復帰摂理歴史の真実
インドへの大航海と滅亡した文明 <トップ> メシヤ再降臨準備時代の幕開け

■ 第三章 第三節 ローマ教皇庁の腐敗と大航海時代
     c. 葡・西の盛衰と英・蘭の台頭


1. 北米の発見と植民地化

<参照>
 スペインによるアメリカ大陸の植民地化

 (1) 北米の発見

  @ レイフ・エリクソン

 アイスランド生まれのレイフ・エリクソンは、グリーンランドを発見しグリーンランドで育ちました。若い頃に祖父の故郷のノルウェーに渡って滞在すると、ノルウェー王と会見してキリスト教に改宗し、グリーンランドに帰ると教会を建てました。
 レイフはノルウェーからの帰還後、997年に西へと探検航海に出ました。最初にカナダのバフィン島にたどり着き、そこから南に向かいラブラドル半島を経てニューイングランドまたはニューファンドラン島付近まで到達していました。
 レイフ・エリクソンとアイスランド・グリーンランドのヴァイキングたちが、クリストファー・コロンブスの大航海時代における「発見」に先立つこと500年前に、すでに北アメリカに上陸していたヨーロッパ人であったことは確実な事です。

  A アメリゴ・ヴェスプッチ

 1500年カブラルが、ポルトガル王の命によって喜望峰を超えてインドに向かう途上で、南緯16度52分の地点でブラジルを発見しました。
 ポルトガル王は、発見された土地が単なる島なのか、あるいはスペインが既にその北側を探検していた大陸の一部なのか知ることを望みましたが、その為に測量士であるアメリゴ・ヴェスプッチ(右図)がその調査の責任者となりました。ヴェスプッチが初めて新大陸の発見を認識し発表したことによって、彼の名前をとって “アメリカ” と命名されました。



 (2) 北米の征服

 北米に向かった6つの遠征隊は、遠征先の征服を目指したが、大小に及ぶインディアンとの攻防が展開されました。
  • 1513年フアン・ポンセ・デ・レオン(スペインの探検家)がフロリダ半島を探検したのを皮切りに、北アメリカの征服が始まった。
  • パンフィロ・デ・ナルバエス(スペインの軍人)は1527年1528年にフロリダとジョージアを通り、初めてテキサスへ入った。黄金と財宝の探索途上でインディアンによる抵抗や反撃によって次々と隊員が倒れる悲惨な遠征となり、最終的にメキシコ市まで帰還できたのはアルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカら4名のみであった。生還したカベサ・デ・バカは黄金の都シボラの話を恐らくは誇張して聞かせた。
  • ナルバエス遠征隊の話に興味を示したエルナンド・デ・ソト(スペイン人探検家)は、1539年にフロリダに上陸、アパラチア山脈まで北上した後にミシシッピ川を渡り、西のオクラホマまで探険した。
     途上、幾度となくインディアンと戦闘(1540年の「マビラの虐殺」など)を重ねてきたデ・ソトは、1542年5月21日シシッピ川の西岸にあったインディアンの村で熱病によって亡くなりましたが、彼はインディアンたちを服従させようと「不滅の太陽神」と名乗っていたので、彼の部下はソトが死んだことを隠さなければならず、デ・ソトの死体を砂の重りを入れた毛布で包み、夜の間にミシシッピ川の中央に沈めた。
  • 1540年フランシスコ・バスケス・デ・コロナドは西から探険し、メキシコ市から北上してアリゾナへ入ってグランドキャニオンを「発見」し、カンザスに到達して1542年に帰着した。
  • フェルナンド・デ・アラルコンスペイン語版英語版)は、カリフォルニアとアリゾナを探検し、コロラド川に到達した。
  • フアン・ロドリゲス・カブリリョ(航海士)は、1542年にバハ・カリフォルニア半島の探検に派遣されてサンフランシスコ湾の北まで行った。
 これら北アメリカの探険の全てが、黄金を発見するという目的としては失敗に終わったのです。

<参照>
 インディアン戦争
 インディアン(世界史の窓)



2. スペイン・ポルトガルの盛衰とイングランド・オランダの台頭

<注意>」「西」「」「」について、日本語では次のように表記され、いずれも略字です。
」➡「葡萄牙ポルトガル)」。
西」➡「西班牙スペイン)」。
」➡「英国イギリス)」。ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家で、イングランドウェールズスコットランド北アイルランドの4つの国で構成されています。
」➡「和蘭和蘭陀阿蘭陀荷蘭陀荷蘭尼徳蘭 :(オランダ)」。

