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2. エバ国家とカイン・アベル国家■ 文先生の誕生以後の情勢認識と復帰原理による摂理認識の間違い1 真のアダムを中心とした摂理に男のカインとアベルを立てて摂理する必要はない
復帰摂理の最初となったカインとアベルは、アベルをカインが審判する立場となり、カインに殺害されたアベルは、神が対応できる “僕の僕” としての内外両面における蕩減条件を立てることが出来なかったのである。 その外的蕩減条件とは “信仰条件としての条件物を供える”(信仰基台)ことであり、内的蕩減条件とは “実体条件としての堕落性を脱ぐ” という条件である。アベルがこの内外両面における蕩減条件を立てることによって 「カインがアベルに自然屈服」して “カインも堕落性を脱いだ”(実体基台)というアベルの基台が立つことによってアベルは一つ上の段階である “僕” の基準に上がることができるのである。この “僕の僕” から “神” までの全段階を「縦的八段階」と呼んでいる。 文先生は、実子としての立場で来られたのだから摂理国家を立てるべく立場にあられた(図1)のであり、その国家は文先生の相対国家としてのエバ国家が摂理国家としての第一の国家として、文先生の誕生された朝鮮半島を併合した日本国として準備されたのである。 2 文先生誕生の1920年代以降に予定された摂理の失敗
日本は、日清、日露戦争に勝利し、戦勝国となっていた。もしも日本が戦勝国のままで、文先生を中心とする復帰摂理が成功を収めれば、その功績は一挙に全世界へ拡大することとなったであろう。しかし、残念ながら日本政府は太平洋戦争へと舵を切り、結果的に敗戦を招いてしまい、図2の中央から右の摂理は幻となってしまった。 日本は、エバ国家となれないばかりか、戦前に準備された天使長国家(満州国:次ページ参照)も幻と消え去ってしまい、アダム国家としての昇格もできなくなってしまった。 3 太平洋戦争敗戦後にカイン・エバ国家より誕生したカイン国とアベル国
この正妻と妾の立場に立つ二人の女性が、文先生の相対としての基準を立てれば、姉と妹という姉妹関係によって一体となれば、妹は姉より四大心情圏による四大愛によって天使長の立場にある夫を真のアダムとして再創造するとされるのが文先生が語られた再創造摂理である(図3)。残念ながら、この内容は『原理講論』には記されていない(本編における第五章の第四節「四大心情圏と良心」参照)。
1945年に「原理」をまとめられて出発した文先生を中心とした摂理は(本編「二つの「恨」と文先生の摂理」参照)、43年の歳月を経て1988年にソウルオリンピックの開催となった。この時、北朝鮮は共催を積極的に働きかけたが合意に至らなかったが、韓国憲政史上最も民主的な第六共和国体制が発足してオリンピック開催が民主化への大きなきっかけ(6.29民主化宣言)となった。このことによって、カイン・エバ国の定立された。翌年の1989年には、「八定式」(本編「エバの摂理完了と男性復帰(上)」参照)によってアベル・エバ国の定立されたことによって、1991年にアベル国を代表する立場の文先生とカイン国の金日成主席との会談が実現(本編「文師の電気工学専攻と原理の解明」参照)した。(図4) 北朝鮮と韓国が「統一国」すれば、その「統一国」こそ “アダム国” であると主張するのは間違いである。その「統一国」とは、朝鮮が正妻国としての蕩減復帰の時代を終えたならば、日本の妾国を “妹国” として迎えて、朝鮮が “姉国” となって “姉妹一体となった「エバ国家」” を確立することによって、朝鮮が “真のアダム” の “真の相対国家” に立つことができる国となることを言うのである。
<参照> 4 朝鮮半島が南北に二分された背景
1941年12月12日勃発した太平洋戦争は、1945年9月2日に日本がポツダム宣言に調印・即時発効に至って終結した。これに伴って、朝鮮半島では朝鮮総督府が降伏した1945年9月9日まで、“大韓民国” が樹立(1948年8月15日)し “朝鮮民主主義人民共和国” が設立(同年9月9日)されるまでは、連合国(米露)2か国軍による占領統治が行われていた(連合軍軍政期)。しかし、このことが1950年6月25日、朝鮮戦争を引き起こしてしまうことになる。 日本敗戦後の1945年12月、ソ連の首都のモスクワでアメリカ、イギリス、ソ連は外相会議を開き(モスクワ三国外相会議)、朝鮮半島問題が議題となった。この席でアメリカは、朝鮮半島における民主主義的な政府の建設を目標として暫定政府を成立させた後に、米英ソと中華民国(中華人民共和国は、1949年10月1日に毛沢東中国共産党主席が北京市天安門広場で建国宣言を行ったことで成立)の4か国による最長5年間の信託統治を提案した。この提案は合意され(モスクワ協定)、12月27日に公表された。その後、アメリカとソ連でその方法を継続して協議することになった。 「モスクワ協定に定められた朝鮮独立への手順」によると、米・英・中・ソによる信託統治5年を経て朝鮮は独立国となることが計画されていたことから、朝鮮戦争の勃発した1950年6月頃は、日本はまだ連合軍の占領下にあって、朝鮮は日本の一部との認識だったのである。しかし、朝鮮戦争で北朝鮮を支援した中国と、韓国を支援した米国との和解が成立し休戦となった。(図5)
