復帰摂理歴史の真実
12使徒とパウロ <トップ> パウロの伝道と三位一体論の展開

■ 第三章 第二節 イエスの30年準備時代と十字架
     c. 原始キリスト教の聖霊と三位一体


1. 聖霊と御霊の実

 (1) 三位一体と聖霊

  @ 聖霊について

 では当時の弟子たちの心情は、どうだったのでしょうか。愛する主を釘付けにした不信のイスラエル民族とユダヤ教の一団に対する、言うに言えない敵愾心が煮えくり返っていたでしょう。復活された主のみ旨、神様のみ旨ならば、身が粉となり骨が溶けることになろうとも、最後の勝利のために、復活された主に従って行こうという覚悟をもったことでしょう。
 そのような覚悟、すなわち主が去って行かれたのちに、天に対して切に敬い慕ったその心、死ぬようなことがあっても、あるいは困難な十字架の道が遮られていたとしても、この道を打開しなくてはならないという覚悟をもって、弟子たちはあの人この人に対するたびに、お互いに激励し合ったことでしょう。それでこのような心情に徹していた弟子たちにイエス様は現れて、聖霊を送ってあげることを約束されたのです。(「イエス様の生涯と愛」p268)


 百二十人の門徒は天地が振動し、炎のような舌が分かれる聖霊の役事を体恤するようになるとき、天に向かう切実な心に徹し、いかなる怨讐に対したとしても死を覚悟して行こうという心を持つようになったのです。ここに天によって力がさらに加えられると、その力はいかなる者が切ろうとしても切ることができなかったのです。このような力が土台になったがゆえに、彼らが語る言葉が天地を動かし得る能力を行使したということを知らなければなりません。(「イエス様の生涯と愛」p277)


 イエス様が来られ逝きながら、「私は成し切れずに行くので、私を信じる代わりに聖霊を信じなさい」と言われました。イエス様さえ信じれば救われると思っているのですか。とんでもないことです。聖霊を信じても救われるのです。神様の息子を信じさせるのが聖霊なので、聖霊も信じなければなりません
 聖霊とは何の神でしょうか。母の神です。聖霊は母の神であり、イエス様は人類の真の父です。(「イエス様の生涯と愛」p278)


 ところがキリスト教では、三位一体の神がどうだこうだと言っています。イエス様は真の父であり、聖霊は母なので、この霊的な父と母の愛を受けてこそ、霊的に重生されるのです。子女は父母の愛がなくて生まれることができますか。
 それゆえ、黙示録には、「御霊(聖霊)も花嫁(新婦)も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」とあります。そのような日は、聖霊が実体をもつ日です。そのときが再臨時代です。新婦の着飾りを終える日です。(「イエス様の生涯と愛」p279)


 私たちは今まで、イエス・キリストを迎えるために自分だけが苦労してきたものと思っていましたが、自分の背後で自分以上に苦労された聖霊がいることを知らなければなりません
 イエス様が願われることは、人間の苦労よりも聖霊の苦労が大きいので、この聖霊を立て、イエス・キリストの栄光に代わって人間を糾合しようとされるのです。そのような一日を迎えられなければ、イエス様はこの地に再び来て万民の主人公に立つことができないのです。(「イエス様の生涯と愛」p280)


 『カバラ』では、神を “上層の力” として一種のエネルギーと規定しています。それえは “授与する意思” であり、無条件の利他主義によってその対象との永遠の関係による無制限の喜びとしての幸せを得ることを目的としています。人間をその喜びの対象として “神との類似性(授与する意思)を自分の内側に作り上げれる存在(=形状の同等性)” として創造されたとする内容は、『原理講論』第一章の「創造原理」の内容と全く同じことを言っています。

<参照>
 形状の同等性の法則

 つまり、“夜の神(父なる神)” こそ “授与する意思” であり、神としての主体(中心)格で、そこに導く存在が “昼の神(母の神)” である “聖霊” と言えるでしょう。“真の父” とは神の “授与する意思” をそのまま表現できる現実体(実体)であり、“真の母” とは無償の愛によって子女をそこに導く “真の父” の完全なる理解者であり、完全(無私)なる伝達者でなければならないのです。
 この様な観点から、聖霊の働きを明確に示している聖句は、「マラキ書4章6節」にあると言えます。
 ちなみに「」という字は、「」の “” は「死体」を意味していて、イエスが十字架によって肉身は死んでも霊的に復活することによって “霊的真の父” となられたことを意味しています。このため再臨主は、生きて十字架を越えていかなければならない過酷な道は、必然的に通過していかなければならないことを暗示しています。

