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03. 三日行事と女カイン・アベル摂理失敗


■ 三日行事は復帰摂理途上での “肉的重生と見做みなす”

1 『原理講論』の重生論と三位一体論

 ロゴスという言葉はギリシャ語で、み言、あるいは理法という意味をもっている。ヨハネ福音書一章1節以下を見ると、ロゴスは神の対象で、神と授受をなすような関係の位置をとっているという意味のことが書かれている。ところで、ロゴスの主体である神が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない。もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物(ヨハネ一・3)も、二性性相になっているはずがない。このようなロゴスの二性性相が、神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった。(『原理講論』p265)
 父母の愛がなくては、新たな命が生まれることはできない。それゆえ、我々がコリント�T一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という。ところが、人間は霊肉共に堕落したので、なお、肉的重生を受けることによって、原罪を清算しなければならないのである。イエスは、人間の肉的重生による肉的救いのため、必然的に、再臨されるようになるのである。(『原理講論』p266)
 イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。したがって、イエスと聖霊は霊的重生の使命だけをなさっているので、信徒たちも、やはり、霊的な三位一体としてのみ復帰され、いまだ、霊的子女の立場にとどまっているのである。ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。このようにして、堕落人間が神を中心として創造本然の四位基台を造成すれば、そのとき初めて、神の三大祝福を完成した地上天国が復帰されるのである。(『原理講論』p268)

 �@) ロゴスの二性性相とイエスと聖霊による霊的重生

 心情は神の性相の最も核心となる部分であって、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」である。(『統一思想要綱』p52)

図1
 『原理講論』によると「神」は “心情(愛)の神” であるとされている。心情は、『統一思想要綱』によれば「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」とされている。心情の “目的” とするところは、「喜び」であって、「愛」をその “手段” としている。つまり、「心情」が情的衝動(動機)となって、愛の対象となる “相対そうたい” を愛することによって、その相対が主体の愛に対応する刺激(喜び)となって返ってくる。こうした愛の相対間における主体を中心とした授け・受けが成立し、双方が喜びとして一体となれば、無形の実体としてあられる「神」は心情において “唯一” であり、その目的においては “二世性相” の神として在られるのである。

 それでは、次の聖書の使徒言行録9章の部分を参考にして「霊的重生」を見てみることにする。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに進行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(使徒言行録9章1節〜9節)
 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」(使徒言行録9章11節〜12節)
 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起して洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。(使徒言行録9章15節〜19節)

 サウロは、シリアのダマスコの町にイエスの弟子が大勢いることを耳にして、大祭司から委任状をもらって、ダマスコに駆けつけました。ダマスコは、エルサレムから北へ230キロ程下った、アバナ川の畔ほとりの町で、昔から多くのユダヤ人が住んでいて、ユダヤ教の会堂があった町である。
 サウロは、数人の部下を連れてエルサレムを出発し、目指すダマスコを目前にしていた。すると突然、サウロは強烈な光を浴びて、自分に呼びかける力強い声を聞いた。サウロは何も見えなくなり、その言葉に驚き、身悶えしながら盲目となった自らを通り沿いのユダの家に落ち着かせ、三日の間断食し、一心に祈りながら自分の身に起こったことを自問し続けた。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのすべきことが知らされる」と言うイエスの言葉が、サウロにとってあまりにも強烈すぎたからである。
 アナニアは、主の命令に驚きを禁じ得なかったが、意を決してサウロを訪ねて行き、主の指示通りに行うと、サウロが幻で見た通りのことが起きた。アナニアは、サウロが主の選びの人物であることを微塵も疑わずに、主の言葉に絶対的に従い、サウロにそれを施した。同時に、サウロにとっては三日の間自問し続けた疑問に明確な答えが “光” となって目に飛び込んで来たのである。この時、サウロは “「聖霊」によって感動に満たされ”、元どおりになった目からうろこのように涙が溢れ、洗礼を受けるに至ったのである。

 このサウロに起きた一連の出来事は、正しく「霊的重生」の典型的な出来事であると言える。迫害者サウロは、イエスの御言みことばが回心に向かう切っ掛けとなり、その御言みことばに対してサウロ自身が自問し、聖霊によって感動を受けることによって霊的自我としての絶対信仰が芽生えたのである(図1)。
 この事によって、聖霊はサウロに「感動」という “霊的なエネルギー” によって、サウロをイエスの御言みことばに対する絶対的な信仰へと向かわしめた。“霊的真の父” となるイエスの相対的立場に立って “霊的真の母” としての役割を果たすべき迫害者をも愛する “真の愛” の実体として顕現された のである。

 �A) ロゴスにおける心情と愛

 終わりに、ロゴスと心情と愛の関係について述べる。すでに明らかにしたように、ロゴスは言ことばまたは構想であると同時に理法である。ところで言(構想)と理法は別のものではない。言の中にその一部として理法が含まれているのである。あたかも生物を扱う生物学の中にその一分科として生理学が含まれているのと同じである。すなわち生物学は解剖学、生化学、生態学、発生学、分析学、生理学など、いろいろな分科に分類されるが、その中の一分科が生理学であるように、創造に関する神の無限なる量と種類を内容とする言の中の小さな一部分が理法なのであり、それは言の中の万物の相互作用または相互関係の基準に関する部分なのである。
 言と理法は別個のものではないばかりでなく、言の土台となっている心情は、同時に理法の土台になっている。あたかも有機体の現象の研究が生物学のすべての分科に共通であるように、創造における神の心情が構想と理法の共通基盤となっているのである。
 心情は愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動である。心情が創造において言と理法の土台となっているということは、被造物全体の構造、存在、変化、運動、発展など、すべての現象が、愛の衝動によって支えられていることを意味する。したがって自然法則であれ、価値法則であれ、必ずその背後に愛が作用しており、また作用しなければならない。一般的に自然法則は物理化学的な法則だけであると理解されているが、それは不完全な理解であって、必ずそこには、たとえそれぞれ次元は異なるとしても、愛が作用しているのである。人間相互間の価値法則(規範)には、愛がより顕著に作用しなければならないのは言うまでもない。(『統一思想要綱』p65〜p66)

図2
 人間始祖であったアダムとエバが堕落によって失ったものは、真の愛であったが、それはロゴスに基づいたものであると言える。ロゴス(理法)は、理性と法則の統一体である。
 「理性」とは、感情や欲望に流されず、物事の道理や筋道に従って客観的かつ論理的に考え、正しく判断する能力のことを言う。これに対して「法則」とは、特定の条件のもとで必ず成立する不変の原則や規則のことである。
 この理性(内的性相)と法則(内的形状)が統一されたロゴス(理法)は “神の心” においてイメージ化された構想が「言ことば」(ヨハネ福音書1章1節〜2節)となったものである(本性相)。この「言ことば」は神の心情より発せられているので、「言ことば」として表現された “神の心(本性相)” の目的は「愛することによって喜びを得る」ことになる(図2)。この場合、本形状となるのは “心的なエネルギー”(『統一思想要綱』p35〜p36)であり、本性相と本形状の両者はいずれも心的要素とエネルギー的要素をもっていて、本性相は心的要素が多く、本形状はエネルギー的要素が多いとされる。本然の人間の心(性相)と体(形状)も、神の本性相と本形状に似せて創造されていることは勿論のことである。

