復帰摂理歴史の真実
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■ 第三部 第四章 
     b. なぜ正妻と妾の摂理となったのか(上)


1. 男のカインとアベルから女のカインとアベルによる復帰摂理へ
 今からは、家庭における女たちが問題です。サタンを中心として、天使長を中心として、アベルの女とカインの女が闘うのです。そこにおいて、アベルはお姉さんではなく、妹です。しかし、サタン圏で生まれた順番からして、お姉さんは妹を絶対的に主管することができるので、これが問題です。原理原則によって主管されるような立場に立った妹が、お姉さんを自然屈伏させて、姉の立場を復帰しなければなりません。女もカイン・アベルと同じような立場で、復帰していかなければならないのです
 そのような異なった姉妹関係の基台が、家庭なのです。ですから、家庭に正妻とめかけがいた場合には、喧嘩けんかして大変な問題になります。男性がもし妾をつくった場合、本妻が黙っているでしょうか? 「殺してしまえ」とか、「死ぬんだ」とか言って、家中が大変なことになってしまいます。しかし復帰路程は、正妻一人では行けないのです。妾と一つにならなければ、帰る道がありません。なぜかというと、堕落したために、神様の前に二つの流れの子女が生まれてきたからです
 それは、カイン側のお母さんと子供と、それらを復帰していくアベル側のお母さんと子供という、二つの流れです。そのような子女が立つようになったのです。もし堕落しなかったならば、一つの流れだけです。堕落の結果、二つの流れになってしまいました。神様は、これを収拾しなければならないのです。
 そこで、いかに二つの流れを一つにするのでしょうか。サタン的な長子を中心として一つの流れにすれば、サタン的なものになってしまいますから、これを蕩減復帰していかなければなりません。妹が神側のアベルです。その妹を中心に立てて、姉が一つになることによって、神様が本来創造した絶対主体の立場の氏族圏が生まれるのです。サタン側の長女を立てた場合には、大変です。
 女性も、カイン・アベルの長子権復帰と同じように、姉と妹が家庭内で一人の旦那さんとの関係で喧嘩するようになるのですから、それを一つにしなければなりません。その重要な女の家庭的使命を果たして、外的カイン・アベル復帰とともに、内的問題の復帰をしていくのです。最後は姉妹関係を越えて、エバ個人の問題まで解決しなければならないのが、家庭における女たちの使命です
 この個人的エバの問題を解決することによって、すべての蕩減とうげんの峠を超えることができます。それが、歴史上で今まで展開してきたことなのです。外的な面ではカイン・アベルの長子権復帰です。弟が兄になり、兄が弟になります。そのように、二つの流れを一つにするのです。女性も、妹が姉になり、姉が妹になって、一つの流れとして帰ってくるのです。そのような家庭的問題を解決した上で、次にエバ自体の個人的問題が引っ掛かってくるのです
 長子権復帰はカイン・アベルの問題です。家庭的問題として、こういう絡み合った兄弟圏の紛争が、神様の前に残っています。堕落した正妻圏の親子と、めかけのほうの立場に立つ親子がいるのです(図13を参照)。ですから復帰は、妾を通して、二番目を通してやらなければなりません。末の世になると、こういう問題が交差するので、神様は離婚を許さざるを得ないのです。離婚を許すことによって、少ない被害で神様に帰ってきやすくなるというのです。そのような公式によって、神様は離婚を許さざるを得ないのです。
 末の時代になると、男はみんな一人以上の女を持って、大変な問題を起こします。一人の人が何百人とも関係するようになるのです。ですから正妻も嫌がって、「あなたがそんなことをするなら、私も」ということになります。それで、金持ちの正妻なんかに「ツバメの群れ」という言葉が生まれたのです。若い男を中心とした売春行為です。そのように、公娼こうしょう街の男にお金を渡して、「あなたがそうするのだから、私も男遊びをします」と、本当にそのようなことをするのです。それは、悔い改めて精誠を尽くしていけば、かえって神様のほうに帰っていく道につながるともいえます。ですから、「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(ルカによる福音書七章四十七節)という聖書の言葉があるのです。
 末の時期は、悪いことばかりではありません。悪い者も、末の時期には同じく救われる道があるのです。妾が正妻を救うことができるというのです。ですから、妾は男を相手にしやすい環境になっているのです。正妻が神様に帰るに当たって、妾を通して自分の主体者を紹介してもらうようになれば、完全に長子権、長女権を復帰することができます。それで、家庭的にも男女関係が乱れていくようになるのです。切り替えの時には仕方がありません。その切り替えの時に、悪なる女も天のほうに帰れば、天の祝福を受けられるのです。その反対に、天のほうにいたとしても、信仰生活が悪かった場合にはサタンのほうに連れていかれて、悪なる女の立場に立ちます。ですから、「謙遜で素直な人になりなさい」と言うのです。
 このように家庭を中心として、創世以来、子供をまとめてきました。そうして、家庭の外的な世界をまとめた後で、今から家庭的に、内的なお母さんたちの収拾をしなければならないのです。お母さんが二人いては駄目です。一つになって、堕落した女の蕩減を逆に引っ繰り返さなければなりません。それをみんなが分かることによって、世界から家庭、個人まで、完全に越えていくのです。女によって堕落したのですから、女が重要な責任を持たなければならない時代になりました。
 それで末の世には、女性全盛時代が来るのです。女たちが男妾おとこめかけをいくらでも持ってしまう時代になりました。堕落した時のことを考えれば、エバが二人の男を迎えたのですから、末の時期にも、一人の男だけでは足りないというのです。日本もそうです。女はいろいろなことをやっています。ホテルなどを使って売春をする女もたくさんいるのです。この乱れた女たちをいかに収拾するかというと、この原理原則を知らせ、二つの流れを一つにまとめて、天の理想に帰る道を教えるのです。それは全体から見ても、否定できません。自分たちが間違っていたことを知った場合には、それを正し、回れ右をして帰るのです。
 これが蕩減とうげん路程です。世界的蕩減路程、家庭的に女が誤ったことの蕩減路程、個人的女の蕩減路程です。男として、これを勝利的に越えていかなければ、本来の第二のアダムの立場に立つことはできません。夫婦になることができないのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編2』p305〜p308)

