面を、霊力のバランスという視点で考えると、出産が女性の霊力を減退させ、霊力のアンバランスが生じる。そこへ、様々な霊力が女性を襲ってくる。それらの霊力から女性を守るのが巫女や僧侶である。そして日にちが過ぎ、女性としての霊力が回復したとき、「ケガレ」から回復するのではなかろうか。

ー 中略 ー

 すなわち、女性の霊力回復のためには、どこかに篭もらねばならなかったということではないだろうか。それが忌み小屋(産屋)と考えられないだろうか。血の「ケガレ」という女性差別の視点だけでは、説明は難しい。
 ところで、山口昌男は「女性の宇宙論的位相」(『文化人類学への招待』)の中で、次のような報告をしている。「プジェというのは、昔、皇太后に仕えている女性が月のさわりの時に時間をすごした月経小屋であったという事実が浮かび上がってきたという。ここにはもうひとつのプジェがある。(それは)三年に一度行われる祭りで、そこでは女性が必要とされた。普段(の祭りで)は垣根を作ってまで女性を排除しながら、この祭りでは同じ儀礼を女性の参加によって行うのである。そうすると、彼らは、穢れと言っているもののかなた、穢れの最終的なところに力を感ずるのであって、そこには価値の逆転があるわけです。」と述べている。ここにおける前者のプジェ(忌み小屋)は、女性の霊力の回復を目指したものであり、後者の場合は、神の力を回復させる意味で女性の霊力が必要であったのではないだろうか。

ー 中略 ー

 以上のことで考えられることは、「ケガレ」を「霊力のバランス」の視点で解釈するということであり、換言すれば、それはケ(日常の霊力バランス)が荒れることを、「ケガレ」として忌避するという視点である。それは、これまでの研究者の提示する「ケガレ」を「気枯れ(エネルギーの枯渇)」とする解釈に非常に類似する。私は霊力(エネルギー)が枯渇した場合、霊力を回復させる方法として二つの方法を考える。一つは前述した自らエネルギーを回復(上昇)させる「篭もる」というものである。そして、もう一つは他から霊力をもらうということであり、それがハレの行事の目的と考える
 秋祭りの場合、豊穣の神は穀物を実らせるためにエネルギーを使い、神は「気枯れ」の状態にあると考える。そして、その神のエネルギーを回復させるのが祭り(人々のエネルギー)であると解釈するのである。
 すなわち、忌み篭もる「ケガレ」も、祭りなどの「ハレ」の行事も霊力のバランスを維持するためであり、言い換えれば「ケ」を安定させるためのものであると解釈できるように思われる。(『血に対するケガレ意識』より)



<参照>
 古代日本における穢れ観念の形成 (信州大学教育学部 井出真綾牛山佳幸: PDF / 本サイト
 神聖な水(PDF)
 江戸時代、生理中の女性は「月経小屋」に隔離。遊女の月経期間はどうしてた?



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