 �B) “失った愛と御言を元返しする” という意味での「肉的重生」

 神は霊的部分と肉的部分をもって、人間を創造されたがゆえに、堕落においても霊肉両面の堕落が成立した。天使とエバとの血縁関係による堕落が霊的堕落であり、エバとアダムとの血縁関係による堕落が肉的堕落である。
 では、天使と人間との間に、いかにして性的関係が成立するのであろうか。人間と霊的存在との間における感性は、いかなる点においても、実体的な存在の間における感性と、少しも異なるところがない。したがって、人間と天使との性的堕落は事実上可能なのである。(『原理講論』p107〜p108)

 人間始祖アダムとエバの堕落は、霊的堕落(第一の堕落)によって肉的堕落(第二の堕落)が生じた。霊的堕落は、“エバの初愛” がルーシェルの “偽りの言ことばとして結実” し、肉的堕落は、エバのアダムへの愛が “偽りの愛” となってアダムを堕落させ、“アダムから神の御言を失わせてしまった” ことにアダムとエバの堕落の本質がある。簡潔に言えば、エバの “偽りの愛” によってアダムが “神の御言” を失ってしまったと言うことができる。この失った愛と御言を “元返し” するというのが「霊肉重生」の真意となる。そこで、図3より次のように言える。

図3
 先ず霊的堕落が起こり、次に肉的堕落が生じたのであるから、その “元返し” となるのも霊的重生を経て肉的重生へ至らなければならない。そこで、先に “霊的堕落を元返し” するには、エバが “真のアダム” による “神の御言” を中心として、“天使長の立場に立つ夫” と “初愛の関係” を結ばなければならない。
 次に、“真のアダム” との間で “真の愛” の関係を築いた “真のエバ” がエバと心情一体となることによって、エバが夫となる “アダムを愛する” ことによって、“アダムが失った神の御言を取り戻す” ことに務めなければなりません。
 こうして、“神の御言” による “真の愛” を失ったアダムとエバが、それを “元返し” して堕落前の本然の立場に立つ夫婦となって “真の愛の関係” を結ぶことが蕩減復帰原理としての最も重要な観点となる。

 次に、以上のことを踏まえた上で、“四大心情圏” を簡単に含めて「三日行事」をみてみよう。




2 なぜ「三日行事」によって無原罪の子女の誕生が可能となるのか

 �@) 1日目

図4
 先ず、エバを通じて天使長の立場にある堕落した夫を “蘇生期の無原罪アダム” として “霊的重生” しなければならない。
 『原理講論』(p266)によると、霊的真の父母の愛による重生が “霊的重生” であり、実存される真の父母の愛による重生が “肉的重生” となる。
 そこで、図1と図4を見比べてみよう。図1では、霊的イエスが “真のアダム”、聖霊が実在するエバとなっている。図4ではどちらも実在する存在とはなっているが、エバは “真のアダム”(真の父)の妻としての代役を担っているだけで “真のエバ”(真の母)の立場ではない。またエバは信仰だけで “真のアダム” の相対的立場を担っているので、堕落した夫の立場にある天使長から見るならば、天使長は「霊的重生」されるべき立場となる。

 以上のことから、「三日行事」の1日目は、エバは自身の信仰によって “真のアダム” の御言に敵う真の愛の対象となって、天使長の立場にある夫を “初愛” として愛することが蕩減復帰上において可能となる。この事によって、天使長の立場にある夫は、エバの愛を通じて “真のアダム” に対する信仰を取り戻し、“真のアダム” の御言の対象としての立場を復帰して、「蘇生期の無原罪アダム」として神の愛の対象としての立場に立つことができる。

 �A) 2日目

 �@ 四大心情圏とは、父母の心情、夫婦の心情、兄弟姉妹の心情、子女の心情の四つの心情をいう。心情は愛と表裏一体であるために、四大心情はまさに四大愛を意味する。すなわち父母の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛の四つの愛を意味するのである。(『統一思想要綱』p734〜p735)
 文先生は �A 愛も成長するといわれる。すなわち、人間が子供から成長していくにつれて、愛も成長していくのである。(『統一思想要綱』p735)
 四大心情圏の体恤を通して反対の方向に行かないと、天国に入る道がありません。そういう原則があるから、君たちも女として、先生に会った場合には、先生が嫌いではないのです。みんな先生が、双子の兄さんみたいになるのです。それから、自分の旦那さんみたいなのです。ですから、お母様は姉さんであり、君たちは妹です。お母様の分身にならなければなりません。お母様が、そういう四大心情圏を体恤し、勝利した代表として立っているのだから、お母様の分身にならなければ、復帰ができません。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p290〜p291)

図5
 さて、「三日行事」の2日目は、“真の父母” の直接的愛によって “肉的重生” されるのではなく、アダムのエバによる間接的な “肉的重生” といっても過言ではない。その原理的内容は、図5に示す通りである。
 “真のアダム” の妻となる “真のエバ” は、夫である “真のアダム” の四大心情圏による四大愛に “侍る” ことによって、四大心情圏を “体恤” した “真の母” に至り、エバによるアダムの “肉的重生” が可能となるのです。その為には、“真のエバ” とエバが四大心情圏において一体化しなければならない。

 ここで心情圏とは、心情の対象の範囲のことをいう。例えば、文化圏といえば、一つの文化の範囲のことであり、勢力圏といえば、勢力が及ぶ範囲をいうのである。したがって心情圏とは、心情の対象の範囲、すなわち愛の対象の範囲のことをいう。心情は愛したい情的な衝動であるために、その衝動は必ず行動となって現れるようになっているが、その時の行動がすなわち愛である。それゆえ、心情と愛は表裏一体の関係にある。したがって、心情の対象の範囲とは、愛の対象の範囲となるのである。
 四大心情とは、父母の心情、夫婦の心情、兄弟姉妹の心情、子女の心情の四つの心情をいう。(『統一思想要綱』p734)
 四大心情または四大愛を正確に理解するためには、愛の方向性すなわち縦的な愛と横的な愛に対する理解が必要である。�B 縦的な愛とは下向性の愛、すなわち上から下に向かう愛をいうのであり、神の人間に対する愛、父母の子女に対する愛をいうのである。横的な愛は、横に向かう愛のことで、兄弟姉妹間の愛や夫婦間の愛をいうのである。ここで兄弟姉妹間の愛とは、兄弟同士の愛と姉妹同士の愛、および兄弟と姉妹の間の愛をいう。そして父母の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛は、みな家庭で行われる愛であるために、これらは家庭的愛となるのである。
 ところで父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の三つの愛を、原理では「三対象の愛」というのである。したがって、四大心情を基盤とする四大愛は、三対象の愛に兄弟姉妹の愛を加えたものである。(『統一思想要綱』p735)
 �C 主体と対象の間においてのみ授受作用が行われる。すなわち格位の差がある所に授受作用が行われる。言い換えれば、二つの要素または個体が同格の場合は授受作用が行われず、むしろ反発が起こりやすいのである。陽電気と陽電気の間に行われる反発がその例である。(『統一思想要綱』p84)

