復帰摂理歴史の真実
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■ 第三章 第四節 メシヤ再降臨準備時代の幕開け
     f. 英中印トライアングルとアヘン戦争


1. 英中印トライアングル

 (1) インド、ムガル帝国からインド帝国へ

 ヨーロッパが激動の時代を迎えた16世紀、インドでは最後のイスラーム王朝であるムガル帝国(1526年〜1858年)が成立しました。建国の祖は、かつて中央アジアに覇を唱えたティムール帝国バーブル(在位:1526年〜1530年)です。
 第3代アクバル(在位:1556年〜1605年)の時代には、インドのほぼ全域を支配下に置きました。アクバルは自治の安定を図るため、国民にイスラーム教への改宗を強制せず、またそれまで非イスラーム教徒に課せられていたジズヤを廃止しました。こうした融和政策が功を奏し、ムガル帝国は19世紀まで長期政権を築きます。第5代シャー・ジャハーン(在位:1628年〜1658年)の時代にはイスラーム文化とヒンドゥー文化が融合したインド・イスラーム文化が生み出されました。世界遺産タージ・マハルがその代表的な建造物です。
 その後、イギリスが中国()とのアヘン戦争(1840年〜1842年)に勝利すると、中国市場を開拓する一方で、インドの植民地化にも着手します。17世紀まで、インドは世界に冠たる綿製品の輸出国でした。しかし18世紀、イギリス産の綿製品がインドへ流れてくると、インドの綿織物業者はこれに太刀打ちができずに没落。都市や農村では失業者が溢れ、没落民の多くは植民地の労働力として南アフリカへ流れていきました
 そうした状況下の1857年、デリー北部のメーラトで東インド会社の傭兵セポイの反乱(1857年〜1859年)が勃発します。新しく配られたエンフィールド銃の弾薬筒を包む油紙に使われている獣脂が牛なのか豚なのか、その確認がなされないことに反発したヒンドゥー教徒・イスラーム教徒のセポイが立ち上がったのです。この反乱に手工業者や農民、藩国王までもが参加。のちのインド民族運動の先駆けとなりました。しかしイギリス軍によって反乱は鎮圧され、ムガル皇帝はビルマへの流罪に処せられました。ここにムガル帝国は滅亡します。代わってイギリスがインドの直接統治に乗り出し、インド帝国を樹立しました。

 (2) 中華思想と清帝国の腐敗

  @ 明から清へ

 16世紀、ヨーロッパ諸国が大航海時代で活気づいていた頃、でも国際交易が活発化しました。特に南米やメキシコで銀が採掘されるようになると、メキシコからマニラを中継して明に大量に流入することになりました。その見返りとして輸出されたのは、陶磁器などでした。当時、これらの品々はヨーロッパで高値で取引されましたから、スペインやポルトガルなどはせっせと明に銀を運んだというわけです。
 やがて、明国内では地方の農村にまで銀が浸透するようになります。16世紀後半には、地税と丁税(16歳〜59歳の成年男子に課された人頭税)をすべて銀で納入させる一条鞭法が導入されました。
 しかし16世紀末、日本の豊臣秀吉が朝鮮への侵攻を開始します。明はただちにこれを鎮めるべく軍を派遣しましたが、国内でもボハイの乱(1592年)や楊応龍の乱(1591年〜1600年)など少数民族の反乱が続発。膨大な戦費が重なり、明の財政は窮迫しました。
 一方、この混乱に乗じて、中国東北部ではヌルハチ(在位:1616年〜1626年)のもと女真族の統一が進み、1616年後金国が興りました。2代ホンタイジ(在位:1626年〜1643年)の時代にはチャハル部(内モンゴル)を制圧し、国名を『大清(清)』(左図は清の国旗)と改称します。1637年には朝鮮半島に侵攻し、李氏朝鮮を服属させました。
 明にとって最大の強敵の出現です。しかし明はもはや国内の反乱を鎮める力もなく、1644年李自成(1606年〜1645年)率いる農民反乱軍によって滅ぼされてしまいました。その後、旧明の将軍・呉三桂(1612年〜1678年)に導かれた清軍が李自成軍を追い払って北京を占領。3代順治帝(在位:1643年〜1661年)が改めて北京で皇帝として即位し、清が明に代わって中国を統一することを世に知らしめました。

  A 中華思想における朝貢と冊封

 中国の古来の君主の号は「王」でした。しかし、秦の始皇帝(在位:BC246年BC221年)以後「皇帝」の号が用いられるようになりました。この皇帝とは王の上位に位置し、女性の場合は女帝と言い、皇帝の正妻を皇后と言います。始皇帝は中国統一を成し遂げ最初の皇帝となった人物で、万里の長城の建設で有名です。
 ところで、この皇帝という言葉ですが、「皇」と言うのは “光り輝く” “素晴らしい” などの意味があり、「天」を指す言葉です。また、「帝」は “天帝” “上帝” など天を統べる神の呼称として用いられていました。つまり、皇帝とは、この皇と帝の2つの文字を合わせたものであり、中国全土のどの君主をも超えた存在として君臨しました。

