復帰摂理歴史の真実

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秀吉の朝鮮進出(上) <トップ> 細川ガラシャとおたあジュリア

■ 2. キリシタン禁制と寺請制度
     f. 秀吉の朝鮮進出(下)


文禄・慶長の役

 文禄・慶長の役 (壬辰倭乱) は、豊臣秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものですが、朝鮮側は秀吉の侵攻も倭寇による襲撃の延長線上程度にしか考えておらず1589年軍事訓練所が設置されます。これは、若すぎるか、老兵ばかりを採用し、その他に冒険好きの貴族と、自由を求める奴婢階層がいるのみでした。1590年には釜山港湾の要塞化案も出されても却下されました。日本の侵攻がますます現実味を帯びてきても、政治的な権力争いのための論争が行われるばかりで、実際の軍備拡張は不十分だったのです。

 さらに、朝鮮の軍人は軍事的知識よりも社会的な人脈によって昇進が決定されていたといわれ、軍隊は組織が緩み、兵士はほとんど訓練されておらず、装備も貧弱で、普段は城壁などの建設工事に従事していました。さらにこれらのことと同時に、官僚制の弊害も指摘されています。

 ところで、一般的に朝鮮の城塞は山城で、山の周りに蛇のように城壁をめぐらせるものでした。城壁は貧弱で、(日本や西洋の城塞のような) 塔や十字砲火の配置は用いられておらず、城壁の高さも低く戦時政策として住民全員が近隣の城へ避難する事として、避難しなかった住民は敵に協力する者とみなすとされました。しかし、多くの住民にとって避難場所としての城は遠すぎました

 また、両班の私兵は主に朝鮮正規軍の敗残兵常民出身両班が所有する奴婢、李朝社会では賤民と見做されていた僧兵から構成されていました。


日朝交渉の破綻

 明の征服を企てた豊臣秀吉は、1587年の九州征伐で臣従させた対馬の領主・宗氏を通じて、李氏朝鮮の服属と明遠征の先導 を命じました。しかし、宗氏は元来朝鮮との貿易に経済を依存していたため対応に苦慮しましたが、家臣の柚谷康広を日本国王使に仕立てて、要求の内容を改変して、新国王となった秀吉の日本統一を祝賀する通信使の派遣を李氏朝鮮側に要請しました。それに対して朝鮮側は、秀吉が日本国王の地位を簒奪したものとみなして要請を拒絶しました。

 1589年には、秀吉命により、宗義智自らが博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇、博多豪商島井宗室とともに朝鮮へ渡り、重ねて通信使派遣を要請しました。翌1590年11月、李朝からの通信使として黄允吉 (西人) と金誠一 (東人) が派遣され、聚楽第での引見に際して宗氏は秀吉に、通信使を服属使節だと偽って面会させ、事を穏便に済まそうとしました。このため秀吉は、朝鮮は日本に服属したものだと思い、李氏朝鮮に明征服の先導をするよう命令しました。ところが明の冊封国であった李氏朝鮮にそのような意思は無く、命令は拒否されると、秀吉は明の前にまず朝鮮を征伐することを決めたのです。

 一方、翌1591年3月、朝鮮に帰国した朝鮮通信使は秀吉のことを報告しましたが、報告内容は2つに分かれていました。

@ 西人派 (正使の黄允吉) は戦争が近いことを警告しました。
A 東人派 (副使の金誠一) は 「日本の侵略はあったとしても先の話」 と否定。

 結局、政権派閥だった東人派が戦争の警告を無視し、対日本の戦争準備はほとんど行われませんでした。この時、朝鮮通信使には日本人の柳川調信景轍玄蘇が随行していたので、朝鮮側はそれとなく両者から日本の情勢を聞こうとしました。すると玄蘇は 中国は久しく日本との国交を断ち、朝貢を通じておりません。秀吉はこの事に心中、憤りと辱めを感じ、戦争を起こそうとしているのです。朝鮮がまず この事を奏聞して朝貢の道を開いてくれるならば、きっと何事もありますまい。そして、日本六十六州の民もまた、戦争の労苦を免れることができましょう と言ったのです。金誠一らはこれを責め諭したが、玄蘇は 昔、高麗が元の兵を先導して日本を攻撃したことがあります。日本がこの怨みを朝鮮に報いようとするのは当然のことです と言いました。朝鮮側はこれに対して何も問わず、調信と玄蘇を帰国させました。