図6
 “真のアダム” と “真のエバ”、“真のエバ” とエバを四大心情圏と四大愛の関係性から見れば、“真のアダム” と “真のエバ” は “夫婦の心情(愛)” の関係であり、“真のエバ” とエバは “姉妹の心情(愛)” の関係となる。それを前提として、“真のエバ” とエバが “姉妹の心情(愛)” の関係を築いて一体(赤下線�C)となれば、“真のアダム” の愛は “真の母” となり得た “真のエバ” を通じてエバ(赤下線�B)に至れる。このことによって、エバは結婚を前提とする “成人エバ” となることが出来て、「肉的重生」が成されたことになる(図6)。

 その上で、エバが “蘇生期の無原罪アダム” を愛せば、アダムも “真のアダム” による四大心情圏を備えたエバの愛によって、堕落によって失った心情圏を取り戻し、エバに対する愛の主体者としての立場を復帰できる “成人アダム” としての位置が可能となる。

 �B) 3日目

  a)「三日行事」の本来的目的

図7
 「三日行事」の3日目は、2日目の「長成期完成級のアダム(成人アダム)」と「堕落前の真のエバ(成人エバ)」との、“真の父母” に由来する “真の愛” によって “成人アダム(主体)” と “成人エバ(対象)” として蕩減復帰された男女の結婚初夜を象徴している。これを通じて堕落したアダムとエバが、“真の父母” による “真の愛” によって完全に蕩減復帰された立場に立って性的関係を結ぶことで、天使長ルーシェルによって始まった「霊的堕落」と「肉的堕落」は無に帰することになる。
 この事によって、神による人間再創造の摂理が具体的に展開すると同時に、霊界における全ての霊人達も、地上に再臨協助して完全復活することが可能となるのである(『原理講論』前編 第五章 復活論 第二節(三)霊人に対する復活摂理:p224〜p230)。

 以上で、「三日行事」の内容を纏まとめると、図7のようになる。
 「三日行事」の1日目は、エバが “真のアダム” の “妻” となる立場(堕落前の真のエバ)に立って、“天使長の立場にある夫” の母の立場ともなって、夫を“蘇生期の無原罪アダム”に蕩減復帰する(図4の「霊的重生」)。これは、堕落したアダムを神の長子として復帰したことになる
 次の2日目は、“真の父”(真のアダム)と完全に一体となった “真の母”(真のエバ)と、四大心情圏において一体となったエバが “成人エバ”(図6の「肉的重生」)となって、エバの四大心情圏による四大愛によって “蘇生期にあったアダムを長成期完成級の成人アダム” として復帰して、エバの愛の相対圏に立てる内容である。
 そこで3日目は、アダムを主体の立場に立てて愛の関係を結ぶことで、アダムに愛による主管性を復帰させることによって、アダムが “真の夫” として愛における中心的立場を確立することにある。

 以上のことから、3日目の主目的はイエスのような無原罪の子女の誕生にあるのではなく、アダム(男子)とエバ(女子)がイエスのような無原罪の子女を誕生させることを可能とできる “真の愛” を中心とした夫婦となることが「三日行事」の真の目的である。

  b)祝福2世は無原罪の立場での誕生となるが何が問題なのか

図8
 四大心情圏は、“父母の心情”、“夫婦の心情”、“兄弟姉妹の心情”、“子女の心情” の四つの心情をいう(赤下線�@)。また、「愛も成長する」(赤下線�A)ということは「四大心情圏も成長する」ということなので、「真の父母」ともなれば、“子女の心情” から “父母の心情” へと成長完成した “父母の愛” としての「真の愛」によって信徒たちの重生が可能となるのである。
 これに対して信徒は、「真の父母」の “父母の愛を体恤” した上で、自ずと “子女の心情” から “兄弟姉妹の心情”、“夫婦の心情” へと成長させて、“長成期完成級の成人アダム” と “堕落前の真の成人エバ” の立場に立って夫婦となる(図7右)ということが「三日行事」に黙示されている。それ故に、「三日行事」後の夫婦においては、自らの成長期間の完成期を、“真の父母” と共に歩み、“四大心情圏による四大愛を完成” させる目的が残されていることになる。

 言うなれば「三日行事」とは、神の愛を「命の息」(前ページ図8)として受け入れられた “真のアダム” の四大心情圏をカイン(正妻)となる “真のエバ” を仲保者としてアベル(妾)へと、内包していたエバの四大心情圏に接ぎ木することによって、エバの四大心情圏に「命の息」を吹き込むが如く、復帰摂理途上における摂理完成として見做みなした上での「接ぎ木による重生」であると言える。
 なお、「命の息」(前ページ図8:創世記2章7節)は、神の本性相における心情が、本形状(聖霊)において “心的エネルギー” として発せられたものである。そしてこれは、イエスを迫害したサウロを回心させた聖霊による “霊的なエネルギー” であるともいえる。




3 「三日行事」の要となる女のカイン・アベルと真の愛

  a)三段階の結婚式によって完成する神の創造目的

 こう見た場合に、結局夫婦というものは、真の愛を中心としていえば、第一に統一完成圏、第二統一、第三統一です。これ(第一)は何かというと、心身一体です。分かりますか? 心身一体とは、真の愛を中心として心と体が一つにならなければならないということです。偽りの愛によって心と体が紛争するようになったのを蕩減復帰して、真の愛を中心として心と体が一つにならなければ、元の基準に返った立場ではないので、天国に入ることができません。分かりましたか?
 そういう真の(愛の)第一統一完成体たる男と女が、夫婦になって一つになるのが、第二統一完成体です。分かりましたか?(「はい」)。第二に、夫婦が一つになったとすれば、見えない神様の形状と性相が一つになったのと同じように、実体的に引き出して、男は本性相的男性の実体、女は本形状的女性の実体として、見えない神様が、見える実体圏となるのです。それはプラス・マイナスであり、例えば心と体と同じように、無形の神様と、神様の見える実体の、性相・形状一体圏です。分かりましたか?(「はい」)。
 心身が一つになって、夫婦が一つになって、三番目には、見えない性相・形状の実体が、見える実体の性相・形状として、心と体と同じように一つになるのです。それは、真の愛によってです。ですから、結婚初夜における愛の根は、神様です。愛の主人は神様なので、良心と愛と神様が一つになって、アダム・エバが結婚するのです。分かりましたか? 神様と(一つになるの)は縦的結婚式であり、アダム・エバの結婚式は横的結婚式になるので、縦的が横的よりも先に立つのです。
 結婚初夜の夫婦関係の瞬間において、男が完成し、女も完成します。男と女、半分だったものが一つになるのです。半分ずつが、こういうふうに分かれて、また合うのです。神様において一つであった、無形なる性相が実体化して、分割されて、性相は男として、形状は女として大きくなって、二人がここで一つになるのです。そうなった場合には、無形の神様において、性相と形状が一体であったのと同じように、実体的一体になるのです。ですから、アダムとエバの結婚式は横的結婚式であるとともに、神様とアダム・エバが結婚する一体圏は縦的結婚です。先に縦的が始まって、横的がつながるようになるのです。分かりましたか?(「はい」)。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p88〜p90)

