03. 三日行事と祝福2世
■ 三日行事は復帰摂理途上での “肉的重生と見做す”
1 『原理講論』の重生論と三位一体論
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ロゴスという言葉はギリシャ語で、み言、あるいは理法という意味をもっている。ヨハネ福音書一章1節以下を見ると、ロゴスは神の対象で、神と授受をなすような関係の位置をとっているという意味のことが書かれている。ところで、ロゴスの主体である神が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない。もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物(ヨハネ一・3)も、二性性相になっているはずがない。このようなロゴスの二性性相が、神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった。(『原理講論』p265)
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父母の愛がなくては、新たな命が生まれることはできない。それゆえ、我々がコリントT一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という。ところが、人間は霊肉共に堕落したので、なお、肉的重生を受けることによって、原罪を清算しなければならないのである。イエスは、人間の肉的重生による肉的救いのため、必然的に、再臨されるようになるのである。(『原理講論』p266)
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イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。したがって、イエスと聖霊は霊的重生の使命だけをなさっているので、信徒たちも、やはり、霊的な三位一体としてのみ復帰され、いまだ、霊的子女の立場にとどまっているのである。ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。このようにして、堕落人間が神を中心として創造本然の四位基台を造成すれば、そのとき初めて、神の三大祝福を完成した地上天国が復帰されるのである。(『原理講論』p268)
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@) ロゴスの二性性相とイエスと聖霊による霊的重生
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心情は神の性相の最も核心となる部分であって、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」である。(『統一思想要綱』p52)
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図1
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『原理講論』によると「神」は “心情(愛)の神” であるとされている。心情は、『統一思想要綱』によれば「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」とされている。心情の “目的” とするところは、「喜び」であって、「愛」をその “手段” としている。つまり、「心情」が情的衝動(動機)となって、愛の対象となる “相対” を愛することによって、その相対が主体の愛に対応する刺激(喜び)となって返ってくる。こうした愛の相対間における主体を中心とした授け・受けが成立し、双方が喜びとして一体となれば、無形の実体としてあられる「神」は心情において “唯一” であり、その目的においては “二世性相” の神として在られるのである。
それでは、次の聖書の使徒言行録9章の部分を参考にして「霊的重生」を見てみることにする。
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さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに進行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(使徒言行録9章1節〜9節)
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すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」(使徒言行録9章11節〜12節)
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すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起して洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。(使徒言行録9章15節〜19節)
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サウロは、シリアのダマスコの町にイエスの弟子が大勢いることを耳にして、大祭司から委任状をもらって、ダマスコに駆けつけました。ダマスコは、エルサレムから北へ230キロ程下った、アバナ川の畔の町で、昔から多くのユダヤ人が住んでいて、ユダヤ教の会堂があった町である。