 同年6月、宗義智が釜山を訪れ、「日本は大明と国交を通じたい。もし朝鮮がこの事のために明に奏聞してくれるならとても幸いであるが、もしそうでなければ、両国は平和の気運を失うことになるだろう。そうなれば一大事です。だから自分はここに来て告げるのです」 と言いました。しかし朝鮮の朝廷では当時、通信使を咎め、日本の使者の傲慢さ無礼さを怒る議論が沸騰しており、義智にはなんの返事も与えませんでした。義智は不満足ながらも去っていくと、これ以降日本との通信は途絶え、釜山浦の倭館に常時滞在していた日本人数十人もだんだんと帰国し、ほとんど無人となったため、朝鮮ではこの事を不審に思っていたのです。


文禄の役
 1592年(文禄元年)〜1593年(文禄2年)に休戦。

 宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、「唐入り」 の決行を全国に告げると、名護屋城築造を九州の大名に命じました。1592年1月に、秀吉は小西行長と宗義智に、再度朝鮮に服属と唐入りへの協力の意思確認を行い、もし朝鮮が従わないなら4月1日から「御退治あるべし」と命じました。

 1592年4月7日、景轍玄蘇が対馬へ帰還し、朝鮮側の拒絶の意志を日本に伝えると、小西らは侵攻準備を開始します。

 1592年4月12日、釜山に上陸した一番隊・小西軍は最後通牒を朝鮮側に渡しますが、返事がなかったので、翌13日に、小西軍は釜山上への攻撃を開始しました。

 日本軍は9組に編成され (左図は、一番隊の小西行長軍と二番隊の加藤清正軍の進攻経路)、5月3日には、首都・漢城が陥落して朝鮮国王は逃亡しました。

 漢城は既に一部 (例えば、奴婢の記録を保存していた掌隷院や、武器庫など) が略奪・放火されており、住民もおらず放棄されていました。漢江防衛の任に当たっていた金命元将軍は退却していたし、王の家臣たちは王室の畜舎にいた家畜を盗んで、王よりも先に逃亡していたのです。村々で、王の一行は住民と出会いましたが住民を見捨てて逃げてしまいました。「宣祖実録」 によると、このとき朝鮮の民衆は朝鮮政府を見限り、日本軍に協力する者が続出したとされています。ルイス・フロイスも、朝鮮の民は 「恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似でなにか必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」 と記録しています。

 日本軍の進撃が平壌に迫ると宣祖は遼東との国境である北端の平安道・義州へと逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請しました。

 明軍の参戦を受けて、日本軍は、諸将の合議の結果、年内の進撃は平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとなりました。

 1592年7月16日、明朝廷は祖承訓の平壌戦の敗北という事態に、沈惟敬を代表に立て、日本軍に講和を提案。以降、日本と明との間に交渉が持たれる事になります。


朝鮮水軍

 5月7日、海岸移動を行っていた日本輸送船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍91隻艦隊が攻撃、海戦を想定していなかった50隻の日本輸送船団は昼夜戦で15艘が撃破されます。

 7月7日には、海戦用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった日本軍は、陸戦部隊や後方で輸送任務にあたっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗しました。しかし、脇坂安治の抜け駆けが主な原因となって日本水軍が敗北します。

 しかし、9月1日に李舜臣率いる朝鮮水軍が、日本軍の輸送拠点である釜山浦の制圧を目指して日本軍に攻撃を仕掛け、朝鮮水軍は鹿島万戸・鄭運が戦死するなど損害を多く出して敗退しました。この敗退を契機に、朝鮮水軍の出撃回数は激減し、朝鮮水軍のゲリラ活動は沈静化しました。

『宣祖実録』に見る鳴梁海戦後、日本水軍が全羅道西岸に進出していた証拠


日本と明の講和交渉

 1593年3月、漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれ、窮した日本軍は講和交渉を開始します。これを受けて明軍も再び沈惟敬を派遣、小西・加藤の三者で会談を行い、4月に次の条件で合意しました。

@ 日本軍は朝鮮王子とその従者を返還する。
A 日本軍は釜山まで後退。
B 明軍は開城まで後退。
C 明から日本に使節を派遣する。

 このCにおいては、明側では宋応昌沈惟敬が共謀して、部下の謝用梓徐一貫を偽装した皇帝からの勅使として日本に派遣することにしました。一方、日本の秀吉には、この勅使は 「侘び言」 を伝える者だと報告されていたのです。

 Aにおいては、4月18日に合意条件に基づいて、日本軍は漢城を出て、明の勅使・沈惟敬・朝鮮の二王子とともに釜山まで後退しました。その後、5月8日小西行長石田三成増田長盛大谷吉継の三奉行は明勅使とともに日本へ出発して、明勅使は5月15日名護屋で秀吉と会見したのですが、そのとき秀吉は以下の7つの条件を提示しました。

