復帰摂理歴史の真実

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アメリカの独立と戦争 <トップ> 共産主義の台頭

■ 2. 大航海時代と南北アメリカ
     i. アヘン戦争とイギリス植民地化政策と中国


はじめに


 東アジアを考えていく上で“中国”は外せません。

 特にアヘン戦争1840年1842年)は伝統的中華世界の崩壊へと導き、日本に鎖国から開国に向かわせた重要な出来事であります。




アヘンについて


 アヘン阿片)は、ケシ芥子)のから生産される麻薬の一種です。

 ケシ(左図左)の開花後の未熟果(左図右)の“ケシ坊主”の表皮に朝のうち浅い切り込みを入れて出る乳液状の分泌物を、夕方掻き取って集めて乾燥させると黒い粘土状の半固形物になります。これが不純物を大量に含んだ生アヘンですが、更に精製して使用します。

 アヘンには10%のモルヒネが含まれていて、鎮痛鎮静薬としての薬効があるため、極めて古くから知られていて、製薬原料として広く利用されています。しかし、過度の服用は幻覚症状などを引き起こし、大変危険なため法律などによってその使用が制限されています。

 名前の由来は、ギリシャ神話に登場する夢の神モルペウスに由来するとされています。「夢のように痛みを取り除いてくれる」ところから来ているとされています。

 まさしく、適度に使用すれば“”ですが、間違って使うと“”と言えます。




中華思想における朝貢と冊封


 中国の古来の君主の号は「」でした。しかし、秦の始皇帝以後「皇帝」の号が用いられるようになりました。

 この皇帝とは王の上位に位置し、女性の場合は女帝と言い、皇帝の正妻を皇后と言います。

 始皇帝(在位BC246年BC221年)は中国統一を成し遂げ最初の皇帝となった人物で、万里の長城の建設で有名です。

 ところで、この皇帝という言葉ですが、「」と言うのは“光り輝く”“素晴らしい”などの意味があり、「」を指す言葉です。

 また、「」は“天帝”“上帝”など天を統べる神の呼称として用いられていました。つまり、皇帝とは、この皇と帝の2つの文字を合わせたものであり、中国全土のどの君主をも超えた存在として君臨しました。

 <参考> 中国帝王一覧


  中華思想

 中華思想とは、「中国が宇宙の中心であり、その文化や思想が神聖なものである」とする考え方です。

 「自分たちが世界の中心であり、中心から離れたところの人間は愚かで服も着用しなかったり、獣の皮だったり、秩序もない」と言うことから、四方の異民族として「四夷」と言う蔑称をつけました。

 東夷西戎北狄南蛮の4つ(左図)です。


 尚、「天子」とは「天命を受けて自国一国のみならず近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のことです。



  朝貢

 朝貢とは、中国の皇帝に対して周辺諸国の君主貢物を捧げ進貢)、これに対して皇帝側が貢物を受け入れ入貢)て恩賜を与えるという形式をもって成立します。

 つまり、周辺諸国の君主たちが、「中国のを慕って」朝貢を行い、これに対して恩恵回賜)を与えるという形式ですが、朝貢を行う国は、相手国に対して貢物を献上し、朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜します。

 四夷から朝貢を受けることは“皇帝の徳を示す”ことと見なされ、内外に向けて“政権の正統性”を示すことができるので、朝貢には莫大な費用がかかるにもかかわらず歴代中国政権は朝貢を歓迎してきました


  冊封

 冊封とは、「文書)授けて封建(定められた領域を支配)する」という意味で、冊封を受けた国の君主は、中国皇帝と君臣関係を結ぶ事を言います。


 この様に、中国は長い間、中華思想を誇りとして、朝貢と冊封によって縦的秩序社会が堅固に形成されていたので他国が簡単に侵略することはできませんでしたが、物品によって支えられていた信頼を、文書で明確化していた関係は表と裏の社会をつくり出して、やがては腐敗して行きました。


  三跪九叩頭の礼

 三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)とは、三回跪(ひざまず)いて、叩頭(額を地面に打ち付けて行う礼)を三回繰り返すのでこの様な呼び名が付きました。

 「(き)」の号令で跪(ひざまず)き・・・
一叩(または『一叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付けます。
二叩(または『再叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付けます。
三叩(または『三叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付けます。
」の号令で起立します。
 これを三回繰り返すので九叩頭になります(左図は参考までに掲載致しました)。

 イギリス使節団が中国皇帝に謁見しようとした時に、中国側はこれを強要しましたが、使節団は侮辱の証として拒否したため、中国側とイギリス側との間には壁が生じたまま、アヘン戦争に向かって行くことになりました。





清帝国の腐敗


 乾隆帝 第6代皇帝。(在位 1735年10月8日〜1796年2月9日)

 康煕帝(清の第4代皇帝)、雍正帝(清の第5代皇帝)、乾隆帝と3代続いた“”は、“乾隆帝”の「十全武功」と呼ばれる10回の外征などで朝貢が盛んになり、「四庫全書」の編纂による文化的大事業により最盛期を極めました。

 また、イエズス会の活動を禁止すると、完全な鎖国体制に入りました。

 1793年には、イギリスの使節としてマカートニーが入朝したのは乾隆帝の代ですが、上記した「三跪九叩頭の礼」は免除されましたが、貿易上問題となるイギリスの要求を退けています





