復帰摂理歴史の真実 |
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛 c. 空海による仏教思想の大転換 1. 煩悩から仏性への大転換(前) (1) 般若三蔵との出会い @ 空海の生涯 奈良時代の第49代光仁天皇(在位:770年10月23日〈宝亀元年10月1日〉〜781年4月30日〈天応元年4月3日〉)の頃、空海 (774年〈宝亀5年6月15日〉〜835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は讃岐の国造である佐伯直田公と阿刀氏出身の母の次男として出生。774年6月15日、善通寺の佐伯邸に生まれた空海は真魚と名づけられ、12歳から15歳まで国学で学び、15歳からは母方の叔父である阿刀大足に付いて文学を学びました。 奈良平城京から京都長岡京に遷都した頃、大学を目指していた空海は勤操大徳に出会い虚空蔵求聞持法を授けられました(793年)。空海は大学を去ると、山岳修行に励みました。しかし、厳しい修行に励みながらも真実の教えに出会えない事に身悶えした空海は21日間の修行を決行し東大寺の毘盧遮那仏の前で一心に祈りを捧げているとあるお告げがありました。それは、“真理に帰依することは、本然の自己に帰依することであり、自己の心を覚ることが仏となることである” と言うことでした。しかし、大日経には梵字や難解な専門用語のため理解に乏しく、満足に答えられれる人は誰もいないために唐に渡ることを決意したのです。 空海は約10年を入唐の準備に費やすと、延暦23年5月12日(804年)大阪難波から出港する遣唐使船(左図)に乗船しました。この時、国費で短期留学する最澄も乗船していました。 藤原葛野麻呂を大使とした当時の遣唐使船は船底が平底で、羅針盤もなく、台風の襲来を受けて34日間漂流して南に流され、8月10日に中国の福州長渓県赤岸鎮己南ノ海口(現在の福州市から北へ約250キロに位置する海岸)にたどり着きました。本来、遣唐使船は長江沿岸か蘇州または揚州付近に着くはずが、南に流されて国書も印符も失い不審な船とされて福州に留まらざるを得ませんでした。役人の疑いが増す中、藤原大使の懇請により、空海が観察使(地方長官)宛に陳情書 『大使、福州ノ観察使ニ与フル為ノ書』 を書きました。これを受け取った観察使閻済美は、その見事な文章に敬歎し、その陳情書を長安に送ると入京の指示を得ることが出来ました。空海の才能に驚いた閻済美は福州に留めようとしたのですが、それに対して空海は、 『福州の観察使に与えて入京する啓』 と言う書状を送ることによって上京が許されました。 <参照> ・ 空海が最初に降り立った中国の地・福建省赤岸村〜空海大師記念堂〜 さて、唐朝第12代徳宗の時代、804年12月23日、藤原葛野麻呂と空海の一行は宣陽坊の公館宿舎に入りました。当時の中国唐朝は、禅あるいは律の仏教や、中国古来の道教をはじめとして、景教(「仏教に影響を与えた景教」参照)、ゾロアスター教、マニ教や、ペルシャ人、アラビヤ人などの交易商人らが、下り坂の唐朝とはいえ活発に活動していた頃でした。 空海は密教を学ぶために長安西市の醴泉寺の般若三蔵によって梵語や密教の基礎を習得すると、青龍寺東塔院の恵果から正当な密教を伝授されると、805年には金剛界、胎蔵界の灌頂を受け、付法(師が法を伝授すること)の弟子となったが、この年の12月恵果は60歳で寂した。空海は恵果和尚の「日本に帰り、真言密教を弘め、国民の幸のために努力せよ」と、最後の言葉の実現に向けて経典を書写するとともに、長安では入手できなかった経典などを取り寄せて、806年8月に明州から帰国の途につきました。 その一年余り前に最澄が帰国していましたが、最澄が学んできた密教は正統な密教ではなく、中国語も充分できなかったために、密教としては不完全なものでした。そのため最澄は、空海に経典の借用を願い出て、最澄は胎蔵界の灌頂を受けると、 『理趣教』 の借用を求めたのに対して、空海は 「密教の奥義は、文章を得ることのみを尊しとはしない。ただ、心から心に伝えることが大切である 」として、最澄の申し出を痛烈に批判しました。空海40歳、最澄47歳の時とされています。この様に空海は、密教は単に経典論書の理解にとどまるのではなく、心から心に伝え法に従って実修することこそ大切であるとして、静かに座禅観法のできる禅院を建てる幽玄な場所として山岳修行の霊地である高野山を選ばれました。