図9
 文先生は、真のアダムとして真のエバとなる韓鶴子女史と1960年4月11日(陰暦3月16日)に第1回目の聖婚式が挙行され、次いで2003年2月6日(陰暦1月6日)には第2回目の成婚式が成されました。そして、2013年の1月13日(陰暦12月2日)の「基元節」となる日に第3回目の成婚式が予定されましたが、文先生は2012年9月3日(陰暦7月17日)に満年齢92歳で聖和(死去)されたため、第3回目の成婚式は韓鶴子女史御独りで行われたのです。
 ところで、この三度に渡る成婚式にはどんな意味があったのか。文先生は、『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』の中で、創造本然の世界では「結婚初夜における愛の根は神様」であって、“愛の主人は神様” であるから、第一に人間の良心(生心と肉身の統一完成圏)、第二に愛(男と女の統一完成圏)、第三に神様(夫婦となった人間と神様の統一完成圏)が一つとなって「アダムとエバが結婚」すべきあることを文先生ご夫妻における愛の実績として、“神様の愛の実体” として顕現されようとされたのである。

図10
 ここで、要かなめとなるのが第二の “愛による男(夫)と女(妻)の統一完成圏” である。
 第一の “心身一体となった統一完成圏” とは、生心(主体)が肉心(対象)と一体となり、良心が完成した男性と女性の結婚が「蘇生の聖婚式」であり、この時、そこで結ばれた初愛は神の愛が根となって、夫婦は神の愛の対象となる(図10右)。

 最後に心情と原力について説明する。宇宙万物はいったん創造されたのちにも、絶えず神から一定の力を受けている。被造物はこの力を受けて個体間においても力を授受している。前者は縦的な力であり、後者は横的な力である。統一思想では前者を原力といい、後者を万有原力という。
 ところでこの原力も、実は原相内の授受作用、すなわち性相と形状の授受作用によって形成された新生体である。具体的にいえば、性相内の心情の衝動力と形状内の前エネルギー(Pre-Energy)との授受作用によって形成された新しい力が原力(Prime Force)である。その力が、万物に作用して、横的な万有原力(Universal Prime Forse)として現れて、万物相互間の授受作用を起こすのである。したがって万有原力は神の原力の延長なのである。
 万有原力が心情の衝動力と前エネルギーによって形成された原力の延長であるということは、宇宙内の万物相互間には、物理学的な力のみならず愛の力も作用していることを意味する。したがって人間が互いに愛し合うのは、そうしても、しなくても良いというような、恣意的なものではなく、人間ならば誰でも従わなくてはならない天道なのである。(『統一思想要綱』p57p58)

図11
 ところで、旧約聖書にある「命の息」(創世記2章7節)とは、神の本性相内の “心情の衝動力” と本形状内の “前エネルギー” が授受作用して「原力」となったものである。ここで注意しなければならないのは、「原力」には内的なものと外的なものがある。外的なエネルギーとしては、万物に作用するエネルギーとなることは勿論であるが、人間にとっての内的エネルギーとしては、授受作用によって愛の関係を構築するための力(心的エネルギー)、いわゆる『原理講論』でいうところの「生素」(図11:『原理講論』p86)である。
 神の本性相における “心情の衝動力” とは、理性と法則の授受作用によってロゴス(図2)として発動するエネルギーである。それ故に、「原力」としての心的エネルギーの結果となる “四大心情圏” による父母、夫婦、兄弟姉妹、子女における “家庭的四位基台” を構築するためには、そのための「秩序」となる法則性は必須条件である。

 こうしてエバは四大心情圏を、主人としてのアダムの四大愛に侍はべって伝授された立場に立って「長成の聖婚式」(2003年2月6日:陰暦1月6日)を迎え、その後は四大愛によって四位基台が確立された真の家庭の完成となって2013年1月13日(陰暦12月2日)に「完成の聖婚式」となるはずでした。

 ここで、四大心情圏と四大愛は、胸骨(又は脊椎)を中心に左右対称となった“アダムとエバを象徴するあばら骨”のようにならなけならず、そこでその要かなめとなるのが、カインとアベルの兄弟姉妹としての心情と愛である。因みに、あばら骨は、肺を保護する骨格である。肺は呼吸をする臓器である。死後の世界における霊界では、愛を呼吸して永遠に生きるとされている。

  b)1990年代は「長成の聖婚式」(2003年2月)以降の摂理準備となった象徴的摂理

 ところで、第三の「神人一体による統一完成圏」は、神を中心とした “四位基台を完成した真の家庭” を築いて言えることである。そこで、1989年の「八定式」以降から「長成の聖婚式」(2003年)までの摂理を見てみることにする。

図12
 神の復帰摂理を見てみると、遡って復帰基台摂理時代から「八定式」までは図12のようになる。
 復帰基台摂理時代から復帰摂理時代以前まで(『原理講論』p439〜p453)の時代は、“第1次女のカイン・アベル摂理” であるとも言える。この摂理は、ノアの妻の失敗をイサクの妻リベカが蕩減復帰して母子協助によって次子アベルの立場にあるヤコブを長子の立場に立たせた。ただし、ここで注意しなければならないのは、リベカの協助によってヤコブは長子としての立場を父イサクから公認されただけであって、実兄エサウからは公認できていないということである。その後、ヤコブは自らの信仰によって兄エサウからイサク家の長子であることを公認されたのである。
 次に、ヤコブの妾ラケルの失敗をタマルが蕩減復帰したことであるが、これはラケルの信仰基台の失敗を、ラケルに類似した立場を自らの信仰によって蕩減復帰して次子ペレヅを胎中聖別によって長子権を復帰したことある。その後、ユダヤ民族はベニヤミン(ラケルの次子)族からサウル王が誕生してイスラエル王国建設に向かったが、サウル王の不信仰によりイスラエル選民のユダ族であるダビデが王となって、ダビデが妾のように愛したバテシバの夫であるウリヤの死後、ばてしばを第二の妻(王妃)としてソロモンが誕生した。しかし、ソロモンの不信仰によってエルサレム神殿が崩壊されユダヤ民族はローマ帝国の属国となったのである。そのことによって、神の復帰摂理は氏族レベルに留まったが、イエスを迎えてユダヤ民族を結集させることによって “イスラエル王国” を再建しようとする神の復帰摂理が開始されたのである。
 しかし、この摂理も弟子たちの不信仰とユダヤ教徒らの迫害によって実体的なイエスの摂理は失敗に終わった。しかし、「復活」により “霊的真の父” となったイエスは、ローマの市民権を有した迫害者の中からユダヤ教徒であるサウロを探し出すと、サウロは回心によって「パウロ」と名乗り、イエスの福音によるローマ帝国の布教に専念したのです。そのことによって原始キリスト教は、民族的摂理からキリスト教国家建設に向けての摂理へと展開された。
 ところが、イエスの福音は信仰の支柱とはならず、16世紀から17世紀のヨーロッパに至っては “王権神授説” が掲げられるまでになり、このキリスト教の間違った信仰によってキリスト教は分裂と闘争を重ねた。これに対して、1517年にマルティン・ルターによって “宗教改革” の狼煙のろしが上げられたのである。
 最終的に、王権神授説を掲げたイギリスの絶対王政は、議会との激しい衝突を経てピューリタン(清教徒)革命(1642年)が起き、国王が処刑される事態となり、名誉革命(1688年)によって「国王は君臨するが統治せず」とした立憲君主制に行きついた。この様な情勢の中で、ピューリタンの中の “分離派” という小集団がオランダに亡命(1607年)し、信教の自由を求めてオランダから帆船メイフラワー号に乗って一路新大陸アメリカに向かった(1620年)。

