復帰摂理歴史の真実

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イスラム教の誕生と成立 <トップ> 大航海時代と南北アメリカ

■ 1. イエス誕生の秘話
     g. ローマ教皇庁の腐敗と十字軍



 さて、これまでの流れを簡単に図解しておきましょう。

 アダム家庭において、カインのアベル殺害によって、摂理は「セツ」の系統へと引き継がれていき、ノアの家庭へとなります。

 ノアの家庭では、次子ハムの失敗によって、神側が長子を取り戻し、セムの子孫から救世主メシア(イエス)が誕生することとなります。

 しかし、イエスが十字架で殺害されることによって、復帰摂理も霊肉分離した如くの摂理となり、イエスの霊的復活によって出発したキリスト教徒は聖地エルサレムを追い出され、イエスを十字架に追いやったユダヤ教は聖地エルサレムの壁に向かって嘆いている状態となり、聖地エルサレムの中心部をイスラム教が占めるところとなって行きました。

 ところが、要となるキリスト教が協議やその取り扱いで混乱しているところへ、ゲルマン民族が沢山流入してくるようになり強い影響力をもつと、その対策に結局は東西の分裂という結果となってしまします。

 さて、イスラム教は内部分裂モンゴル軍の侵攻はあったものの、むしろそれによって活気が増し、勢力を拡大していく様になります。

 イスラムの攻勢に危機を感じた東ローマ皇帝は、西ローマ教皇に助けを要請しますが、西ローマ教皇はここぞとばかりに皇帝と手を結び十字軍を編成して、イスラム社会からの聖地エルサレム奪還掛け声に、皇帝から手厚いもてなしと富と権力を得た教皇は腐敗し堕落していくようになり、十字軍は大義とした目的も失敗に終わり、結局は皇帝の前に無力な立場に落ちていくようになりました。





 み言葉より

 十字架で亡くなったイエス様について見ると、殺人強盗である右の強盗がイエス様と共に逝きました。もし右の強盗がその場にいなかったとすれば、イエス様は地に対して、人間に対して関係を結べる何の因縁もなかったでしょう。 けれども、右の強盗が死ぬ立場でイエス様の味方に立って、イエス様を擁護しました。人間歴史においてイエス様の味方になった最初の人は誰でしょうか。ペテロでもなく、イエス様の親でもなく、イスラエルの国でもなく、ユダヤ教でもありませんでした。  ……(中略)……
 彼が中心になっているという事実は、彼が使徒たちよりもましだということを物語っています。ペテロよりもましなのです。
 なぜなら右の強盗は、内容は知らなかったとしても死ぬ立場で命が尽きるまで、イエス様に侍り得る方向性を備えました。しかしペテロやヤコブのような十二使徒は、内容を知り方向性を備えると誓った者たちでありながらも、方向性を備えられませんでした。 それゆえ右の強盗が、人類歴史上において地に代わって、未来を再起させ得る中心的な存在になった事実を、皆さんは知らなければなりません。(イエス様の生涯と愛 246頁)

 イエス様を中心として、その十二弟子と七十門徒が完全に一つになれば、歴史過程で失敗したその時代ごとに蕩減できなかったすべての男性たちの失敗が蕩減されるのです。 ……(中略)……
 このような土台、すなわちこのような背景の上に強固に立ち、女性を求めて母の基準をつくらなければならないのです。 ……(中略)……
 これによって第二の垣根をつくり、今日、男性を中心としたキリスト教の歴史を再編成することができたという事実を知らなければなりません。 このようにして霊的な基準を中心として、今まで二千年間数多くの殉教の歴史を経ながら発展させてきたのが、キリスト教の歴史なのです。(イエス様の生涯と愛 285-287頁)

 今日のキリスト教について言えば、キリスト教の数多くの教派はなぜ生じたのでしょうか。キリスト教の中に教派ができたという事実は、「怨讐を愛せよ」というキリスト教の教理とは異なるのです。 キリスト教の教理は「怨讐を愛せよ」です自分の教会内では愛しているかもしれませんが、キリスト教徒同士が戦っているのです「あなたの兄弟姉妹を愛せよ」と言いました。キリスト教の兄弟とは、キリスト教です。 長老派教会、メソジスト教会、ホーリネス教会、すべて兄弟です。
 真なる伝統的主流思想に立っているキリスト教はどこなのでしょうか。怨讐を愛する教団になり、怨讐の国を取り戻すために怨讐を助けてあげ、再度生かしてあげようとするそのような教団が真なる教会なのです。 ……(中略)…… キリスト教が一つにならない限り、世界は一つになれません。(イエス様の生涯と愛 293頁)

