復帰摂理歴史の真実
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■ 第三章 第三節 ローマ教皇庁の腐敗と大航海時代
     b. インドへの大航海と滅亡した文明


1. アフリカ西岸からインドへ

 (1) エンリケ航海王子

 エンリケ航海王子はポルトガル王国の王子であり、自らは航海しなかったが、航海者を援助、指導し、アフリカ西岸を踏破させるなどした人物である。
 1420年5月25日、テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、大西洋への進出に情熱を傾けた熱烈なキリスト教信者
 1419年、エンリケの派遣した人物によって、マディラ諸島が発見され植民地化されました。
 1441年アントン・ゴンサルヴェス英語版)のキャラベル船が出航し、西サハラに入りアザラシの群れを捕獲すると、上陸して沿岸部を探索して現地人を捕らえてエンリケに献上する奴隷としました。この事により1441年は、キャラベル船の登場とアフリカ奴隷史の最初の年となったのです。その後、キャラベル船団はブランコ岬に到達すると、アフリカの金や奴隷をヨーロッパに運ぶ、戦いと収奪の側面を見せ始める様になります。
 1444年ディニス・ディアスポルトガル語版)がヴェルデ岬を超え、パルマ島を発見します。ヴェルデ岬には北・西アフリカとは全く違う漆黒の肌を持つ黒人が住んでいたのです。ここから東に伸びるギニア湾までの地方は正にヨーロッパにとっての宝の山となったのです。
 当初は一方的な収奪や誘拐など、攻撃的な姿勢で臨んだポルトガル人でしたが、ポルトガル摂政のペドロ・デ・ポルトゥガルは平和的な態度で交易することを望み、1446年以降にのポルトガル船団は次第にマリマリ帝国)など現地の黒人国家の商隊と接触するようになり、ポルトガルの金交易は、ポルトガル王室が1452年に金貨を鋳造するほど、多大な富をもたらしたのです。
 1460年探検隊はシエラレオネ沿岸に到達し、エンリケはポルトガル南部のサン・ヴィセンテ岬にある「王子の村」で1466年の生涯を閉じます。
 1488年、ポルトガルはバルトロメウ・ディアスによって、アフリカ最南端の喜望峰を極めることとなります。



 (2) ヴァスコ・ダ・ガマ

 ヴァスコ・ダ・ガマは航海者であり探検家で、インドへの航路を発見したヨーロッパ最初の人物です。
  @ 第一次航海
 1497年7月8日リスボンを出航。
 1497年11月22日、アフリカ南端の喜望峰を通過し、モザンビークに到達。
 1498年5月20日、インド南西のカリカットに到達。
 1499年9月、ポルトガルに帰還。
  A 第二次航海
 「インド洋提督」の称号を得る。
 1502年2月12日、インドへ出航。
  B 第三次航海
 1524年、三度目の航海でインド西岸のゴアに到着後まもなく、ヴァスコ・ダ・ガマはマラリアに感染し、12月24日に死亡する。



 (3) 香辛料貿易

 香辛料貿易は、香辛料ハーブ薬物及びアヘンなどを対象とした、古くから行われていた貿易(交易)のことです。
 当初は、陸上ルートが香辛料貿易の主要なルートでしたが、これは海上ルートによる商業活動の急激な成長にも繋がりました。中世中期から終わりにかけて、香辛料貿易においてイスラムの貿易商達がインド洋航路を支配し、極東の資源地開発を行った。彼らはインド洋航路を通して、インドの貿易市場から、ヨーロッパへの陸上ルートに繋がるペルシア湾紅海に向かって香辛料を輸送しました。このようにアラブの貿易商達が香辛料貿易を支配しましたが、1453年オスマン帝国ビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし、地中海の制海権を得ると、これらを通る交易路に高い関税をかけたため、アラブ商人主導の貿易は衰退していきます。
 大航海時代に入ると貿易は一変することになります。香辛料貿易(特に胡椒)は、大航海時代を通してヨーロッパの貿易商たちの主要な活動となりました。1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由によるヨーロッパ-インド洋航路を発見し、新しい通商航路を開拓すると、ヨーロッパ人が直接インド洋始め東洋に乗り込んでいきました。特にポルトガルはいわゆるポルトガル海上帝国を築き、当時の交易体制を主導して行きました。

<参照>
 金と同価値だった!?知られざる胡椒の歴史・種類・薬効とは



2. 滅亡した文明

<参照>
 スペインによるアメリカ大陸の植民地化

 (1) アステカ文明(中米)