<参照>
 (ウィクショナリー日本語版)

 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。(マラキ書4章6節)


<参照>
 文師の電気工学専攻と原理の解明
 再創造摂理と復帰摂理の分岐点
 洗礼ヨハネと12使徒


  A 聖霊と霊的重生

   a)重生の使命から見たイエスと聖霊

 新生とは、新たに生まれるという意味である。(旧原理講論「キリスト論」より)
 重生とは、二度生まれるという意味である。(現原理講論「キリスト論」より)

 堕落人間が重生しなければならない理由について調べてみることにしよう。
 アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。
 我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。ゆえに、ペテロ・一章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を後のアダムといい(コリント・一五・45)、永遠の父といったのである(イザヤ九・6)。また、神は、預言者エリヤを再び送り、彼の力で堕落した人間の心を、父母として降臨されるイエスの方へ向けさせることによって、彼らをその子女となさしめると言われた(マラキ四・6)。そして、イエスが再臨されるときも、父の栄光のうちに来られる(マタイ一六・27)と言われたのである。
 ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。
 このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリント・一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、(陰)において、業(役事)をなさるのである。(「原理講論」p263〜p265)


 イエスは十字架上で神の種をその心に実らせて霊界に行かれました。そこで、三日間の準備期間を経て霊的真の父となられたので、霊的存在である聖霊が霊的真の母となってキリスト教信徒は、聖霊によって重生され、イエスの前に新婦として立つことができたとされています。ここでは、「霊的感性による “慰労” と “感動” の働き」であって、「 “授与する意思” による行動によって生じる “喜びの体恤”」ではありません。
 『原理講論』にあるメシヤのための基台」とは、地上で肉身をもったメシヤを真の父母として迎え、その “(授与する意思)” を “喜びの源” として生きることができる基点を確立した立場のことを言います。よって「重生」とは、“他のために生きることを喜びとして人生をやり直すこと” であり、これまでの人生の上にこれからの人生を上書きして、過去の人生を消し去って生まれ変わることを言います。


   b) ロゴスの二性性相から見たイエスと聖霊

 ロゴスという言葉はギリシャ語で、み言、あるいは理法という意味をもっている。ヨハネ福音書一章1節以下を見ると、ロゴスは神の対象で、神と授受をなすような関係の位置をとっているという意味のことが書かれている。ところで、ロゴスの主体である神が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない。もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物(ヨハネ一・3)も、二性性相になっているはずがない。このようなロゴスの二性性相が、神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった(前編第一章第一節(一))。
 アダムが創造理想を完成した男性、すなわち生命の木となり、エバが創造理想を完成した女性、すなわち善悪を知る木となって、人類の真の父母となったならば、そのときに、神の三大祝福が完成され、地上天国は成就されたはずであった。しかし、彼らが堕落したので、反対に、地上地獄になってしまった。それゆえ、堕落人間を再び生み直してくださるために、イエスは、後のアダム(コリント・一五・45)として、生命の木の使命をもって(黙二二・14)人類の真の父として来られたのである。このように考えてくると、ここに後のエバとして、善悪を知る木の使命をもった人類の真の母が(黙二二・17)、当然いなければならないということになる。これがすなわち、堕落した人間を、再び生んでくださる真の母として来られる聖霊なのである。(「原理講論」p265〜p266)