 イスラエル民族が待ちわびたメシヤは来ましたが、イスラエル民族はそのメシヤが分かりませんでした。なぜ仕えることができなかったのでしょうか。簡単なのです。メシヤのみ旨は世界を救い、人類を救うところにあります。そして、そのイスラエル民族を選んで立てたのは、イスラエル民族のゆえに選んで立てたのではありませんでした。皆さんはこのことを知らなければなりません。統一教会を選ばれたのも統一教会のために選ばれたのではないのです。文先生が統一教会の責任者であっても、統一教会を立てた文先生のために選ばれたのではないのです。神様と世界のためにお選びになったのです。
 それゆえ、ヨハネによる福音書第三章十六節を見れば、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」とおっしゃったのです。神様がキリスト教を愛され、ひとり子を与えたのではありません。滅びるキリスト教は覚醒しなければならないのです。イエス様がキリスト教のために来たのではないのです。万民のために来たことを知らずにいるのです。イエス様がキリスト教だけのメシヤになるための方ではないのです。万民のメシアであることを知らずにいるキリスト教は滅びます。(神様の摂理か見た南北統一 90頁)





 ローマ教皇庁の腐敗と十字軍


 キリスト教が、ユダヤ教とイスラム教の影響を受け、振り回された挙句腐敗と堕落をもたらし、バビロン捕囚ならぬアヴィニョン捕囚に至り歴史は繰り返された結果となってしまいました。

 以下がその内容となりますが、1225年から1274年にかけて誕生した神学者、哲学者としてのトマス・アクィナスのキリスト教神学は、下記(統一思想)にもあるように、その不明確さが現実問題を解決するまでに至らず、多くの課題を残すだけとなってしまいました。





 聖像崇拝を巡る対立


330年 コンスタンティヌス帝の遷都により、ローマの首都はコンスタンティノープルに移る。

395年 テオドシウス帝の死とともにローマ帝国は東西に分裂。(西はローマ、東はコンスタンティノープル)

 東西の教会の関係は、西から東へとその優位さが移行していくようになるため、東西の首位権争いが始まっていったのですが、これは、単なる教会の争いではなく、皇帝や国王たちを巻き込んでの争いに展開していく事となって行きました。


476年 ローマ帝国滅亡

 ローマ教会はフランク王国との関係を深め、フランク王国は“ローマ教会の政治的保護者”となっていきます。
 このころ、フランク王国とビザンツ帝国(東ローマ帝国)とは対立関係にありました。


726年 ビザンツ皇帝レオン3世聖像禁止令を発布

 東西教会の対立が決定的とります。
 聖像禁止令は偶像を認めないイスラムへの対抗策聖像での伝道でゲルマン民族を改宗させたローマ教会が猛反発する。


843年 聖像崇敬が承認東西の争いは一時的に決着


1054年 東西教会は、結局のところ相互破門して分裂は決定的となった。





 教皇と皇帝の権力闘争と教皇の腐敗


<教会組織>

 西 ローマ教皇を頂点としたピラミッド型 ―→ 教皇と皇帝との癒着関係が始まっていき、教会が“世俗権”の優位に立つ様になっていきます。(教皇皇帝主義)

  地域ごとに独立し、皇帝が教会を支配します。(皇帝教皇主義)


<ローマ教皇の腐敗>

 8世紀、教皇がビザンツ帝国と対抗するため、世俗の君主である皇帝たちと提携します。
 教皇は皇帝から“”と“権力”を与えられ、皇帝は教皇の選出に関与”することになります。  10世紀には世俗側による聖職者の任命が当然となり、聖職売買聖職者の妻帯(本来、聖職者は独身を貫いた)が起こる。


1077年 皇帝は北イタリアのカノッサで教皇に屈服。(カノッサの屈辱

 教皇と皇帝との間で武力闘争まで及ぶこともありました。


1122年 皇帝側が教皇の聖職叙任権を認めて解決。(ヴォルムス協約

 13世紀初頭、インノケンティウス3世は、「教皇は太陽であり、皇帝は月である」と豪語するまでに至りましたが、この後、教皇の力は衰退の一途をたどっていく事となります。





 トマス・アクィナスによる新たな火種

  <頭翼思想>

 キリスト教神学を確立したトマス・アクィナスは、徳として神学的なものと倫理的なものを挙げた。神学的徳はキリスト教の“三元徳”、すなわち“信仰”、“希望”、“”であり、倫理徳はギリシア哲学の“四元徳”、すなわち“知恵”、“勇気”、“節制”、“正義”である。神学的徳は人間を至福へ導くものであるが、その中でも愛が究極的なものであって、神と隣人を愛することによって、人間は至福を受けるにふさわしいものとなる。一方、倫理徳は、理性の秩序に服することである。倫理徳は神学的徳に至るための手段と見なされた。(統一思想要綱 331頁)

