復帰摂理歴史の真実
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
     f. 島原の乱と摂理としての禁教令


1. 島原の乱
 (1) 天草四郎陣中旗と島原の乱
  @ 山田右衛門作の命運

<参照>
 島原の乱でただ一人生き残った男・絵師山田右衛門作の生涯
  (元・石原産業(株)常務取締役 家木裕隆 : PDF / 本サイト

 山田右衛門作やまだえもさくは島原の乱の唯一の生存者でキリシタン、洗礼名はリノと言われた南蛮絵師。島原の領主であった有馬氏に仕え、セミナリヨでイエズス会の神父から南蛮絵(西洋画)の技法を習得し、高い評価を得ていました。
 右の図は、山田右衛門作の作であるとされている天草四郎陣中旗(右図)ですが、元来はキリシタンの儀式用に作られたもので、まんじ字くずしに菊の花の地模様があり、中央には葡萄酒を満たしたカリス(聖杯)とその上に十字の上が短く下が長いラテンクルス(羅典十字架)を付けたオスチア(聖餅)が描かれています。これはイエス・キリストがゴルゴダの丘で処刑される前夜の最後の晩餐で弟子たちに「取って食べよ、これはわたしのからだである」(マタイによる福音書 26章26節)と言って与えたパンであり、キリストの聖体とされています。なお、旗の上部の文字は古ポルトガル語で「LOVVADO SEIA O SANCTISSIMO SACRAMENTO」と記されています。この意味は「いとも尊き聖体の秘蹟ほめ尊まれ給え」と言われています。
 慶長19年(1614年)6月、領主有馬直純日向縣城延岡城)へ移封される2年前に発せられたキリシタン禁教令に従って棄教し、キリシタン迫害を強化しました。この時、山田右衛門作を含め多くの家臣が日向に移らずに一揆軍として有馬に残り、後の島原城主松倉重政のお抱え絵師となった山田右衛門作は、島原の乱で原城に籠城したとき、天草四郎直属の親衛隊五百の指揮を委ねられたのです。
 この一揆軍が追い詰められると、原城を八日間で修復して籠城しますが、兵糧攻めで窮地に追い込まれてしまいます。右衛門作の旧主である有馬直純によって降伏へ向けての会談がもたれましたが、そのことが結果的に裏目となり、右上門作は捕らえられ牢に閉じ込められ、見せしめとして妻や子は処刑されました。
 すでに戦は時間の問題でした。寛永15年2月28日(1638年4月12日)、ついに原城は落城しました。一人も生かして残すなという下知げじに、百姓はもちろん、女子供に至るまで一人残らず殺されました。最近の発掘では、無数の人骨の中に、鉛で作った十字架や黄金の十字架もありました。
 落城の日に、松平信綱は城中を探させると、牢に閉じ込められていた山田右衛門作を発見し、落城前に何とか乱を終わらせようと苦しんでいたことによって命だけは助けられ、信綱の保護の下で長い取調べを受けて供述書として書かれたのが「山田右衛門作口書写」です。



 (2) 有馬直純の野望

<参照>
 島原実録物から見る 「天草四郎」 美少年像の成立
  (国際日本文化研究センター プロジェクト研究員 陳其松 : PDF / 本サイト

 天草は小西行長、島原は有馬晴信の旧領で、領民のキリシタン信仰は根強く、信仰を棄てかねた遺臣たちが浪人となって雌伏の時を、関が原の戦いや大坂の陣などで実戦経験を積みながら生き残っておりました。
 小西行長は、関が原の戦いで西軍に参加したために捕らえられ、慶長5年10月1日(1600年11月6日)斬首となり、有馬晴信は1612年に起きた岡本大八事件での贈賄の罪を問われて甲斐国初鹿野に追放され、その後に切腹を命じられました。
 この頃、有馬直純は徳川家康のひ孫である国姫(日向御前)と結婚します。国姫は堀越後守忠俊と離婚した人であり、有馬直純もこの国姫との結婚を実現するために妻(洗礼名をマルタという小西行長の姪)と別れています。このように教会の教えに背いてまでも野心に燃えて家康と手を結び、自分の父(晴信)を甲斐の国に追放し有馬の大名となったのです。
 こうして、有馬直純は家康との縁を深めたことで連座を免れ、父の所領を受け継いで肥前日野江(島原)藩主となりました。そして、同年の江戸幕府による禁教令に従い改宗すると、領内のキリシタンを迫害したのです。また、慶長18年(1613年)4月25日には、長崎の奉行長谷川左兵衛と国姫の勧めにより父(晴信)とその後妻・ジュスタの間に生まれた8歳と6歳の異母弟を殺害しています。
 しかし、これらのことから良心の呵責に耐えかねて嫌気がさし、幕府に転封を願い出て、慶長19年(1614年)7月に日向延岡に5万3千石の所領を与えられました。寛永14年(1637年)に旧領で起こった天草・島原の乱においては、地理に明るいことから4000名近い軍団を率いて征伐軍に加わり、乱を起こした自らの旧臣や元領民と対決したのです。有馬直純の後、島原には松倉重政が入り、更に過酷なキリスト教追放政策を実施しました。



