復帰摂理歴史の真実 |
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛 e. 理趣経と生殖器のみ言葉 1. 煩悩から仏性への大転換(後) (1) 移民摂理と神の愛の根 <文先生のみ言葉> ・「全体全般全権全能の日」宣布 (PDF) ・「絶対信仰・絶対愛・絶対服従の核」 (PDF) @ なぜジャルジンなのか
(@)明治元年に始まった移民摂理 近代日本人の海外移民は、1868(明治元)年にハワイ、グアムへ労働者として渡航した。ハワイへは、1885年から9年間官約移民が送られ、1898年にハワイが米国の属領となると、ハワイから米本土への転住組も増加するようになった。1907年から翌年には、日米両政府の合意によって「日米紳士協定」が手交され、労働目的の渡航が制限される方向に進んでいく。ここで、日本人移民の送出先として注目されたのが南米、特にブラジルであった。 19世紀末からもっとも多くの日本人移民を吸収した米国では、日露戦争後、急激に増加する日本人労働者に対する危機感から排日の動きが現れる。1924年に米国でいわゆる「排日移民法」が制定されると、大量の移民の受け入れ先としてブラジルが注目され、日本政府が補助金を出して、ブラジルへの移民を奨励するようになる。1930年代には黄禍論が猛威をふるい、第二次世界大戦中には多くの日系人(移民とその子どもたち)が「敵性外国人」として迫害された。反面、日系人の大多数がこの時期にブラジルでの社会的・経済的基盤を形成したのも事実である。 そもそも南米への日本人移民は、ホスト国に全面的に歓迎されたものとはいえなかった。ブラジルでは1888年の奴隷解放によって不足した労働力を補うため、最初ヨーロッパ移民を導入する。戦前のブラジルでは、人種優生学に基づく白人化や脱アフリカ化のイデオロギーが強く、ブラジル当局はヨーロッパ移民を優先的に導入する方針をもっていた。20世紀初めになると、そのヨーロッパ移民が不足し、ブラジルは深刻な労働者不足に陥る。日本人移民は、奴隷の代替労働力であるヨーロッパ移民のさらなる代替労働力としてブラジルに導入されたといえる。 ブラジルにおける日本人移民の増加傾向は1930年代半ばまで続き、1933年から34年がそのピークで、その後急激に減少する。日本はブラジルを満州のように植民地化しようとしているという「計画」が報じられ、日本人の南米移民を「征服移住」と呼ぶだけでなく、「ブラジルは南米の満州だ」という過激な言葉で日本人移民ひとりひとりが潜在的兵士であるとみなすとブラジル国民大衆にうったえるものとなった。こうしてブラジル日系人は、人権が侵害され、活動が大きく制限された。しかし、当時の日系人は、サンパウロ州内やパラナ州北部の農業生産と流通に大きな影響力をもっており、日系の産業組合活動を禁じると、州内の農産物流通を止めてしまうことにうなる。皮肉なことに、戦時中の物資不足も手伝って、日系農業は大いに発展することになった。 戦後、米国では1960年代の公民権法施行以降、過去の米国政府による差別政策に自己批判の動きと、第442部隊兵士であったダニエル・イノウエら日系議員や日系団体の名誉回復の運動が始まり、1976年に当時のジェラルド・R・フォード大統領が強制収容は「間違い」であり「決して繰り返してはいけない」と公式に発言した。また、1988年8月10日、レーガン大統領は「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)に署名、米国政府は初めて公式に日系人に謝罪し、生存していた被強制収容者全員に補償金を支払った。ペルーの場合も、アラン・ガルシア大統領が第二次大戦中に日系人数千人を無作為に逮捕して米国の強制収容所に送り込んだ事実について正式に謝罪したのである。 <参照> ・ 第二次世界大戦前後の南米各国日系人の動向 (国際日本文化研究センター 根川幸男 : PDF / 本サイト) ・ ハワイにおける日本人移民 (A)根を通じて与える栄養は神の愛
