復帰摂理歴史の真実 |
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛 c. 空海による仏教思想の大転換 1. 煩悩から仏性への大転換(前) (1) 般若三蔵との出会い @ 空海の生涯 ![]() 奈良平城京から京都長岡京に遷都した頃、大学を目指していた空海は勤操大徳に出会い虚空蔵求聞持法を授けられました(793年)。空海は大学を去ると、山岳修行に励みました。しかし、厳しい修行に励みながらも真実の教えに出会えない事に身悶えした空海は21日間の修行を決行し東大寺の毘盧遮那仏の前で一心に祈りを捧げているとあるお告げがありました。それは、“真理に帰依することは、本然の自己に帰依することであり、自己の心を覚ることが仏となることである” と言うことでした。しかし、大日経には梵字や難解な専門用語のため理解に乏しく、満足に答えられれる人は誰もいないために唐に渡ることを決意したのです。 ![]() ![]() <参照> ・ 空海が最初に降り立った中国の地・福建省赤岸村〜空海大師記念堂〜 さて、唐朝第12代徳宗の時代、804年12月23日、藤原葛野麻呂と空海の一行は宣陽坊の公館宿舎に入りました。当時の中国唐朝は、禅あるいは律の仏教や、中国古来の道教をはじめとして、景教(「仏教に影響を与えた景教」参照)、ゾロアスター教、マニ教や、ペルシャ人、アラビヤ人などの交易商人らが、下り坂の唐朝とはいえ活発に活動していた頃でした。 空海は密教を学ぶために長安西市の醴泉寺の般若三蔵によって梵語や密教の基礎を習得すると、青龍寺東塔院の恵果から正当な密教を伝授されると、805年には金剛界、胎蔵界の灌頂を受け、付法(師が法を伝授すること)の弟子となったが、この年の12月恵果は60歳で寂した。空海は恵果和尚の「日本に帰り、真言密教を弘め、国民の幸のために努力せよ」と、最後の言葉の実現に向けて経典を書写するとともに、長安では入手できなかった経典などを取り寄せて、806年8月に明州から帰国の途につきました。 ![]() <参照> ・ 空海年表 ・ 讃岐 空海、佐伯直と阿刀氏 A 空海と般若三蔵 中国の長安の都には、空海がいたと同じ居住区に景教の教会 「大秦寺」 がありました。そこに、景教碑の碑文を書いた 景浄 という景教僧がいました。この景浄はカシミール出身の般若三蔵という僧侶とも交流があり、彼に景教の伝道を行っていたと言われています。般若三蔵は、空海に梵語を教えた先生ですが、もともと混合宗教的な宗教の持ち主で、とくに景教に心粋していました。この般若三蔵と空海は、たび重なる議論の中で、絶対者や実在する救い主は誰かということに及ぶと、空海は 「仏陀だ!」 と言えば、般若三蔵は 「イエスだ!」 と反論したと言われています。それを通じて空海は景教についてかなりの知識を得るようになりました。 さらに空海は、般若三蔵の紹介で景教僧の景浄に会うなど、長安の都で 「マタイの福音書」 や 「十戒」、そのほかキリスト教文書を持ち帰って、現在では高野山の寺の宝物庫に眠っているとまで言われているほどです。 <参照> ・ エンサイクロメディア空海 ・ 仏教に影響を与えた景教 (2) 現世にたいする否定精神の否定
@ 大日如来と仏性
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![]() 南インドに存在するキリスト教の一派で、東方諸教会のひとつとされるトマス派は、 聖トマスが起源とされるが、実際はイランから渡ってきたネストリウス派に起源を持つ。何れにしても、真言宗は聖トマスによって種が植えられ、キリスト教の影響を受けたことは否定できない。これら東方諸教会の影響は、真言宗の重要経典である理趣経や、宿曜道の所依の教典『宿曜経』などを、不空による経典の漢訳に導き、空海によって完結したといえる。
日本大百科全書(ニッポニカ)「大日如来」の解説に次のようにある。
A 否定からの肯定
原始仏教は、欲望を苦の原因とみて一切の欲望を否定しました。しかし、聖トマスによって南インドに伝えられたキリスト教の影響を受け、龍樹(龍猛のこと)らによってに大乗仏教が起こったのである。その後、体系化された密教経典である『大日経』(『大毘盧遮那経』ともいう)は、その理論構成として毘盧遮那如来と金剛薩タの対話によって真言門を説き明かしていくというものであった。また、真言宗で唱えられている『理趣経』は、「金剛頂経」系テキストの内、第六会に含まれる『理趣広経』とよばれる文書の略本である。この『理趣経』に関しては、次頁で述べることにする。 ![]()
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