 (1) スペインとポルトガル

  @ 物質的富を求めて

 イベリア半島はイスラーム勢力の支配下にありましたが、キリスト教徒の再征服事業(レコンキスタ)1492年をもって完了すると、ポルトガルとスペインはアジアの産物を求めて大航海時代が始まりました。
 当時、十字軍以来イスラーム世界を通じてヨーロッパに知られていた東洋の香辛料は、高緯度地方の長い冬を生き抜くための食肉保存と味付けのために必要なきわめて高価なもので、同じ重さの銀と交換されるほどでした。
 その東洋を目指してアフリカ西岸を航海したポルトガルは “金交易” での豊かな富に恵まれました。
 その影響からスペインも負けずと、マルコポーロの「東方見聞録」にある “黄金の島ジパング” を目指して富を夢見てコロンブスを送り出し、ポルトガルの後を追うがごとく出航させましたが、たどり着いたカリブ海諸島では、キリスト教の信仰を強要し、従わないものは粛清し、原住民を奴隷のごとく扱い金や豊かな産物をむさぼりとっていくのでした。挙句の果てにはインカアステカなどの古代文明は消え去ってしまい植民地化されてしまいました。
 一方ポルトガルは、ヴァスコ・ダ・ガマがインドにたどり着くと東洋で広く交易を始めていくようになります。当然、スペインやポルトガルの王や貴族たちがキリスト教の布教にも務めていくようにもなるのですが、このスペインとポルトガルの間に紛争が始まります。

  A 西をスペイン、東をポルトガル

 この紛争には、ローマ教皇が仲介となり1493年に大西洋上に教皇による分界線を定め、1494年トルデシリャス条約によって教皇子午線の西をスペイン東をポルトガルに分けると、1529年サラゴサ条約(東の子午線)を締結してそれぞれの勢力範囲を決めました(左図)。
 この頃アメリカ大陸では、ヨーロッパ各地から多くの植民者がわたって植民地化の時代を迎えました。スペイン王室は、植民者に先住民支配の信託を与えて征服者や入植者に対して、その功績や身分に応じて一定数のインディオを割り当てて、一定期間使役する権利を与えるとともに、彼らを保護してカトリックに改宗させることを義務としました(エンコミエンダ制
 まもなくして、インディオを使役して鉱山でを掘り出し、カリブ海域でサトウキビの栽培が始まり、ヨーロッパ大陸の需要のためだけに強制労働が課せられ、労働不足を補うために黒人奴隷をアフリカ西海岸に求めたのです(奴隷貿易)。
 このような中で、スペインフェリペ2世(1527年5月21日〜1598年9月13日)のころ絶頂期を迎えましたが、イングランドエリザベス1世(1533年9月7日〜1603年3月24日)はスペインの覇権に挑み、海賊たちがスペイン船を襲うのを公認、承認しました。

 (2) イングランドとオランダの台頭

  @ 改革と戦争

 1577年、南イングランド出身で熱心な新教徒でもあった海賊フランシス・ドレーク船長は、「新大陸」沿岸を航行するスペイン船を私掠船で次々に襲って銀を奪い、莫大な富を得て、そのまま太平洋を横断してイングランドに帰還した、史上2番目の世界周航者です。
 さて、カトリック系のスペインに対しカルヴィン派が多いネーデルラント(低地地方)がスペインに対して反乱を起こしました(八十年戦争)。イングランドはネーデルラント側を支持したため、イングランドとスペインの関係は悪化します。
 1588年アルマダの海戦により、イングランドがスペインの無敵艦隊を壊滅したことを契機としてスペインの勢力は下り坂となり、北部ネーデルラント(オランダ)とイングランドが覇権争いを繰り広げることとなります。
 北部ネーデルラント7州は、スペインとの戦争中の1581年、連邦共和国としてとして独立宣言して、17世紀はじめに事実上の独立をはたしたのが共和制オランダでした。
 反宗教改革の中心だったスペインは、フェリペ2世の時代にカルヴィン派の商工業者の多いネーデルラントに旧教(プロテスタント)を強制したため、それに反発した人々の八十年戦争が起こって、次第にスペインの支配から離反していくことになったのです。
 この頃からすでに “宗教改革” の動きが起こり始めていたのですが、その第一弾は “カルヴィン主義” によるものですが、この事に関してはこの後の「宗教改革」のページで述べることにいたします。
 さて、アジアの重要中継点をポルトガルから奪ったオランダは、中国やインド、ベトナムの生糸を日本に運んでを入手すると、それを元手に香辛料・砂糖・茶・陶磁器などのアジアの産品を獲得して、アジア各地やイスラーム世界、ヨーロッパに転売して隆盛を築きました。
 この様にオランダの黄金時代を迎えている頃、ヨーロッパでは最大の混乱として三十年戦争(ドイツとスイスでの宗教改革によるプロテスタントとカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争)が起こります。「17世紀の危機」と称されている不況がヨーロッパ全体を覆っていたのは気候の寒冷化による農作物の不作、疫病の流行、宗教の対立などにより各国では王と貴族が対立し、農民は一揆を起こすなどの混乱が起こり、ついには神聖ローマ帝国で新教と旧教の宗教対立と複雑な地域の事情が複合して始まったのが三十年戦争です。
 この頃オランダのフーゴー・グロティウス(法学者)は国際法の確立を提唱し、それぞれ主権を主張する国々は、宗教や文化の違いをこえて対等に外交交渉をくり返していく中で、戦争のルールを定めることによって勢力均衡をはかることとし、1648年10月24日にヨーロッパのほとんどの大国が参加して、現在のドイツでウェストファリア条約が締結され、30年続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争に終止符が打たれました。