ジャルジンは、ブラジル南東部の都市サンパウロの一地区。市街南西部に位置します。ジャルジンが根だとすれば、芽に当たる所はどこでしょうか。そこは、日本です(参照:「全体全般全権全能の日」宣布)。なぜなら、根で吸収した栄養を、先ずは芽が受けなければならないからです。 日本の移民政策は、上記に示したように日露戦争(1904年〜1905年)後その印象が悪化していき、「排日移民法」制定後には「敵性外国人」に指定され、戦争も相まって日本人にそのルーツを持つアメリカ国民と日本人移民に対して凄まじい迫害が成された。 <参照> ・ 日系人の強制収容 ・ 日米戦争とアメリカ日本人移住者の迫害 強制収容者の多くが農民であった一世は野菜作りを得意としており、野菜以外にも養豚や養鶏、豆腐や醤油の製造、漬物作りも行っていたほか、日本酒やワイン、ビールの密造なども盛んだったという。南北米大陸の農業生産と流通の発展には、こうした日系人の多くの血と汗と涙が滲んでいることは否めない。 これらのことから、1960年代から開始される文先生の日米韓の摂理と、米国での「公民権法」(1964年)施行以降から「市民の自由法」(1988年)に至るまでの重なりが、偶然ではないように見えるのは気のせいであろうか。 <参照> ・ 公民権に関する声明(1964 年) ・マディソン大会(1974年9月18日) ・ヤンキー大会(1976年6月1日) ・ワシントン大会(1976年9月18日) 1976年に当時のジェラルド・R・フォード大統領が強制収容は「間違い」であり「決して繰り返してはいけない」と公式に発言。 1988年8月10日、レーガン大統領は「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)に署名、米国政府は初めて公式に日系人に謝罪し、生存していた被強制収容者全員に補償金を支払った。 ・八定式(1989年8月31日、アラスカにて) この様な日系人の迫害からの解放と自由の獲得は、トルストイの「イワンの馬鹿」という作品を彷彿とさせる。これこそまさに文先生のいう絶対信仰・絶対愛の典型と言えるであろう。また、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書5章44節)と言われた聖書のみ言葉もそれに符合する。 以上のことから、地球を神に例えると、根に当たる半分は神の本性相、芽や枝や幹となるあとの半分は神の本形状に譬えられると考えられ、次に述べる “心情とロゴス” に該当する。 <参照> ・ アジア系民族・モンゴロイドがアンデス文明・インカ帝国を創った (神奈川放友会 中村豊 : PDF / 本サイト) A 心情とロゴス
(@)なぜエバはルーシェルの誘惑に応じたのか 『統一思想要綱』(頭翼思想)に、“本然の夫婦はそれぞれ神の陽性と陰性の二性性相中の一性を代表する存在である”(『統一思想要綱』p230)としているが、そもそも陽性と陰性は性相と形状の属性である。属性とは、“あるものに共通して備わっているとされる性質や特徴のこと” であるから、本来、男女の役割や立場の違いとして、本然の男性と女性は、神の本性相と本形状の実体として見るべきである。当然、人間の男子と女子には、男子にも陰性的要素が、女子にも陽性的要素が内包されているからである(右図参照 / 参照「父なる神とアダム国家」)。そのことによって、男子は奉仕者としての主体的な愛であり、女子はその愛によって子女を生み育む属性を備えて、その役割と立場を異にしている。この時、男子の愛は “真の愛”(アガペー)としての無償の愛でなければならないが、女子の愛は子女を生み育むという意味でいうならば、利他的な “慈悲” としての母としての愛と言える。 <参照> ・ 大乗経典における慈悲と憐愍 (東洋大学文学部教授 渡辺章悟 : PDF / 本サイト)
