復帰摂理歴史の真実 |
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛 c. 『武士道』に見るキリスト教精神(中) 1. 武士道の理想は平和 (1) @ 武士の教育 (@)武士の教育科目と教師の仕事
如何なる教義も、その行動における結果となって正当化される。武士(サムライ)は、人格を養うためにそうして培われた叡智をその行動のために必要とした。そして、その行動を体現するためには、仁愛と勇気が必須であり、それは父母を通じて引き継がれ、時を刻むごとく師によってより深められ、向上されたのである。 A 克己 (@)日本人の笑みの意味
(A)日本人の心の働きの真相
<参照> ・ あなたは大丈夫?「感情の起伏」が激しい人の特徴や原因・対処法・改善策についてご紹介 B 切腹と敵討の制度 (@)切腹の論理
中国の古典によると、“心” は物を担い治めはしても、感情の影響を一番に受けるとしている。心は五行(木・火・土・金・水)の「火」に相応するため熱を誘因する性質を持ち、五臓六腑の大主としての心が憂愁等の感情を過度に受ければ、その「火(陽)」は上昇することで陽である「気」も上昇し、心の安処としての丹田から遠ざかってしまう。「魂」とは、体の中に宿って、心の動きを司る存在として考えられました。 <参照> ・ 日本人はなぜ切腹するのか ・ コラム 「身体の中心はどこにあるか?」 ・ 仏教と医学 ―「丹田」考 ― (駒澤大学仏教学研究会 渡邊幸江 : PDF / 本サイト) ・ 武士道の源流となった儒教 (A)切腹は法律上・礼法上の制度、天が与えるものを避ける死は卑怯
(B)生死を越えた「自由」の境地と「死」の意味 武士道の書物と言えば、佐賀藩鍋島家の元家臣・山本常朝が口述した『葉隠』が著名だ。1716(享保元)年に成立した同書は、「武士道というは死ぬことと見つけたり」の一句でよく知られており、「武士道とは死の教えである」といった誤解を与えることになった。しかしこの語句の意味するところは死の強要ではない。死の覚悟を不断に持することによって、生死を超えた「自由」の境地に到達し、それによって「武士としての職分を落ち度なく全うできる」の意である。
これまで述べてきたように、心は生心と肉心の統一体である。生心が肉心の主体としてある以上、肉心が煩悩となって生心の真理に対する追求とその実現に向けた自由を束縛してはならない。「生心とは、神が臨在される霊人体の中心部分であって、生心の要求するものが何であるかを教えてくれるのが真理である」(『原理講論』p86)と説かれている。つまり生心とは、真理に対する追究欲と実現欲を意味する人間の本性的な欲望のことである。人間始祖による堕落は、天使長ルーシェルの偽りの真理によって、この本性的な欲望が閉ざされてしまったことを意味する。つまり人間堕落は、生心と肉心の間に本末転倒が生じ、肉的な一時の満足に終始し、心的な満足を軽視してきたのである。この様な内的充足感は雑多な中で見出し難く、もっとも神聖な言葉として、またもっともひそかな心の経験となって輝き続け、復帰摂理歴史となって今日に至っているのである。 <参照> ・ 武士道:日本人の精神を支える倫理的な礎 ・ ユダの覚悟と十戒 ・ 空海による仏教思想の大転換 ・ “心を養う” 必要性の根拠 C 刀、武士の魂 (@)武士道の理想は平和にある
(A)『可笑記』が大衆に与えた武士道の影響とそのポイント 『可笑記』(1642年)は、江戸時代前期の武士であり、文人・仮名草子作者でもある斎藤親盛、筆名「如儡子」の執筆になるが、その読者は武士ではなく、むしろ一般の庶民が想定されている。仮名文字で書かれているので、寺子屋などで一通りの読み書きの学習を経た人間ならば誰でも読むことができた。また、成人前の子供や女性にも読まれていたようだ。そのため『可笑記』は庶民の間で好評を博し、版を重ねつつ後々まで読み継がれていった。 『可笑記』が説いていた武士道の教え、すなわち「嘘をつかない」、「卑怯なまねはしない」、「最後まで誠実に行動する」という倫理観念は一般庶民の生き方にも大きな影響を与え、特に商取引を中心とする経済活動において信用を何よりも重んじるという気風を育むこととなり、武士道が日本の社会と人々に及ぼした影響力は、極めて広範、多岐にわたるものであった。 また仮名草子中最大の作者である浅井了意は、その著作活動の端緒で『可笑記評判』(1660年)を著し、その代表作『浮世物語』の後刷本を『続可笑記』として出版している。それは、斎藤親盛との時代を眺める視点の違いから、平和の時代における武士にとっての武道を全うするためには、余力で行なう学問や詩歌のみならず、茶の湯までも文道の領域に入れた文事の必要性を確信し、『可笑記』を批判した作品となっている。 <参照> ・ 『可笑記評判』考 (広島大学大学院文学研究科博士課程 末マツ昌子 : PDF / 本サイト)
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