サウロは、数人の部下を連れてエルサレムを出発し、目指すダマスコを目前にしていた。すると突然、サウロは強烈な光を浴びて、自分に呼びかける力強い声を聞いた。サウロは何も見えなくなり、その言葉に驚き、身悶えしながら盲目となった自らを通り沿いのユダの家に落ち着かせ、三日の間断食し、一心に祈りながら自分の身に起こったことを自問し続けた。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのすべきことが知らされる」と言うイエスの言葉が、サウロにとってあまりにも強烈すぎたからである。
アナニアは、主の命令に驚きを禁じ得なかったが、意を決してサウロを訪ねて行き、主の指示通りに行うと、サウロが幻で見た通りのことが起きた。アナニアは、サウロが主の選びの人物であることを微塵も疑わずに、主の言葉に絶対的に従い、サウロにそれを施した。同時に、サウロにとっては三日の間自問し続けた疑問に明確な答えが “光” となって目に飛び込んで来たのである。この時、サウロは “「聖霊」によって感動に満たされ”、元どおりになった目からうろこのように涙が溢れ、洗礼を受けるに至ったのである。
このサウロに起きた一連の出来事は、正しく「霊的重生」の典型的な出来事であると言える。迫害者サウロは、イエスの御言が回心に向かう切っ掛けとなり、その御言に対してサウロ自身が自問し、聖霊によって感動を受けることによって霊的自我としての絶対信仰が芽生えたのである(図1)。
この事によって、聖霊はサウロに「感動」という “霊的なエネルギー” によって、サウロをイエスの御言に対する絶対的な信仰へと向かわしめた。“霊的真の父” となるイエスの相対的立場に立って “霊的真の母” としての役割を果たすべき迫害者をも愛する “真の愛” の実体として顕現された のである。
A) ロゴスにおける心情と愛
終わりに、ロゴスと心情と愛の関係について述べる。すでに明らかにしたように、ロゴスは言または構想であると同時に理法である。ところで言(構想)と理法は別のものではない。言の中にその一部として理法が含まれているのである。あたかも生物を扱う生物学の中にその一分科として生理学が含まれているのと同じである。すなわち生物学は解剖学、生化学、生態学、発生学、分析学、生理学など、いろいろな分科に分類されるが、その中の一分科が生理学であるように、創造に関する神の無限なる量と種類を内容とする言の中の小さな一部分が理法なのであり、それは言の中の万物の相互作用または相互関係の基準に関する部分なのである。
言と理法は別個のものではないばかりでなく、言の土台となっている心情は、同時に理法の土台になっている。あたかも有機体の現象の研究が生物学のすべての分科に共通であるように、創造における神の心情が構想と理法の共通基盤となっているのである。
心情は愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動である。心情が創造において言と理法の土台となっているということは、被造物全体の構造、存在、変化、運動、発展など、すべての現象が、愛の衝動によって支えられていることを意味する。したがって自然法則であれ、価値法則であれ、必ずその背後に愛が作用しており、また作用しなければならない。一般的に自然法則は物理化学的な法則だけであると理解されているが、それは不完全な理解であって、必ずそこには、たとえそれぞれ次元は異なるとしても、愛が作用しているのである。人間相互間の価値法則(規範)には、愛がより顕著に作用しなければならないのは言うまでもない。(『統一思想要綱』p65〜p66)
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図2
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人間始祖であったアダムとエバが堕落によって失ったものは、真の愛であったが、それはロゴスに基づいたものであると言える。ロゴス(理法)は、理性と法則の統一体である。
「理性」とは、感情や欲望に流されず、物事の道理や筋道に従って客観的かつ論理的に考え、正しく判断する能力のことを言う。これに対して「法則」とは、特定の条件のもとで必ず成立する不変の原則や規則のことである。
この理性(内的性相)と法則(内的形状)が統一されたロゴス(理法)は “神の心” においてイメージ化された構想が「言」(ヨハネ福音書1章1節〜2節)となったものである(本性相)。この「言」は神の心情より発せられているので、「言」として表現された “神の心(本性相)” の目的は「愛することによって喜びを得る」ことになる(図2)。この場合、本形状となるのは “心的なエネルギー”(『統一思想要綱』p35〜p36)であり、本性相と本形状の両者はいずれも心的要素とエネルギー的要素をもっていて、本性相は心的要素が多く、本形状はエネルギー的要素が多いとされる。本然の人間の心(性相)と体(形状)も、神の本性相と本形状に似せて創造されていることは勿論のことである。
B) “失った愛と御言を元返しする” という意味での「肉的重生」
神は霊的部分と肉的部分をもって、人間を創造されたがゆえに、堕落においても霊肉両面の堕落が成立した。天使とエバとの血縁関係による堕落が霊的堕落であり、エバとアダムとの血縁関係による堕落が肉的堕落である。
では、天使と人間との間に、いかにして性的関係が成立するのであろうか。人間と霊的存在との間における感性は、いかなる点においても、実体的な存在の間における感性と、少しも異なるところがない。したがって、人間と天使との性的堕落は事実上可能なのである。(『原理講論』p107〜p108)
