復帰摂理歴史の真実
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■ 第三部 第三章 
 第二節 中国の国共合作


1. 民族対立が結びつけた中国とソ連
 (1) 孫文による中ソの連結
  @ 孫文の第1次国共合作と蔣介石
 蔣介石(1887年10月31日〜1975年4月5日:左図)は、現在の浙江省寧波市奉化区の出身とされ、当時は孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国(1912年〜1949年)の統一を果たして同国の最高指導者となった。しかし、1946年に国共内戦に突入し、1949年には毛沢東率いる中国共産党に敗れて日中戦争後に接収していた台湾へ移り、1975年に死去するまで大陸支配を回復することなく同国の元首たる総統の地位にあった。

    (@) 根となる満洲民族と漢民族の対立
 満洲民族は中国東北部に興り、漢族王朝の北宋を滅ぼしきん王朝(右図)を建国して満洲(中国東北部)から中国北半にかけての地域を支配すると、タングートの西夏を服属させて中国南半の南宋と対峙した女真(ジュシェン)族の征服王朝である。清国は1636年に満洲に建国され、漢民族を征圧し1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝である。清朝旗人きじんは、満洲民族の末裔である。「満洲」の漢字は満洲語の民族名で、現在の日本では一般に「満州」と表記する。
 日本が日清戦争に勝利して、日露戦争を経ての満州国(1932年〜1945年)を建国は、中華民国の日本に対する風向きを180度転換させたのである。何故なら、漢民族にとっての満州国は、日本が金王朝を再建した様な印象を与えたからである。

    (A) 孫文と国民党
 孫文(1866年11月12日〜1925年3月12日:左図)は、中華民国では中国最初の共和制の創始者として「国父」と呼ばれた。現在の広東省中山市の農家の生まれで、父は孫達成、母は楊氏であり、5番目の子として生まれた。兄2人姉2人がいたが兄と姉1人ずつは幼くして亡くなり、孫文が生まれた時は父親は53歳、母親は38歳であった。当時のハワイ王国に出稼ぎで渡っていた兄からの支援を得て、1878年に母と共にオアフ島ホノルルに移住した。後に西洋思想(特にキリスト教)に目覚め傾注する孫文を母と兄が心配し、1883年に中国に戻された。帰国後は、イギリスの植民地である香港で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地であるマカオで医師として開業した。
 清仏戦争(1884年8月〜1885年4月)のころから政治問題に関心を抱き、1894年11月にハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫して日本に亡命した。1897年、宮崎滔天みやざきとうてんの紹介によって政治団体玄洋社げんようしゃ頭山満とうやまみつると出会い、頭山を通じて平岡浩太郎ひらおかこうたろうから東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。
 1899年、義和団の乱が発生。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。後に、孫文はアメリカを経てイギリスに渡り、革命資金を集めるため世界中を巡っていた。1905年にヨーロッパから帰国をすると、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて中国同盟会を結成し、長い間に渡って満洲民族に支配されていた漢民族の孫文は、このとき東京に留学中であった同じ漢民族としての蔣介石に出会う。
 1911年10月10日に清の湖北省武昌で兵士が反乱(武昌起義)を起こし、辛亥革命(1911年〜1912年)の幕開けとなった。 当時、孫文はアメリカにいたが、これによって独立した各省は黎元洪を首班とする武昌団体と上海都督陳其美江蘇都督程徳全が代表する上海団体に分かれ、革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争った。12月25日、フランスのマルセイユより孫文が上海に帰国すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂した。そして、翌年の1912年1月1日には、孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府(1924年〜1926年)が南京に成立したのである。
 1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である国民党(北京)が宋教仁を総理とした。宣統せんとう(中華圏最後の皇帝)の退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱えんせいがいは自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた。これに伴い、1914年に孫文は中華革命党を組織し、袁世凱打倒を目指した。袁世凱は議会解散を強行し、1915年には共和制を廃止すると、帝政を復活させて自らが中華帝国の皇帝に即位しようとした。しかし、翌年には袁世凱は病死して、段祺瑞だんきずいが後継者となった。
 このころ、各地では地方軍人による独自政権が樹立され、軍閥時代(1916年〜1928年)を迎えた。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年には広州で広東軍政府を樹立するが失敗に終わり、また、第二次護法運動では中華民国正式政府を成立させたが失敗し蔣介石や陳策らと共に広州を脱出すると、孫文は一時的に再び日本へ亡命した。