 (3) 天草四郎
 天草四郎の本名は益田四郎で、小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされています。天草四郎が豊臣秀頼の落胤らくいんであるという説は、馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから、大坂夏の陣において死去したはずの秀頼が大坂城を脱出して薩摩へ逃れていたとする論拠で、豊臣家権威の糾合を図ったとも考えられています。豊臣秀綱という名があったと鹿児島での書物には記されています。

  @ 参勤交代と諸藩の弱体化

 参勤交代とは、各藩の藩主を定期的に江戸に出仕させる江戸幕府の法令のことで、将軍に対する大名の服属儀礼として、寛永12年(1635年)に徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化されました。この制度で諸大名は、一年おきに江戸と自領を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも妻子は江戸に常住しなければなりませんでした。国元から江戸までの旅費だけでなく、江戸の滞在費までも大名に負担させていたため、各藩に財政的負担を掛けると共に人質をも取る形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たしたと言われています。

  A 松倉重政の圧制に苦しむ領民
 松倉重政は、もと大和五条藩で1万石の領主でしたが、大坂夏の陣の武功により元和2年(1616年)五条藩を廃藩とし、肥前島原藩4万3千石に加増移封されました。重政は格式を上げるために、島原城地に東西380メートル、南北1320メートルの広大な塀を巡らせ、本丸には5層の天守閣、二の丸、三の丸にもを築き、7年あまりかかって10万石級の壮大な城を完成させ、自ら進んで石高を超える負担を申し出て幕府の心証を良くする事に専念しました。このため領民は、家の中に棚をつくれば「棚銭」、窓の数によって「窓銭」、赤ん坊が生まれると「頭銭」、人が死んで墓穴を掘れば「穴銭」と考えられる限りの苛酷な税負担を強いられたのです。こうした税を納められないと、妻子や老人を人質にとり、常時水に漬かる水牢に閉じ込めて苦しむ様を見せ、それでも納められない者には両手を後ろ手に固く縛って燃えやすい蓑を着せて火をつけ、熱さに飛び跳ね、転げ回って焼死する様を「蓑おどり」と称して大勢の者に強制的に見せ付けました。
 また、領民のキリシタン信仰には根強いものがありました。幕府の禁教政策が強化されるにつけ、弾圧も強化されていきました。棄教しない領民を雲仙岳の火口に投げ込む事さえ行なわれましたが、かえって信仰に結ばれた者同士の結束を固くしていきました。

  B 予言書『末鑑の書』
 『耶蘇天誅記やそてんちゅうき』には、マルコス・フェラロ神父ママコス上人)が慶長17年(1612年)のキリシタン禁教令で追放されるとき、『未鑑の書』という予言書を残しました。それは、
 今から25年の後に16歳の神の子が現れ、その子は学ばずして諸道に通じ、何一つ出来ないことはない。その時東西の雲は真赤に焼け、地には時ならぬ花が咲き、国中で山野が鳴動し、民家も草木も焼け果てる。人々は首にクルス(十字架)をかけ野山に白旗がなびき、仏教・神道はキリスト教に呑み込まれ、天帝はあまねく万民を救うであろう。
というものでした。「16歳の神の子」とは当時16歳であった天草四郎ことで、四郎は幼少の頃から宣教師と接触してキリシタンの教えやラテン語の知識を身につけ、日本・中国の古典など幅広い学識を習得していたと言われています。
 秋の天草では毎日のように、夕方西の空に不思議な雲が観測されました。旗雲と呼ばれる細く長い雲が7筋ほど見られ、その内4筋が赤、3筋が白で、赤い雲が先に消え、あとから白い雲が消えます。そして秋なのに桜が咲き、将軍家光が病気で余命幾ばくも無いという噂まで流れました。天草のキリスト教信者の一部はこの噂を積極的に利用し、キリスト教をやめて仏教に転向した人たちに「いよいよママコス様の予言が実現し、最後の審判が行なわれてキリスト教の時代が来る」と言って、キリスト教に再改宗するよう勧めたのです。