 『原理講論』は、「男のカインとアベルによる蕩減復帰摂理」のみの記載となっている。それは、イエスが結婚できずに独身のままにその生涯を閉じることで、キリスト教による復帰摂理の延長線上として、文先生を中心とした蕩減復帰摂理が成されたためである。
 文先生はヤコブ家庭を、残された「女のカインとアベルによる蕩減復帰摂理」を自らの摂理と重ね合わせて語られているが、文先生とヤコブでは “原理的摂理” としての格の違いによって例えに無理が生じるのも致し方がない。
 そこで、『原理講論』の「蕩減復帰原理の “曖昧さ” を明確に捉える」ことで、その摂理的全容を明らかにしていく。

 (1) 人類始祖の堕落によって生じた堕落の経路と復帰摂理
  @ 堕落の経路とその結果
 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪の知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。(創世記2章16節〜17節)

 善悪を知る木というその木は、創造理想を完成した女性を象徴するものである。ゆえに、それは完成したエバを例えていった言葉であるということを知ることができるのである。(『原理講論』p97)

 善悪の果とは何をいうのであろうか。すなわち、それはエバの愛を意味するのである。(『原理講論』p103)

 エバ●●善悪の果を取って食べたということは、彼女がサタン(天使)を中心とした愛によって、互いに血縁関係を結んだということを意味するのである。(『原理講論』p104)

    (@) 善悪の果を取って食べて死んだのはアダム
図1 堕落の経路
 人類始祖アダムとエバの堕落は、『原理講論』の堕落論に「エバが善悪の果を取って食べた」(p104)ことに始まると記されているが、これは「善悪を知る木」が何であり、その木に果実として実る「善悪の果」が何であるかという観点から見れば実に滑稽な話である。  『原理講論』では、「善悪を知る木」を “創造理想を完成した女性” を象徴し、「善悪の果」はその “女性の愛” を意味している。つまり、「善悪を知る木としてのエバの「善悪の果」は、堕落によって「悪の果」としての “偽りの愛の実” として結実したことを意味している。このことから、エバは、天使長ルーシェルの非原理的な不倫の愛によって「悪の果」を結び(霊的堕落)、その果をエバがアダムに与え、アダムはそれを食べた(肉的堕落)ことになる。その為、「取って食べて死んだ」のはアダムであり、エバではない。ここでの「死」とは、“神との断絶” を意味している(図1)。