<参照>
 宗教改革
 ジョン・ウィクリフ(宗教改革の先駆者)



  A フェリペ2世

 フェリペ2世(在位:1556年〜1598年)はスペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した国王で、絶対主義の代表的君主の一人とされています。
 神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル王マヌエル1世の娘イザベルとの間に生まれました。
 「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」と述べているほど、フェリペ2世はカトリックによる国家統合を理想としました。
 1580年ポルトガル併合によって、フェリペ2世はインディアス(新大陸)、フィリピン、ネーデルラント、ミラノ公国、フランシュ=コンテ(以上カスティーリャ王国領)、サルデーニャ島、シチリア島、ナポリ王国(以上アラゴン連合王国領)、ブラジル、アフリカ大陸の南西部、インドの西海岸、マラッカ、ボルネオ島(以上ポルトガル王国領)という広大な領土を手に入れ、「太陽の沈まぬ帝国(右図は1598年のフェリペ2世の帝国)」と呼ばれるスペイン最盛期を迎えました。また、1584年には日本から来た天正遣欧少年使節を歓待しています。


  B エリザベス1世

 1558年11月17日メアリー1世が死ぬと、1559年1月15日ロンドン、ウエストミンスター寺院戴冠式が執り行われました。25歳で王位継承したエリザベス1世(イングランドとアイルランドの女王 / 在位:1558年〜1603年)はウイリアム・セシルを国王秘書長官に任命しました。
 1559年1月にエリザベス女王即位後の最初の議会が招集され、エリザベスとセシルはイングランド国教会のプロテスタント化を推進する「国王至上法」と「礼拝統一法」を議会に提出しました。この法案は否決されますが、女王とセシルは法案を軟化させる修正を行い、1559年議会に法案を再提出したのです。
 「国王至上法」では父ヘンリー8世時代の「国王至上法」の「首長」という表現を「統治者」に代えることで君主が教会について万能ではないことを暗示し、カトリック聖職者に受け入れやすくしていた。また「礼拝統一法」では使用を義務付ける国教会共通祈祷書(右図:1559年版祈祷書)についてプロテスタント的な1552年版の物をより曖昧にして、広範な信徒に受け入れやすくしたなどの処置により、「国王至上法」は大きな反発なく可決され、「礼拝統一法」もわずか3票差ながら、なんとか貴族院を通過させることができたのです。
 しかし、政治・経済面においてイングランド国内の実態は、長引く戦争と不況、疫病がはやり、生活水準は低下し貧困があふれていました。エリザベスは経済を活性化するために王立取引所を設立、病気や貧困を救済する為の救貧法などを制定しましたが効果を得られず、女王の政治に議会が反発するようになりました。1601年、議会と対立したエリザベスは全議員を前に有名な「黄金演説」をおこないました。

聴衆の皆さん!

 我々はあなた方の宣言を聞き、あなた方の状況に対する懸念を認めます。
 私達の愛情を打ち消すほど、己の問題にかかわずらう君主はいません。
 私の目の前に置かれた宝石ほど、高価な宝石などありえません。それこそが、あなた方の「」なのです。いかなる宝や金貨よりも尊ぶゆえにそれを称賛する術を知るが故に、いかにそれが貴重かを心に留め、愛するのです
 そして思うに、神は私を高い地位に就けられたけれども、私をあなた方の愛情を得て統治してきたという事にこそ、私の王冠の栄光であると考えている
 私は神が私を女王にならしめた事ではなく、かくも深く感謝を捧げてくれる臣民を統べる事を喜びます。
 それ故に、私は己の義務を果たす事以上の事を為そうとは望みません。
 ...私は定められた命以上に長く生きて統治する事を望んでいるわけではないが、その統治はあなた方に良き事をはかるべきものである。(あなた方は、これまで、私以上に力強く賢明な君主を持ってきたし、またこれからも持つであろう。しかし...) 私以上にあなた方を愛し、心にかける君主は今まで持ったことはなかったであろうし、これからも持つことはないであろう。


 このようなエリザベスの演説は常に国民の心を捉え感動させ、不況の中にあっても決して無理強いをしない政策が国民の支持を得たのでした。国内巡幸の折りには女王の姿を目にして国民は歓喜の声をあげ、女王もそれに親しく応えられたといいます。1603年エリザベス1世は惜しまれながらこの世を去りました。

 <参照>
 エリザベス1世とメアリー・スチュアート
 「監獄から玉座へ」英女王の壮絶人生
 イギリス東インド会社



インドへの大航海と滅亡した文明 <トップ> メシヤ再降臨準備時代の幕開け