  c)神はイエスにダビデの王座を与え、ヤコブの家を治め支配すると予告された

図13
 イエスの誕生と、その路程に関する摂理的問題点を考えると次のようになる。
 イエスの誕生前後には、天使ガブリエルにおける洗礼ヨハネの誕生の予告がザカリヤにあった(ルカによる福音書1章8節〜20節)。そこで、ザカリヤに子をヨハネと名付けることと、その子は「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせ、父の心を子に向けさせる為に、逆らう者に正しい人(キリスト)の(御言による)分別を持たせて、準備のできた民を主(神)のために用意する」(ルカによる福音書1章13節〜17節)使命を持って生まれることを告げた。そしてザカリヤは唖おしとなり、そのお告げをエリサベツには打ち明けることができずにいた。何故ザカリヤは唖おしとなったのか。それは、エリサベツがエバの堕落を蕩減復帰するザカリヤの正妻の立場に立つようになっていたからである。ザカリヤは、ヨハネのことについて口から言葉に出して言えなかったのである。口頭で預言として明かした(ルカによる福音書1章67節〜79節)のは、ヨハネの誕生後のことだった。
 ザカリヤの次に、マリヤに天使ガブリエルが現れ、イエスの誕生を予告した(ルカによる福音書1章26節〜38節)。マリヤは、妾としての再創造の立場に立場に立っているので、神の御言を受けることのできる立場となる。天使ガブリエルからは次のように予告された。「その子イエスは偉大な人になり、、いと高き子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださり、彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカによる福音書1章31節〜33節)と。
 そして、マリヤは急いでエリサベツの家を訪れ、ザカリヤのいる家へ入った(ルカによる福音書1章39節〜45節)。

  d)聖霊によるザカリヤを夫として迎えた正妻であるエリサベツと妾としてのマリヤの関係

 では、イエスの誕生とそれ以降、何の問題が原因となってイエスは十字架によって独身のままこの世を去ったのであろうか。それは、エリサベツは内心にマリヤを「怨讐」とする感情を膨らませながらヨハネを育んできたことによって、洗礼ヨハネはイエスとの再会(マタイによる福音書3章13節〜)を切っ掛けとしてイエスの言動を見聞きし、自らの心にイエスは「怨讐」であるという情念が沸き起こってきたのである。またそれと同時に、マリヤがイエス誕生に対する御言の理解と絶対的信仰を持ち得ず、夫ヨセフに対する人間的感情を優先させてイエスに対処して来たことの両者に起因する。

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカによる福音書1章39節〜45節)
 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。(ルカによる福音書1章56節)

 ところで、洗礼ヨハネの不信によってイエスを中心とする復帰摂理が失敗に終わった根本原因はどこにあるのだろうか。それを理解するには、聖霊役事によるイエスの誕生時と、その後のエリサベツとマリヤの相対的関係性の変化に注目しなければならない。
 そもそもエリサベツとマリヤは親戚関係(右図)である。ザカリヤをはじめ、エリサベツの父とマリヤの父(エリはヨセフの義父:ルカによる福音書3章23節)は兄弟で、エリサベツとマリヤは従姉妹いとこの関係となる。
 さて、イエス誕生における重要な聖句を示しておこう。それは、イエス誕生の予告となる次の箇所である。

 彼(イエス)は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。(ルカによる福音書1章33節)
 ここでは、イエスの誕生とヤコブの家族関係に密接な関係があることを示している。ここでエリサベツとマリヤの関係は、レアとラケルの関係と同位であることに気付く。ヤコブの願う子の誕生はラケルから誕生するヨセフであったが、ラケルの失敗によりヨセフは復帰摂理を歩む中心的人物とは成れなかった。それは、エリサベツにとってラケルはヤコブの愛の怨讐であり、ラケルは、ヤコブがラケルに 「あなたの胎に子どもをやどらせないのは神です。わたしが神に代わることができようか」 (創世記30章1節〜2節)と言った言葉の意味が理解できなかったことに起因する。ラケルは父ラバンが大切にしていたテラピムを盗み出し、その後も大切に所持していた。ラケルがそのことに気付いたときには時すでに遅く、その使命はタマルに引継がれたのである。しかし、タマルはラケルの立場と同位ではなく疑似的な立場に立って、アブラハム以来の神に対する信仰とその血統を命がけで愛し、胎中聖別を果たしたのである。
図14
 これと同様に、エリサベツがマリヤを「怨讐」として対し続けたことと、マリヤが天使ガブリエルが語った “イエス誕生にける御言を理解できずに軽視”(ルカによる福音書1章26節〜37節)した2点が原因となって、イエスと洗礼ヨハネの関係が壊れてイエスは結婚できず “女のカインとアベルによるエバの再創造摂理” ができなくなった(図14)。イエスの十字架によって神の復帰摂理は、キリスト教を通じたイエスの再臨摂理として迎えざるを得なかったのである。

図15
 ところで、エリサベツの胎中でヨハネがマリヤを “主のお母さま” として喜び踊ったのも、マリヤが妊娠してつわりのピークを過ぎる3か月間、マリヤが無事にエリサベツの家に同居できたのも、エリサベツとマリヤに対する聖霊役事の賜物である。このエリサベツとマリヤにおける善なる授受関係(図15)がその後も続けられていたなら、洗礼ヨハネも失敗せず、イエスも結婚出来てメシヤとしての使命を果たせていたのかもしれない。

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(マタイによる福音書1章18節〜25節)

 次第にマリヤのお腹も4か月を過ぎて大きくなると、婚約していたヨセフは世間体を気に掛け離縁しようと心に決めていた。そして突然、ヨセフの夢に主の天使が現れて、「その思いを踏み留めて、救い主として誕生するイエスの母となるマリヤを支えよ」と告げた。ところがヨセフは、イエスの誕生を見届けると、マリヤの心を自分に向けさせようとして夫婦の関係を築くようになり、イエスを遠ざけたため、イエスは “庶子” としての立場に留まることを余儀なくされたのである。

  e)文先生のエバを迎えた国家的摂理として復帰摂理が始まる(それ以前は復帰基台摂理時代となる)