 人類始祖としてのアダムが創造理想を完成した男性として「生命の木」に象徴され、エバが創造理想を完成した女性として「善悪知る木」に象徴されるのですが、「善悪知る木」とは善と悪を知ることのできる木(人間)という意味ではありません。善を行い完成することによって如何なる悪をも分別して全き愛の実を実らすことのできる木(人間=女性)という意味です。その善の源となるのがアダム(創造理想を完成した男性)とならなければならず、アダムは完全なる神の愛の対象(−)となって、エバに対して完成した善の主体(+)の立場に立つことによって、エバはアダムの完全なる対象(−)の立場(善悪知る木の使命=聖霊の使命)に立つのです。
 アダムは如何に善を行ったとしても実を実らせることはできません。実を実らせることができるのはエバの特権です。

   c) イエスと聖霊による霊的重生

 父母の愛がなくては、新たな命が生まれることはできない。それゆえ、我々がコリント・一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって@新たな命” が注入され、A新しい霊的自我” に重生されるのである。これを霊的重生という。ところが、人間は霊肉共に堕落したので、なお、肉的重生を受けることによって、原罪を清算しなければならないのである。イエスは、人間の肉的重生による肉的救いのため、必然的に、再臨されるようになるのである。(「原理講論」p266)


 そもそも、神の本質は “(心情)” であり、それは「カバラ」でいう “授与する意思” である。ここで言う「自我」とは無償で与えようとする自我であり、獲得しようとする自我ではない。“授与する意思” として生じる「自我」である。(「文師の電気工学専攻と原理の解明 」で扱っている自我とは正反対のもの。)
 頭翼思想では、愛の根源は心情である(『統一思想要綱』p34)とし、心情とは「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動(『統一思想要綱』p52)」であるとしている。つまり、与える( “授与” ⇒ “授ける” という言葉は “施す” の意で、「弱い立場の者に、無償で利益となる物事をもたらす意」があります。)ことで喜びを得ようとする情的発露が心情であって、これを “愛の力(『統一思想要綱』p34)” と表現しています。これは「カバラ」で言う “上層の力” という表現と同じ内容を意味しています。

<参照>
 カバラの概観


   d) 三位一体論

 創造原理によれば、正分合作用により、三対象目的を達成した四位基台の基盤なくしては、神の創造目的は完成されないことになっている。したがって、その目的を達成するためには、@ イエスと聖霊も、神の二性性相から実体的に分立された対象として立って、お互いに授受作用をして合性一体化することにより、神を中心とする四位基台をつくらなければならない。このとき、イエスと聖霊は、神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである
 元来、神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。もし、彼らが堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば、彼らの子孫も、やはり、神を中心とする善の夫婦となって、各々三位一体をなしたはずである。したがって、神の三大祝福完成による地上天国は、そのとき、既に完成されたはずであった。しかし、アダムとエバが堕落して、サタンを中心として四位基台を造成したので、サタンを中心とする三位一体となってしまった。ゆえに彼らの子孫もやはり、サタンを中心として三位一体を形成して、堕落した人間社会をつくってしまったのである。
 それゆえ、神はイエスと聖霊を、後のアダムと後のエバとして立て、人類の真の父母として立たしめることにより、堕落人間を重生させて、彼らもまた、神を中心とする三位一体をなすようにしなければならないのである。しかし、イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。したがって、イエスと聖霊は霊的重生の使命だけをなさっているので、信徒たちも、やはり、霊的な三位一体としてのみ復帰され、いまだ、霊的子女の立場にとどまっているのである。ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼ら(霊肉共の真の父母)によって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。このようにして、堕落人間が神を中心として創造本然の四位基台を造成すれば、そのとき初めて、神の三大祝福を完成した地上天国が復帰されるのである。(「原理講論」p267〜p268)


    (@)神と人間の相違と相似

 そもそも『原理講論』(青下線@)では、実体としてのイエスと実体を持った聖霊がお互いに授受作用することによって合性一体化して、神を中心とする四実基台をつくることで三位一体が完成するとしています。
(「合成一体化」ではなく「合性一体化」であることに注意!)
 本来、合性一体化するためには授受作用しなければなりません。イエスは十字架からの霊的復活によって、聖霊はその特質として霊的真の母の立場に立って信徒に神の息子としての霊的イエス(霊的真の父)を信じさせる事において三位一体であると言えますが、霊的イエスを夫として愛を受ける立場でもなく、霊的イエス(夫)を愛すること得る(妻としての)喜びを信徒に伝える立場でもないのです。霊的イエスを父に迎えることで “神の愛” を自らの “受け取る意思” によって完全に受け取ることによって、自ら発する “授与する意思” にエネルギーに転換することによって慰労と感動を得ることを霊的重生(新生)言っています。(左図上)
 しかし、これを愛することで得る “喜び” を完成させるためには地上生活において対象を愛し、その「愛による対象の喜び」を「自らの心の喜び」として具体的に実感することで心霊の完成に至らなければならないのです。その完成とは、無意識的に “(エネルギー)” として沸き起こる “意思” が尽きない状態に達することで、神の本質を “愛を通じて喜ぼうとする情的衝動” である「心情」とするのは、人間だけに与えられた(心の)成長期間の目的であり、人間を神の二性性相に相似て創造された意図と言えるのです。
 “愛を通じて得る喜び” とは、「四大心情圏」としての円形または球形の円満なる完全な喜びとして結実すると『原理講論』では表現されています。(左図下)