816年に嵯峨天皇により高野山の勅許が下り、しばらく仏教界の発展に貢献すると、835年3月21日に高野山で空海は62歳の生涯を閉じました。 <参照> ・ 空海年表 ・ 讃岐 空海、佐伯直と阿刀氏 A 空海と般若三蔵 中国の長安の都には、空海がいたと同じ居住区に景教の教会 「大秦寺」 がありました。そこに、景教碑の碑文を書いた 景浄 という景教僧がいました。この景浄はカシミール出身の般若三蔵という僧侶とも交流があり、彼に景教の伝道を行っていたと言われています。般若三蔵は、空海に梵語を教えた先生ですが、もともと混合宗教的な宗教の持ち主で、とくに景教に心粋していました。この般若三蔵と空海は、たび重なる議論の中で、絶対者や実在する救い主は誰かということに及ぶと、空海は 「仏陀だ!」 と言えば、般若三蔵は 「イエスだ!」 と反論したと言われています。それを通じて空海は景教についてかなりの知識を得るようになりました。 さらに空海は、般若三蔵の紹介で景教僧の景浄に会うなど、長安の都で 「マタイの福音書」 や 「十戒」、そのほかキリスト教文書を持ち帰って、現在では高野山の寺の宝物庫に眠っているとまで言われているほどです。 <参照> ・ エンサイクロメディア空海 ・ 仏教に影響を与えた景教 (2) 現世にたいする否定精神の否定
@ 大日如来と仏性
仏教において煩悩とは、衆生の身心を煩わし悩ます精神作用の総称とされるが、まず「三毒」とされる貪(執着)・瞋(憎悪)・痴(無知)があり、これに加えて慢(慢心)・疑(仏教の教えに対する疑い)・見(誤った見解)を加えて「六煩悩」といい、これを根本的な煩悩としている。ところで、釈迦が最初の説法としたのは「四諦」である。諦とは真理、真実をいう。
さて、南インドの都市チェンナイのマイラポール・サントメ地区に建つサントメ聖堂は、ポルトガル人によって16世紀に建設され、17世紀のイギリス統治時代に現在のネオゴシック様式のカテドラルとして再建されました。サントメ聖堂は、新約聖書に登場するイエス・キリストの直弟子のひとりで、イエス亡き後インドへと出向いて宣教活動をした聖トマスを祀る教会である。 南インドに存在するキリスト教の一派で、東方諸教会のひとつとされるトマス派は、 聖トマスが起源とされるが、実際はイランから渡ってきたネストリウス派に起源を持つ。何れにしても、真言宗は聖トマスによって種が植えられ、キリスト教の影響を受けたことは否定できない。これら東方諸教会の影響は、真言宗の重要経典である理趣経や、宿曜道の所依の教典『宿曜経』などを、不空による経典の漢訳に導き、空海によって完結したといえる。 日本大百科全書(ニッポニカ)「大日如来」の解説に次のようにある。
A 否定からの肯定
原始仏教は、欲望を苦の原因とみて一切の欲望を否定しました。しかし、聖トマスによって南インドに伝えられたキリスト教の影響を受け、龍樹(龍猛のこと)らによってに大乗仏教が起こったのである。その後、体系化された密教経典である『大日経』(『大毘盧遮那経』ともいう)は、その理論構成として毘盧遮那如来と金剛薩タの対話によって真言門を説き明かしていくというものであった。また、真言宗で唱えられている『理趣経』は、「金剛頂経」系テキストの内、第六会に含まれる『理趣広経』とよばれる文書の略本である。この『理趣経』に関しては、次頁で述べることにする。 原理講論によると、ロゴスの主体である神は、ロゴスによって万物を創造された。ロゴスという言葉はギリシャ語で、み言、あるいは理法という意味をもっている(『原理講論』p265)。さらに統一思想では、理法は理性(普遍的真理を求める能力、または概念化の能力)と法則を意味する(『統一思想要綱』p59)とし、大日如来を法身仏(法身としての仏)であると同時に説法を行うとすれば、毘盧遮那如来は神の本性相、大日如来は神の本形状に該当するといえる。先にも述べたように、神の心情はその目的(創造目的)に従って本形状の前エネルギーは万物に作用エネルギーと形成エネルギーとして与えられ(「神道とは何か」参照)、特に神の心情は人間において仏性(創造本性:『原理講論』p118) として賦与される(『統一思想要綱』p289)。それが取りも直さず “価値実現欲” と “価値追求欲” である(下記参照)。正しく人間の欲望を発する根本は神の心情にあり、その対象を愛によって喜ばそうとする衝動であるといえる。
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