復帰摂理歴史の真実
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■ 後編 第一章 摂理はなぜ東洋に移されたのか
 第一節 ノアの箱舟以降における摂理


1. セム族からヤペテ族へ

 (1) 歴史的趨勢からみて

  @ 世界の先住民族



   a)アララト山

 アララト山(右図)は、トルコ共和国の東端(左図赤点)にある標高5,137mの山である。
 ノアの8人家族は、洪水審判の後、その子供たちが三方に分かれ、その子孫は更に八方に分かれた。

<参照>
 ノアの子孫 セム・ハム・ヤペテの拡散
 オリエント世界の風土と民族(「世界の歴史まっぷ」より)

 ヤペテ系の人々は箱舟の漂着したアララト山の付近に暫く留まり、やがて北へ向かい東西に分かれた。また一方で、東南の(インド)方へ向かったアーリア人(ノアの子マダイの子孫)なども存在した。
 ハム系の人々は、西南の地中海沿岸沿い(「ユダとタマルの内的摂理完成と外的摂理」参照:ペリシテ人の道)にアフリカ大陸に向かった。ペリシテ人はハムの子ミツライムの子孫で、クシュの子孫であるニムロデはメソポタミアに強大な王国を築いた “バビロンの守護神マルドゥク” として崇められた人物です。

<参照>
 バビロン
 メソポタミア - Jinkawiki

 セム系の人々は、箱舟の漂着点より南に向かい、チグリス・ユーフラテスの川沿いに南下しました。セムの子エラムからメソポタミア各地に広まり、アシェルはメソポタミア北部付近に定住したのですが、アルパクシャデの孫エベルからイスラエル人やユダヤ人と呼ばれる人々が出ました。他には、アラビア半島に住む諸民族も多く出たのです。

<参照>
 シュメール人とセム語系諸族(「世界の歴史まっぷ」より)



   b)選ばれたヤペテ系民族

 「ハム」の名は「暑い」という言葉の派生語なのに対して、「ヤペテ」の名は、「広い」という言葉の派生語であるとおり、かなりの広範囲に移り住みました。
 ヤペテの子は、ゴメルマゴグマダイヤワントバルメセク(メシェク)、テラス(ティラス)です。ゴメルの子はアシケナズ(アシュケナズ)、リパテ(リファテ)、トガルマ。ヤワンの子は、エリシャタルシシ(タルシシュ)、キッテム(キティム)、ドダニム

ゴメル

小アジアや、ヨーロッパに移り住んだ。
アシケナズ 小アジアに移り住み、ヨーロッパに渡り、ドイツにも移り住んだ。
リパテ
小アジアに移り住んだ。パフラゴニア
トガルマ 小アジアに移り住んだ。アルメニア人の先祖。
マゴグ スキタイ人のこと。南ロシアの騎馬民族となった。
マダイ メディア人のこと。メソポタミアにメディア王国をつくり、兄弟民族のペルシャ人メディア・ペルシャ王国(アーリア人)を築き上げた。アーリア人はインド方面に移り住み、インドの主要民族となった。
ヤワン

ギリシャ人
エリシャ ギリシャや、地中海のキプロス島に渡った人々。
タルシシ スペインに移り住んだ民族。
キッテム キプロス島に渡って、そこを占領した民族。
ドダニム 北方ギリシャ人、ダルダニア人ドーリア人
トバル 旧ソ連の中にある、グルジヤ共和国(ジョージア)あたりに移り住んだ。
メセク 旧ソ連のロシア共和国付近に移り住んだ民族。
テラス エーゲ海周辺に移り住んだ。

<参照>
 民族の起源
 インド・ヨーロッパ語系民族の進出(「世界の歴史まっぷ」より)

 聖書によると、バベルの塔以後、人々は世界中に離散していきました(創世記11章1節〜9節)。それ以後はこれまで見てきたように、コーカソイド(白色人種)はもちろん、北アジア経由で東北アジアまでやって来たと言われているモンゴロイドもヤペテから分かれ出た人種と言えるのです。
 また日本民俗学の鳥居龍蔵博士は、日本人は、漢族アイヌツングースミャオ族(苗族)、インドネシア族の混血民族と述べています。なかでもアイヌは一般に「旧モンゴロイド」と言われ、コーカソイドの特徴を多く持っていることでも知られています。アイヌは、モンゴロイド特有の青あざを持たない、コーカソイドに近いモンゴロイドと言えるのです。
 これらのことから、簡単に原理的観点からまとめてみましょう。