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人間始祖アダムとエバの堕落は、霊的堕落(第一の堕落)によって肉的堕落(第二の堕落)が生じた。霊的堕落は、“エバの初愛” がルーシェルの “偽りの言として結実” し、肉的堕落は、エバのアダムへの愛が “偽りの愛” となってアダムを堕落させ、“アダムから神の御言を失わせてしまった” ことにアダムとエバの堕落の本質がある。簡潔に言えば、エバの “偽りの愛” によってアダムが “神の御言” を失ってしまったと言うことができる。この失った愛と御言を “元返し” するというのが「霊肉重生」の真意となる。そこで、図3より次のように言える。
図3
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先ず霊的堕落が起こり、次に肉的堕落が生じたのであるから、その “元返し” となるのも霊的重生を経て肉的重生へ至らなければならない。そこで、先に “霊的堕落を元返し” するには、エバが “真のアダム” による “神の御言” を中心として、“天使長の立場に立つ夫” と “初愛の関係” を結ばなければならない。
次に、“真のアダム” との間で “真の愛” の関係を築いた “真のエバ” がエバと心情一体となることによって、エバが夫となる “アダムを愛する” ことによって、“アダムが失った神の御言を取り戻す” ことに務めなければなりません。
こうして、“神の御言” による “真の愛” を失ったアダムとエバが、それを “元返し” して堕落前の本然の立場に立つ夫婦となって “真の愛の関係” を結ぶことが蕩減復帰原理としての最も重要な観点となる。
次に、以上のことを踏まえた上で、“四大心情圏” を簡単に含めて「三日行事」をみてみよう。
2 なぜ「三日行事」によって無原罪の子女の誕生が可能となるのか
@) 1日目
図4
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先ず、エバを通じて天使長の立場にある堕落した夫を “蘇生期の無原罪アダム” として “霊的重生” しなければならない。
『原理講論』(p266)によると、霊的真の父母の愛による重生が “霊的重生” であり、実存される真の父母の愛による重生が “肉的重生” となる。
そこで、図1と図4を見比べてみよう。図1では、霊的イエスが “真のアダム”、聖霊が実在するエバとなっている。図4ではどちらも実在する存在とはなっているが、エバは “真のアダム”(真の父)の妻としての代役を担っているだけで “真のエバ”(真の母)の立場ではない。またエバは信仰だけで “真のアダム” の相対的立場を担っているので、堕落した夫の立場にある天使長から見るならば、天使長は「霊的重生」されるべき立場となる。
以上のことから、「三日行事」の1日目は、エバは自身の信仰によって “真のアダム” の御言に敵う真の愛の対象となって、天使長の立場にある夫を “初愛” として愛することが蕩減復帰上において可能となる。この事によって、天使長の立場にある夫は、エバの愛を通じて “真のアダム” に対する信仰を取り戻し、“真のアダム” の御言の対象としての立場を復帰して、「蘇生期の無原罪アダム」として神の愛の対象としての立場に立つことができる。
A) 2日目
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@ 四大心情圏とは、父母の心情、夫婦の心情、兄弟姉妹の心情、子女の心情の四つの心情をいう。心情は愛と表裏一体であるために、四大心情はまさに四大愛を意味する。すなわち父母の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛の四つの愛を意味するのである。(『統一思想要綱』p734〜p735)
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文先生は A 愛も成長するといわれる。すなわち、人間が子供から成長していくにつれて、愛も成長していくのである。(『統一思想要綱』p735)
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四大心情圏の体恤を通して反対の方向に行かないと、天国に入る道がありません。そういう原則があるから、君たちも女として、先生に会った場合には、先生が嫌いではないのです。みんな先生が、双子の兄さんみたいになるのです。それから、自分の旦那さんみたいなのです。ですから、お母様は姉さんであり、君たちは妹です。お母様の分身にならなければなりません。お母様が、そういう四大心情圏を体恤し、勝利した代表として立っているのだから、お母様の分身にならなければ、復帰ができません。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p290〜p291)
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図5
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さて、「三日行事」の2日目は、“真の父母” の直接的愛によって “肉的重生” されるのではなく、アダムのエバによる間接的な “肉的重生” といっても過言ではない。その原理的内容は、図5に示す通りである。
“真のアダム” の妻となる “真のエバ” は、夫である “真のアダム” の四大心情圏による四大愛に “侍る” ことによって、四大心情圏を “体恤” した “真の母” に至り、エバによるアダムの “肉的重生” が可能となるのです。その為には、“真のエバ” とエバが四大心情圏において一体化しなければならない。