<参照>
 中国帝王一覧


   a)中華思想

 中華思想とは、「中国が宇宙の中心であり、その文化や思想が神聖なものである」とする考え方です。「自分たちが世界の中心であり、中心から離れたところの人間は愚かで服も着用しなかったり、獣の皮だったり、秩序もない」と言うことから、四方の異民族として「四夷」と言う蔑称をつけました。東夷西戎北狄南蛮の4つ(右図)がそれです。
 尚、「天子」とは「天命を受けて自国一国のみならず近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のことで、皇帝の別名となります。

   b)朝貢

 朝貢とは、中国の皇帝に対して周辺諸国の君主が貢物を捧げ進貢)、これに対して皇帝側が貢物を受け入れ入貢)て恩賜を与えるという形式をもって成立します。つまり、周辺諸国の君主たちが、「中国の “” を慕って」朝貢を行い、これに対して恩恵(回賜)を与えるという形式ですが、朝貢を行う国は、相手国に対して貢物を献上し、朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜します。
 四夷から朝貢を受けることは “皇帝の徳を示す” ことと見なされ、内外に向けて “政権の正統性” を示すことができるので、朝貢には莫大な費用がかかるにもかかわらず歴代中国政権は朝貢を歓迎してきたのです。

   c)冊封

 冊封とは、「(文書)を授けて封建(定められた領域を支配)する」という意味で、冊封を受けた国の君主は、中国皇帝と君臣関係を結ぶ事を言います。中国は長い間、中華思想を誇りとして朝貢と冊封によって縦的秩序社会が堅固に形成されていたので、他国が簡単に侵略することはできませんでした。この、“物品によって支えられていた信頼を、文書で明確化していた関係” は表と裏の社会をつくり出して、やがては腐敗して行くことになります。

   d)三跪九叩頭の礼

 三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)とは、(ひざまず)いて、三叩頭(3回額を地面に打ち付けて行う礼)を3回繰り返すのでこの様な呼び名が付きました(右図)。
 イギリス使節団が中国皇帝に謁見しようとした時に、中国側はこれを強要しましたが、使節団は侮辱の証として拒否したため、中国側とイギリス側との間には壁が生じたまま、アヘン戦争に向かって行くこととなったのです。



  B 清帝国の腐敗とアヘン戦争

 康煕帝(清の第4代皇帝)、雍正帝(清の第5代皇帝)、乾隆帝(左図 : 清の第6代皇帝)と3代続いた清は、乾隆帝の「十全武功」と呼ばれる10回の外征などで朝貢が盛んになり、「四庫全書」の編纂による文化的大事業により最盛期を極めました。さらに、イエズス会の活動を禁止すると、完全な鎖国体制に入ったのです。
 1793年に、イギリスの使節としてマカートニーが入朝したのは乾隆帝の代ですが、上記した「三跪九叩頭の礼」は免除されましたが、貿易上問題となるイギリスの要求を退けています。
 続いて清の第7代皇帝である嘉慶帝(在位:1796年2月9日〜1820年9月2日)の頃は、豊かな農作物の恵みによって人口も2億の倍となる4億を超え、この頃から腐敗や退廃が始まって行きました。そのため各地で反乱が起こり、中でも「白蓮教徒の乱(1796年〜1804年)」と言う白蓮教の信徒が起した反乱は有名です。そして、イギリスからアヘンの密輸が急激に増大してくると、鎖国の崩壊と清の滅亡の萌芽が始まっていくことになるのです。
 続く、清の8代皇帝の道光帝(在位 1820年10月3日〜1850年2月25日)の時からイギリスとのアヘン戦争に突入することになります。皇族の中にもアヘンが蔓延して、健康や風紀を害するようになると清の貿易も黒字から赤字に転換して来ました。ついに道光帝は、1836年林則徐欽差大臣に任命し、アヘン密輸取締りを命じました。
 翌1837年、林則徐は断固たる態度で禁輸に望むと、商人たちのアヘンを強制的に没収しこれを焼き払うなどすると、1840年には怒ったイギリスのアヘン商人らが広州を攻撃すると、イギリス本国も清と自由貿易を開くことを目的に艦隊を出して攻撃したのです(第一次アヘン戦争)。

 (3) アヘンと英中印の三角貿易

  @ 芥子の刮ハから精製した阿片

 アヘン(阿片)は、ケシ(芥子)の実から生産される麻薬の一種です。ケシ(左図左)の開花後の未熟果(左図右)の “ケシ坊主” の表皮に朝のうち浅い切り込みを入れて出る乳液状の分泌物を、夕方掻き取って集めて乾燥させると黒い粘土状の半固形物になります。これが不純物を大量に含んだ生アヘンですが、更に精製して使用します。
 アヘンには10%のモルヒネが含まれていて、鎮痛鎮静薬としての薬効があるため、極めて古くから知られていて、製薬原料として広く利用されています。しかし、過度の服用は幻覚症状などを引き起こし、大変危険なため法律などによってその使用が制限されています。
 名前の由来は、ギリシャ神話に登場する夢の神モルペウスに由来するとされています。「夢のように痛みを取り除いてくれる」ところから来ているとされています。

