復帰摂理歴史の真実

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神の希望とアメリカ <トップ> アヘン戦争とイギリス植民地化政策と中国

■ 2. 大航海時代と南北アメリカ
     h. アメリカの独立と戦争


 紀元後の西欧の歴史はユダヤ教とローマの闘争に始まり、キリスト教(十字軍)とイスラム教カトリックとプロテスタントの闘争の歴史と言っても過言ではありません。

 フランスは、西のイベリア半島からイスラム勢力が、東からのローマの影響を受けて、改革派は存在していたにしても長い間カトリックを擁護してきた国です。

 これに対して、イギリスはローマ教皇とイギリス国王との対立からイングランド国教会として立場を異にして来ました。

 その様な中でも、イギリスでは改革を唱え続けてきたプロテスタント達の中に教会内部を改革しようとしたピューリタンとしての大きなグループがありました。

 しかし、ローマ教皇庁から離れたイングランド国教会の中であってもピューリタンに対する弾圧が激しくなると、イギリスのピューリタンたちは激しい弾圧から逃れてアメリカに移住して行ったのです。

 “真に神を求めた清教徒から出発”したアメリカですが、僅かの不純物が紛れ込んでしまいました。




フランス

 フランスはキリスト教改革において、カルヴァン派が勢力的だった所です。その歴史を簡単に見ていきます。

1562年
 ユグノー戦争勃発。フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで40年近く戦った内戦です。

1598年
 アンリ4世ナントの勅令(プロテスタントに対して信仰の自由を認めた)を発布し、ユグノー戦争を終結させました。

1608年
 カナダの植民地の拠点として、ケベック市が建設されました。

1642年
 カナダにモントリオール市が建設されます。

1643年
 ルイ14世が5歳で即位しました。太陽王として有名で、「朕は国家なり」の言葉で知られています。

1648年1653年
 フロンドの乱。フランス貴族の氾濫ですが、貴族は打倒されると絶対王政が確立されていきます。

1661年
 インドとアメリカのルイジアナをフランス領としました。「ルイジアナ」の地名は太陽王にちなんでフランス人ラ・サールによって命名されました。




イングランド

1688年
 名誉革命。「権利の章典」が発布され、これ以降イギリス国王は「君臨すれども統治せず」の原則に従う立憲君主であることが確定されました。




英仏戦争

 北アメリカで、イングランドとフランスが植民地争いを起こした五次に渡る戦争です。ヨーロッパ本国からの応援はなく入植者のみで戦った戦争です。

1689年1697年
 ウィリアム戦争英仏戦争の始まりとなりました。

1702年1713年
 アン女王戦争。フランス王国の同盟国としてスペインが参戦しました。

1722年1725年
 ラル神父戦争。インディアンの集落にカトリック教会と砦を建てたことが発端となって起こった戦争です。

1744年1748年
 ジョージ王戦争。この戦争はマリア・テレジアがハプスブルク君主国を継承したために起こったオーストリア継承戦争が北アメリカに波及して起った戦争です。

1755年1763年
 フレンチ・インディアン戦争。英仏戦争の中で最も代表的な戦争で、7年戦争とも呼ばれています。
 最終的にイングランドが勝利することによって、1763年に「パリ条約」が締結されて英仏戦争は終結しました。
 このことによってフランスは北アメリカ大陸から完全撤退し、さらにインドからも撤退しました。


 この後、イギリスは、アメリカ独立戦争と中国でのアヘン戦争を巻き起こしていくことになります。




アメリカの独立と戦争

 北アメリカは、ピューリタン革命の流れをくむ宗教意識の強い北部植民地、農業中心の大土地所有者による南部植民地と、商業と貿易の盛んな中部植民地に分かれていました。ところが、この植民地をめぐってイギリスとフランスが戦いを起こします(上記)。

 1763年にはイギリスが戦勝しましたが、巨額の戦争債務を抱え込むこととなり、その債務支払をアメリカ植民地に求めたのです。

 1763年、イギリス王がルイジアナ地方を国王の直轄地として、「国王宣言線」を引き13植民地人が入植することを禁止しました。

 1765年、イギリス本国政府が13植民地に対して植民地での印刷物全てに課税する印紙法を施行しました。

 ところが、イギリス本国に対しての参政権のない入植者らは「代表なくして課税なし」とのスローガンをもとに課税に対して猛反発したため、印紙法は廃止されました。

 しかし、これに懲りること無く、1773年には茶法を制定します。茶法とはイギリス東インド会社の茶しか、13植民地では販売を認めないと言う法律です。

 この事によってボストン茶会事件が起こり、イギリスからの分離独立の気運が高まっていくことになりました。

 こうした本国の利益のみを考える行為に対して、入植者の代表者らは1774年フィラデルフィアで「第一回大陸会議」を開いて、本国との実力行使まで協力していくことを決議しました。

 そして、翌1775年レキシントンの戦いを始まりとしてアメリカ独立戦争が始まりました。


 1776年トマス・ペインによって「コモン・センス」という一冊のパンフレットが出版されました。これによって合衆国独立の気運が高まり、同年7月4日トマス・ジェファーソンらが起草した「独立宣言」が採択されたのです。