@ 明の皇女を天皇の妃として送ること。
A 勘合貿易を復活させること。
B 日本と明、双方の大臣が誓紙をとりかわすこと。
C 朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲し、他の四道および漢城を朝鮮に返還すること。
D 朝鮮王子および家老を1、2名、日本に人質として差し出すこと。
E 捕虜にした朝鮮王子2人は沈惟敬を通じて朝鮮に返還すること。
F 朝鮮の重臣たちに、今後日本に背かないことを誓約させること。

 しかし、これに対して石田・小西らは、本国には書き直して報告すればよいと進言して、6月28日に小西行長の家臣内藤如安を答礼使として北京へ派遣することとしたのです。その後の7月中旬には、釜山に戻ってきた勅使に朝鮮の二王子が引き渡されました。

 一方、明へ向かった内藤如安は秀吉の 「納款表 (明皇帝に誼を通じる文書) 」 を持っていましたが、明の宋応昌は秀吉の降伏を示す文書が必要だと主張したので、これに対して小西行長は 「関白降表を偽作して内藤に託し、内藤は翌1594年12月に北京に到着しました。

 一方、この頃、秀吉も朝鮮南部の支配確保は必須として、晋州城攻略を命じます。戦闘要員42491人の陣容で、近隣には釜山からの輸送役や城の守備に当たる部隊が存在しました。当初は漢城戦線を維持したまま日本本土からの新戦力を投入する計画でした。日本軍は6月21日から29日に掛け僅か8日 (戦闘開始から3日) で攻略します。

 6月には明軍も南下しており、李氏朝鮮軍は救援を要請しましたが 「城を空にして、戦いを避けるのが良策」 との返答があり、対する日本軍は晋州城を攻略すると更に全羅道を窺い各地の城を攻略しますが、明軍が進出すると戦線は膠着し休戦期に入ることになりました。




1596年 9月 1日慶長伊予地震が発生。M7.0
1596年 9月 4日慶長豊後地震が発生。M7.0〜7.8
1596年 9月 5日慶長伏見地震が発生。M7.0〜7.1
1596年10月19日サン・フェリペ号浦戸に漂着
1596年12月31日キリシタン禁制公布
1597年 1月10日26聖人処刑命令。大阪から長崎へ出発。
1597年 2月 5日、長崎の西坂の丘にて殉教。



交渉決裂から再出兵まで

 秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けていました。これは日明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした為です。結局、日本の交渉担当者は 「関白降表」 という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は 「勘合貿易の再開」 という条件のみであると伝えられました。「秀吉の降伏」 を確認した明は朝議の結果 「封は許すが貢は許さない」 (明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない) と決め、秀吉に対し日本国王 (順化王) の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣しました。

 1596年9月、秀吉は来日した明使節と謁見すると、自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒しました。使者を追い返すと、再度朝鮮への出兵を決定したのです。なお沈惟敬は帰国後、明政府によって処刑されます。

 和平交渉が決裂すると西国諸将に動員令が発せられ、1597年進攻作戦が開始されます。作戦目標は諸将に発せられた2月21日付朱印状によると、「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」 というもので、作戦目標の達成後は仕置きの城 (倭城) を築城し、在番の城主 (主として九州の大名) を定めて、他の諸将は帰国するという計画が定められました。九州・四国・中国勢を中心に編成された総勢14万人を超える軍勢は逐次対馬海峡を渡り釜山浦を経て任地へ向かったのです。


慶長の役

 李氏朝鮮王朝では釜山に集結中の日本軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令しましたが、度重なる命令拒否のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免され、後任に元均が任命されました。この海上から朝鮮水軍の勢力を一掃した日本軍は、翌8月、右軍と左軍 (及び水軍) の二隊に別れ慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始し、たちまち二城を陥落させ全州城に迫ると、ここを守る明軍は逃走したため、8月19日無血占領します。南原と全州の陥落により明・朝鮮軍の全羅道方面における組織的防衛力は瓦解しました。

 日本の諸将は全州で軍議を行い、右軍、中軍、左軍、水軍に別れ諸将の進撃路と制圧する地方の分担を行い、守備担当を決めると全羅道・忠清道を瞬く間に占領しました。北上した日本軍に一時は漢城の放棄も考えた明軍でしたが、結局南下しての抗戦を決意すると、9月7日に先遣隊の明将・解生黒田長政の部隊が忠清道と京畿道の道境付近の稷山で遭遇戦となりましたが、毛利秀元が急駆救援して明軍を水原に後退させました。