図16(クリック拡大表示)
 図16�@の「八定式」は、1987年6月29日の韓国の「民主化宣言」を受けて、1988年に開催されたソウルオリンピックの翌年に文先生によって宣布された。
 この「八定式」の摂理的意味は、図12における縦横の八段階が設定され、文先生が摂理される国家から世界、天宙、神へ至る横的摂理。そして内的な実子、母から父、そして神が主管することのできる縦的世界の復帰完成へ向けた摂理の道が開けたこと(図12)にある。それは、「女カイン」として立つ “真のエバ” の前に、“真のアダム” の「御言」を条件物として “女アベル” が中心人物として立ったことによって、「女カイン」としての “真のエバ” の蕩減復帰によって “真の母” としての完成の道が開け、図12の縦的6段階の「母」、横的6段階の「世界」へ向けた摂理を準備することができる様になった。

図17
 その為、1989年9月1日に天父主義(図16�A)が制定され、1990年3月27日に「真の母」(図16�B)の勝利宣言が成された。そして、1990年4月30日に「真の父母」(図16�C)が宣布することができたのである。そして、1995年5月1日からの「第2次40年路程」(図16�G)を前にして1993年6月から1994年11月まで日本女性特別修練会(図16�F)、1995年1月には日本男性特別修練会と女アベルとしての修練会によって御言が語られた。
 これ等の事を踏まえて、日本はエバ国家から「母の国」(図16�J)へと引き上げられ、子女として継承する第4次アダム圏を迎えるにあたって1999年1月7日に「復帰摂理完了」が宣布され、2001年1月13日の「神様王権即位式」を成すことによって2003年2月6日に「長成の聖婚式」の日を迎えることができたのである。以後、“女のカインとアベルの一体化” による女カインの立場にある「真の母」は、“神を中心とした家庭的四位基台の完成” によって “再創造摂理圏における女アベル” となって、女カイン(母の国)の支柱となるべき(図17)だった。

  f)成れない女アベル(真の母)となり切れない女カインの「母の国」日本

 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記1章27節)

図18
 神は、本性相と本形状の統一体である。人間は神の “かたち” に似せて、男と女とに創造された。男は神の本性相に似せて心(主体)と体(対象)をもって創造され、女は神の本形状に似せて心と体をもって創造された(図18)。男と女は生長期間途上に夫婦として渾然こんぜん一体となり、完成して神の実体対象とならなければならなかった。神は人類の父母であられるように、人類始祖となるアダムとエバは神の似姿として夫婦となって子女を繁殖し、「家庭的四位基台」を完成させて「三大祝福」を成就した “神の喜びの実体対象” とならねばならなかった。しかし、人類始祖となるアダムとエバの堕落により、神は失ったアダムとエバを取り戻すために蕩減復帰摂理を成されたのである。

 神御自身においては、先に “本性相” が確立されて “本形状” が対ついとなったように、蕩減復帰摂理においても、神の本性相の実体対象となる「真のアダム」が復帰完成された上で、神の本形状の実体対象となる「真のエバ」における “カインとアベルの蕩減復帰完成” によって対ついとなる夫婦とならなければならない。しかし、堕落が不倫なる霊・肉の性関係による「不倫なる愛」によって成されたため、その蕩減復帰も不倫なる霊・肉による性関係によって元返されるということになる。その為に神は、“真のアダム” と霊的・肉的性関係を結ぶことのできる「正妻(カイン)」と「妾(アベル)」としての関係性をもって “蕩減復帰摂理” を仕組まれたのである。

 図17は “女のカイン・アベル蕩減復帰図” となるが、アベルは “「御言」を条件物” として摂理の “中心人物” となり、カインを “愛によって自然屈伏” させて「実体基台」とするところは “男の蕩減復帰原理” と全く同じである。しかし、ここで男と女のカインとアベルにおける蕩減復帰の原理的観点は何なのかを正確に理解することは特に重要である。

  g)「メシヤの為の基台」となる “男と女のカイン・アベルによる蕩減復帰” としての原理的観点

 『原理講論』には、カインとアベルによる蕩減復帰原理の目的とするのは、「メシヤの為の基台」を立てることであると記されている。

 メシヤは人類の真の父母として来られなければならない。彼が人類の真の父母として来られなければならない理由は、堕落した父母から生まれた人類を重生させ、その原罪を贖あがなってくださらなければならないからである。したがって、堕落人間が創造本然の人間に復帰するためには、「メシヤのための基台」を完成した基台の上でメシヤを迎え、原罪を取り除かなければならない。(『原理講論』p277)

 『原理講論』には、“メシヤ” は真の父母であると記されている。人類は堕落した父母から父母から生まれたのだから、堕落した人間の「重生」も父母によって成されなければならないというのである。この「重生」は、真の父母の “贖あがない” として成されるというのだが、ここで言う “贖あがない” とは「堕落人間における原罪の償つぐないを真の父母が代償して償つぐなう」ということを言うだ。つまり、“償う” ということは、「アダムとエバの犯した堕落行為を、“カインとアベルによる蕩減復帰” によって埋め合わせする」ということになる。ところで、人間始祖となるアダムとエバの堕落行為は、アダムとエバの双方によって成されたのであるから、その償いとなる “カインとアベルによる蕩減復帰も男と女の双方で” 成されなければならないという結論となる。

『 文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1 』


 1993年は成約時代の出発となった年であり、摂理的歩みにおいて真のお母様と日本女性との一体化が願われていました。お父様はこの修練会で、「真の自分を探しましょう」「蕩減復帰の峠を越えましょう」「真の父母と重生」「氏族メシヤ」「四大心情圏と三大王権」「現地の整備」と、個人・家庭として備えるべき要件と氏族メシヤとして立つための重要な内容を語っておられます。

『 文鮮明先生の日本語による御言集 特別編2 』


 16万人日本女性修練会に続き、1995年に韓国の中央修練院で「日本男性訪韓修練会」が開催され、テーマは「真の自分を探しましょう」と「蕩減復帰の峠を超えましょう」の2点のみとなりますが、真のお父様は日本男性に向けてさらに様々な観点から説明してくださいました。

 それではここで、その “償つぐない” を「真の父母が “代償だいしょう” する」とは如何なることをいうのであろうか。ここで述べられている “代償だいしょう” とは、「堕落人間に代わって “真の父母が償つぐなう” 」ことを意味するので、本来的にアダムとエバによる堕落行為の償いは、真のアダムと真のエバ双方が償った上で夫婦(完成の聖婚式)となり、人類の真の父母となって人類の重生が可能となるのである。
 従って、堕落人間の「重生」とは、“御言によって真の自分を見出みいだした男女が祝福結婚によって夫婦となり、神を中心とする四位基台を完成した真の父母との一体化によって原罪が清算され、神の真の子女として産み直される” ことをいう。