  A 英中印の三角貿易

 中国では、インド原産の綿花の栽培が明政府の勧奨もあって全土に普及し、綿布は麻布にかわって大衆的日常衣料となっていました。
 そんな中、イギリスでは国民的飲料としてのお茶を中国から大量に買い取るために沢山の銀貨を支払っていました。当初イギリスは自国の綿工業で生産した綿織物を中国に輸出し、銀の流出を防ごうとしたのです。しかし質において南京木綿に劣り、イギリスからの運賃がかさみ価格が割高となり、中国では思うように売れませんでした。そのためイギリスは、綿織物に代わってインドで生産していたアヘンを密輸して中国に売りつけたのです(右図)。
 当時中国では、薬としての効用よりは、むしろ社会的矛盾や腐敗からくる不満や不平が山積していたことによって麻薬としてのアヘンが大量に出回ったのです。清政府はそれを禁止したのですが、時既に遅く、イギリスの商人のみならず、清の商人までもが闇で行なっていたため歯止めが効かず、強制的に取り締まった結果、戦争に発展してしまいました。




2. 清の敗戦と不平等条約

 (1) 終戦と戦後処理

 1840年に勃発したアヘン戦争は伝統的中華世界の崩壊へと導き、日本に鎖国から開国に向かわせた重要な出来事です。1842年8月29日南京条約に調印し清の敗戦で幕を閉じました。

 南京条約の内容は下記の通りである。
  1. 香港島割譲
  2. 賠償金2100万$を四年分割で支払う
  3. 広州、福州、廈門、寧波、上海の5港開港
  4. 公行の廃止による貿易完全自由化
 結果として、香港がイギリスの植民地となり、賠償金を支払い、完全な自由貿易をせざるを得なくなった中国ですが、イギリスは朝貢体制を打破し、中国の厳しい貿易制度を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせようと、その機会をうかがうようになり、第二次のアヘン戦争とされるアロー戦争を招いてしまう結果となりました。



 (2) 第二次アヘン戦争(アロー戦争)

 南京条約の締結によって香港がイギリスの植民地となり、清の敗戦となったことによって、アヘンは清国内のみならず国外へも撒き散らされる結果となりました。
 しかし、清国内での反英運動も激しく、貿易の自由化はイギリスの思惑通りには行きませんでした。
 1856年10月8日に、清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行うと、清人船員12名を拘束し、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕しました。
 これに対して、当時の広州領事ハリー・パークスは、清の両広総督・欽差大臣である葉名チン(ショウ メイチン)に対してイギリス(香港)船籍の船に対する清官憲の臨検は不当であると主張した事がきっかけとなって始まったのがアロー戦争第二次アヘン戦争)です。
 これにフランスもイギリス側として参戦し、1857年12月29日には英仏連合軍は天津を制圧して天津条約(不平等条約)を結びました。

 天津条約の内容は下記の通りである。
  1. 軍事費の賠償(イギリスに対し400万両、フランスに対し200万両の銀)
  2. 外交官の北京駐在
  3. 外国人の中国での旅行と貿易の自由、治外法権
  4. 外国艦船の揚子江通行の権利保障
  5. 外国艦船の揚子江通行の権利保障
  6. 牛荘(満州)、登州(山東)、漢口長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州海南島)、南京(長江沿岸)など10港の開港
  7. 公文書における西洋官吏に対して「」(蛮族を指す)の文字を使用しない
 ところが、この後も清は抵抗を続けた結果、連合軍は北京を制圧して、1860年北京条約が締結されることなったのです。

 北京条約の内容は下記の通りである。
  1. 英仏への800万両の賠償金の支払い(天津条約で課せられた額600万両より増額)
  2. 天津条約の実施(北京への外交官の駐留等)
  3. 天津の開港
  4. 清朝による自国民の海外移住禁止政策の撤廃と移民公認
  5. 清朝が没収したフランスの教会財産の返還
  6. 英国へ九竜半島の南部九竜司地方(香港島に接する部分)を割譲

 さらに、1858年5月28日にはロシアとの間でアイグン条約が結ばれて、清北東部がロシアに割譲されました。
 右図は、右側の薄い赤が外満洲で、条約でロシア領と確定した部分。なお、ロシア帝国が設置した「沿海州」は「沿海地方」のほかオホーツク海沿岸全域に及んでいました。

<参照>
 世界遺産と世界史46.アジアの衰退
 インドの歴史3(ムガル帝国)
 インドの歴史4(イギリスのインド進出〜印パの分離独立)


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