    (A) 堕落人間の位置と状態
 彼等が未完成期において堕落し、サタンを中心とする四位基台をつくったので、この世界はサタン主権の世界となってしまったのである。それゆえ、ヨハネ福音書一二章31節には、サタンを「この世の君」と言い、またコリントU四章4節においては、サタンを「この世の神」と言ったのである。(『原理講論』p116)

 アダムはサタンと血縁関係を結んだので、神とも対応でき、また、サタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった。したがって、このような中間位置におかれた堕落人間を天の側に分立して「メシヤのための基台」を造成するためには、堕落人間自身が何らかの蕩減条件を立てなければならない。(『原理講論』p289)

図2 堕落の結果
 さて、天使長ルーシェルによってエバに実らせた “偽りの愛の実” を食べて、その主管を受けるようになったのはアダムである。アダムはサタンの主管を受けるようになって、神との中間位置におかれるようになったのではない。サタンの支配下に治められ、サタンを「この世の君」とし、「この世の神」として仰ぎ見る立場に陥ってしまったのである。そしてエバは、そうしたアダムの主管を受けざるを得ない立場となってしまった(図2)。
 サタンの主管下に陥ったアダムは、神が全く対応できない立場となってしまった。そのため神は、アダムからエバを通じた間接的な主管となるカインとアベルを、堕落したアダムに見立てて、アダム自身が悪から善を分立したと見なすことで、神が対応できるアダムをメシヤとして迎えた再創造摂理が可能となるのである。



  A 次子アベルの蕩減によって長子カインを復帰する摂理
    (@) 男によるカインとアベルの蕩減復帰摂理
     (@-a) 復帰の経路は創造本然の経路
 蕩減条件をどのような方法で立てるかという問題である。どのようなものであっても、本来の位置と状態から離れた立場から原状へと復帰するためには、それから離れるようになった経路と反対の経路をたどることによって蕩減条件を立てなければならない。(『原理講論』p275〜p276)

 アダムが創造目的を完成するためには、二つの条件を立てなければならなかった。その第一の条件は「信仰基台」を造成することであったが、ここにおいては、もちろんアダムが「信仰基台」を造成する人物にならなければならなかったのである。その「信仰基台」を造成するための条件として、彼は善悪の果を食べてはならないと言われた神のみ言を守る●●●●●●●べきであり、さらに、この信仰条件を立てて、その責任分担を完遂するところの成長期間を経なければならなかった。(『原理講論』p277〜p278)

 第二の条件は、彼が「実体基台」を造成することであった。アダムが神のみ言を信じ、それに従順に従って、その成長期間を完全に全うすることにより「信仰基台」を立てることができたならば、彼はその基台の上で神と一体となり、「実体基台」を造成することによって、創造本性を完成した、み言の「完成実体」となり得たはずであった(ヨハネ一・14)。(『原理講論』p278)

 もし、アダムが堕落しなかったならば、彼は前述したとおりの経路によって創造目的を完成したはずであったから、堕落人間もまた「メシヤのための基台」を造成するためには、それと同じ経路をたどって、次に述べるような「信仰基台」を立てて、その基台の上で、「実体基台」をつくらなければならないのである。(『原理講論』p278)