ここで心情圏とは、心情の対象の範囲のことをいう。例えば、文化圏といえば、一つの文化の範囲のことであり、勢力圏といえば、勢力が及ぶ範囲をいうのである。したがって心情圏とは、心情の対象の範囲、すなわち愛の対象の範囲のことをいう。心情は愛したい情的な衝動であるために、その衝動は必ず行動となって現れるようになっているが、その時の行動がすなわち愛である。それゆえ、心情と愛は表裏一体の関係にある。したがって、心情の対象の範囲とは、愛の対象の範囲となるのである。
四大心情とは、父母の心情、夫婦の心情、兄弟姉妹の心情、子女の心情の四つの心情をいう。(『統一思想要綱』p734)
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四大心情または四大愛を正確に理解するためには、愛の方向性すなわち縦的な愛と横的な愛に対する理解が必要である。B 縦的な愛とは下向性の愛、すなわち上から下に向かう愛をいうのであり、神の人間に対する愛、父母の子女に対する愛をいうのである。横的な愛は、横に向かう愛のことで、兄弟姉妹間の愛や夫婦間の愛をいうのである。ここで兄弟姉妹間の愛とは、兄弟同士の愛と姉妹同士の愛、および兄弟と姉妹の間の愛をいう。そして父母の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛は、みな家庭で行われる愛であるために、これらは家庭的愛となるのである。
ところで父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の三つの愛を、原理では「三対象の愛」というのである。したがって、四大心情を基盤とする四大愛は、三対象の愛に兄弟姉妹の愛を加えたものである。(『統一思想要綱』p735)
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C 主体と対象の間においてのみ授受作用が行われる。すなわち格位の差がある所に授受作用が行われる。言い換えれば、二つの要素または個体が同格の場合は授受作用が行われず、むしろ反発が起こりやすいのである。陽電気と陽電気の間に行われる反発がその例である。(『統一思想要綱』p84)
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図6
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“真のアダム” と “真のエバ”、“真のエバ” とエバを四大心情圏と四大愛の関係性から見れば、“真のアダム” と “真のエバ” は “夫婦の心情(愛)” の関係であり、“真のエバ” とエバは “姉妹の心情(愛)” の関係となる。それを前提として、“真のエバ” とエバが “姉妹の心情(愛)” の関係を築いて一体(赤下線C)となれば、“真のアダム” の愛は “真の母” となり得た “真のエバ” を通じてエバ(赤下線B)に至れる。このことによって、エバは結婚を前提とする “成人エバ” となることが出来て、「肉的重生」が成されたことになる(図6)。
その上で、エバが “蘇生期の無原罪アダム” を愛せば、アダムも “真のアダム” による四大心情圏を備えたエバの愛によって、堕落によって失った心情圏を取り戻し、エバに対する愛の主体者としての立場を復帰できる “成人アダム” としての位置が可能となる。
B) 3日目
a)「三日行事」の本来的目的
図7
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「三日行事」の3日目は、2日目の「長成期完成級のアダム(成人アダム)」と「堕落前の真のエバ(成人エバ)」との、“真の父母” に由来する “真の愛” によって “成人アダム(主体)” と “成人エバ(対象)” として蕩減復帰された男女の結婚初夜を象徴している。これを通じて堕落したアダムとエバが、“真の父母” による “真の愛” によって完全に蕩減復帰された立場に立って性的関係を結ぶことで、天使長ルーシェルによって始まった「霊的堕落」と「肉的堕落」は無に帰することになる。
この事によって、神による人間再創造の摂理が具体的に展開すると同時に、霊界における全ての霊人達も、地上に再臨協助して完全復活することが可能となるのである(『原理講論』前編 第五章 復活論 第二節(三)霊人に対する復活摂理:p224〜p230)。
以上で、「三日行事」の内容を纏めると、図7のようになる。
「三日行事」の1日目は、エバが “真のアダム” の “妻” となる立場(堕落前の真のエバ)に立って、“天使長の立場にある夫” の母の立場ともなって、夫を“蘇生期の無原罪アダム”に蕩減復帰する(図4の「霊的重生」)。これは、堕落したアダムを神の長子として復帰したことになる
次の2日目は、“真の父”(真のアダム)と完全に一体となった “真の母”(真のエバ)と、四大心情圏において一体となったエバが “成人エバ”(図6の「肉的重生」)となって、エバの四大心情圏による四大愛によって “蘇生期にあったアダムを長成期完成級の成人アダム” として復帰して、エバの愛の相対圏に立てる内容である。
そこで3日目は、アダムを主体の立場に立てて愛の関係を結ぶことで、アダムに愛による主管性を復帰させることによって、アダムが “真の夫” として愛における中心的立場を確立することにある。
以上のことから、3日目の主目的はイエスのような無原罪の子女の誕生にあるのではなく、アダム(男子)とエバ(女子)がイエスのような無原罪の子女を誕生させることを可能とできる “真の愛” を中心とした夫婦となることが「三日行事」の真の目的である。