    (B) 国共合作による革命軍の創設
 日本は、イギリスとの日英同盟を口実に、1914年8月に第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)に参戦すると、青島チンタオのドイツ基地を攻撃し南洋諸島を占領した。1915年には中国政府に対し対華21カ条要求を提出したことで、第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で抗日愛国運動5・4運動)が盛り上がった。
 この運動以降、1919年10月10日に孫文は中華革命党を改組して中国国民党(上海)を結党すると、ロシア革命の影響を受けて急速にソヴィエト政権に接近する。契機となったのは、ヴェルサイユ条約で欧米列強が中国の主張を無視したのに対し、ソヴィエト政権がカラハン宣言を出して旧ロシア帝国の中国での利権の放棄を宣言したことだった。その後、ソ連は盛んに孫文に働きかけ、ソ連の正式代表アドリフ・ヨッフェとの間で1923年1月26日、孫文・ヨッフェ共同宣言を出し、「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全なる独立にあり、ソ連はこの大事業に対して熱烈な共感をもって援助する」との共同宣言を発した。その後、コミンテルン代表と孫文、中国共産党の協議が深められ、孫文はソ連の援助を受けるとともに共産党員を国民党に受け入れる国民党の改組に同意した。
 孫文は、中国国民党一全大会(広州)で掲げた、ソ連と連帯し、共産主義を容認し、労働者・農民の戦いを助けよう連ソ・容共・労農扶助)という第1次国共合作の三大政策を掲げたのであるが、必ずしも社会主義やマルクス主義を採用したわけではなく、自身の理念としては三民主義を堅持していた。また、軍政・訓政・憲政という独自の三段階革命論を持っており、ボリシェヴィキ的な暴力革命や、一気に議会政治を実現する考えはなかった。自らが指導した辛亥革命において結局は袁世凱の軍閥権力に敗れてしまったことを反省し、革命には武力が必要なこと、必要な武力を得るには、経済的基盤のない国民党のみでは不可能であると考え、ロシア革命の成功に倣った革命軍の創設を目指し、その手本として、また実際的な資金、武器の援助を期待してソ連および共産党と手を結ぶこと踏み切ったのである。

    (C) 孫文の死と蔣介石による国共合作の崩壊
 孫文は肝臓癌を患い、1925年3月12日に療養先の北京で客死し、南京市に葬られた。孫文没後の国民党は混迷の一途をたどり、上海で発生した五・三〇事件(1925年5月30日)を背景にして、1925年7月1日には汪兆銘おうちょうめい(1883年5月4日〜1944年11月10日)を主席とした国共合作の広州国民政府(1925年〜1926年)が成立した。国民革命軍が組織され、蔣介石が最高指揮官に就任すると孫文の遺言でもあった北伐を開始する。しかし、1927年の蔣介石の上海クーデターによって国共合作は崩壊するが、国民党は北伐を継続し、1928年6月9日には北京に入城すると北京政府を倒すことに成功した。



  @ 蔣介石の第2次国共合作
    (@) 摂理としての満洲建国
 1904年から1905年にかけて起こった日露戦争は、ロシア(当時はロシア帝国)の南下政策にともなう日露の朝鮮半島に対する権益権行使の問題に端を発した。日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約長春以南の鉄道と付属の利権などを手にし、満蒙への足がかりをつくった。以後、日本はロシアとのあいだで4次にわたる日露協約(1907年7月30日〜1916年7月3日)が締結された。秘密条項では、日本がロシアの外モンゴルにおける権益を認め、ロシアは日本の朝鮮における権益を認めた。しかし、1917年のロシア革命でロシア帝国が滅亡すると、協約はソビエト連邦政府によって破棄され、日本は中国権益の危機を迎えることとなったのである。

<参照>
 日英同盟締結
 日露戦争

 また、清は1905年の満洲善後条約で、帝政ロシアから日本に譲渡された満洲利権の移動を了承した。更に、1909年9月4日に締結された日清協約において、清と大韓帝国(朝鮮)との国境を画定させたことで、1910年8月29日に日本が韓国を併合した。この様な経過を経て1928年に、当時の日本における満蒙問題を軸とした対中国政策としての満蒙領有方針が打ち出されていた。
 ところがその後、1929年よりアメリカを皮切りとして始まった世界恐慌の甚大な影響を受けた日本は、1930年代初頭の経済的苦境(昭和恐慌)や農村の疲弊(昭和農業恐慌)を打開するため、石原莞爾(右図)や板垣征四郎らの関東軍によって満洲事変が計画され、実行となった矢先として自作自演による柳条湖事件が起こった(1931年9月18日)。ただし、この事件は、韓国併合後に朝鮮半島の農民が日本や満洲への流入が急増し、在満朝鮮人と中国人の間に起こった万宝山事件(1931年7月)が発端となっている。この柳条湖事件から起きた日中間の紛争解決策が “関東軍による満洲問題の武力解決” という一口実となって、後の中華民国との武力紛争(満洲事変)を引き起こしたのがその経緯である。
 1932年には満洲国が樹立されたが、既に1912年に成立した中華民国では、1920年代に入って国権回復運動を推進するナショナリズムが日本と対立する背景となっていた。

<参照>
 父なる神とアダム国家
 エバの摂理完了と男性復帰(下)