図3 復帰の経路
 復帰の経路(図3)は、堕落の経路(図1)の反対の経路とは言え、この経路はそもそも創造本然の経路である。堕落によって創造本然の経路を失ってしまったので、これを蕩減条件を立てながら取り戻していくことが神の再創造としての復帰の経路となったのである。故に、その経路は、本然のアダムを取り戻した次には、本然のエバを取り戻し、最終的に本然の天使長を取り戻して復帰摂理の完了、創造目的の完成となる
 その為の蕩減条件とは、第一の条件として「信仰基台」があり、第二の条件として「実体基台」がある。この「信仰基台」と「実体基台」を合わせて「メシヤのための基台」となるが、この“信仰”と“実体”の二つの基台を復帰の経路を担う “中心人物” が “御言”(条件物)に対する信仰を立て、“御言を愛として具現化” して、その “愛によってその対象を実体復帰” することによって「メシヤを迎えるための基台」が成立する
 メシヤを迎えるためには、メシヤの誕生のための父と母が存在しなければならないが、その父となる男性と母となる女性のどちらも “復帰の経路の側” に立った人物でなければならないことは当然のことと言える。

     (@-b) 兄カインの正しい行いに対する弟アベルとしての態度
 元来、神は長子を立てて、長子にその嗣業を継承させようとなさった原理的な基準があるので、サタンも、二番目のものよりも、最初のものに対する未練が一層大きかった。(『原理講論』p292)

 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。(創世記4章3〜節5節)

 「嗣業しぎょう」とは、“神との特別な関係において、築かれた恵みとして次の世代に受け継いでいくもの” を言います。本来、神とアダムとの関係において築かれるべき嗣業は、長子カインが受け継ぐべきであったが、アダムは堕落して神との関係を断たれてしまい、カインに受け継がせる嗣業は皆無となってしまった。そのため神は、長子カインの供え物は顧みられず、次子アベルの供え物を顧みられたのである。このことが、カインにとってアベルが怨讐ハンの対象となった最初の出来事となる。
 「蕩減復帰」というのはどういう意味なのであろうか。どのようなものであっても、その本来の位置と状態を失ったとき、それらを本来の位置と状態にまで復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足る何らかの条件を立てなければならない。このような条件を立てることを「蕩減」というのである。(『原理講論』p273)

 さて、ここで蕩減を考える場合、カインとアベルとの供え物を通した神との関係を考えて見なければならない。先ほど述べたように、嗣業の継承という観点にカインとアベルの供え物に対する違いが大きく影響している。それに先立って理解しておかなければならないのは、アダムの堕落に対する認識である。アダムにとって堕落とは、 創世記2章16節にある「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」という戒めは、エバにとってまったく理解できず、 アダムと性的関係を結んで堕落したというだけの認識にすぎない。そのため、アダムとエバは、肉的性関係を結んだ後、「ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」(創世記3章7節)のである。そして、創世記3章8節にあるように、神の歩まれる音は聞こえても姿は見えず、園の木の間に身を隠したのである。
 さて、ここで問題となるのは、創世記2章16節の神の戒めには2つのポイントがある。その一つは「取って食べるな」という部分と、もう一つは「食べると死ぬ」という部分である。アダムが神の戒めを破ったのは、「取って食べるな」とういう部分のみである。「食べると死ぬ」というのは、天使長ルーシェルが言った通り死ぬことはなかった(創世記3章4節)のである。
 アダムとエバにとって、神の前に罪を犯した意識はなく、エデンの園から追い出されはしたが耕作の地を与えられ(創世記3章23節)、子女カインを授かった(創世記4章1節)。これが、アダムとエバにとっての嗣業となって、長子カインに地の産物を供え物として神に捧げさせた(創世記4章3節)のである。
 もともと、アダムは「信仰基台」を立てるための条件として下さった神のみ言を、その不信仰のために失ってしまったのである。それゆえ、もはやみ言を神から直接受けることはできない立場にまで(価値を失い)堕落してしまったアダムであったので、その「信仰基台」を復帰するためには、彼が信仰によって、そのみ言の代わりとなる何らかの条件物を、神のみこころにかなうように立てなければならなかったのである。(『原理講論』p290)