  C 領民の怒りが爆発
 天草・島原の領民たちの不満が極限に達すると、島原の深江村で左志来左右衛門がひそかにキリシタンの教えを信じてデウスの画を隠し持っていました。しかし年を経て表具も古び、画も傷みはじめていたので禁制が厳しく表具師に頼むことも出来ずにいると、ある朝起きてむるとその画像が一夜のうちに表装されて奥の間に掛けられていました。左右衛門は天帝の御憐みと喜んで、キリシタンに立ち帰った人々に拝ませていました。たちまち村中の評判となり、この奇蹟の画像を一目見ようと大勢の人が押しかけるなかに、領主松倉勝家の代官林兵衛門がいたのです。近郷から集まった人々はデウスの画像に拝しても代官にははばかもせずにいると、代官は激怒して画像を引き破り焼き捨ててしまいました。信徒たちは激昂して、代官に襲い掛かり殺害してしまったのです。領民たちは決起し鉄砲と武具を取って蜂起すると、寛永14年(1637年)10月26日に島原城を包囲し、城下を焼き払い、落城寸前となりました。
 島原城の攻防戦で、一揆勢の実力を見せ付けられた松倉勢は、江戸出府中の藩主松倉勝家の帰国を促し、豊後目付に報告し救援を依頼したのです。

  D 一揆の顛末
 一揆軍は12月1日原城に入り、8日修復を終えて堅固な城としました。状勢は混沌とするなか、松平信綱は徹底した持久戦と兵糧攻めを命じ、平戸からオランダ船を呼び寄せ、城内を砲撃させました。これには批判の声が上がり1月28日オランダ船は平戸へ返されましたが、この間の1月22日には、佐賀藩からの砲弾が、本丸で碁をうっていた天草四郎の左の袖をかすめ、側にいた男女5、6人が死に、四郎に対する絶対的な信仰が揺らぎ始めたため城から逃亡する者が出始めたと言われています。
 この様な事態のなかで2月1日、山田右衛門作の旧主有馬直純から矢文が送られ、右衛門作と蘆塚忠右衛門が、2月3日に大江の浜で有馬直純のおみ有馬五郎左衛門と休戦の上、降伏の勧告に対する会談を行ないました。しかし、その後の結果が裏目に出てしまい、右衛門作は捕らえられ、裏切者として手枷・足枷のうえ牢に閉じ込め、妻や子は見せしめとして処刑されました。
 2月28日、“一人も生かして残すな” という下知に、百姓はもちろん。女子供に至るまで一人残らず殺されて落城となりました。