<参照> ■ 文先生が誕生された戦前の日本には “戦勝国としての民主化” があった1 国家における統治権と主権
さて、『原理講論』では「君主主義時代がくるようになった理由は、既に明らかにしたように、将来、メシヤを王として迎えることができる王国を建設するためであった」としながら、君主主義はメシヤを王として迎える使命に失敗したとして、神は君主の独裁を除去してメシヤ王国を建設するために民主主義を立てられたとしている(『原理講論』p503〜p504)。 ところで、国家とは、“一定の領土を基礎にして、固有の統治権によって統治される、継続的な公組織的共同社会” であるとされている。つまり、固有の統治権によって公組織的共同社会として営む一定の領土を “国家” と呼び、ここに “国家としての主権” が生じる。つまり、統治権と主権の関係性において、“統治権は主権の一つ” であると言えるが、“統治権無しには主権は成り立たない” ことになる。また、国家は立法権・行政権・司法権などの三つの統治権によって存立しているために、特定の統治権による独裁を避けるために「三権分立」を定めている。 2 大日本帝国憲法と立憲君主制に関わる天皇の立場
日本は1871年12月23日(明治4年11月12日)から1873年(明治6年)9月13日(明治6年1月1日から新暦として西暦としてのグレゴリオ暦と連携した)まで岩倉使節団がアメリカ、次いでヨーロッパに派遣された。団員は次の5名である。 天皇親裁とは、第一に “天皇が政治に関する全ての決裁を行うべきだとする立場” であり、憲法や議会に拘束された立憲君主制は、西ヨーロッパの制度であるとして排斥する。第二に、“国政の権威は天皇に由来するとする立場”であった。 しかし、天皇は大日本帝国憲法において、第一の「政治に関する全ての決済」では、三権分立によって “手に取って取りまとめる” という調停君主としての国家の象徴的役割を果たす立場にあった(「大日本帝国憲法第4条」参照)。 岩倉使節団の帰国後、木戸孝允と大久保利通は明治天皇に国家制度と憲法の制定について意見書を提出。木戸と大久保の二人の目標は、国民の意志を尊重する立憲君主制の確立においては一致していたが、憲法の内容においては違いがあった。大久保は君主制独裁の憲法理論を提唱し、木戸は君主と国民の共同統治という君民同治を提唱した。 また、日本はプロイセンから学び、強国になるための軍事力を発展するよう求め、山縣有朋の指導の下で軍事体制改革を実施した。明治憲法では、「天皇は陸海軍を統帥す」、「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む」と規定されているが、天皇は最高司令官ではあるが、実際の陸軍指導者は参謀本部が、海軍全体の作戦・指揮においては軍令部が統括していた。「統帥権の独立」という名の下に、軍部は当時のプロイセンの軍事拡大モデルを採用した。 明治22(1889)年、第2代内閣総理大臣を務めた黒田清隆が首相を辞任し、伊藤博文が枢密院議長を辞任する折、明治天皇から「元勲優遇」の詔を受けた。以後、山縣有朋、西郷従道、松方正義、井上馨、大山巌、桂太郎、西園寺公望が加わり9名が元老となりました。元老には憲法上・法律上の規定がなく、彼らは天皇の助けとして、最高政策の決定や後継首相の選任に重要な影響力をもった政治家であった。また、天皇が外交権を行使し、外国との協定を締結し政策決定する場合にも、元老たちは常にその意思決定を左右する実定法を超越した発言権を持つなど、事実上の明治国家運営の最高指導者の役割を果たしていた。 以上をまとめると、大日本帝国憲法下の天皇は、「国の元首」であり「統治権を総攬する」存在で、親王(皇族)の一員でありつつも、その地位は「万世一系」の神聖なものとされましたが、親王という皇族の身分とは区別される、国家の主権者としての君主でした。親王は天皇の息子や孫といった皇族の身分を指し、天皇はこれら皇族の頂点に立つ、国家統治の主体者として憲法に位置づけられていた。
<参照> 3 戦後韓国の李承晩政権から1987年の民主化宣言まで
<参照> 4 日本の君主制と憲法を立て直す摂理の必要性から生じた蕩減摂理としてのエバ国家
戦後の日本国憲法第一章には、象徴天皇制としての立場が明記されている。この憲法第一章の第一条には、日本国統治に関する根本部分についての法規範が定立されている。それは、憲法以前から歴史的、伝統的に続いてきた天皇の存在について確認した規定であるとも言える。
<参照>
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