    (A)堕落認識と四大心情圏

 良心は両親に優る、良心は先生に優る、良心は神様に優る」と訴えたでしょう。それが大切なのです。それを体恤して一つにならないというと、四大心情圏につなぐ道がありません。心身を一体にさせなければ、四大心情圏に通じる道がありません。分かりましたか? (はい)。
 四大心情圏を知らないと、堕落したということが分からないのです。堕落したことによって、良心を失ってしまったし、良心が無力になってしまったのです。それで再臨主が、長成期完成級基準まで下がってきて、現状まで解決して梯子をつくったのです。ですから真の父母と絶対に一つになった場合には、真の父母の代わりに、どこにでも上がったり下がったりできるというのです。(『訪韓修練会御言葉集(続編)現地の整備』p46)


 『統一思想要綱』(p734)には、四大心情圏とは、父母の心情夫婦の心情兄弟姉妹の心情子女の心情の四つの心情であるという。また、人間が子供から成長していくにつれて、愛も成長していくとしています(p735〜p736)。つまり、愛の成長段階でいうと、子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛の順序になりますが、愛とは空気が高気圧から低気圧へ、水が上流から下流へ向かうように高い所から低い所へ向かうとされています。神の人間に対する愛は、父母の子女に対する愛と同じ下向きの愛だとしています。これは「カバラ」において、神を “上層の力” と表現していることに相当します(「カバラの概観」参照)。(p735)
 ところで、「子女の愛」は子女が父母に対する愛で下から上に向かう縦的愛、「兄弟姉妹の愛」は横的愛で、その発展形が「夫婦の愛」であるとしています。そして「父母の愛」は上から下に向かう縦的愛であり、神の人間に対する愛と同じ下降する愛となります。この四つの愛になかで、「夫婦の愛」は神の二性性相を分担して受け持つ夫と妻が、神の愛を表現する中核者となる立場なので、 “夫婦愛を四大心情圏の代表愛としています(p739)。
 男性と女性互いの “良心” が “愛” として芽生え、父母となって子女に対する下降する愛が垂直に降り注ぐようになる時、神から父母へ、父母から子女への垂直な直線的愛となって四位基台が完成するのです。堕落によって良心が自己のレベルで停止して愛の関係を結んでしまったために良心作用(『原理講論』p52)による力も無力なものとなってしまったのです。そのため、『原理講論』には次のように記されています。

 堕落人間は善の絶対的な基準を知らず、良心の絶対的な基準をも立てることができないので、善の基準を異にするに従って、良心の基準も異なるものとなり、良心を主張する人たちの間にも、しばしば闘争が起こるようになる。(『原理講論』p89)


 再臨主が “良心の絶対的な基準を明示することによって、以後におけるメシヤの降臨を必要としなくなり、良心に絶対服従していくことによって理想世界の実現が可能となったのです。



    (B)何が三位一体なのか

 キリスト教の三位一体は(神)と(イエス)と聖霊です。ここでのイエスの立場は十字架以前の “実体のイエス” となっています。アダムの花嫁としてエバを準備したのは神です(創世記2章18節〜24節)。創世記2章23節にはエバを創造した時のアダムとの関係が次のように表現されています。

 「これこそ、ついにわたしの骨の骨、
  わたしの肉の肉。
  男から取ったものだから、
  これを女と名づけよう」。(創世記2章23節)


 骨と肉はそれとして、「男から取ったもの」とは何を意味しているのか。それは “生命の木” になる “” の事です。“生命の木” は創造理想を完成した男性であるから、神の心情を実らせた “(精子)” として “” を実らすための主体としてのアダムを意味します。エバはその愛を実らすために、個性完成したアダムの絶対的な対象の立場に立ってその愛を受け、愛の実を実らす “善悪知る木” にならなければなりません。そのために必要なであり、愛による喜びの宮殿としての子宮に子女を宿すのです。

<参照>
( “生命の木” と “善悪の木” は雌雄異株の落葉樹であるイチョウの樹の雄木と雌木を例えたと思われる)
 イチョウ(ウィキペディア)
 イチョウの雌花はどこにある?