<参照>
 島原天草一揆の経過(長崎県 南島原市 : PDF / 本サイト



2. 江戸幕府とキリシタン禁制
 (1) キリスト教禁教令布告と寺請制度
 慶長17年3月21日(1612年4月21日)、徳川幕府は江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して、教会の破壊と布教の禁止を命じた江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁教令を布告しました。同年5月には、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消しました。
 翌慶長18年2月19日(1613年1月28日)、幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げると、家康は以心崇伝いしんすうでん(右図)に命じて幕府のキリスト教に対する基本法となる「伴天連追放之文」を起草させ、秀忠の名で23日に公布させました。この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されたのです。その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいました。
 徳川秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」(外国船の入港地を平戸・長崎2港に制限)を出し、その中で「下々百姓に至るまで」とキリスト教の禁止を厳格に示しました。以後、鎖国体制が構築されていきますが、それは宣教師の潜入を防ぐとともに、海外渡航した日本人がキリシタンになるのを防ぐという二つの側面を持っていました。
 さらに秀忠は、元和5年(1619年)に改めて禁教令を出すと、板倉勝重はこれ以上黙認できないと、キリシタンを牢屋へ入れて秀忠のお目こぼしを得ようとしたのですが、逆に秀忠はキリシタンの処刑(火炙り)を直々に命じました。そして同年10月6日、市中引き回しの上で京都六条河原で52名が処刑されまそた(京都の大殉教)。52名の殉教者のうち、大人42名、子どもらは10名であった。この殉教の様子は、京都から離れた遠方にまで伝えられ、水戸の徳川の記録にも記されている。
 元和6年(1620年)には、日本への潜入を企てていた宣教師2名が偶然見つかり(平山常陳事件)、幕府はキリシタンへの不信感を高め大弾圧へと踏み切り、キリスト教徒の大量捕縛を行うようになります。元和8年(1622年)、かねてより捕らえていた宣教師ら修道会士と信徒、及び彼らを匿っていた者たち計55名を長崎西坂において処刑したのです(元和の大殉教)。続けて1623年に江戸で55名、1624年に東北で108名平戸で38名公開処刑(大殉教)を行っています。
 元和年間を基点に、幕府はキリスト教徒(隠れキリシタン)の発見と棄教(強制改宗)を積極的に推進していくようになりました。これは世界に類を見ないほど徹底した禁教政策でした。1629年(寛永6年)に絵踏を導入しましたが、初期の段階ではキリシタン狩りに効果があったとされましたが、次第に内面でキリスト教を信仰さえすればよいという考えが広まり、役人の前では堂々と絵踏みをし、密かに神に祈って許しを請う信者が現れ始めます。そのため、後期には必ずしも『キリシタン狩り』の効果は上がらなかったと言われています。
 この様な状勢のなかで、寛永14年10月25日(1637年12月11日)島原の乱が勃発し、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結しました。予言書『末鑑の書』や天草四郎の出現し、棄教した人々が結集し団結したのは、悪政に対して領民の我慢が限界を超えて爆発したことによるのでであって、キリスト教への迫害に対する反発として生じたものではないと言えます。
 島原の乱の後には、元和4年(1618年)に長崎で始まった訴人報償制そにんほうしょうせいを全国に広げ、密告を奨励し、密告の報償金は人物によって決め、密告者が宣教師の場合には銀30枚が与えられました。報奨金は時代によって推移しましたが、基本的には上昇し、竿州的に宣教師1人に付き銀500枚が支払われました。本人が棄教を選択した場合、誓詞に血判させ、類族改帳によってその親族や子孫にまで監視させました。
 1638年に幕府直轄領で「宗門改しゅうもんあらため」を実施して、キリシタンの洗い出しと締め出しを行うと、1671年には全国規模で民衆が信仰する宗門宗派を漏れなく調べさせ、これを「宗門人別改帳しゅうもんにんべつあらためちょう」として作成させました。これを定期的に繰り返すことでキリシタンの摘発を実施したのです。この人別改帳から漏れた者は無宿人むしゅくにんとして扱われ「非人ひにん」として不利益を被りました。キリシタンでないことの証明は檀家寺院が請け負い、これを「寺請証文てらうけしょうもん」といい、この制度を「寺請制度てらうけせいど」といいます。



 (2) コロンブスの悪影響を防ぐ鎖国
  @ 松倉親子の非人道的政策
 島原の乱を、江戸幕府による “キリスト教迫害” と一言で片づけてはならない。争いの基となったのは、先に述べたよう藩主としての松倉重政・勝家の親と子による圧政であるが、なぜ領民をこれ程までの圧政によって苦しめたのかという疑問が生じます。そこで、松倉重政という人物と、彼が生きていた時代的背景を考えると “葉タバコの生産” が浮かび上がってきます。
 松倉重政(1574年〜1630年)は豊臣家の直臣であったが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でその武功が徳川家康に評価され、大和の五条二見城主から元和2年(1616年)に有馬晴信の旧領であった肥前島原藩に加増移封となった。その後、重政が急逝した後を受けて、嫡男・勝家が寛永7年(1630年)に藩主を引き継ぎました。

<参照>
 江戸時代最悪の暗君親子・松倉家の悪政はなぜ見過ごされた?「天下泰平前夜」の幕藩体制の実際

  A タバコとコロンブス
 ところでタバコの原産地は、ボリビアとアルゼンチンの国境地帯。日本に伝わったのは、天正年間(1573年〜1591年)前に葉タバコが入った。種子がいつ伝わったかは定かではないが、慶長4年(1599年)に葉一枚が銀三もんめにもなり、これは当時の米価をもって換算すると、米三しょうにあたる高価な舶来品と見られていました。

