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03. 霊肉重生と三日行事


■ 仮の肉的重生摂理

1 『原理講論』の重生論と三位一体論

 ロゴスという言葉はギリシャ語で、み言、あるいは理法という意味をもっている。ヨハネ福音書一章1節以下を見ると、ロゴスは神の対象で、神と授受をなすような関係の位置をとっているという意味のことが書かれている。ところで、ロゴスの主体である神が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない。もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物(ヨハネ一・3)も、二性性相になっているはずがない。このようなロゴスの二性性相が、神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった。(『原理講論』p265)
 父母の愛がなくては、新たな命が生まれることはできない。それゆえ、我々がコリントT一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という。ところが、人間は霊肉共に堕落したので、なお、肉的重生を受けることによって、原罪を清算しなければならないのである。イエスは、人間の肉的重生による肉的救いのため、必然的に、再臨されるようになるのである。(『原理講論』p266)
 イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。したがって、イエスと聖霊は霊的重生の使命だけをなさっているので、信徒たちも、やはり、霊的な三位一体としてのみ復帰され、いまだ、霊的子女の立場にとどまっているのである。ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。このようにして、堕落人間が神を中心として創造本然の四位基台を造成すれば、そのとき初めて、神の三大祝福を完成した地上天国が復帰されるのである。(『原理講論』p268)

 @) ロゴスの二性性相とイエスと聖霊による霊的重生

 心情は神の性相の最も核心となる部分であって、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」である。(『統一思想要綱』p52)

図1
 『原理講論』によると「神」は “心情(愛)の神” であるとされている。心情は、『統一思想要綱』によれば「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」とされている。心情の “目的” とするところは、「喜び」であって、「愛」をその “手段” としている。つまり、「心情」が情的衝動(動機)となって、愛の対象となる “相対そうたい を愛することによって、その相対が主体の愛に対応する刺激(喜び)となって返ってくる。こうした愛の相対間における主体を中心とした授け・受けが成立し、双方が喜びとして一体となれば、無形の実体としてあられる「神」は心情において “唯一” であり、その目的においては “二世性相” の神として在られるのである。

 それでは、次の聖書の使徒言行録9章の部分を参考にして「霊的重生」を見てみることにする。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに進行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(使徒言行録9章1節〜9節)
 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」(使徒言行録9章11節〜12節)
 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起して洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。(使徒言行録9章15節〜19節)

 サウロは、シリアのダマスコの町にイエスの弟子が大勢いることを耳にして、大祭司から委任状をもらって、ダマスコに駆けつけました。ダマスコは、エルサレムから北へ230キロ程下った、アバナ川ほとりの町で、昔から多くのユダヤ人が住んでいて、ユダヤ教の会堂があった町である。
 サウロは、数人の部下を連れてエルサレムを出発し、目指すダマスコを目前にしていた。すると突然、サウロは強烈な光を浴びて、自分に呼びかける力強い声を聞いた。サウロは何も見えなくなり、その言葉に驚き、身悶えしながら盲目となった自らを通り沿いのユダの家に落ち着かせ、三日の間断食し、一心に祈りながら自分の身に起こったことを自問し続けた。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのすべきことが知らされる」と言うイエスの言葉が、サウロにとってあまりにも強烈すぎたからである。
 アナニアは、主の命令に驚きを禁じ得なかったが、意を決してサウロを訪ねて行き、主の指示通りに行うと、サウロが幻で見た通りのことが起きた。アナニアは、サウロが主の選びの人物であることを微塵も疑わずに、主の言葉に絶対的に従い、サウロにそれを施した。同時に、サウロにとっては三日の間自問し続けた疑問に明確な答えが “光” となって目に飛び込んで来たのである。この時、サウロは “「聖霊」によって感動に満たされ”、元どおりになった目からうろこのように涙が溢れ、洗礼を受けるに至ったのである。

 このサウロに起きた一連の出来事は、正しく「霊的重生」の典型的な出来事であると言える。迫害者サウロは、イエスの御言みことばが回心に向かう切っ掛けとなり、その御言みことばに対してサウロ自身が自問し、聖霊によって感動を受けることによって霊的自我としての絶対信仰が芽生えたのである(図1)。
 この事によって、聖霊はサウロに「感動」という “霊的なエネルギー” によって、サウロをイエスの御言みことばに対する絶対的な信仰へと向かわしめた。“霊的真の父” となるイエスの相対的立場に立って “霊的真の母” としての役割を果たすべき迫害者をも愛する “真の愛” の実体として顕現された のである。