 以上のことを踏まえると、“日本女性(1993年〜1994年)と男性(1995年)に訪韓修練会で語られた文先生の御言” は極めて重要であと言わざるを得ない。

  h)怨讐関係を解く女アベル・カインによる一体化

 今からは、家庭における女たちが問題です。サタンを中心として、天使長を中心として、アベルの女とカインの女が闘うのです。そこにおいて、アベルはお姉さんではなく、妹です。しかし、サタン圏で生まれた順番からして、お姉さんは妹を絶対的に主管することができるので、これが問題です。原理原則によって主管されるような立場に立った妹が、お姉さんを自然屈伏させて、姉の立場を復帰しなければなりません。女もカイン・アベルと同じような立場で、復帰していかなければならないのです。
 そのような異なった姉妹関係の基台が、家庭なのです。ですから、家庭に正妻と妾めかけがいた場合には、喧嘩けんかして大変な問題になります。男性がもし妾をつくった場合、本妻が黙っているでしょうか? 「殺してしまえ」とか、「死ぬんだ」とか言って、家中が大変なことになってしまいます。しかし復帰路程は、正妻一人では行けないのです。妾と一つにならなければ、帰る道がありません。なぜかというと、堕落したために、神様の前に二つの流れの子女が生まれてきたからです。
 それは、カイン側のお母さんと子供と、それらを復帰していくアベル側のお母さんと子供という、二つの流れです。そのような子女が立つようになったのです。もし堕落しなかったならば、一つの流れだけです。堕落の結果、二つの流れになってしまいました。神様は、これを収拾しなければならないのです。
 そこで、いかに二つの流れを一つにするのでしょうか。サタン的な長子を中心として一つの流れにすれば、サタン的なものになってしまいますから、これを蕩減復帰していかなければなりません。妹が神側のアベルです。その妹を中心に立てて、姉が一つになることによって、神様が本来創造した絶対主体の立場の氏族圏が生まれるのです。サタン側の長女を立てた場合には、大変です。
 女性も、カイン・アベルの長子権復帰と同じように、姉と妹が家庭内で一人の旦那さんとの関係で喧嘩するようになるのですから、それを一つにしなければなりません。その重要な女の家庭的使命を果たして、外的カイン・アベル復帰とともに、内的問題の復帰をしていくのです。最後は姉妹関係を越えて、エバ個人の問題まで解決しなければならないのが、家庭における女たちの使命です。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編2』p305〜p306)
 妾として、妾の女を連れて神様のほうへ戻っていかなければなりません。そうなると、妾は本妻の怨讐、正妻の怨讐です。地獄にみな同じく入ろうとします。抱き合って転んで、そこに行こうというのです。大変なことです。復帰された家庭には、これをなだめて一つにならなければならないという、そういう内縁があることを知っているので、神様はそれを収拾するために、「怨讐を愛せよ」ということを発表せざるを得ませんでした。分かりましたか?(「はい」)。
 聖書の「怨讐を愛せよ」という話は何かというと、一家においては兄弟です。レア・ラケルと同じように、姉妹の関係で共に一つの愛の後孫を取り合って闘うようになっているのです。それを一つにしないと、天国に入れません。このような愛の怨讐圏が一家にかかっており、それを収拾しないといけないことを知っている神様は、遠い未来世界に向けて、「怨讐を愛せよ」ということを発表せざるを得なかったというのです。分かりましたか?(「はい」)。どんなに難しいことであっても、これを収拾せざるを得ないのが、女たちの十字架です。堕落した女は、蕩減復帰の道を逆さまに行く、この運命を避けることはできません。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p117〜p118)

図19
 そこで “女のカイン・アベルの蕩減復帰摂理” の目的となるのは、御言に裏付けられた真の愛の実体となる “真の母” としての復帰完成にあります。
 その為には先ず、真のアダムによって与えられた御言を条件物として、妾は正妻の “アベル(妹)” の立場に立たなくてはなりません。

 それ以前に、真のアダムの正妻となる真のエバは、夫となる真のアダムから、“父” の様な、また “兄(弟)” の様な、そして “息子” の様な四大心情圏における愛を受け、妻としては “母” のように、 また “姉(妹)” の様に、更には “娘” のように心情的喜びを返す四大心情圏体恤を条件として妾に対する “カイン(姉)” としての「真の母」の立場を復帰しておかなければなりません。
 その上で、「真の母」は “神の御言による真の愛の完成” に至らなければなりません。そのためには、どうしても “妾との怨讐関係の解消” は避けて通れないのです。
 「真の母」は、見えない神様である昼の神様(聖霊)の見える実体とならなければならないので、「怨讐」という感情概念を消し去らなければなりません。女のカイン・アベルには勿論のこと、男のカイン・アベルの根底にもこの「怨讐」が阻害要因となってカイン・アベル問題は解決しません。堕落からの復帰摂理圏においては、妾をアベルとしてカインとなる正妻が一体となれば、復帰後の再創造摂理圏においては、妾がカインとなり、正妻がアベルとなって、カインとアベルが逆転するのです(図19)。

  i)真の家庭完成と男性による愛の権威復帰

 父と息子、父子が一つになるときには、家庭はいくらでも築けます。息子の家庭も築け、父の家庭も築けます。父一人はだめです。息子一人でもだめです。息子がどうして父の家庭になれ、父がどうして強制的に息子の家庭になれるでしょうか? 父子が一つにならなければなりません。
 母子が一つになって復帰しましたよね? 今は父子が一つにならねばならないのです。「父子一体は万事能通」なのです。皆さんはこれから戻って祝福を受ければ、母親の言うことではなく、父親の言うことを聞かなければなりません。大きくなって母親の言うことを聞けば滅びます。雌の鶏が鳴くと何ですか? 家が栄えると言われていますか? 滅びると言われています。それでは雄の鶏が鳴くとどうですか? 反対ですから、雌の鶏が鳴けば滅びるならば、雄の鶏が鳴けば家が栄えるという意味ではないですか? 統一教会の信徒たちは、雄の鶏が鳴くのです。
 男性の権威を取り戻すのです。天使長ではありません。愛の権威を取り戻すのです。浮気をして妻に「こいつ、何だ!」と言われたり、顔を引っかかれて追っかけられる者ではありません。(「全体全般全権全能の日」宣布:1999年8月17日)
 旦那さんは天です。愛するときには旦那さんが上にいくのですか、女が上にいくのですか? 男でしょう。愛という尊いものを中心として関係を持つときには、男は上、女は下です。ですから、愛を中心とすれば、夫婦生活は、女が下になったほうが安全なのです。上になると転覆てんぷくするのです。基本的に、男から愛をもらおうとする際、愛は一番下へ流れていきます。空気と同じです。ですから旦那さんも、愛をもらうには奥さんに頭を下げないといけません。その愛がぐにゃぐにゃ曲がれば、死んでからも大変です。死んでも求めなければならないのが愛です。死ぬとしても、愛を曲げてはだめです。愛を失うようにしては駄目なのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p305〜p306)

図20
 こうした復帰摂理における “堕落の根幹” となる感情的な “男と女のカインとアベルによる怨讐関係” が最終的に解決されれば、「家庭的四位基台完成」によって親子間・兄弟間における本然的秩序が回復され、サタンが人間を「堕落人間」として “讒訴できる根本” が抹消され(蕩減復帰の峠を越え)て、「真の家庭」を出発点とする神の再創造摂理が2013年1月13日の「基元節」を起点として始まっていくはずだったのです。