 明・朝鮮連合軍は軍を三路に分かち、蔚山泗川順天へ総力を挙げた攻勢に出ると、迎え撃つ日本軍は沿岸部に築いた城の堅固な守りに助けられ、第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功します。泗川の戦いでは島津軍7000が数で大きく上回る明・朝鮮連合軍を迎撃。明軍で火薬の爆発事故や、島津軍の伏兵戦術などにより連合軍が混乱し島津軍が大勝しました。

 順天を守っていたのは小西行長でしたが、日本軍最左翼に位置するため、新たに派遣された明水軍も加わり水陸からの激しい攻撃を受けるが防衛に成功し、先ず明・朝鮮陸軍が退却、続いて水軍陳リン率いる明水軍と李舜臣率いる朝鮮水軍) も古今島まで退却しました。以後、明・朝鮮連合軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなり、兵糧や攻城具も十分に準備してのものでしたが、全ての攻撃で敗退しました。

 これにより、三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は (恐々) となり、逃避の準備をしたといいます。


秀吉の死と終結

 秀吉は翌1599年に大軍を再派遣して攻勢を行う計画を発表していました。しかし豊臣秀吉が8月18日死去すると、五大老五奉行を中心に撤退が決定され、密かに朝鮮からの撤収準備が開始されました。もっとも、秀吉の死は秘匿され朝鮮に派遣されていた日本軍にも知らされなかったのです。

 秀吉が死去して以降、幼児の豊臣秀頼が後を継いだ豊臣政権では、大名間の権力をめぐる対立が顕在化し、政治情勢は不穏なものとなっており、もはや対外戦争を続ける状況にはなかったのです。そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令されました。

 11月23日加藤清正等が釜山を発し、24日毛利吉成等が釜山を発し、25日小西行長島津義弘等が釜山を発します。こうして、日本の出征大名達は朝鮮を退去して日本へ帰国し、豊臣秀吉の画策した明遠征、朝鮮征服計画は成功に至らないまま、慶長の役は秀吉の死によって終結しました。





耳塚と鼻塚


 左の写真は、京都市東山区の豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵のうち、慶長の役で戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻をはなそぎし持ち帰ったものを葬った塚です。

 古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれています。1968年4月12日、「方広寺石塁および石塔」 として国の史跡に指定されました。当初は 「鼻塚」 と呼ばれていましたが、林羅山がその著書 『豊臣秀吉譜』 の中で鼻そぎでは野蛮だというので 「耳塚」 と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようで、2万人分の耳と鼻が埋められています

 この塚は1597年に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われました。この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌が行った物で、京都五山の僧を集め盛大に行われました。

 当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分しましたが、一揆 (兵農分離前の農民軍) や足軽など身分の低いものは鼻 (耳) でその数を証しました (これをしないのを打捨という)。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされています。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養されました。




サン・フェリペ号事件

 1596年10月19日サン・フェリペ号 (フィリピンのマニラを出向して、メキシコを目指したスペインのガレオン船) という外国船が土佐の浦戸に漂着しました。

 左図は、サン・フェリペ号の航路 (白線)。

 この船には途轍もない財宝の数々が積まれており、それが秀吉の欲望に火をつけました。東シナ海で複数の台風に襲われ日本の海岸に漂着したサン・フェリペ号は、積み荷とともに没収という不文律がありました。

 その積み荷は、生糸16万斤、唐木綿26万反、上々繻子5万反、金襴緞子5万反、金の延べ棒1500個、大小の皿1万5000個、554個あろました。

 その積み荷の目録をつくるにあたって増田長盛という人物が秀吉によって奉行に取り立てられ、サン・フェリペ号の航海士のフランシスコ・デ・サンダを取り調べることとなりました。本来であるならば、不幸にも暴風雨によって漂着した船およびその乗組員たちはそれなりの保護や介抱を受けるはずでしたが、冬の最中、粗末な民家に閉じ込められ、わずかな米と水しか与えられず、しかも、船も積み荷も没収というのであるからフランシスコ・デ・サンダの心中、正義を踏みにじられた怒りが炭火のようにくすぶっていたに違いありません。

 増田長盛は、「どこから来たか」「どのように航海したのか」、また 「訪れた国々はどのようなものであったか」「大海上の位置をどのように測定して航海したのか」「地図があるのか、あるとしたらそれを見せよ」 と、心の赴くままに訊問したのです。