    (A) 蔣介石の北伐と第2次国共合作
 国民党の蔣介石は上海クーデター以降、中国共産党とは敵対関係にあった。1931年に日本の関東軍による満洲事変が勃発したが、国民党と中国共産党との国共内戦中であった蔣介石は、建国された満洲国を黙認して抵抗せず、国共内戦を優先した。日本の外交官の広田弘毅有田八郎川越茂からは、日中共同で防共協定の締結を提案されたが、蔣介石はこれを受け入れず、日中の防共協定は破綻となった。
 1936年12月、蔣介石が張学良督戦するために西安へやってきた。蔣介石は、「東北軍(東北の支配権を目指した張学良を司令官とした国民政府軍の一部)頼むに足らず」と知り、東北軍を福建に移し、代りに30万人の軍隊と100機の軍用機を集める計画を開始した。このことは、共産党鎮圧政策の強化にとどまらず、東北軍への懲罰、張学良への警告であった。12月4日、蔣介石は再び西安に赴き、共産党・紅軍絶滅の最終決戦態勢をととのえ、東北軍・西北軍(馮玉祥ふうぎょくしょうが結成した国民軍)を督戦するために、陳誠・衛文煌など多くの軍首脳を招集した。12月10日、蔣介石主導の会議で、張学良の現職を解任し、東北軍とともに福建に移動させることを決定する。これに対し、張学良と楊虎城ようこじょうは1936年12月12日に西安事件を起こして蔣介石を拘禁した。張学良らは蔣介石の共産党討伐作戦(囲剿作戦)などに反対し、国共合作などを忠言したが処罰を受けていたため、蔣介石に救国のために以下の8か条の要求を突きつけた。蔣介石は8か条の要求を強硬な態度で拒絶していたが、中国共産党の周恩来秦邦憲しんほうけん葉剣英ようけんえいが西安に入り話し合いが行われ、国民政府側の蔣介石、宋子文そうしぶん宋美齢そうびれい(蔣介石夫人)との間に前8項目に関する合意ができて蔣介石は解放される。
 蔣介石は、筋金入りの反共主義者で日中友好を力説していたが、日中戦争が勃発して日本軍の侵攻が強まると、蔣介石率いる国民党の力だけでは抗しきれず、蔣介石はやむを得ず共産党と手を組んだのが1937年の第2次国共合作であった。

    (B) 中国の国共合作の背景にあった米国の失敗
 1852年にペリー提督によって日本は開国したが、アメリカが真に目指したのは中国であった。それは、清国の隣国日本が力を付けて1895年には日清戦争で勝利を納めて台湾を獲得し、さらにロシアの影響を排除しつつ韓国(大韓帝国)を保護下におくと、清国の韓国に対する「冊封体制」を完全に排除して1910年韓国を併合した。
 アメリカは、1902年にロシアによる満州侵略は、「門戸開放」の原則に反するとしたのであったが、1904年から1905年の日露戦争の結果日本がロシアの保持していた満州における権益を獲得してしまった。当初日本は満州に関する「門戸開放」を約束したが、アメリカは日本の独占を阻止するため日本、アメリカ、イギリス、フランスによる鉄道敷設を考えたが、途中からアメリカは、この考えを放棄してしまう。
 中国では当時蔣介石率いる中国国民党と毛沢東を指導者とする中国共産党の2つの勢力があり、主導権を巡り激しく争っていたが、1924年ソ連主導のコミンテルンの仲介により第1次国共合作が成立する。そして両者による北伐が開始されるが、その後蔣介石一派による南京での国民政府樹立、上海クーデターなどにより共産党は弾圧され、この合作は頓挫する。そして北伐は蔣介石の手で継続され、1928年には北京政府を倒すことに成功する。その後国民党は更に共産党を弾圧し、共産党政府は、西部のソ満国境に近い延安にまで追いやられる。しかし、1937年に日本との全面戦争が始まると、国民党と共産党は再び手を握り(第2次国共合作)国民党の指揮のもと対日戦争に当たることになる
 さて、前々から中国市場への「門戸開放」を唱え日本を邪魔者扱いにしてきたフランクリン・ルーズベルト(任期は1933年3月4日〜1945年4月12日:左図)は、アメリカの世論を味方に付けた蔣介石の妻宋美齢(右図)を中心とする巧妙な外交手腕に乗せられ、16億ドルにも及ぶ多額な武器援助と軍事顧問団を派遣した。1937年の時点でアメリカは中国共産党にまで軍事援助を行った。アメリカにとって日本を倒してしまえば、太平洋はアメリカの海となり、蔣介石にとっては、日本を中国大陸から追い出すことにアメリカの力を借りるという事で両者の思惑は一致していたのである。

<参照>
 アメリカの世界戦略の失敗 (フランクリン・ルーズベルトの失敗)


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