復帰摂理歴史の真実

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秀吉と伴天連追放令(下) <トップ> 秀吉の朝鮮進出(下)

■ 2. キリシタン禁制と寺請制度
     e. 秀吉の朝鮮進出(上)


伴天連追放令後のイエズス会宣教師の動向

文禄・慶長の役とキリシタン宣教師」 ・ Webページ (参考)
  慶応義塾大学 柳田利夫 教授著

 フランシスコ・ザビエル以来、中国布教の橋頭堡と考えられていた日本での布教は、秀吉の中国へ向けての出兵は宣教師にとっての絶好の機会であり、そのための軍事的援助は当然のことでした。

 1587年5月28日、コエリョが秀吉と対面すると、圧倒的軍事力を背景に中国征服へ向けて意欲をあらわにし、九州平定後コエリョと再度会見して、コエリョの乗船して来た軍遷都してのフスタ船に興味を示し船内を見て廻りました。

 こうした中で、宣教師側では朝鮮侵略の結果、日本と中国との取り引き、交渉が開始され、その機に乗じて宣教師を中国に派遣して布教を開始すべく目論んでいましたが、朝鮮における戦闘が膠着状態に陥り、和平交渉が決裂したことによってこの侵略行為が中国布教に不利益であり、かえって中国人の外国人に対する恐怖心を煽ってしまったととらえました。

 ところが、こうした膠着状態が秀吉の絶対的権威の崩壊を招くと考えられ、窮地に追い込まれた宣教師に望みを抱かせました。しかし結局は、多大な出費と苦難を余儀なくされながらも、キリスト教界の崩壊だけは免れることができたのです。




朝鮮の儒教と両班


 @ 孔孟の思想


 儒教については、「儒教の持つ意味」でも触れましたが、もう少し詳しく見ていきましょう。

 ところで、愛なる神は、愛による喜びを得るために宇宙を創造なさいました。この喜びという目的に向かって、自由な思考力で全知を尽くされ (理性普遍的な規則性によって必然的 (法則) なものとして青写真を描かれると、宇宙を創造し人間を創造されました ( 「新版 統一思想要綱」 より ; 左図)。

 さて、孔子の説いた 「論語」 の教えはどの様になっているでしょうか。

 人に対する思いやりの心博愛の精神

  、“” の心が目に見えるものとして外面かされ、態度として表されたもの。

  、“” の心が目に見えるものとして外面かされ、実際の行動として表されたもの。

 この事から、次の内容に対して考えて見ます。

 ある県の長官が孔子に 「私の村には、父親が羊を掠 (かす) めたことを告発した正直な息子がいる」 と告げると、孔子は 「私の町の正直者はそれとは異なる。父は子の為に隠し、子は父のために隠す、正直さとはこの中にある」 と答えたという話があります。

 この場合の “正直” と言うのは、父親が羊を掠めた事実に対する正直さと、父親は自分の家族のために隠し子は父のために隠したことは、父親の家族を思う心と子の父親を思う心に “正直” だとする全く異なった視点から “正直” を捉えた見方を表現しています。

 孔子はこれを “人間の情感の正当な表出” としました ( 「儒教道徳の源泉としての情感主義」 より)。つまり、行いの善し悪しよりも心に正直に生きることを重んじたのが儒教の本質とされましたが、このことを孟子は 「性善説」 として確立させました。

 この事は、人間の心の 「善悪を判断する知恵」 としての “” を全く無視した結論であり、他人のものを掠めるその行為に対して、またその動機や結果に対しても 反省” を妨げることとなってしまいました。


「儒教道徳の源泉としての情感主義」.pdf ・ Webページ
 南山大学 橋本昭典 著



 A 朱子学の問題点と科挙


 12世紀に朱子によって説かれた朱子学は、孔子の論語の不足を補うかのように説かれましたが (上図での、心→知→意の右側面として)、それ以前の儒教から一段階上の優れた儒教として李氏朝鮮ではむしろ朱子学を重要視し、そのための社会秩序を強固なものとするため科挙制度を取り入れました