 現実的には、1998年7月19日に米国ニューヨークのマンハッタンセンターで、文顯進様が世界平和統一家庭連合(1994年5月の名称変更による)の世界副会長に就任(当時の世界会長は郭錠煥氏。1996年〜1999年・2004年〜2008年)し、文先生の使命と権威を継承する長子として祝福され、文先生は「第4次アダム勝利圏のバトンを受け継ぐ」と語られた(『事必帰正』p143)。この様な基台が築かれた上で、2001年1月13日に「神様王権即位式」が成され、2003年2月6日の長成の聖婚式が可能となったのです。
 この神を中心とする三位基台の上で、2008年4月6日にあったハワイ儀式として特別な儀式が成されたのです。この行事で文先生は、顯進様と國進様を各々お母様(韓鶴子女史)の右側と左側に立てた(左図)後に祈祷をされ、「顯進様がカインであり、國進様はアベル」と語られました。この意味は、図20の “真の家庭完成” を模することであって、2013年の「基元節」までのはこの関係を現実的なものとしなければなりませんでした。しかし、文先生の語られた顯進様と國進様のカイン・アベルとしての意味合いを顯進様以外は正しく理解できず(『事必帰正』p197〜p198)、燻っていた対立関係が燃え上っていってしまったのです。

  j)真の愛の権威が立たず

 �@ み旨から見た時、神様を中心として母子協助を成すためには、父娘協助と夫婦協助が成され、次に母子協助が成されるのです。これが原則です。分かりますか。ですが、神様は逆に摂理してこられるのです。父親と母親の関係がないのに、母子関係があります。夫婦協助がある前に母子協助があり得ると思いますか。聖書を見てみると、今まで母子協助だけしてこられました。異常でしょう? 逆にしてきたというのです。(『神様の摂理から見た南北統一』p1080)
 そういう観点から見た場合に、神様の命令を受けてアダムがエバに命令すれば、それで下が完成するのです。�A エバはアダムの次に、カインと一つになればいいのです。アダムの指示する方向、コントロールする方向に、相対的に合わせていけばいいのです。母を中心として、長男と母が一つになった場合には、お父さんに聞かなくてもいいのです。家庭の規則がそうなっているなら、その規則を子供に言い聞かせ、母の言葉と一体となった場合には、それがお父さんとお母さんの話を聞いたのと同じことであり、それから神様の話を聞いたのと同じことになるというのです。分かりましたか?(「はい」)。便利なようになっています。ですから、カインがアベルを重視し、アベルとカインが一つになったら、主体・客体(対象)関係で収まるようになっていたのです。
 こういうことが、堕落したゆえに、みな怨讐になりました。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p114)

図21
 上記の赤下線�@にあるように、「母子協助」は神から神の娘となる真の母に “父娘協助”(図21�@)が成され、同時に神と一体となった真の父より “夫婦協助”(図21�A)が成される。この “父娘協助” と “夫婦協助” は、神と真の父が父子一体となるので、双方の向きが同一ります。その為、見えない “父娘協助” と見える “夫婦協助” が同一方向となって、真の母による長子に対する “母子協助”(図21�B)となって展開されることになる。このことを意味しているのが、赤下線�Aの御言となります。
 結果として、真の母による長子への“母子協助”によって、真の父による“父子協助”で長子へ真の愛が伝授され、真の愛による四位基台が実現され、神から真の父へ、真の父から長子への3段階完成することで真の愛の権威が男性の権威として完成される。これによって、これまでの “力を権威とする時代” から “愛を権威とする時代” へと移行され、神の摂理は真の愛による再創造摂理となるはずでした。

 しかしこれらの摂理が失敗することによって米国の国際的な影響力弱体化してリベラルな国際秩序に動揺が走り、中露をはじめとする専制国家による「力による現状変更」を伴う権威主義の復活が成され、国際社会はこれまでの「法の支配」から「大国間勢力圏拡大競争」へと世界秩序が大きく揺るがされる時代へと変貌してしまった。




4 イエスと再臨主の御言を中心とする祝福家庭

 �@) イエスが “真のアダム” として死守しなければならなかったこと

 第三のアダムによって、創造理想が地上で完成するとき、初めて、黙示録二一章1節以下のみ言ことばどおり、新しいエルサレムが天から下り、神の幕屋が、人と共にあるようになることを示されたのである。(『原理講論』p308)
 モーセが、再び四十日四十夜を断食したとき、神は彼の石板に再び十戒を記録してくださった(出エ三四・28)。モーセがこの石板をもって、再びイスラエル民族の前に現れたとき、初めて彼らはモーセを信じ、彼に仕えるようになって、契約の箱をつくり、幕屋を建設したのである(出エ三五〜四〇)。(『原理講論』p371〜p372)
 み言ことばを記録した二つの石板は、復帰したアダムとエバとの象徴体であって、将来、み言ことばの実体として来られるイエスと聖霊とを象徴したのであった。聖書にイエスを白い石で象徴し(黙二・17)、また、岩はキリストである(コリント�T一〇・4)と言われた理由はここにあるのである。このように、二つの石板はイエスと聖霊を象徴するために、結局これらはまた、天と地とを象徴することにもなるのである。
 つぎに、幕屋にはどういう意義があるのであろうか。イエスはエルサレムの神殿を自分の体に例えられた(ヨハネ二・21)。そしてまた、イエスを信じる信徒たちのことをも、神の宮であると言われたのである(コリント�T三・16)。それゆえに、神殿はイエスの形象的な表示体であるといわなければならない。モーセを中心とするイスラエル民族が、第一次カナン復帰に成功したならば、彼らはカナンの地に入ってすぐ神殿を建設し、メシヤを迎えることができる準備をするはずであった。ところが、彼らの不信により、第一次路程は出発することもできなかったのであり、第二次路程では、紅海を渡り荒野において流浪するようになったため、神殿を建設することができず、その代わりに、幕屋を建てたのである。それゆえに、幕屋はイエスの象徴的な表示体なのである。それゆえ、神がモーセに幕屋を建てるように命ずるとき、「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」(出エ二五・8)と言われたのである。(『原理講論』p372〜p373)

 『原理講論』には、ノアの家庭で放たれた3番目の鳩が戻らなかったこと(=新天地を迎えたこと)が、“第三のアダムによって創造理想が地上で完結する” ことの予示であると説かれている(『原理講論』p306〜p309)。
 では、“第三アダムによって創造理想が地上で完結する” ときとは、どの様なときのことをいうのであろうか。それは、“堕落によって失われた神の御言の実体となるアダムとエバを地上に取り戻したとき” のことをいうのである。それ故、「神の幕屋が人と共にある」ようになるのである。

図22
 ところで、『原理講論』では「幕屋」を“神の御言としての十戒を記録した2枚の石板を契約の箱(聖櫃:右図)に納めた神殿であるイエスの形象的な表示体の象徴体”でるとしている。
 ところで、契約の箱に納められていた2枚の石板は、復帰したアダムとエバとの象徴体であるから、


 �A) 洗礼ヨハネの失敗によるイエスの天使に対する主管性復帰と十字架

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、��霊�≠ノ導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(「マタイによる福音書」4章1節〜11節)
 人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。(「申命記」8章3節)
 あなたがたの神、主を試みてはならない。(「申命記」6章16節)
 あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。(「申命記」6章13節)

 

 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカによる福音書23章44節〜46節)

 


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