復帰摂理歴史の真実

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秦氏と東洋 <トップ> 聖徳太子とその影響

■ 1. 日本のはじまり




 弥生時代、先住民が暮らす東方の地に、西から新しい一族が渡って来ました。

 3世紀末に書かれたといわれる中国の歴史書「魏志倭人伝」によると、2世紀には、男子を王として争いが絶えなかった(倭国大乱)ため、そこで女性の王を立てて騒乱が鎮まりました。

 倭国を修めた『卑弥呼』は “鬼道” によって人心を掌握し、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐しました。

 1,000人の侍女を持ち、宮室や楼観で起居し、王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをし、巡らされた城や柵、多数の兵士に守られていたとされています。

(左図、黄色の部分が「」)


 倭の女王となった『卑弥呼』は景初2年238年)、大夫の難升米らを帯方郡に遣わし、天子魏の皇帝)に謁見して朝貢することを求めました。

 帯方郡長官の劉夏は官吏を遣わして案内させて洛陽まで送らせると、皇帝から「親魏倭王」に任じられ金印紫綬を授けられます。

 3世紀の中頃、『卑弥呼』の死後、後継に宗女の『壹與』が13歳で女王に即位したとされています。

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 「三国志(魏書・呉書・蜀書)」の中の一つである「魏志倭人伝」による内容をみると、次のことが提示されます。

 @ 卑弥呼は「鬼道」を行なっていた。
 A 当時の中国が「朝貢外交」を行なっていたことを知っていた。


 さて、当時の倭国において、卑弥呼以前は「鬼道」を知るものもいなければ、それを行うものもいませんでした。

 「鬼道」とは呪術であると一般的に言われていますが、「道教」であるとか「邪術」、「神道」であるとも言われています。

 しかし、その源流がユダヤ教の祭司職にあるとするばどうでしょうか、「ルカによる福音書」の第一章に祭司ザカリヤが主の聖所に入って香を炊き祈る場面がありますが、多くの民衆が外で祈りを捧げていました。

 また、当時の中国が朝貢外交を行なっていて、その出先機関である「帯方郡」に顔が利く人物でなければ、官吏を使わして案内させ「親魏倭王」の称号を得るまでにはならないでしょう。

 以上のことから、2世紀後半から3世紀はじめにかけて、既に秦氏が倭国に入ってきていて、朝貢をもって魏(中国)と関係を築いていたことになります。

 そして、そののちこの関係を対等な関係に改善したのが聖徳太子ということになるでしょう。

 更に後に「景教」が入ってきて大きな影響を与えていきます。




帯方郡(204年〜313年)
 古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。

(220年〜265年)
 中国の三国時代に華北を支配した王朝。



『古事記』の不思議

 1. 皇紀について 

 『皇紀』とは、日本の紀元のことで、毎年2月11日を「建国記念日」として国民の祝日とされています。

 1966年制定され、翌年1967年2月11日から適用されました。

 もともと「日本書紀」に神武天皇が即位した日とされ、明治5年1872年)に「紀元節」として制定されましたが、1948年廃止され、後の佐藤内閣政令として定めました。

 皇紀元年紀元前660年

 さて、北朝イスラエルが滅亡してアッシリアに捕囚されたのが紀元前701年(「分立摂理とその変更」参照)、帰還が始まるのは紀元前538年ですから、捕囚最後の120年間に何かが起こって故郷を捨てて東へと向かうことになったのでしょう。


 2. 『古事記』と『日本書紀』 


 『古事記』と『日本書紀』は、「古事」の「」と「日本書」の「」を取って『記紀』と言われていますが、どちらも『天武天皇40代)』(左図)が『帝紀』と『上古の諸事』を書き記すことを命じたことがきっかけとなって編纂されました。

 『古事記』は天武天皇の発案で、女帝の元明天皇43代)から命じられた太安万侶稗田阿礼誦習を撰録して、712年元明天皇に献上されました。国内向けに天皇の存在意義を保証するための書物とされ、年月日は書かれていません。

 『日本書紀』は、「壬申の乱」の後、天武10年6813月天武天皇は、ここで自分の皇位継承がいかに正統なものものであったか、天智天皇38代)の後継の座を争って甥に当たる大友皇子を死なせてしまった罪を正当化するために書かせたと言われています。

 養老4年7205月右大臣・藤原不比等が中心となって太安万侶も加わり、舎人親王(天武天皇の皇子)が編纂を総裁し、時の女帝の元正天皇44代)に献上されました。

 『日本書記』が完成した翌年の養老5年721には、宮中で太安万侶を講師として講義が開かれました

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 藤原鎌足次男である藤原不比等は、編纂された『日本書紀』をたくみに書き換えるなど、大宝律令の編纂にも関与し、その後、養老律令の編纂作業に取りかかりますが、720年元正天皇に『日本書紀献上の年に病死のため作業中途しています。

 697年文武天皇42代)が即位すると、娘の藤原宮子が文武の夫人となり、文武・宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれ、さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせました。