 そのため、儒教国家としての李氏朝鮮は1392年から1910年までの518年間も続いたのです。そこでは、「仁」 よりも 「」 や 「」 が重んじられて来たのです。



 <理気説>

 宋代の新儒学において、周濂溪 (1017〜1073) は宇宙の根源を太極でるといい、張横渠 (1020〜1077) は太虚であるといった。これらはみな、陰陽の統一体としての気のことであった。気とは質量といってもよいものである。したがって、これは唯物論に近いものであった
 しかるに程伊川 (1033〜1107) によって、万物はすべて理と気から構成されているとする理気説が唱えられ、のちに朱子 (1130〜1200) によって大成された。とは現象の背後にある無形の本体を意味し、とは質量を意味した。朱子は、理と気のうち、理がより本質的なものであると見て、理は天地の法則であるのみならず、人間の内にある法則でもあると説いた。すなわち天地の従っている法則と人間社会の倫理法則は、同一の理の現れであると見たのである。
 このような思想に基づいた現実生活の営みの方向は、天地の法則に合わせようとするために調和の維持に重点を置くようになり、社会的な倫理に基づいた秩序維持に偏重するようになった。またすべてを法則に委ねるあまり、自然や社会の変化や混乱に対して傍観的態度をとる傾向が生まれ、自然を支配し、社会を発展させようとする創造的、主観的な生き方、すなわち能動的な改革の方式は軽視される傾向が生じた。 理気説においても現実問題を解決しえなかったのである。その失敗の根本原因は、なぜ太極や理気から万物が生まれるようになったのか、その動機と目的が明らかでなかったところにあるのである。
(新版 統一思想要綱 P153〜P154)




李氏朝鮮の弊害

17世界史「近世の朝鮮王朝 〜両班と朱子学〜」 (参考動画)

「儒教国家における嘘の根源を知るべし」.pdf
  SSRC 日本安全保障戦略研究センター 研究員レポート 前原清隆 Webページ


 1206年チンギス・ハーン(1162〜1227)が即位して建国されたモンゴル帝国は、チンギス・ハーンの死後1229年に、第3子オゴデイ・ハーンが後を継ぎ、1231年に朝鮮半島に対する征服戦争が開始されました。

 当時の朝鮮半島にあった高麗王国の実権を握っていた崔氏は、都を開城から江華島に移して徹底抗戦しましたが、高麗はこのあと1258年までの30年間6度モンゴル軍の侵略を受けました。

 1258年に、江華島内でクーデターが起こると崔氏政権が倒れたため、高麗はモンゴルと和議を結び、1259年には高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、その息子である忠烈王は、フビライ・ハーン(1215〜1294)の娘婿となったのです。

 これ以来、代々の高麗王の世子(せいし=世継ぎの太子)はモンゴル皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後に高麗王の位を継ぐのが習慣となっていました。高麗王の母は、みなモンゴル人になったのです。

 この頃、モンゴル軍は多数の高麗人を満洲に連れ去り、オゴデイ・ハーンは彼らを遼河デルタの遼陽瀋陽に定住させていました。

 1271年に国号を大元と定めたフビライ・ハーンは、満洲統治のために遼陽行省を置いくと、その重職には高麗人が当てていました。また満洲の高麗人コロニーの王として、高麗王の一族が、瀋陽王のち瀋王に任命されたのです。

 瀋王が高麗王を兼ねた時代には、満洲と高麗本土は統一が取れていましたが、瀋王と高麗の世子の関係は微妙で、元朝宮廷の継承争いに高麗王家も関与すると、満洲と高麗本国の関係は緊張をはらむようになっていきます。

 元朝宮廷の権力闘争の余波の一つとして、1356年、高麗国王の恭愍王は、久しく元朝の所領であった双城(咸鏡南道の永興)を攻め落としましたが、このとき双城で高麗軍に降伏した者のなかに、李子春という女真人がいましたが、その息子が李成桂(朝鮮の太祖王)で、当時22歳でした。高麗軍はそのまま北に進んで、咸興・洪原・北青の地を99年ぶりにモンゴルから奪回したのです。