<参照>
 近世におけるタバコ作の展開 (同志社大学経済学部助教授 岡光夫 : PDF / 本サイト

 平戸の英国商館長リチャード・コックスの日記には、元和元年(1615年)8月7日の条に「日本人が初めてタバコを喫い始めて以来、まだ10年も経っていない」という記載がある。このタバコが国産品だとすれば、10年前の慶長10年(1605年)ごろから出まわったことになる。慶長10年には長崎の桜の馬場にタバコが植えられたという伝承がある。また薩摩において指宿いぶすきから国分の梅の木に移し植えられたのが慶長11年といわれ、両地とも慶長10年前後に始められたとみてよい。長崎にタバコを伝えたのはオランダ船、薩摩に伝えたのはポルトガル船と推定されています。

<参照>
 日本関係海外史料「イギリス商館長日記訳文編之上」
 たばこ栽培発祥の地
 ・ マルコポーロとコロンブス(本編参照)

 ところで、1492年にクリストファー・コロンブスと共にバハマ諸島に上陸したヨーロッパ人たちは、タバコを贈り物として受け取りました。これをスペインに伝え、スペインからヨーロッパ各地の貴族の間に広まっていきました。
 日本には、コロンブスの発見から50年後となる1543年、種子島に鉄砲とともにタバコが持ち込まれたと言われています。日本でのタバコは、産地として定着したところでは、鹿児島の指宿いぶすきといわれています。その後、1601年にキリスト教伝道師が、徳川家康にタバコの種子を送ったこで、タバコを医薬品と聞きつけた家康が、タバコ栽培を奨励したことから広まったといわれています。
 1634年からの3年間、島原は天候が悪く、凶作が続いたことにより米の収穫が芳しくありませんでした。そのため、島原の大名であった松倉勝家は、米や麦だけでなく煙草タバコや茄子の実まで年貢として厳しく取り立てたとされます。
 現在、国内の葉タバコの産地は(国産葉タバコの2007年産の買入実績)下記となります。
  • 1位:熊本県(4191トン)
  • 2位:宮崎県(3805トン)
  • 3位:青森県(3676トン)
  • 4位:岩手県(3674トン)
  • 5位:鹿児島県(2705トン)
 以上のことから、松倉親子の非人道的政策には、コロンブスの中南米における蛮行の影が映し出されます。

<参照>
 禁煙豆知識・タバコの歴史
 日本製たばこの葉、どこで栽培されている?
 江戸時代「島原の乱」

  B 摂理としての鎖国
 当時の西欧キリスト教社会は、奴隷制度と植民地政策によるアジアでの交易に従事し、一大海上帝国を築こうとしていました。オランダ東インド会社の設立に向けて1601年から1612年にかけて東インド各地(「東インド」という名称は、大航海時代にアメリカ大陸に到達したヨーロッパ人が、当初その地をインドと信じたものの、のちに本来のインドとは異なることに気づき、アメリカ大陸を「西インド」、本来のインドとその近隣地域を「東インド」と呼称したことによる。 )に商館が設けられました。平戸オランダ商館(右図)もその一つで、オランダ人の監視、輸出品の荷揚げ、積出し、代金決済、出島の出入り、オランダ人の日用品購買の監督を行なっていました。
 こうして徳川幕府は1612年に、直轄領に禁教令という法律を出し、1613年には、禁教令を全国に適応させ、キリスト教の信者に宗教を変えることを強制させました。更に、1639年にポルトガル船の来航を禁止し、1641年には平戸にあったオランダの商館を長崎の出島という場所に移して、オランダ人と日本人の自由な交流を禁止しました。以上の動きによって、日本は鎖国状態に入ったのです。
 後に述べる、新渡戸稲造のあらわした『武士道』における日本の伝統的精神(「日本における摂理的概要」本編参照)は、この鎖国時代に培った高貴な至宝と言え、その意味で本編の後編第2章の内容は、日本における一連の復帰摂理歴史と言えます。

<参照>
 葡・西の盛衰と英・蘭の台頭(本編参照)


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