 ところが、突然アダムとエバとカインにとって思いもよらぬ事態が生じたのである。次子アベルまでもが、それを真似て供え物を捧げ、神に顧みられ、カインの供え物は顧みられなかったのである(創世記4章4節〜5節)。カインは大いに憤り、神から顔を伏せた(創世記4章6節)。
 このカインとアベルの供え物の行為は、新渡戸稲造の『武士道』にある “礼儀” のあり方からその問題点を理解することができる。その部分を、『対訳 武士道』から抜粋してみよう。
 もう一つ、日本の礼儀のしきたりから出てくる、「とっても滑稽」な習慣がある。日本について書いている上っ面しか見ない者たちは、この国では何もかもあべこべだと言って片づけるが、これを経験したことのある外国人は一様に、どう応えればよいのか戸惑ったと打ち明ける。すなわち、プレゼントをするとき、アメリカではプレゼントする相手に向かって、これは実にすばらしい品物だと謳い上げるが、日本は逆で、謙遜したりけなしたりするのである。アメリカ人の考えはこうだ。「これはすばらしいプレゼントです。すばらしくなければ、あなたに差し上げるなんて勇気がありません。すばらしくないものを差し上げるなんて、侮辱じゃないですか」。対する日本人の論理はこうだ。「あなたはすてきな人です。どんなにすてきなプレゼントでも、あなたにふさわしいものなどあるはずがありません。わたしがあなたの足元に捧げるのは、どうか、もっぱらわたしの好意のしるしとしてしてお受け取りください。この品のそのものの価値のためではなく、それが表す意味合いを汲んでお受け取りください。どんなにすばらしい品物でも、あなたにふさわしい価値があるなどと言うのは、あなたへの侮辱でしかありません」。この二つの考え方を並べてみよう。究極の考えはまったく同一である。どちらも「とっても滑稽」どころではない。アメリカ人はプレゼントを構成しているモノについて語っている。日本人はプレゼントを差し上げる精神を語っているのだ。(『対訳 武士道』p126〜p128)

 さて、『対訳 武士道』では相手にプレゼントをするときの習慣を例として、アメリカと日本を対比させて、その重要な観点を “礼儀の仕来り” として述べている。「礼儀」とは、人に対する敬意を行動や作法にして表す社会的規範をいう。「仕来り」とは、昔から慣例とされていることを意味する。神に捧げる “供え物” は、ここでいうところのプレゼントとして見立てた場合、「主に対する敬意」を表す作法としての供え物でなければならない。一般的にはアメリカの仕方であろうが、神に対する堕落人間からの供え物として考えた場合、日本の “謙遜” や “けな” としての精神的姿勢が必要であることは言うまでもない。いわゆる文先生の言う “堕落観念” の必要性である(「原理の力」参照)。残念ながら、カインにもアベルにも神に対しての謙遜や貶しがなかったようである。ましてや、カインよりもアベルの方がより一層アメリカ的あったと言わざるを得ない。それは、アベルの供え物が、羊の初子ういごと肥えたものと聖書の創世記4章4節に表現されていることから伺える。
 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しいことをしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(創世記4章6節〜7節)

 カインが神に供え物を捧げたことは、本来的に正しい。しかし、人間の堕落によって神はそれを顧みられなくなり、代わりとしてアベルの供え物を顧みられたのである。このことを通してアベルは傲慢になり、弟として自分を貶すのではなく、兄を貶してしまい、兄の怒りを買って殺害されてしまったのである。
 創世記4章6節から7節のカインに対する神の忠告は、アベルの傲慢さを諫めるのは母エバの成さなければならない母子協助としての要点となったのである。しかし、これは堕落したアダムに主管される堕落エバにとっては極めて困難なことであったことは容易に理解できる。そしてまた、この事は「蕩減」という言葉が意味する重要なポイントともなっている。