さて、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1章27節)とあるように、神にかたちに似せて創造された人間は、『原理講論』(p44〜p47)や『統一思想要綱』(p122〜p134)によると(参照「父なる神とアダム国家」)左図のようにアダムとエバの関係性が浮かび上がってくる。つまり、神の本性相に似せて男子としてのアダムと、神の本形状に似せて女子としてのエバを、神ご自身のかたちに創造されたのである。 ところで、ロゴスとは理性(自由性)と法則(必然性)の統一体としての理法であり、堕落前のエバは自ら湧き出る愛されたいという感情に混沌としていました。エバの混沌とした心の状態を、神の心情に沿うように整えるには、神の心情に適う心の発露を、アダムが不変的に発動できる主体的愛が必要でした。神のロゴスは不変であり、不変であることが “絶対” であるからです。この不変性が、愛において最も重要な意味を成します。それ故に、アダムが自らの内にロゴスを確立するまでに時間を要したのです。その合間に、ルーシェルはエバを “尤もらしい嘘” で誘惑し、堕落させてしまったのです。 (A)絶対なる愛の確立と服従
そのためには、神の目的(創造目的)と一致した動機を普遍的なものとしなければならない、これが “絶対信仰” である。いわゆる神の目的を、自らの目的とすることである。そのような意味から、復帰原理のいう「信仰基台」は、「絶対信仰」に至るための出発点になるものであって、絶対的なものではない。また、これは人類始祖となるアダムの必然的な使命であった。 ここまでは、天使界にも存在した使命である。しかし、次の段階にある “絶対愛” の段階は天使界に存在しない。そのため、天使界には陽性と陰性の相対的関係は必要なかった。そのため、神と天使の関係が陽性と陰性の相対的関係の立場に立てて、神は天使界を創造したのである。 それでは、次の段階の “絶対的愛” ですが、それは神の本性相と本形状の関係に似ることです。神の本陽性と本陰性は、どちらも本性相と本形状の属性ですから、神の本質は “本性相と本形状の統一体” であり、完全に混然一体となった “唯一神” としての “愛の神” であるということです。 この “完全に混然一体となった” というのは、単に神の陽性実体と陰性実体としての結合としてのものではなく、神の本性相における男性としての陽性実体である男子と本形状における女性としての陰性実体である女子としての結合であって、その本質的な結びつきは、神の本性相(心)と本形状(体)の結びつきにようものです。そのためには、神の心情を動機としたロゴス(絶対的規範)の確立がアダムには必要であり、そのロゴスを自らの絶対的指針とするエバには必要となる。陽性実体と陰性実体としての性別によって混然一体となる意味ではない。 最後の “絶対服従” であるが、絶対愛によって生まれた子女が氏族を造り、氏族が民族を造り、民族が国家を造り、国家が世界を造る。この世界が神の愛による理想世界として完成するためには、最初に築かれた絶対愛に “不変的に従う” ことによって成されることから文先生は「絶対服従」と語られたのである。故に、絶対服従とは絶対愛に服従することであり、この絶対愛を “真の愛” と文先生は表現していたのである。真の愛こそ神の愛であり、“神は愛なり” である。 (B)生殖器の道理
『統一思想要綱』によると、ロゴスは本性相における内的性相(理性)と内的形状(法則)の授受作用によって形成される理法とされる。理性は感性に始まり、悟性によって理性としての能力となる。それは、普遍的真理を求める能力または概念化の能力とされ、価値追及欲と価値実現欲として表現される。この過程には、自由意志に基づくことが必須とされるのは、先に述べたとおりである。 ところで理性の出発点となるのは感性であるが、上記の「五官を抜いた生殖器の道理」というのは何なのか。また、何が「生殖器の道理」なのかという疑問が根本的に拭えない。この疑問に大きなヒントとなるのが、空海の説いた「六大」(「堕落論と即身成仏」参照)と「理趣経」である。このことは、このページの最後(2)に記すことにする。
(C)『原理本体論』に巧みに仕組まれた、とんでもない出鱈目! 2008年から原理本体論教育が始まり、2012年の7月に『原理本体論』初版が刊行された。しかし、翌月の8月には文先生がソウル市内の病院に入院され、9月3日に聖和された。この『原理本体論』に下記のような独生女論(参照「独生子と独生女」)の前座ともいえる内容が記された。
