復帰摂理歴史の真実

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■ 2. 大航海時代と南北アメリカ



はじめに(大航海時代に向けて)


 最初にみ言葉から。


 イスラエル民族の歴史を見ると、イスラエル民族は四十年間、荒野で流浪しながら貧しい生活をしました。生活面では飢えに苦しみ惨めでした。そしてまた、イスラエル民族がカナンの地に入って見ると、カナン七族は裕福に暮らしていたのです。仮にも、偶像を崇拝していたのに裕福だったのです。ですから、この人たちがどうしたかというと、息子、娘たちや自分がその家と関係を結んででも、もう少し良い暮らしができたらということを考えたのです。(「神様の摂理から見た南北統一」1259ページ)

 ところが、イスラエル民族は飢えて餅のことを振り返ってばかりいるうちに、カナン七族が定着していたのです。羊の群れをもち、財産をもって振る舞い、食べて遊ぶのを見て、どれほどうらうやましかったことでしょいうか。神様が願われる聖殿の建設、祖国光復は願いもせずにいたのです。その国を肥料として踏み越えていかなければならない立場にありながら、おなかがすいたから餅か飯をくれと言うのです。肉の塊か羊の肉でも食わせてくれれば、「これが一番だ。なぜ、荒野に引っ張りだして、このような苦労をさせるのか。何がカナンの福地だ。モーセが何様だというんだ」と言ったのです。ここから狂い始めたのです。(「神様の摂理から見た南北統一」1261ページ)

 イスラエル民族はカナンの地に入っていって、すべて滅びたのです。なぜ滅びたのでしょうか。四十年間、流浪していたイスラエル民族が定着して、カナンの地に住んでいる異邦人たちの風習と財産をうらやましがったのです。それを越えて、イスラエルの聖殿を建てなければならなかったのです。イスラエル民族が定着し、息子たちが定着する前に失われた聖殿を造り、神様に侍ってから国を収拾し、その次に自分の前後を整えて定着すべきだったにもかかわらず、国を失い、聖殿を建てずに自分自身がまず定着したというのです。(「神様の摂理から見た南北統一」1262ページ)


 上記、“偶像崇拝”し“裕福な生活”をしていた「カナン七族」。この背景を見ていくのがこれからの内容となりますが、イエス様をメシヤとして迎えていく上で外的な摂理展開と言えます。しかし、神の摂理を先導すべき選民イスラエルがこの外的摂理としての環境圏に主管される結果となったために、イエス様をメシヤとして地上に迎えることが出来ず、十字架によって摂理が東西に分かれ、西へはキリスト教がメイフラワー号で大西洋を渡ってようやく新しい摂理が展開される事になります。

 しかし、東洋においては、その(イエス様の)為に準備された宗教がメシヤを迎えられず、偶像崇拝と相まって変化していく事となります。




T.航海の草創期


 海上交易は河川の舟運として、古代文明の発祥の地から始まるります。
 ナイル川のエジプト文明、ユーフラテス川のメソポタミア文明、そして地中海



 最初は、イカダと丸木舟から始まりました。


 ナイル川(エジプト)とユーフラテス川(バビロニアやアッシリア)は舟運、ナイル川から地中海のウガリット(シリア西端の地中海沿岸の都市)の間をを海運、ウガリットからビブロス(レバノン、古代フィニキア人都市として栄えた)を中継地点として東へは陸上交易だったのです。



 エジプトとプント国との交易など紅海から海運交易が盛んになりますが、ペルシャ湾では海上交易は発達しませんでした。


 ウガリット神話(→バアル神




U.航海から海上交易へ


  レバノン杉

 ビブロスのレバノン杉の一番の買取手はエジプトでした。いずれも海路(地中海)でのの交易となります。

 レバノン杉は、腐食や昆虫に強く、材質が緻密で、真っ直ぐな木目をしていて、磨くと艶が出て、芳香性があり、船材、建材、墓材、香油(ミイラの防腐剤)などに利用されいました。

 紀元前3000年記には、レバノン杉の大部分ははビブロスからエジプトへの交易品ですが、一部は寄進物、時には略奪品であったといわれています。



  ヒラム (※下の写真はトトメス三世です)

 ソロモンとヒラムの贈答交易。(列王記上5章5節〜10節)

 エジプト王、トトメス三世(紀元前1479-1425)が神殿建設に熱心であったため、そのころ、膨大な量のレバノン杉が輸入されました。

 驕慢になったヒラムを、預言者エゼキエルはレバノン杉の運命を操った一人として断罪しています。(エゼキエル書27章)

 このエゼキエル書ですが、28章は堕天使ルーシェルを表現した章と言われていますが、ヒラムも同じよう立場と状況のもとで過ちを犯した言えるのでしょう。このヒラムが神殿建設を担い、イエスの父ヨセフが大工(神殿造りもおこなった)だったことから「フリーメーソン」が成り立っています。



  ウガリット (左下写真はバッカス神殿)

輸出品

 ウガリットはメソポタミアからシリア砂漠を越えて地中海に入る交易路の出口で、穀物、ワイン、オリーブ油を産出していました。紀元前1900年から紀元前1200年ころに栄えました。