 母方でチンギス・ハーンの血を引いている恭愍王のモンゴルに対する反抗運動は、瀋王派の圧迫から身を護るためのやむを得ない行動でした。恭愍王は、高麗本国内の反対派の打倒に成功すると、直ちに元朝皇帝トゴンテムル・ハーンと和解しました。

 1368年、紅巾軍の一派朱元璋が南京で即位し、大明皇帝と称して元の大都北京)に迫ると、フビライ家の元朝皇族は北方のモンゴル草原に引き揚げました。中国史で言うところの元朝滅亡ですが、元朝皇帝はこのあともモンゴル草原に存続していました。

 高麗の恭愍王は、直ちにこの明の太祖洪武帝を中国の皇帝として承認し、1370年にトゴンテムル・ハーンがモンゴル高原の応昌府で死に、その息子アーユシュリーダラ・ハーンがさらに北方にのがれると、恭愍王は高麗軍を満洲に派遣し、李成桂もこれに参加しました。高麗軍は遼陽城を攻め落とし、遼河デルタを一時制圧しました。この作戦は、遼陽・瀋陽が、歴代の高麗国王と結婚した元朝の皇女の領地であり、高麗王国の領土の一部であるという立場を主張するためのものでした。

 1374年、恭愍王は側近に暗殺されると、養子のムニヌ牟尼奴)が後を継いで、高麗は明の満洲進出に反発して、北元と親密な関係を回復したのです。

 1388年、明軍がモンゴル高原深く進攻して、北元のトクズテムル・ハーンが逃走の途中で殺されると、ムニヌ王は北元を助けるべく、再び高麗軍を満洲に進攻させようとしましたが、高麗軍が鴨緑江に達したとき、副司令官の李成桂らが命令を拒否して、方向を転ずると王都開城に向かって進軍し、“ムニヌ王” を廃位して “” という王子を立て、またこれを廃位して、王族の “恭譲王” を立てました

 その四年後の1392年に李成桂は、いよいよ恭譲王を廃位すると、自ら高麗国王の玉座についたのです。これを明の洪武帝に報告したところ、新しい国号を何にするのかと問われ、李成桂は「和寧」と「朝鮮」の二つの候補を挙げて、洪武帝に選択を請いました。

 「和寧」というのは、李成桂の故郷の永興の別名でしたが、北元の根拠地のカラコルムの別名も「和寧」であったので洪武帝は「朝鮮」を選びました。

 1393年、こうして李成桂は正式に朝鮮国王となりました

 岡田宮脇研究室 「論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人 (女真人) 出身である」 より


 この様な経緯があるため、李氏朝鮮は、中国征服へ向けての秀吉の和平交渉に対しての決裂は当然のことと言えるでしょう。




文禄の役とキリスト教

 文禄の役(1592〜1593)時にキリシタン大名である小西行長の要請により日本軍キリシタン将兵の教化や慰問のため、イエズス会の二人の宣教師が朝鮮を訪問しましたが、キリスト教宣教師が朝鮮に足を踏み入れたのはこれが最初と思われます。

 スペイン人のグレゴリオ・デ・セスペデス神父と、日本人のファンカン・レオン修道士は1593年12月27日に朝鮮に上陸しましたが、その翌日、現在の慶尚南道昌原市の鎮海区にあった熊川城に到着した。セスペデス神父は朝鮮から日本へ送った書簡の中で、熊川城の様子を次のように報告しています。

 「この熊浦城は難攻不落を誇り、短期間に実に驚嘆すべき工事が施されています。巨大な城壁、塔、砦が見事に構築され、城の麓に、すべての高級の武士、アゴスチイノ (小西行長のこと) とその幕僚、ならびに連合軍の兵士らが陣取っています。彼らは皆、よく建てられた広い家屋に住んでおり、武将の家屋は石垣で囲まれております。」 (『完訳フロイス日本史5』 中公文庫 )