    (A)“エバの愛の実” としてのカインとアベル
     (A-a) まずは「時ならぬ時」に堕落した “アダム” の復帰
 第一に、カインとアベルは、共にエバの堕落の実であった。したがって、堕落の母体であるエバの経路によって、そのいずれかを決定しなければならなかったのである。ところでエバの堕落は、二つの不倫な愛の行動によって成立した。すなわち、最初は天使長との愛による霊的堕落であり、二番目はアダムとの愛による肉的堕落であった。もちろんこれらは、どちらも同じ堕落行為には違いない。しかし、この二つの中でいずれがより原理的であり、より許し得る行為であるかといえば、最初の愛による堕落行為よりも二番目の愛による堕落行為であると見なければならない。なぜなら、最初の堕落行為は、神と同じように目が開けるようになりたいと願う、すなわち、時ならぬ時に時のことを望む過分な欲望が動機となり(創三・5)、非原理的な相対である天使長と関係を結んだことから生じたものであるのに対して、二番目の堕落行為は、最初の行為が不倫なものであったことを悟って、再び神の側に戻りたいと願う心情が動機となって、ただ、まだ神が許諾し得ない、時ならぬ時に、原理的な相対であるアダムと関係を結んだことから起こったものだからである(前編第二章第二節(二))。
 ところで、カインとアベルは、どちらもエバの不倫の愛の実である。したがって、エバを中心として結んだ二つの型の不倫な愛の行為を条件として、それぞれの立場を二個体に分けもたすべくカインとアベルを、各々異なる二つの表示的立場に立てるよりほかに摂理のしようがなかったのである。(『原理講論』p291〜p292)

図4 堕落から蕩減によって復帰摂理へ
 さて、上記の赤下線部エバの霊的堕落について記されている。そして、青下線部エバの肉的堕落について記されているのであるが、文中における「時ならぬ時」というのはアダムのことを指して言われた言葉であることに注意が必要であることだ。
 「取って食べるな、食べると死ぬ」(創世記2章17節)という神の戒めは、アダムに対しての戒めである。そして、そもそも「信仰基台」はアダムが立てるべき基台で、その上で「実体基台」は、アダムがエバを愛することによって立てるべき “愛の基台” だったのである。その為の「信仰基台」の核となるのが “神の御言みことば であった。このアダムとエバを蕩減復帰を代理蕩減して、“神が対応できるアダムをメシヤとして迎える” ことのできる蕩減条件を立てる立場にあるのがアベルの立場である。その為の信仰基台を立てたアベルの立場は、蕩減復帰摂理の中心人物として(4図の左側の復帰された側)神側の長子権を復帰した立場にある(信仰基台)。その上で、堕落した側(4図の右側)のカインを(4図の左側)に愛によって蕩減復帰して来なければならない実体基台の中心的立場に立つことになる。この時の蕩減復帰とは、愛するものがへりくだ父母の心情、僕の身体からだ」となって愛することが重要となるので「蕩減」という表現になった。見えない愛は、上から下へであるが、それを立場として見ると下から上への逆向きとなっている。「」とは “けがを払う” という意味で、「減」は “遜る” という意味となる。“穢れを減らす” と言うことだ。

     (A-b)アダムを象ったセツと女のカイン・アベルの始まり
 アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代わりに、ひとりの子をわたしに授けられました」。(創世記4章25節)

 神が人を創造された時、神にかたどって造り、彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた。アダムがセツを生んだ後、生きた年は八百年であって、ほかに男子と女子を生んだ。(創世記5章1節〜4節)

 神は、再創造の摂理を始められたのはセツの時からである。創世記1章26節から27節と同じ聖句をもって5章1節からアダムの系図として記されている。ここで注意しなければならないのは、創世記5章1節から2節には、「神にかたどって男と女を創造され、男の名をアダムと名づけ、アダムをかたどってセツと名づけた」というところである。  セツは内的にアダムとエバの堕落の実ではあるけれども、外的には堕落前のアダムにかたどって(似せて)生まれた。この時、アダムの年齢は130歳で、13数×10(帰一数)となる。
 その前提となったのは、カインがアベルを殺害して後、自らを苦しめ、主の前を去った(創世記4章13節〜16節)ことで、アダムに強い影響を及ぼしてセツの誕生となったことである。
 そして時を経て、アブラハム、イサク、ヤコブの3代で男のカインとアベル、女のカインとアベルによる蕩減復帰摂理の基本形が築かれ、4代目のユダの時に、メシヤ誕生のための胎中聖別の原理が解かれた。そしてついに “真のアダム” による、“真のエバ” の蕩減復帰完成の道が開かれたのである。

<参照>
 幻となった基元節(上)


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