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04. 独生女という虚構


■ 摂理的失敗でも理想とする共生共栄共義主義は可能

1 エバの再創造と母マリヤの使命と聖霊

 創造の原則を見れば、アダムをまず造り、そのアダムを中心としてエバを造られました。ゆえにマリヤは息子を協助して、息子の新婦を探さなければならなかったのです。マリヤはそうしなければならないのです。イエス様はもちろん、マリヤも協助して新婦を探さなければならないのです。
 そのようなことを見ると、マリヤは責任を果たせなかったということが分かります。ある日マリヤが、ガラリヤのカナの祝宴の場で、イエス様にぶどう酒がなくなったと言うと、イエス様は「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と言われました。その言葉は、他人の結婚に何の関係があるのかということなのです。つまりイエス様が結婚する時になったのに、なぜマリヤは知らずにいるのかというのです。結局、マリヤは責任を果たせなかったのです。(『イエス様の生涯と愛』p110〜p111)
 マリヤはどうすべきでしょうか。しもべたるマリヤは、堕落したエバの立場で自分の継代を通して堕落しないエバをつくるため、あらゆる精誠をつくさなければならなかったのです
 それはどういうことかというと、イエス様の結婚に対して関心をもたなければならないということです。イエス様が死ぬことになったのは、結婚できなかったからです。結婚をしていたならば、なぜ死ぬのですか。
 マリヤは全身全霊を尽くして、女性を創造しなければなりませんでした。マリヤは女性です。マリヤは僕としての女性の中で代表的な立場なので、僕圏内にある女性たちをみな動員しなければなりませんでした。三人以上動員しなければなりませんでした。三位基台を立てなければならないのです。そのように動員して、お互いに協助しなければならないのです。
 イエス様の親戚の中に娘がいるかを調べ、そのような娘がいれば彼女たちを集めて基台をつくらなければならなかったのですが、それができなかったのです。イエス様の親戚の中に誰がいたでしょうか。洗礼ヨハネの妹がいたらどれほどよかったでしょうか。洗礼ヨハネの母は、マリヤがイエス様を身ごもったのち面倒を見てくれました。イエス様が腹中にいるときから歓迎しました。したがって洗礼ヨハネの妹や遠い親戚に娘がいたら、洗礼ヨハネの母とマリヤ、そして姉がいるならその姉と三人が一つになって、イエス様より年が若いその親戚の娘と因縁を結ばせなければならなかったのです。イエス様と共に、一人の女性を再創造しなければならなかったのです。(『イエス様の生涯と愛』p120〜p121)
 イエス様の相手は、他の所から取ることができません。自分の直系のいとこの妹(年下の女性)でなければ、母方のいとこしかありません。血統が違ってはいけないのです。母方のいとこは同じ所属なので可能なのです。このように、いとこの妹を通して物事がうまく行っていたら、どうなっていたでしょうか。イエス様にほれて、イエス様でなければ刃物を突き立てて死んでしまうとか、イエス様でなければ結婚しないというそのような妹がいたとすれば、どうなっていたでしょうか。イエス様が死ぬときに、自分も一緒に死ぬのだと言って追いかけてくる女性がいたとすれば、どうなっていたでしょうか。(『イエス様の生涯と愛』p122〜p123)
 もしそうなったとすれば、イエス様は死の道、黄泉路よみじでも孤独ではなかったでしょう。地獄に行くにも二人で行き、楽園に行くにも二人で行ったはずでしょう。ですから孤独でしょうか、孤独でないでしょうか。そうなったとすれば、聖霊を何のために送りますか。聖霊を送る必要はないのです。
 しかし、二人でいることができない運命だったので、聖霊を送ったのです。父の神であるイエス様は天の国に行き、母の神である聖霊は地に降りるという離別があったのです。そのような女性がいたならば、昇天は必要ないのです。地は息子、娘を直接保護するので、そのようには死なないのです。(『イエス様の生涯と愛』p123〜p124)

 




2 霊性としての聖霊とキリスト教

 では、具体的に聖霊はどのようなお方でしょうか。エバがもし完成していたなら、実体の母となっていたはずですが、堕落することによってエバの霊性が神様に収められました。そうして、その霊性はイエス様がこの地上で新婦を迎えればその新婦に再臨して実体の形象をまとおうとしたのですが、イエス様の新婦の基盤がなくなることによってその霊性は再臨できず、イエス様は実体の父母の立場に立つことができませんでした。ですから、仕方なくイエス様は聖霊と共に霊的父母の立場になるしかなかったのです。(『神様の摂理から見た南北統一』 79p)