 フランシスコ・デ・サンダは世界地図を示しながら、航海の跡を辿りつつ説明しました。そして、一つの小さな島を示して 「これが日本だ」 と、教えました。増田長盛は 「なんだと。これがわが国か。こんなに小さく描くとは何事か」 と鬱憤をぶつけてきました。船長は 「なにも好んでこのように小さく描いたわけではない。インド、シナ、フィリピンなどの国々と比較して描いてあるのだ」 と説明しますが、増田は増田で、自国を馬鹿にされたように憤りを感じ、さらに訊問を続けました。「船にキリシタンのバテレン(宣教師)がいるのはなぜか」 と詰問すると、「それは、乗組員がすべてキリシタンであり、その者たちの心の面倒を見る必要があることや、病にかかり死に臨んだ時神の話をし、祈り、その心に慰めを与えるために必要なのだ」 と答えたといいます。

 しかし、そのうちに理不尽にも船も積み荷も没収され、乗組員まで逮捕してしまう秀吉の無礼に怒りがこみ上げ、ついに不用意な言葉を吐いてしまったのです。

 「われわれはスペインの大国で、メキシコも、フィリピンも、スペインの植民地として次々に占領していったこと。まずそのためには宣教師を送り込み、キリスト教を受け入れる国に対しては紳士的な通商を行ない、逆に宣教師たちに対して敵対的な行動に出れば、我がスペインのフェリペ二世は躊躇なく大軍を送り、その国を占領するであろう」 と、つい自国の強大さを誇って、威嚇的な言葉を吐いてしまいました。

 航海士のフランシスコ・デ・サンダとしては、精一杯のハッタリをかましたつもりでしたが、当時のスペインには日本を植民地化する意図も、経済力も、軍事力もなかったのです。

 しかし、増田はこの言葉を聞き逃さず、これは捨て置けないとして、キリシタンを禁制にする以外に方法はないと考えました。もっとも、イエズス会やフランシスコ会は、当時の仏教寺院の廃寺や仏僧の排除を平気で口にしていたので、仏教徒は 「キリシタン禁制にしなければ、自分たちの仏教が崩壊する」 という危機感を募らせていました。

 とくに秀吉の時代になってから、側近らはキリスト教はヨーロッパの君主による侵略の植民地化の尖兵であると誹謗しはじめ、このままではわが国古来の宗教が疲弊し、オランダ、スペイン、ポルトガルの属国になる危機感が生まれていました。

 そのころ、キリシタンを嫌っていた仏僧の施薬院全宗が秀吉に耳打ちすると、これを黙殺できないとして1596年12月31日キリシタン禁制の高札が全国津々浦々に立てられました。


秀吉末期と家康時代の対外政策.pdf Webページ  国士舘大学 講師 奥深山親司 著




 日本二十六聖人

日本26聖人 殉教者

 1596年10月サン・フェリペ号事件をきっかけに、秀吉は12月8日に再び禁教令を公布しました。

 また、イエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じました。

 ちなみに、二十六聖人のうち大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛されました。石田三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしましたが、果たせませんでした。

 24名は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて (秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた)、市中引き回しとなった。

 1597年1月10日長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコも捕縛された。二人はキリスト教徒として、己の信仰のために命を捧げることを拒絶しませんでした。



 上図は、26聖人が京都から長崎まで、1000キロを1ヶ月かけて歩いた行程図です。( 「日本二六聖人記念館HP」 より) 1597年1月9日〜2月5日


 厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎 (当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟) は、一行の中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」 とルドビコに持ちかけたが、ルドビコは 「 (この世のつかの間の命と天国の永遠の命を取り替えることはできない」 と言い、毅然として寺沢の申し出を断りました。ディエゴ喜斎五島のヨハネは、告解を聴くためにやってきたイエズス会員フランシスコ・パシオ神父の前で誓願を立て、イエズス会入会を許可されました。

 26人が通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まると、一行はそこへ連行されました (一行は、キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ているという理由から、西坂の丘を処刑の場として望んだといいます)。処刑当日の2月5日、長崎市内では混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにも関わらず、4000人を超える群衆が西坂の丘に集まってきていました。パウロ三木は死を目前にして、十字架の上から群衆に向かって自らの信仰の正しさを語ったのです。群衆が見守る中、一行が槍で両脇を刺し貫かれて絶命したのは午前10時頃でした。


日本司教ペドロ・マルチィンス日本退去の事情.pdf 慶應義塾大学名誉教授 高瀬弘一郎 著 Webページ



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