b)祝福2世は無原罪の立場での誕生となるが何が問題なのか
図8
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四大心情圏は、“父母の心情”、“夫婦の心情”、“兄弟姉妹の心情”、“子女の心情” の四つの心情をいう(赤下線@)。また、「愛も成長する」(赤下線A)ということは「四大心情圏も成長する」ということなので、「真の父母」ともなれば、“子女の心情” から “父母の心情” へと成長完成した “父母の愛” としての「真の愛」によって信徒たちの重生が可能となるのである。
これに対して信徒は、「真の父母」の “父母の愛を体恤” した上で、自ずと “子女の心情” から “兄弟姉妹の心情”、“夫婦の心情” へと成長させて、“長成期完成級の成人アダム” と “堕落前の真の成人エバ” の立場に立って夫婦となる(図7右)ということが「三日行事」に黙示されている。それ故に、「三日行事」後の夫婦においては、自らの成長期間の完成期を、“真の父母” と共に歩み、“四大心情圏による四大愛を完成” させる目的が残されていることになる。
こうした夫婦によって誕生した祝福2世は、理論上は “無原罪で誕生した子女” となるが、その子女を産み育てる父母は「真の父母」に “侍って自らを完成” させなければならなず、その子女もまた “その完成された父母に侍って自らを完成” させなければならない。言うなれば「三日行事」とは、神の愛を「命の息」(前ページ図8)として受け入れられた “真のアダム” の四大心情圏を、カイン(正妻)となる “真のエバ” からアベル(妾)となって内包していたエバの四大心情圏に接ぎ木することによって、エバの四大心情圏に「命の息」を吹き込む復帰摂理途上における摂理完成として見做した上での「接ぎ木による重生」であると言える。
なお、「命の息」(前ページ図8:創世記2章7節)は、神の本性相における心情が、本形状(聖霊)において “心的エネルギー” として発せられたものである。そしてこれは、イエスを迫害したサウロを回心させた聖霊による “霊的なエネルギー” であるともいえる。
C) 「三日行事」の要となる女のカイン・アベルと真の愛
a)三段階の結婚式によって完成する神の創造目的
こう見た場合に、結局夫婦というものは、真の愛を中心としていえば、第一に統一完成圏、第二統一、第三統一です。これ(第一)は何かというと、心身一体です。分かりますか? 心身一体とは、真の愛を中心として心と体が一つにならなければならないということです。偽りの愛によって心と体が紛争するようになったのを蕩減復帰して、真の愛を中心として心と体が一つにならなければ、元の基準に返った立場ではないので、天国に入ることができません。分かりましたか?
そういう真の(愛の)第一統一完成体たる男と女が、夫婦になって一つになるのが、第二統一完成体です。分かりましたか?(「はい」)。第二に、夫婦が一つになったとすれば、見えない神様の形状と性相が一つになったのと同じように、実体的に引き出して、男は本性相的男性の実体、女は本形状的女性の実体として、見えない神様が、見える実体圏となるのです。それはプラス・マイナスであり、例えば心と体と同じように、無形の神様と、神様の見える実体の、性相・形状一体圏です。分かりましたか?(「はい」)。
心身が一つになって、夫婦が一つになって、三番目には、見えない性相・形状の実体が、見える実体の性相・形状として、心と体と同じように一つになるのです。それは、真の愛によってです。ですから、結婚初夜における愛の根は、神様です。愛の主人は神様なので、良心と愛と神様が一つになって、アダム・エバが結婚するのです。分かりましたか? 神様と(一つになるの)は縦的結婚式であり、アダム・エバの結婚式は横的結婚式になるので、縦的が横的よりも先に立つのです。
結婚初夜の夫婦関係の瞬間において、男が完成し、女も完成します。男と女、半分だったものが一つになるのです。半分ずつが、こういうふうに分かれて、また合うのです。神様において一つであった、無形なる性相が実体化して、分割されて、性相は男として、形状は女として大きくなって、二人がここで一つになるのです。そうなった場合には、無形の神様において、性相と形状が一体であったのと同じように、実体的一体になるのです。ですから、アダムとエバの結婚式は横的結婚式であるとともに、神様とアダム・エバが結婚する一体圏は縦的結婚です。先に縦的が始まって、横的がつながるようになるのです。分かりましたか?(「はい」)。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p88〜p90)
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図9
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文先生は、真のアダムとして真のエバとなる韓鶴子女史と1960年4月11日(陰暦3月16日)に第1回目の聖婚式が挙行され、次いで2003年2月6日(陰暦1月6日)には第2回目の成婚式が成されました。そして、2013年の1月13日(陰暦12月2日)の「基元節」となる日に第3回目の成婚式が予定されましたが、文先生は2012年9月3日(陰暦7月17日)に満年齢92歳で聖和(死去)されたため、第3回目の成婚式は韓鶴子女史御独りで行われたのです。