 ところで、神はアダムの(父母)の立場であり、イエスの花嫁を立てるのは蕩減復帰上イエスの親であるヨセフまたはマリヤでなければなりません。しかし、先にも述べた様に、このことが困難となったためイエスは十字架の道を行かなければならなくなってしまいました。

<参照>
 イエスの誕生の秘密 (上)
 イエスの誕生の秘密 (下)

 十字架の死から霊的復活したイエスには、直接神が父母として対応できるようになり、聖霊が霊的真の母に立って役事を行うことができたのです。つまり、三位一体は霊的な三位一体ですが。そのためキリスト教徒は霊的救いとしての慰労と感動を受けるものの、肉身を主管できる力とはなりません。そのため、聖霊によって回心したパウロでさえ、肉身の虜にされる恐れが絶えなかったというのです(ローマ人への手紙7章21節〜25節)。
 また、三位一体における霊的イエスを “実体のイエス” としたことが、その後のキリスト教を中心とした摂理に大きな混乱をもたらすことになったのです。



 (2) 御霊の実

  @ 九つの実

 御霊の実は、喜び平和寛容慈愛善意忠実柔和自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。(ガラテヤ人への手紙5章22節〜24節)


 イエス様は、このような道を開拓するために、歴史上になかった愛を強調したのです。そしていかなる困難な環境にぶつかっても、その環境を克服するためには忍耐心をもたなければならないと主張し、罪人が悪に対して忠誠を尽くす以上に、神様のみ旨のために忠誠を尽くさなければならないと語られたのです。これがキリスト教でいう御霊の九つの実の根本です。愛の生活をするようになれば喜びと平和が生まれ、忍耐(寛容)を通しては慈愛と善意が生まれ、忠誠(忠実)の生活をすれば柔和と謙遜(自制)が生まれるのです。
 イエス様は堕落圏内にいる人間のすべての悪の要素を除去するために、天的なと天的な忍耐、天的な忠誠を強調したのです。これらが天国の理念を達成し得る実践的な理念なのですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。(「イエス様の生涯と愛」p232p233)


 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と予言者とが、かかっている」。(マタイによる福音書章22章37節〜40節)


   a) 第一の戒め、「神を愛し、神が愛する自分を愛する」

 無形の神、見えない神を愛するというのは容易なことではありません。しかし、これまで見てきたように神を愛するとは、旧約時代には十戒を厳守こと、新約時代にはイエス様と霊的に出会うことによって罪が許され愛されている自分を自覚し、信仰の道を出発しました。さらに成約時代になると、自らの心に内在する良心の絶対的基準が明示されたことによって、神が愛し臨在される私の良心を信じる絶対服従することが最大最高の信仰であることが明確化されました。

   b) 第二の戒め、「自分を愛するように、隣人を愛する」

 では、どのように隣人を愛するというのでしょうか。先ず “己を知る” ことから始めて過去を振り返ることで神からどの様に導かれ愛されて来たのかを検証しなければなりません。また、復帰摂理歴史として、神が人類を導き、何をどの様にして何を救おうとされて来たのかを学ばなければならないのです。そこには歴史と共に築き上げた九つの “御霊の実” があったのです。これを私たちは神から賜った恩寵として、「心をつくし、精神をつくし、思いをつして」愛の生活を営まなければなりません。
 しかし、残念ながら、『原理講論』と『原理本体論』には “原理” と “教訓” が記されているにすぎません。“御霊の実” は、モーセの十戒の次の(「神が愛する自分を愛し、隣り人を愛せよ」という)戒めであり、兄弟姉妹の愛から夫婦の愛へと成長し、父母の愛として愛が円熟していくことによって得る “喜び” と “平和” の根本要素なのです。


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