『原理本体論』では、“先惟条件” という言葉が初めて使用されました(赤下線@)。この場合、神は人間を実際の万物の創造よりも先に考え、構想していたということですが、わざわざ “条件” という言葉を付け加えたのは如何にも不自然です。これは条件ではなく、生まれてくる我が子のことを考えて、精一杯の準備をしようという神が人間の親として当然の発想であって、わざわざ “先惟” という言葉で表現をする必要もなく、“条件” と付け加えたのは次の事柄に関連付けようとした意図があったからといえます。それは、神はエバをアダムよりも先に考え、構想していたということ。つまり、神の構想には、アダムよりも先にエバの構想が優先されて存在していたということです(赤下線A)。しかし、ここにはとんでもない欺瞞が隠されています。それは「神様は男性格主体なので、女性を先惟し、男性をつくりました」という一文です。『原理講論』によると、神が男性格主体であるのは被造世界全体に対してであり、ましてや陰性実体として創造されたエバに対応して使われた言葉ではありません。陽性実体であるアダムに対応しての陰性実体としてのエバであって、アダムとエバは相対的関係であるといえます。『原理講論』には、「(神は)被造世界に対しては、“性相的な男性格主体” としていまし給う」(下記、青枠の青下線)と表現していますが、当然これには、「被造世界は(神の)“形状的な女性格対象”」であるという言葉が対応していると言えます。これらのことは『原理講論』に表記されていない言葉を巧みに翻して、恰もこうであるというように述べています。これこそ “独生女論” (参照「独生子と独生女」)の原理的根拠であるとでもいうようにです。 更に、アダムとエバの存在価値にも影響を及ぼすとでもいうような内容を仄めかし(赤下線B)、神はエバに合わせてアダムを創造したと結論付けています(赤下線C)。これは、神の創造を冒涜し、文先生のいう「愛の権威」(参照「「全体全般全権全能の日」宣布」)を踏み躙る部分であると言えるでしょう。
<参照> ・ 世界基督教統一神霊協会の年表(神様王権即位式以降、天一国年号制定以降) (2) 神の核心的創造と理趣経
@ 「理趣経」から「生殖器の道理」へ 話を前ページ(「堕落論と即身成仏」)の「六大」に戻そう。 空海の「六大」だいとは、五官による五つの感覚に “識” を加えた「身」のことを言い、“識” とは事物の道理を知って分別できる自我であるとしているところから、“心” または “意” と同義とされる。つまり、明確な方向性をもった心(意思)といえる。これが、心と体が授受作用できる相対基準を持つための “目的” となる。 この様になるためには、まず絶対信仰によって神の目的と一致した目的意識に立ち(左図 @)、神の心情に相対できる立場を確立しなければならない。そうすることによって神の心情に基づいた欲望(識:左図 A)に立脚した行動を成すことが可能となるのである。これが空海の捉えた “身”(左図 B)の本質的意味である ところで、五官とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つを感覚する器官のことで、「理趣経」や文先生の「生殖器の道理」の意味するのは、これに “識” としての欲望を含めた “感性” によるものを指している。この “感性” こそ真の理性に至り、絶対愛に導く最も貴重な “感性” なのである。つまり、“識” という境地に立った心での相対者との性交による恍惚となった忘我状態は、五官を刺激する嘘のない如何なる刺激をも最上の美として、究極の喜びとなる愛の対象となり、互いの “身” による究極の一体感をもたらすというのである。これが “絶対愛” であり、神は人間の生殖器をそのような器官として造られたというのが「生殖器の道理」である。 この忘我(無我)状態に至った “身” の喜び(満足)は、(神を受け入れる者への)無償の愛によって得る満足感(喜び)といえ、これはアガペー体恤の原点とも言えよう。何故なら、神の心情は、愛することを通じて喜びを得ようとするところにあるからである。
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