復帰摂理歴史の真実

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■ 1. 幕末以後の東アジア



アヘン戦争で日本に迫る政策転換

 アヘン戦争とイギリス植民地化政策と中国」参照。


 1840年、イギリスと清国間でアヘンの密売をめぐりアヘン戦争が始まりました。1842年清は降伏すると南京条約に調印し、香港が割譲され、上海、広東など五港が開港しました。

 江戸時代、日本は鎖国をしていましたが、朝鮮とは定期的に通信していたし、清とも国交がありました。そのため、このことが日本に伝わると、幕府は異国船打払令による危険を感じたため、老中水野忠邦はこれを緩和し、天保の薪水給与令を発令しまして、漂着した外国船に食料品や燃料などを与えることにしたのです。

 そうした中で、1844年にはオランダ国王ウィレム二世から幕府宛に次のような内容の所管が届きました。

 「今、貴国の幸福なる地をして兵乱のために荒廃せざらしめんと欲せば、異国人を厳禁する法を緩め給うべし」

 つまりは、「アヘン戦争で中国がイギリスに散々にやられてしまった。このようになりたくなければ、日本は外国との交易の厳しい制限を緩和すべきだ」 と言うものでしたが、幕府は鎖国を 「祖法」 としてこの助言を拒絶しました。

 1846年には、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルは相模国浦賀 (現、横須賀市) に来航し、通商を要求しましが、幕府は鎖国を理由にこれを拒絶します。

 その後、メキシコや清国との貿易がますます盛んとなったアメリカにとって、日本の開国はより重要となってきました。




幕末の思想


 尊王論 

 天皇を中心とした国家体制を理想とする政治思想。

 幕府を武力で打倒し、天皇親政を理想とする。
 幕府の改革に未来を託す。


 佐幕論 

 徳川将軍家を頂点とする幕府を維持しようとする政治思想。


 公武合体論 

 公家 (朝廷) と武家 (幕府) との一体化を理想とする政治思想。

 孝明天皇の妹にあたる和宮14代将軍徳川家茂に嫁ぐ。


 公議政体論 

 有識者による会議によって国政の難題を解決する政治思想。

 坂本龍馬が起草した 「船中八策」 では、国策を決定する会議の開催が提唱されたものの、明治新政府が誕生すると、国家の基本方針は実力者たちの談合によって定められており、公議政体論は理想論として終始しました。


 尊王攘夷論 

 尊王攘夷論は、中国の宋の時代 (12世紀) に発祥した朱子学と深いつながりを持っています。王室を尊ぶこととともに、「夷狄 (いてき) 」 と称された異民族を攘 (う) ち払うことの重要性が説かれました。

 2代水戸藩主の徳川光圀は、朱子学を思想的基盤として、日本という国家の方向性を追及しようとする水戸学を創設すると、朱子学の尊王攘夷論は、天皇や朝廷を尊び、日本近海にまで進出しつつあった外国船を追い払うというように、日本の国情に合わせて解釈しました。

 9代水戸藩主の徳川斉昭は、水戸学の根本理念である尊王攘夷論を政治思想として掲げ、激動する政治情勢のなかで策動を続けました。



 日本人としての原点回帰を追及する国学神道は、皇室の尊敬や異国の排除という点から、水戸学とともに尊王攘夷論を広く認知させる一因となりました。




幕府の弱体化



<左図>

 幕藩体制とは、全国政権である幕府と、地方政権である藩が両立する支配の仕組みをいいます。
 諸藩は、幕府から領地の保有を認められる見返りとして、江戸城や幕府直轄の城の工事や河川改修などの公共事業を下命されると、多額の金銭と労力を提供することにより、臣下としての責務を果たしました。

<右図>

 徳川家康は、元和元年 1615年 禁中並公家諸法度を発令。その第一条では、天皇の職務を芸能と学問と規定し、国政への関与を否定しました。
 以後、朝廷の実権は、親幕府派の関白が掌握し、天皇は幕府の監視下に置かれました。


 宝暦12年 1762年桃園天皇は22歳の若さで崩御。天皇は少年のころから、幕府を恐れる関白らの忠告を聞かず、学者から王政復古論の講義を受け、尊王論に興味を示していました。


幕府は肥大化し改革に失敗

 嘉永6年6月 1853年7月、アメリカのペリー提督が浦賀に来航し、翌年安政元年3月 1854年3月、幕府は 「日米修好通商条約」 を結び、安政6年6月2日 1859年7月1日 横浜開港によって西洋諸国との貿易が開始され、金銀の交換比率の格差や、物価の上昇基調の乱高下により、日本経済は混乱状態に陥りました。

 幕府は、貨幣の改鋳を繰り返したことは、金貨の材質劣化による利ざやを稼いでも、経済をさらに混乱させるばかりでした。

 幕府が雇用する旗本御家人の大多数は、戦国時代に先祖が立てた武功によって、サラリーを200年以上も給付された不要人員であり、抜本的な雇用調整ができなかったことは、幕府の崩壊を加速させる一因となりました。

 結果的に、肥大化した幕府という組織は、根本的改革が加えられることなく、時流に乗り、改革に成功した 「西南雄藩」 によって崩壊へと導かれるこことなります。

 雄藩」 とは、幕末維新において強い影響力を発揮した有力諸藩を意味し、有力諸藩の多くが近畿以西に分布したことから、西南諸藩とも称されます。



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