ところで、この三度に渡る成婚式にはどんな意味があったのか。文先生は、『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』の中で、創造本然の世界では「結婚初夜における愛の根は神様」であって、“愛の主人は神様” であるから、第一に人間の良心(生心と肉身の統一完成圏)、第二に愛(男と女の統一完成圏)、第三に神様(夫婦となった人間と神様の統一完成圏)が一つとなって「アダムとエバが結婚」すべきあることを文先生ご夫妻における愛の実績として、“神様の愛の実体” として顕現されようとされたのである。
図10
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b)イエスの受胎時に見られた、聖霊の働きによるマリヤとエリサベツの一体化
図11
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c)文先生のエバを迎えた国家的摂理として復帰摂理が始まる(それ以前は復帰基台摂理時代となる)
図12
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d)成り切れない女アベルとな成れない女カイン
さて、真のエバとしての韓鶴子女史は、一人っ子としてのみ育てられ結婚に至ったため、四大心情圏においては一つの難しい心情があります。それは、言うまでもなく兄弟姉妹に対する心情と愛である。
今からは、家庭における女たちが問題です。サタンを中心として、天使長を中心として、アベルの女とカインの女が闘うのです。そこにおいて、アベルはお姉さんではなく、妹です。しかし、サタン圏で生まれた順番からして、お姉さんは妹を絶対的に主管することができるので、これが問題です。原理原則によって主管されるような立場に立った妹が、お姉さんを自然屈伏させて、姉の立場を復帰しなければなりません。女もカイン・アベルと同じような立場で、復帰していかなければならないのです。
そのような異なった姉妹関係の基台が、家庭なのです。ですから、家庭に正妻と妾がいた場合には、喧嘩して大変な問題になります。男性がもし妾をつくった場合、本妻が黙っているでしょうか? 「殺してしまえ」とか、「死ぬんだ」とか言って、家中が大変なことになってしまいます。しかし復帰路程は、正妻一人では行けないのです。妾と一つにならなければ、帰る道がありません。なぜかというと、堕落したために、神様の前に二つの流れの子女が生まれてきたからです。
それは、カイン側のお母さんと子供と、それらを復帰していくアベル側のお母さんと子供という、二つの流れです。そのような子女が立つようになったのです。もし堕落しなかったならば、一つの流れだけです。堕落の結果、二つの流れになってしまいました。神様は、これを収拾しなければならないのです。
そこで、いかに二つの流れを一つにするのでしょうか。サタン的な長子を中心として一つの流れにすれば、サタン的なものになってしまいますから、これを蕩減復帰していかなければなりません。妹が神側のアベルです。その妹を中心に立てて、姉が一つになることによって、神様が本来創造した絶対主体の立場の氏族圏が生まれるのです。サタン側の長女を立てた場合には、大変です。
女性も、カイン・アベルの長子権復帰と同じように、姉と妹が家庭内で一人の旦那さんとの関係で喧嘩するようになるのですから、それを一つにしなければなりません。その重要な女の家庭的使命を果たして、外的カイン・アベル復帰とともに、内的問題の復帰をしていくのです。最後は姉妹関係を越えて、エバ個人の問題まで解決しなければならないのが、家庭における女たちの使命です。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編2』p305〜p306)
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図13
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3 イエス家庭と祝福家庭における2世
@) エリサベツの怨讐となったマリヤと庶子としてのイエス
図14
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A) 洗礼ヨハネの失敗によるイエスの天使に対する主管性復帰と十字架
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さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊≠ノ導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(「マタイによる福音書」4章1節〜11節)
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人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。(「申命記」8章3節)
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あなたがたの神、主を試みてはならない。(「申命記」6章16節)
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あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。(「申命記」6章13節)
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・ 聖パウロの回心
・「三日行事」とその意義(PDF)
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