<参照>
 アイヌ民族の歴史



 (2) 復帰摂理的観点からみて



  @ 東洋における宗教摂理

 アダム家庭における復帰摂理は、カインがアベルを殺害したことによって、カインとアベルの分立摂理は失敗に終わり、摂理は第三子のセツに移行し、その子孫であるノアの家庭において再興された。
 しかし、この時すでに3羽の鳩によって再臨主までの摂理の可能性が予言され、アベルの使命を代行するハム自らが失敗を犯し、次子としてのハムがサタンの餌食となってしまったために、神は長子セムを復帰摂理の中心人物として取り返してくることができたのである。そのためセムの子孫となる、アブラハムの家庭における復帰摂理として、その孫であるヤコブのときから、メシヤを迎えるための選民摂理が開始されたのである。
 ところが、イスラエル選民の度重なる失敗によってメシヤ誕生のための蕩減復帰原理における程度と、イスラエル選民がメシヤを迎えるための内的外的条件を備えるべき現実的制度としてのユダヤの掟がかけ離れたものとなってしまったため、メシヤとしての使命を担って誕生したイエスを受けいれることができず、架刑に処してしまったのである。そのため、イエスは地上における摂理が困難となってしまったため、その摂理は霊的なものに留まざるを得なくなったのである。つまり、イエスの十字架以後に興ったキリスト教は、信仰による霊的救いのみとなり、現実問題の解決は困難なものとなったのである。
 また、このキリスト教は、ヤペテ圏から始まった再臨主を迎えるための宗教と言えるのです。このヤペテ圏は、キリスト教の遥か以前から、インディアンやインディオとして既にアメリカ大陸にまで広がって文明を築いていたのです(上図)。

   a)東西に分裂したキリスト教

 この問題は、先に「洗礼ヨハネと12使徒」でも取り上げたが、そこで使用した図をもう一度掲載しよう。

 かつて、ヤペテの人々が辿ったような道を、当時のクリスチャンたちは再び辿ったかのように、東西に分かれた。もちろん、東の果てのモンゴリアとは、大昔のモンゴロイドのことである。
 英国の国旗は、西に流れたペテロ教団と、東に流れたアンデレ教団が再会して一つの国を形成したことを物語っているが、そこからピューリタンとして、神の御心を一途に大西洋を渡り、アメリカ大陸にたどり着いたことは、それ以上にもまして貴重な出来事である。
 しかしながら、その先にはヤワンの子タルシシの子孫や、その後にはゴメルの子孫と思える多くの人々が、同系列のヤペテの子孫たちが築いた中南米の文明を滅ぼし、インディアンやインディオの多くの血を流したことは事実である。
 結局、そこに再臨主を迎えることができず、さらに太平洋を渡って東洋に向かわなければならなかったのは、そうするに足らない、決定的な内容があったからである。


<参照>
 マルコポーロとコロンブス
 インドへの大航海と滅亡した文明
 葡・西の盛衰と英・蘭の台頭



   b)アーリア人が生んだ宗教

    (@)ゾロアスター教

 ゾロアスター教の創始者はザラスシュトラ(ペルシア語でゾロアスター / 紀元前18世紀?〜紀元前7世紀?)で、聖典はアベスターですが、最高神であるアフラ・マズダー智恵ある神)は、全知であり、完善真実と善良の生みの親であり、愛と福をもたらすとしているため、日常生活においては、善思善語善行が大切であるとします。しかし、この世には、スプンタ・マンユ真理の霊)とアンラ・マンユ虚偽の霊)が存在して互いに対立しているとしています。
 しかし、アフラ・マズダーは、人間に自由意志を与えたので、人間が自ら判断し、善行によって邪悪を退け、アフラ・マズダーの栄光の下に迎えられ救済されなければならないとしました。
 この様に、ゾロアスター教では、スプンタ・マンユ(善神)とアンラ・マンユ(悪神)の二元論と考えられていますが、終末の時にはアフラ・マズダーが審判を下す最高神とされているので、一神教とも言えるようですが、このアフラ・マズダーは悪を完全に解決するのではなく、善悪の分離、分別する神としての最高神とされているので、正確には善悪二元論と言わざるを得ません。
 また、ゾロアスター教は光(善)の象徴としての純粋な「火」を尊ぶため、拝火教とも呼ばれています。ゾロアスター教の全神殿には、ザラスシュトラが点火したとされる火が絶えることなく燃え続け、神殿内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝します。

<参照>
 ゾロアスター教の寺院で聖火を見る!
 ゾロアスター教徒、純血性重んじ減少の一途 インドに全世界の半数



    (A)バラモン教

 アーリア人がインド亜大陸に移住するようになり、バラモン教が発展します。バラモン教の聖典は『ヴェーダ』(バラモン教とヒンドゥー教の聖典)で、知識を意味することから「英知の教典」と言えます。バラモン教の祭儀では、火神アグニが重視され、バラモン教のウパニシャド哲学は、一神教的性格を帯びていて、宇宙の本体としてのブラフマン)」を漠然と信仰していました。
 更に、創造主としての「神」のみならず、創造主と被造物が一体であるという観念が生まれ、『ブラフマン「宇宙を支配する原理」)』と『アートマン「個人を支配する原理」)』は 一体であると言う『梵我一如』と言う観念に至りました。また、創造主としての神と被造物との区別はもちろん、被造万物と人間の区別も薄れて、輪廻転生の考え方が生じました。
 ゾロアスター教では、神を「英知の主」としていましたが、バラモン教では、その宇宙の根本原理であるブラフマンを記した聖典『ヴェーダ』を「教典の英知」として重要視するようになりました。


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