 独立宣言の考えは、
(神によって創造された)人間は生まれながらに平等であり、自由と幸福を追求する(神によって与えられた)権利があり、(権力者が被統治者から)それを奪うような政府や国家を拒否する権利がある
と言うもので、全く異議を唱える余地はありません。

 アメリカ独立宣言・全訳(参照)

 しかし、その自由と平等の背景には理神論と啓蒙思想的な理念が隠されていました。





ベンジャミン・フランクリン (1706年1月6日〜1790年4月17日)政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。

 1724年の18歳の時、印刷職人としてロンドンへ渡りると、1726年にフィラデルフィアに戻って印刷業を再開して「ペンシルバニア・ガゼット」と言う新聞を発刊しました。この新聞にメーソンの記事を載せた彼は、1731年メーソンに入会して、1750年には、フィラデルフィアの「セント・ジョンズ・ロッジ」の副グランド・マスターになり、1757年にはペンシルヴァニアの全メーソンの代表としてイギリスに渡っています。

 1775年レキシントンの戦いが起こった時に英国からアメリカに帰国してから独立宣言の起草委員の一人になります。

 そして、1776年にはアメリカの代表としてフランスに渡り、独立戦争のための支持をフランスから取りつけようと、フランスで最も有力なメーソンロッジの会合に足しげく顔を出し、そこに所属していた政治家、哲学者、芸術家や有力者などを動かし、1777年サラトガの戦いを契機にフランスが参戦すると、1778年米仏同盟条約が締結されることになったのです。

 この様に印刷業で成功を収めた彼は、政界に進出して成功するなど、理神論や啓蒙主義と密接な関係にあった当時の自然科学にも才能を発揮して、凧を用いた実験で雷が電気であることを明らかにした事でも有名です。また、己を含めて権力の集中を嫌った人間性は、個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、“アメリカの父”として讃えられています。



ジョージ・ワシントン (1732年2月22日〜1799年12月14日)アメリカ合衆国初代大統領。

 アメリカ合衆国の軍人であり、、政治家で、黒人奴隷農場主でもありました。

 1787年アメリカ合衆国憲法が制定され、1789年ワシントンが初代大統領に就任します。この時ワシントンは、連邦議会の行政機関として、国務財務陸軍司法の4省を設けてアメリカ政府の重要機構を確立すると、4長官の閣僚に国務長官トマス・ジェファーソン財務長官アレクサンダー・ハミルトン陸軍長官ヘンリー・ノックス司法長官エドモンド・ランドルを任命しました。

 1792年、大統領官邸ホワイトハウスの建築が始まり、20年後の修復作業で、外壁の傷を隠すため白く塗られました。


 1793年9月18日連邦議会の議事堂ワシントンDCに建設されますが、ワシントン大統領はその礎石式にメーソンの儀式用礼服を着用して出席しました(左図)。胸にはメーソンの標章を下げ、腰にはメーソンのエプロンをつけて。

 3年後政界から引退して、その3年後の1799年12月14日亡くなりました。



ワシントン記念塔

 エジプト式オベリスクの世界一大きな石塔です。

 ちなみに、“メーソンの儀式”にはエジプトの神話である「オシリス・イシスの伝説」の密儀が使用され、モーツアルトの「魔笛」が(背景はエジプト)が用いられています。

 この記念塔は、ワシントンが亡くなった年に彼の友人のジョン・マーシャル(1755年9月24日〜1835年7月6日)によって企画され、国家承認されたものです。

 記念塔の着工式には、ワシントンが議事堂着工式で使用したコテエプロンが使われました。

 落成式は1885年のワシントンの誕生日の2月22日、記念塔の高さは550フィート(166m)。オベリスクに高さは、底辺の一辺の10倍の長さという、エジプト古来の説が採用されました。


自由の女神像

 1886年、フランス政府はアメリカ合衆国独立100年を記念して、「自由の女神」像をアメリカに贈りました。製作者はフレデリック・バルトルディ

 自由の女神像は、ローマ神話の女神リベルタスをかたどった立像ですが、「大航海時代と南北アメリカ」の頁にも掲載しました「パルミラの神々」や日本の古事記の「三貴子」などはいずれも三神女性神が存在します。

 いずれにしても、偶像崇拝から始まった女神が一神教のキリスト教国家アメリカに立像された事は奇異ではありますが、自由と民主主義を象徴し、かつアメリカの独立と建国を記念する重要なシンボルであることは事実です。

 なお、この自由の女神は世界各地に有り、日本にもあります。





イギリスのインド進出

 オランダの勢力によって東南アジアや東アジアから締めだされたイングランドは、1639年マドラス(現チェンナイ)、1661年ボンベイ(現ムンバイ)、1690年カルカッタ(現コルカタ)など、盛んにインドに進出しました。

 目的はインドの主力商品、綿布と茶でした。インドの綿布は積出港の名がなまったキャラコとして有名ですが、茶は紅茶としてイングランド人の国民的飲料となっています。



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