 セスペデス神父らは、この城の中でのみ宣教活動が許され、城から出ることは禁じられていた。したがって、朝鮮人に対する宣教活動は行うことができなかった。セスペデス神父らは1年間ここに滞在し、長崎に戻っている。なお、セスペデス神父は1587年(天正15年)に細川ガラシャに洗礼を施している。


 朝鮮国内で初めて朝鮮人に洗礼を授けたのは、正式な聖職者である宣教師ではなく、文禄の役に従軍していた日本の武士だったという。

 ルイス・フロイスは著書『日本史』で、1592年から1593年の間に豊後のあるキリシタンの武士が朝鮮の首都・漢城及びその周辺で約200人の子供に洗礼を授けたと述べている (『遥かなる高麗』59貢)。

 『遥かなる高麗』には次のように記載されている。

 「この武士は、多数の高麗人の子供達が、戦火から逃げる時に両親から見棄てられ、あるいは捕虜とする価値が認められないほど幼いため日本兵からも遺棄されて、そのまま死んでゆくのを見て、激しく心を動かされ、死が近いと思われる未だ道理のわからない幼児を含め、すべての男女の子供達に、自分の手で洗礼を授けた。彼は槍持の供の者に、水の入っている水筒を常に腰に下げて行くように命じ、そのような子供を見付けると、天国に行けるように洗礼を授けた。この武士の供の者たちは、その時期に彼がおよそ200人の子供に洗礼を授けた、と確信している。」

 『遥かなる高麗』の著者であるホアン・ガルシア・ルイズデメディナ氏は、「その子供たちこそ、高麗の地におけるカトリック教会の初穂であり、正式に教会の一員と認められる人々である。」と述べています。

 一体、宣教師でない者が洗礼を授ける資格があるのかという疑問が生じますが、ルイズデメディナ氏は注書きで次のように述べています。「200名の高麗人幼児に洗礼を授けた教会の代行者は、教会規則(カノン)により、また1586年にマカオ司教区から分かれて創立された府内(大分)司教区の一定の階級の人々の手で、授洗の資格を与えられていた。その資格の授与者は、司教が不在の場合にはイエスス会の副管区長であった。世界の公教会と同じく日本の布教地区においても、宣教師でない者が(男女の区別なく)洗礼を授けることが出来た。事実これは司祭の数が不足している時には、しばしば行われていたことであり、常に教会によって承認されているし、また宣教師ではない代行者が、特に明白な承認を得ていない場合も認められていた。」(『遥かなる高麗』63貢)

 このように、洗礼を受けた子供たちには何のことか意味が全くわからなかったであろうが、200人もの子供たちがキリスト教の洗礼を受けたこと自体は韓国キリスト教史上、大きな意義があることは間違いないことでしょう。


 文禄慶長の役で日本に捕虜として連れて来られた朝鮮人は2、3万人に上ると言われていますが、九州を中心にかなりの数の者がキリスト教に改宗しています。五野井隆史著 『日本キリシタン史の研究』によると、宣教師が書いた「1595年度日本年報」によれば、島原半島の有馬の領内では捕虜となった朝鮮人が前年及び本年の2年間にわたって教理を聴き2000人がキリシタンになったといわれています (216ページ 吉川弘文館 2002年発行)。また、同書には続けて、『「1596年度日本年報」は、「本年はここ長崎にいる高麗の捕虜の男女子供多数を教え導きました。話によれば彼等は1300人を越え、その大多数は2年前に洗礼を受け、今年、告解をしました。 確かな経験によって彼等は聖信仰を受け容れるに充分ふさわしい人びとであることが解っています。喜んで洗礼を受け、古くからのキリシタンに劣らぬ慰めを心に抱いて告解をします。大部分の者が僅かの間に容易に日本語を覚え、告解に通訳を必要とする者はほとんどいません。」と報じている。』 と記載されています (同216ページ)。

 「韓国キリスト教小史」 より


 また、この捕虜として連れてこられた朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、そして朝鮮の陶工らによって、有田焼(鍋島氏)、薩摩焼(島津氏)、萩焼(毛利氏)などの窯業が日本各地に起こり、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えました。

 しかしその一方で、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役されたり、奴隷として海外に売られたこともあった言われています。



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