 @) 二性性相の神としての神霊と聖霊と人間の良心


 


<参照>
エバの摂理完了と男性復帰(上)

 A) 『原理講論』における三位一体の観点から

 イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。したがって、イエスと聖霊は霊的重生の使命だけをなさっているので、信徒たちも、やはり、霊的な三位一体としてのみ復帰され、いまだ、霊的子女の立場にとどまっているのである。ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。(『原理講論』p268)

 




3 蕩減摂理時代から愛援摂理時代へ

 霊界と地上界の歴史を経て、今では太平洋沿岸をみな経、大西洋を経て上陸したのちにアラスカで何をしたのかといえば、八定式をしたのです。八定式は、縦的な蕩減歴史的路程、横的な個人、家庭、氏族、民族、国家、世界蕩減路程、八段階縦横の路程を経て定着することによって長子権復帰が起こり、この地の世界の人間の前には、蕩減の路程が解消されるのです。八定式をすることによってそうなのです。先生が宣布したのです。八月三十一日アラスカで。(『宗族的メシヤ』p334)
 長子権が復帰され、御父母様が抱いてあげることにより、父母の愛の圏内で長子権復帰のための歴史時代の戦争史、闘争史がなくなり、愛でもって和合できる、蕩減が必要でない時に入ってきたというのです。そのようなことをするためには八定式をしなければならないのです。
 八定式をすることによってその息子、娘を、長子と次子を前においた父母が生じて、このような子供たちを許してあげたので、そのあとには父母容赦圏時代が来るのです。
 それで愛援摂理時代を宣布するのです。救援摂理ではありません。愛でもって援助する救援時代なのです。今までは、蕩減復帰救援だったのですね? それがなくなるのです。長子権復帰をすることによって、兄弟たちが父母の懐にただそのまま抱かれ得る立場に入ってきて、父母の愛を中心として、父母に許しを受けることのできる環境をつくっておいたので、この地上に統一教会に反対する勢力はなくなるのです。反対する時代は過ぎ去るのです。今、そのようになったのです。アメリカに、統一教会の文先生に反対する人がいないのです。いるといってもそれは、共産党の本当のアカと解放神学の連中のみなのです。全部、世の中を知らない者たちなのです。(『宗族的メシヤ』p335)

 @) 長子権復帰と母子協助による愛援摂理時代


 1989年8月31日の「八定式」の制定以降、1990年3月27日「真の母」勝利宣言が成され、文先生は1991年12月6日金日成と会見すると、1992年4月10日世界平和女性連合が創設され総裁に韓鶴子女史が就任しています。




4 真の愛の規範となる秩序が立たず真の家庭完成は敗に終わる

 @) 真の愛と秩序

 