 アウグスティヌスは神を精神と見て、その神が無から質料をつくり出し、世界を創造したと主張した。アリストテレス形相と質料の原理を継承したトマス・アクィナスは、質料をもたない“純粋形相の中で最高のものを神とした。アウグスティヌスと同様に、トマスも神は世界を無から創造したと見た。
 このような神に対する理解は、現実問題といかに連結するのであろうか。このような神観は、精神を根源的なもの物質を二次的なものと見るから、物質的な現実世界を二次的なものとして軽視し、精神の世界、霊的な世界のみを重要視する傾向があった。そして、死後の世界における救いのみを重要視する救済観が長くキリスト教を支配してきたのである。 ところが現実的には、物質を無視した生活は不可能である。そのためにキリスト教徒の生活は、信仰上では物質生活を軽視しながら、現実的には物質生活を追求せざるをえないという相互矛盾の立場に立たざるをえなかった。 そのように、キリスト教の神観では地上の現実問題の解決は初めから不可能であったのである。地上の問題は、大部分が物質問題と関係しちるからである。
 キリスト教の神観が現実問題の解決に失敗せざるをえなかった根本原因は、第一に、神を精神だけの存在と見て、物質の根源を無としたことにあり、第二に、創造の動機と目的が不明なことにあった。(統一思想要綱 152頁)


 事実、トマス・アクィナスは、人間は神を理性によって認識できるが、理性に限界があるため神の本質は認識できないとしました。
 また、人間は生きている間は神から「恩寵の光」を与えられることによって、信仰 希望の導きを伴って神を認識できるとしたが、人は死して初めて神より「栄光の光」得ることができて、神の本質を認識できるようになることによって真の幸福がもたらされるとした理性論による来世主義を唱えたのです。





 十字軍の裏と表


 発端は、1095年 トルコ人イスラム王朝のセルジューク朝に恐れを感じた東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスが、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことに始まります。

 大義名分としては、異教徒イスラム教国からの聖地エルサレム奪還とされていました。

 ところで、東ローマ帝国の要請は“傭兵の提供”にしかすぎませんでしたが、西ローマ帝国は独自の軍団としての“十字軍を派兵”することとなったのです。つまり、軍隊の派兵となって一地域の争いでは収まらないことになってしまったのです。

 ローマ教皇のウルバヌス2世は、クレルモン宗教会議でフランス軍に「イスラム教徒から聖地エルサレムを奪還しよう!」と呼びかけて始まったのが十字軍です。参加者には“贖宥(贖罪の免除)”の特権が与えられました。

 この十字軍の提唱によって、教皇の絶頂期を迎えていく事となります。

 この十字軍戦争は170年間も続きますが、1291年アッコン陥落を最後に、聖地の奪還もかなわず失敗に終わりました。

 しかし実際は、正教会や東方諸教会も攻撃の対象とされ、侵攻後には、西ローマのカトリック教会が設置されていくのが現実でした。





 アナーニ事件


 十字軍遠征の失敗で、十字軍を提唱し推進したローマ教皇の権威が薄らいできます。

 1302年教皇ボニファティウス8世は、皇帝フィリップ4世十字軍戦費捻出のために教会財産への課税を施行すると、これに対して反発し、教皇と皇帝が激しく対立するようになりました。

 同年、皇帝フィリップ4世がパリのノートルダム寺院三部会(聖職者 貴族 平民からなる)における支持を取り付けると、教皇ボニファティウス8世との対立はますます激化し争いとなっていきます。

 このことによって、教皇ボニファティウス8世が、故郷アナーニに逃げ込むことになり、フランス軍に捕らえられた事件がアナーニ事件です。

 教皇ボニファティウス8世は、アナーニの住民によって救出されるものの、この一連の事態に怒りと失望で傷心して、3週間後に68歳で死亡しました。





 アヴィニョン捕囚


 アナーニ事件以後、皇帝フィリップ4世は、十字軍で活躍したテンプル騎士団を解散し、ユダヤ人を追放などして、それらの財産を没収して王権の財政的基盤を強化しました。

 教皇クレメンス5世をフランスのアヴィニョンに幽閉し、教皇に対して王権の優位を確立したのです。

 このアヴィニョン捕囚からの解放後、ローマ教会は大分裂をきたすこととなります。



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