 バアル神殿遺跡のあるところで、地中海交易で活躍するフェニキア文明の原型と考えられています。


 ウガリットはヒッタイト帝国の支配下にあり、帝国はウガリットから富を吸い上げて繁栄していました。このころ古代エジプトの勢力圏にあったのがビブロスです。
 (紀元前16世紀〜紀元前1180年ころ)

 ウガリットには異国の商人も多く滞在していました。

 輸出品は、穀物、ワイン、オリーブ油、塩、木材、香油など。なかでも織物は人気があり、ビブロスやパレスチナ、ヒッタイトに送られました。

 ヒッタイトには貢物として送られたりもした、“深紅色”の高価な羊毛や衣類も含まれていました。ウガリットには深紅色染料の原料として、堆積した巻貝の殻が利用されていました。
 日本でも“紅花”を染料とした深紅色の織物は大変高価なものとされた歴史があることは知られているところです。


輸入品

 一方、ウガリットの輸入品は“”でした。




V.交易の発展と東方へ



 北朝イスラエルや南朝ユダに影響を与えた、物質的豊かさと偶像崇拝はここからとも言うべき中東シリアは東方にも計り知れない影響を及ぼしました。


 メソポタミアとの交易ルートとしての、シリア中央都市パルミラは、重要な世界遺産としての古代都市です。


ベル神を祀っていたベル神殿。

 ここで注目したいのは、“パルミラの神々”です。左に“月の神”、中央に“最高神”が位置し、右に“太陽神”の三神が祀られています。

 あたかも日本神話の“月讀命” “建速須佐之男命” “天照大御神”を彷彿とさせるものとなっています。


 さて、“多神教(偶像崇拝)”ですが、その始まりは“一神教”です。三神 ・ 三位一体。どちらも”唯一神”からきていると言えるのですが、この事は後ほど述べることに致します。


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 アラビア南部のシバ王国は、すでにアフリカ、メソポタミア、シリア、エジプトなどと広汎な貿易に従事していました。“シバの女王”は贈答貿易をしていたとされ(太古の中国も朝貢外交をしていました)、特にアフリカ各地の金、銀、銅、真珠、香料、薬などを中継貿易していましたが、ソロモン王がアカバ湾に港を建設し、航海貿易を支配したためソロモンに税金を支払って海上交易権を維持していたと言われています。


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 アケメネス朝ペルシア王のダレイオス大王(紀元前558年4〜紀元前486年)は、エジプトに進出して、ナイル川と紅海間の水路を建設し、紅海、ペルシャ湾、インダス川の河口方面との交易を盛んにしようとしました。

 アルゲアデス朝マケドニア王のアレクサンドロス大王(在位紀元前336年〜紀元前323年)の東方遠征とヘレニズム世界の建設により、中国、中央アジア、インド、アラビアから地中海に向けての交易が拡大し、地中海の華美が促され、このユーラシア大陸規模の交易となったのです。


アレクサンドロスが紀元前331年にアレクサンドリア(ナイル川の河口)
セレウコス一世が紀元前300年に西シリア、アンティオキア(オロンティス河畔)、セレウケイア(ティグリス河畔)
カッサンドロスが紀元前315年にテッサロニカ(マケドニア)

などの交易港を建設しました。



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 当時の、東方への交易ルートは3つありました(下記)。中でもシルクロードは有名ですが、交易に限らずあらゆる面で西と東を結んだルートとなりました。

北方ルート (カスピ海北岸を経て、黒海北岸のボスポロス王国を通過する)

中央ルート (インドからバビロニアまで陸路または海路で、そこから小アジア、シリア、フェニキアの海岸に向かう)

南方ルート (インドから海路で南アラビア、南アラビアから紅海を北上して、エジプトのアレクサンドリアやフェニキアの海港都市に向かう)



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 アルケサス朝パルテリア(紀元前247年〜紀元前228年)には、ミトリダテス二世(在位紀元前123年〜紀元前88年)の時、漢の武帝が西域遠征に派遣した張騫(ちょうけん)の副使が到来し、中国(このころの中国は“”である)との“絹交易”(「シルクロード」の謂れ)も開始され、セレウコス朝(紀元前312年〜紀元前63年)と盛んに交易がなされました。

 プトレマイオス朝はヘレニズム世界において最も裕福な国家でした。
 この王朝が南方ルートを通じて東方交易に取り組んだ南海交易は、プトレマイオス一世(紀元前305〜紀元前285年)の頃は現実には紅海交易にとどまりました。
 プトレマイオス二世になると、ナイル河と紅海を結ぶ運河の改修工事が行われ、交易の拠点となる都市を築きましたが、これは紅海交易にとどまり、インド交易に乗り出すものではありませんでした。
 ところが、インド人は自らの船でアラビア南岸まで物資を送り、アラビア人などが紅海方面に送っていたと言われています。

 プトレマイオス七世の治世末、キュジコス人エウドクソスがエジプトからインドに初めて航海しました。(紀元前120年〜紀元前116年頃)
 それは、紅海に漂着して助けられたインド人が探検隊を案内して、インドから香料や宝石を積んでエジプトに帰航した船にエウドクソスがたまたま乗り込むことができたためですが、これを通じて海上交易としての“インド交易”が始まっていくようになったのです。



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