 したがって自由に関する三つの要件、すなわち「原理内にあること」、「責任を負うこと」、「実績をあげること」は、一言で「自由とは原理内での自由である」と表現することができるのであり、結局、真の自由は法則性、必然性との統一においてのみ成立するという結論になる。ここで法則とは、自然においては自然法則であり、人間生活においては価値法則(規範)である。価値とか規範は、本然の世界では決して自由ではないのである。(『統一思想要綱』p64)
 主体と対象の間においてのみ授受作用が行われる。すなわち格位の差がある所に授受作用が行われる。言い換えれば、二つの要素または個体が同格の場合は授受作用が行われず、むしろ反発が起こりやすいのである。陽電気と陽電気の間に行われる反発がその例である。
 主体と対象の格位の差は秩序を意味する。したがって秩序のある所においてのみ授受作用が行われるという結論になる。このような主体と対象の授受作用の理論は現実問題解決のまた一つの基準となる。すでに指摘したように、今日、世界は収拾のつかない大混乱に陥りつつあるが、その理由はほとんどすべての相対的関係が円満な授受作用になりえず、相衝そうしょう関係になってしまったからである。言い換えれば、相対的関係が主体と対象の関係にならないで、主体と主体の反発の関係になってしまったからである。
 したがって、世界の混乱を収拾する道は秩序を正すことであり、秩序を正すためには主体と主体の相衝的な関係を調和的な関係に転換させなければならない。そのためには、主体と対象の関係の必然性または当為性が明らかにされなければならない。ここに主体と対象の関係の基準または根拠が必要となる。それがまさに原相内の四位基台理論、または主体と対象の授受作用の理論なのである。(『統一思想要綱』p84)
 家庭的四位基台の一定の位置で、一定の目標に向かった行為――三方向(三対象)に向かう行為――の規範が倫理である。そのとき、行為の内容はもちろん愛である。したがって、倫理は愛の位置すなわち秩序において成立する。言い換えれば、倫理は秩序を離れて立てることができない。ところが今日、家庭において、父母と子女間の秩序、夫婦間の秩序、兄弟姉妹間の秩序が軽視ないしは無視され、家庭における秩序が乱れている。そして、それが社会秩序の崩壊の主要な原因となっている。本来、社会の秩序体系の基礎であるはずの家庭が、今日では社会の秩序崩壊の始発点となってしまったのである。
 愛の秩序は、性の秩序と密接な関係にある。したがって倫理は、愛の秩序であると同時に性の秩序でもある。性の秩序とは、性的結合の秩序、すなわち男女間の秩序をいう。(『統一思想要綱』p390)
 宇宙には、例えば太陽系の場合、月―地球―太陽―銀河系の中心―宇宙の中心という縦的秩序と、太陽系における太陽を中心とした、水星―金星―地球―火星―木星―土星―天王星―海王星―冥王星という横的秩序があるように、家庭にも、孫―子女―父母―祖父母―曾祖父母と連なる縦的秩序と、兄弟姉妹のような横的秩序がある。そしてそのような秩序に対応するのが、祖父母や父母の子女に対する慈愛、子女の父母や祖父母に対する孝誠・孝行などの縦的な徳目であり、夫婦の和愛、兄弟の友愛、姉妹愛などのような横的な徳目である。(『統一思想要綱』p391〜p392)

 

 A) 女のカインとアベルの一体化としての実体的必要事項

 

 B) 解けない怨讐関係と解決不能となった家庭内不和

 

 C) 文先生のアベル女性UN創設大会での「母がいません」発言

 

 D) 世界平和統一家庭連合における「血統」と「真の父母論」における間違った概念

 

 D) 真の愛の実体となるべき真の母によって誕生するはずだった神の血統

 神の愛とは、要するに神の絶対愛をいう。神は絶対者であるために、神の愛は絶対的愛である。ここでいう絶対とは、世俗的な意味の絶対とは異なる。ここでの絶対は、永遠不変性無限性普遍性をいう。神は永遠的存在であり、存在しないところがないのであって、いつでも、どこでも存在されるのである。したがって神の愛もまた永遠であり、存在しないところがないのである。このような内容をもつ愛が絶対的愛であり、真の愛である
 例えていえば、真の愛は太陽光線のようである。太陽光線は地球上のどこでも照らさない所がなく、常に休みなく継続して永遠に照らしている。それと同じく、真の愛とは、包括的であり、全人類だけでなく、すべての万物に対してまでも、施し与える愛である。被造物全体が真の愛の対象である。真の愛の対象から除外される存在は、この宇宙にはない。普通、愛といえば、人間同士が与えて受ける愛のことをいうが、真の愛とは、人間同士はもちろん、敵までも、ひいては万物までも愛する、そのような愛である。(『統一思想要綱』720p)

 




5 なぜ、摂理的失敗という結果を招いてしまったのか

 @) 神は先ず第一に唯一絶対であり、昼の神の性相は夜の神のロゴスである

 


 A) 文先生が大韓民国をアダム国の根拠としたハナニムとハン

 

 B) 解決できない南北統一に対する「ハン」の “結び” と反日による “解き”

 


 C) 摂理失敗後における情勢と共生共栄共義主義へ向けて

 


独生女(独り娘)の理解を深めるために ― 真のお母様の無原罪性について
幻となった基元節(上)
四大心情圏と良心
エバの摂理完了と男性復帰(下)
アダム国と共生共栄共義主義
霊性 (キリスト教)
大韓民国臨時政府
大韓民国の宗教
韓国史における人格神(天)と良心宣言都留文科大学文学部教授 邊英浩ピョンヨンホ : PDF)
文化的アイデンティティとしてのハン (中央大学総合政策修士 上別府正信 : PDF)
反日教育



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