 スペインの「征服者」と呼ばれた探検家エルナン・コルテス(左図)はキューバ総督ディエゴ・ベラスケスの命令に違反してアステカ文明(右図のメキシコ盆地にあったとされる文明)の征服を開始し、1519年にキューバからタバスコに上陸して、ベラクルスを建設しました。1521年にはアステカの首都テノチティトランを攻略し、最後の皇帝クアウテモックを捕らえ、アステカを滅亡させたのです。征服されたテノチティトランは破壊され、新たにシウダー・デ・メヒコ(メキシコ市の正称)が建設されたのです。1535年ヌエバ・エスパーニャ副王領が創設されると、メキシコ市はその中心となりました。

<参照>
 ・ スペインのアステカ帝国征服(英語版スペイン語版



 (2) マヤ文明(中米)

 1523年に現グアテマラに相当する地域に上陸したペドロ・デ・アルバラード(左図)が1524年グアテマラのマヤ系諸王国(マヤ文明)の征服を開始しました。アルバラードはそのままマヤ系のピピル人スペイン語版英語版)のクスカトラン王国スペイン語版英語版)と戦い(アカフトラの戦いスペイン語版英語版))、翌1525年には現エルサルバドルに相当する地域を征服し、ベルムーダとピチウアテオカンは破壊され、新たにサンサルバドルサンタ・アナが建設されました。
 同時期に南からも征服が進められ、1523年にパナマを拠点にしたフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ(右図)によって現ニカラグアとなっている地域の征服が開始されたのです。コルドバはサンティアゴ・デ・ロス・カバジェロス・デ・レオングラナダを建設したのですが、二キラノ人の首長ニカラオスペイン語版英語版)は頑強に抵抗し、一度は征服者を追い返しました。しかし、1526年コルドバが処刑され、1527年ロドリーゴ・デ・コントレーラススペイン語版)によってニカラグアは征服されてしまいます。
 現コスタリカに相当する地域の征服は遅れましたが、16世紀中にグアテマラからコスタリカまでの地域がヌエバ・エスパーニャ副王領の下位行政組織だったグアテマラ総督領スペイン語版英語版)に組み入れられました。
 1527年から、フランシスコ・デ・モンテーホによるユカタン半島の征服が始まりました。 中央アメリカの征服後、1537年に現ホンジュラスに相当する地域でインディオのカシーケ(首長)であるレンピーラが反乱を起こしたが、制圧され、1697年にはタヤサルが陥落し、マヤ文明の全域がスペインに併合されるこになります。



 (3) アンデス文明(南米)

 さて、南米においてもインカ帝国アンデス文明ともに、スペイン人がやってきてキリスト教を押し付け、従わない主権を滅ぼしていきました。しかし、従わなかったのは、スペイン人が従わせようとしたキリスト教の神はすでに原始キリスト教にあった愛の神ではなく、物欲と権力欲に駆られた横暴を働く神としてしか見えなかったのです。挙句の果てに現地を植民地化すると、原住民を奴隷化して豊かさを奪い取っていきました。
 ところで、この頃すでにローマでは、宗教改革の狼煙が上がっていたのです。ポルトガルは東に、スペインは西に目を向けて多大な富をもたらしていた当時としては、キリスト教はさらに形骸化し、植民地支配の手段になっていたのかもしれません。

  @ フランシスコ・ピサロ

 父は軍人で小貴族ですが、母は召使であったといわれたフランシスコ・ピサロは、教育されず、文字も知らないままで育ちました。

 1498年〜1502年イタリア戦争に参加。
 1502年、イスパニューラ島へ渡り、パナマ遠征に出る。
 1524年と1526年の2度にわたり南アメリカを探検
 1528年、スペインに戻り、カルロス1世からペルー支配の許可を得る。
 1530年、パナマに戻ると、翌1531年パナマを出航し、ペルーへの侵入を開始しますが、インカ皇帝アタワルパを追って南進。
 1532年、インカ皇帝アタワルパを生け捕りにすると、アタワルパの身代金として膨大な金銀を受け取るが、約束を翻して皇帝を処刑(1533年7月)。
 1533年11月、インカ帝国の首都クスコに無血入場を果たし、インカ帝国が滅亡
 1538年4月、これまで同行してきた、探険家ディエゴ・デ・アルマグロとの対立が始まり、内戦となってアルマグロを処刑する。
 1541年6月26日、結局、アルマグロの遺児一派に暗殺され、最期を遂げる。



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