 A) ロゴスにおける心情と愛

 終わりに、ロゴスと心情と愛の関係について述べる。すでに明らかにしたように、ロゴスはことばまたは構想であると同時に理法である。ところで言(構想)と理法は別のものではない。言の中にその一部として理法が含まれているのである。あたかも生物を扱う生物学の中にその一分科として生理学が含まれているのと同じである。すなわち生物学は解剖学、生化学、生態学、発生学、分析学、生理学など、いろいろな分科に分類されるが、その中の一分科が生理学であるように、創造に関する神の無限なる量と種類を内容とする言の中の小さな一部分が理法なのであり、それは言の中の万物の相互作用または相互関係の基準に関する部分なのである。
 言と理法は別個のものではないばかりでなく、言の土台となっている心情は、同時に理法の土台になっている。あたかも有機体の現象の研究が生物学のすべての分科に共通であるように、創造における神の心情が構想と理法の共通基盤となっているのである。
 心情は愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動である。心情が創造において言と理法の土台となっているということは、被造物全体の構造、存在、変化、運動、発展など、すべての現象が、愛の衝動によって支えられていることを意味する。したがって自然法則であれ、価値法則であれ、必ずその背後に愛が作用しており、また作用しなければならない。一般的に自然法則は物理化学的な法則だけであると理解されているが、それは不完全な理解であって、必ずそこには、たとえそれぞれ次元は異なるとしても、愛が作用しているのである。人間相互間の価値法則(規範)には、愛がより顕著に作用しなければならないのは言うまでもない。(『統一思想要綱』p65〜p66)

図2
 人間始祖であったアダムとエバが堕落によって失ったものは、真の愛であったが、それはロゴスであると言える。ロゴスは理法であり、理性と法則の統一体である。
 「理性」とは、感情や欲望に流されず、物事の道理や筋道に従って客観的かつ論理的に考え、正しく判断する能力のことを言う。これに対して「法則」とは、特定の条件のもとで必ず成立する不変の原則や規則のことである。
 この理性(内的性相)と法則(内的形状)が統一されたロゴス(理法)は “神の心” となるイメージ化された構想が「ことば」(ヨハネ福音書1章1節〜2節)となったものである(本性相)。この「ことば」は心情を土台としているため、本形状との授受作用の中心となる目的は“愛による喜びを得る”ことになる(図2)。本形状とは、心的なエネルギー(『統一思想要綱』p35〜p36)であり、本性相と本形状の両者いずれも心的要素とエネルギー的要素をもっていて、性相は心的要素が多く、形状はエネルギー的要素が多い。本然の人間の心(性相)と体(形状)は、神の本性相と本形状に似せて創造されていることは勿論である。

 B) 肉的重生とは真の愛による実体的な三位一体

 神は霊的部分と肉的部分をもって、人間を創造されたがゆえに、堕落においても霊肉両面の堕落が成立した。天使とエバとの血縁関係による堕落が霊的堕落であり、エバとアダムとの血縁関係による堕落が肉的堕落である。
 では、天使と人間との間に、いかにして性的関係が成立するのであろうか。人間と霊的存在との間における感性は、いかなる点においても、実体的な存在の間における感性と、少しも異なるところがない。したがって、人間と天使との性的堕落は事実上可能なのである。(『原理講論』p107〜p108)

図3
 人間始祖アダムとエバの堕落は霊的・肉的な性的関係によって、霊的堕落と肉的堕落が生じた。堕落を “愛の関係” から見れば、霊的・肉的愛の関係からアダムとエバの堕落が生じたとも言える。
 蕩減復帰を愛の観点から考えれば、真のアダムを中心として見た場合に、愛の対象としてのエバの存在が霊肉の両面から考えなければ完全な救いは解決できない。なぜなら、堕落が天使長とエバの霊的堕落を経てアダムとエバの肉的堕落によって成されたので、“逆の経路を辿たどる” という蕩減復帰の原則から、アダムとエバの肉的復帰が成された上での天使長とエバによる霊的復帰が成されるという順序とならなければならない。蕩減復帰という観点で考えれば、図3における “真のアダム” を中心とした右側の “真のエバ” との関係が「肉的堕落の蕩減復帰」に該当し、左側の “エバ” と “天使長の立場となるエバの夫” との関係が「霊的堕落の蕩減復帰」に該当する。この時、“真のエバ” は “真のアダム” の「正妻」の立場であり、左側のエバは “真のアダム” の「妾」の立場に立つ。「妾」であるからこそ、理論上は “「霊的な愛の関係」が可能” と言える。なお神の復帰摂理としては、右側が「蕩減復帰摂理」、左側が「再創造摂理」であることは重要なポイントとして認識しておかなければならない。
 





2 「三日行事」を女のカイン・アベルの蕩減復帰原理で解く

 @) 1日目

図4
 


 A) 2日目

図5
 


 B) 3日目

 

 C) 三日行事に重大な欠陥となる要因が生じる

図6
 
図7
 





3 イエス家庭と祝福家庭における1世と2世

 @) エリサベツの怨讐となったマリヤと庶子としてのイエス

図8
 


 A) 洗礼ヨハネの失敗によるイエスの天使に対する主管性復帰と十字架

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊≠ノ導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(「マタイによる福音書」4章1節〜11節)
 人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。(「申命記」8章3節)
 あなたがたの神、主を試みてはならない。(「申命記」6章16節)
 あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。(「申命記」6章13節)

 

 


聖パウロの回心
「三日行事」とその意義(PDF)



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