 続いて清の第7代皇帝である嘉慶帝(在位 1796年2月9日〜1820年9月2日)の頃は、豊かな農作物の恵みによって人口も2億の倍の4億を超えました。

 しかし、腐敗退廃が始まっていくのもこの頃からです。各地で反乱が起こり、中でも「白蓮教徒の乱(1796年〜1804年)」と言う白蓮教の信徒が起した反乱は有名です。

 ついに、イギリスからアヘンの密輸が急激に増大して、鎖国の崩壊と清の滅亡の萌芽が始まっていくことになります。



 続く、清の8代皇帝道光帝(在位 1820年10月3日〜1850年2月25日)の時からイギリスとのアヘン戦争に突入することになります。

 皇族の中にもアヘンが蔓延して、健康や風紀を害するようになると清の貿易も黒字から赤字に転換して来ました。

 ついに道光帝は、1836年林則徐欽差大臣に任命し、アヘン密輸取締りを命じました。

 翌年1837年、林則徐は断固たる態度で禁輸に望むと、商人たちのアヘンを強制的に没収しこれを焼き払うなどすると、1840年には怒ったイギリスのアヘン商人らが広州を攻撃すると、イギリス本国も清と自由貿易を開くことを目的に艦隊を出して攻撃しました(第一次アヘン戦争)。




英中印トライアングル


 イギリスと中国との関係は、当時イギリスは印度に綿織物を輸出していましたが、中国では「野蛮人の着るもの」として受け入れられず、絹や陶磁器等はむしろ特産品ですからあえて必要有りませんでした。一方的にイギリスの国民的飲料としてのお茶を大量に買い取るために沢山の銀貨を支払っていたのです。(左図上)

 その大量の銀貨の流出を取り戻そうと考えたのが、印度で生産していたアヘンの輸出です。(左図下)

 当時中国では、薬としての効用よりは、むしろ社会的矛盾や腐敗からくる不満や不平が山積していた状態に、麻薬としてのアヘンが大量に出回ったのです。

 清がそれを禁止しましたが、時既に遅く、イギリスの商人のみならず、清の商人までもが闇で行なって歯止めが効かず、強制的に取り締まったら戦争にまでなってしまったと言うのです。





植民地政策

 アヘン戦争は、1842年8月29日南京条約を締結して清の敗戦で膜を閉じました。

 条約の内容
  1. 香港島割譲
  2. 賠償金2100万$を四年分割で支払う
  3. 広州、福州、廈門、寧波、上海の5港開港
  4. 公行の廃止による貿易完全自由化

 結果として、香港がイギリスの植民地となり、賠償金を支払い、完全な自由貿易をせざるを得なくなった中国ですが、イギリスが要求した内容との違いがあったために、第二次のアヘン戦争とされるアロー戦争を招いてしまう結果となりました。




終戦と第二次アヘン戦争

 南京条約の締結によって香港がイギリスの植民地となり、清の敗戦なったことによって、アヘンは清国内のみならず国外へも撒き散らされる結果となりました。

 しかし、清国内での反英運動も激しく、貿易の自由化はイギリスの思惑通りには行きませんでした。

 1856年10月8日に、清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行うと、清人船員12名を拘束し、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕しました。

 これに対して、当時の広州領事ハリー・パークスは、清の両広総督・欽差大臣である葉名チン(ショウ メイチン)に対してイギリス(香港)船籍の船に対する清官憲の臨検は不当であると主張した事がきっかけとなって始まったのがアロー戦争第二次アヘン戦争)です。

 これにフランスもイギリス側として参戦し、1857年12月29日には英仏連合軍は天津を制圧して天津条約(不平等条約)を結びました。

 1858年
   6月13日ロシアと締結
   6月18日アメリカと締結
   6月26日イギリスと締結
   6月27日フランスと締結

 天津条約
  1. 軍事費の賠償(イギリスに対し400万両、フランスに対し200万両の銀)
  2. 外交官の北京駐在
  3. 外国人の中国での旅行と貿易の自由、治外法権
  4. 外国艦船の揚子江通行の権利保障
  5. キリスト教布教の自由と宣教師の保護
  6. 牛荘(満州)、登州(山東)、漢口長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州海南島)、南京(長江沿岸)など10港の開港
  7. 公文書における西洋官吏に対して「」(蛮族を指す)の文字を使用しない


 ところが、この後も清は抵抗を続けた結果、連合軍は北京を制圧して、1860年北京条約が締結されることなったのです。

 1860年
   10月24日イギリスと締結
   10月25日フランスと締結
   11月14日ロシアと締結

 北京条約
  1. 英仏への800万両の賠償金の支払い(天津条約で課せられた額600万両より増額)
  2. 天津条約の実施(北京への外交官の駐留等)
  3. 天津の開港
  4. 清朝による自国民の海外移住禁止政策の撤廃と移民公認
  5. 清朝が没収したフランスの教会財産の返還
  6. 英国へ九竜半島の南部九竜司地方(香港島に接する部分)を割譲


 さらに、1858年5月28日にはロシアとの間でアイグン条約が結ばれて、清北東部がロシアに割譲されました。

(←左図は、右側の薄い赤が外満洲で、条約でロシア領と確定した部分。なお、ロシア帝国が設置した「沿海州」は「沿海地方」のほかオホーツク海沿岸全域に及んでいたことに注意してください。)


 この様なアヘン戦争による清の惨敗不平等条約の締結による惨めな状態は、日本に黒船が来航した時の驚きとともに尊皇攘夷による討幕明治維新に向けての新たな動きに拍車をかけたのも当然かもしれません。



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