 光明子は後に「光明皇后」となりましたが、景教徒に強く影響を受けています。(これらに関しては、別ページにて・・・)



 3. カバラと三位神、古事記の造化三神 



 これまでの「カバラの造化三神」と「キリスト教の三位神」にあるように、「古事記の造化三神」も存在します。

 『天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)』を天(高天原)の中央に座する主宰神に、『高御産巣日神(たかみむすびのかみ)』と『神産巣日神(かみむすびのかみ)』の三神。

 天之御中主神』は「カバラの造化三神」の『均衡の柱』に該当しますが、なぜ「古事記」(現存するのは“写本”のみ)だけにこの造化三神が記載されているのかが分からない中で、明治初期に『天之御中主神』と『天照大御神』の神学的扱いに明確な回答が出ないままに、『天之御中主神』は「耶蘇教(キリスト教)の創造主」とされて輝きを失い、『天照大御神』が益々輝きを得るようになりました。

 しかしその事が、かえってキリスト教に関心を向けさせる事になった 「明治初期における天之御中主神論 」 日本大学生産工学部講師 佐々木聖使 に記されています。


<参考> 「古事記のものがたり」(1話〜13話)



 4. イザナギとイザナミの結婚の失敗 


 聖書では、天使長ルーシェルがエバを誘惑し、エバがアダムを誘惑することによってアダムとエバが堕落したとありますが、『古事記』では、イザナミ」が先に「イザナギ」に声をかたのが間違いで、結婚が失敗し、「水蛭子」が誕生したとあります。

 先に、イザナミが、
  「ああ、なんと素晴らしい男性なんでしょう!」

 すると、イザナギが、
  「ああ、なんと素晴らしい乙女か!」

  「・・・。」

 これが失敗と言うので、もう一度“やり直し”て、先に「イザナギ」が声をかけ、次に「イザナミ」が声をかけると、日本の国土が誕生する事となったされています。

 そして、その後誕生した火の神カグツチ」が「イザナミ」の陰部に火傷を負わせ「イザナミ」は死んでしまいました。

 「イザナギ」と「イザナミ」とで日本国土を造り、次に「イザナミ」から神々が産まれると、最後に「カグツチ」を産んで“”に至りました。

 「イザナミ」が陰部を焼きただれて死に至ったことは、アダムとエバの堕落が淫行によって堕落したことと関連があるように、次のことが起こります。

 まず、「イザナギ」は死んだイザナミ」のいる「黄泉の国」に行くと、ウジがわき、雷神がまとわりついた「イザナミ」を見てそこから逃げ出すと、「」をして身を清めました。

 「」を行い、最後に“”と“”を洗うと、そこから「天照大御神月読命建速須佐之男命」が誕生しました。




「京雛」と「関東雛」


 さて、ユダヤ教メシアを迎えるための宗教キリスト教メシアを迎えてからの宗教と言えますが、メシアとして地上に迎えることができなかった宗教とも言えます。

 つまり、イエスがメシアであると気づいた時には、既に十字架によって亡くなられた後でした。

 原始キリスト教は、「聖霊」が“霊的真の母”として導き成立して行きました。そこで、“唯一神”に“イエス”と“聖霊”とが加わり「三位神」または「三位一体」と言う“3数”が問題とされるようになりました。

 ところで、日本には「京雛」と「関東江戸」があります。そもそも「お雛様」とは「アマテラス」と「スサノオ」を模したもので、「男雛」と「女雛」があり、「男雛」を「お内裏様」、「女雛」を「お雛様」と言います。ですから、雛壇には「三人官女」と「五人囃子」が座しているのです。

 この「男雛」座する“”か“”かで、「京雛」と「関東雛」が区別されていて、向かって“”が「京雛」、向かって“”が「関東雛」となります。

 現在では、いつもこの位置をもって公の前に立ち、お並びになられるのが「天皇」と「皇后」であるのはもちろんです。

 では、なぜ、“向かって”から“向かって”となったのでしょうか。

 「イザナギ」の「左目」から出てきたのが「アマテラス」であれば、その「右目」から出てきたのが「スサノオ」ではなく「ツクヨミ」でした。

 また、「イザナギ」の「左目」からであれば、向かって「右側」に「アマテラス」、つまり「お雛様」となり、最初の京雛」とは反対になります。

 そもそも、“”と“”の概念はこのような事から成り立っているのではなく、最も信頼出来るのは“右側”である“右腕”と呼ばれて来たように、神様の“右側”つまり向かって“に位置しますが、この立場にたったのが“イエス”でした(上図)。

 その“左”に(向かって“右”)に位置するのがメシアを一番最初に迎えるべく立場である“洗礼ヨハネ”の立場だったのです。

 しかし、本来は、イエスは新郎として新婦を迎えるのが本来アダムとエバが失敗した結婚をやり直す事であり、キリスト教は、その夫婦から新しく生まれ直す事だったはずです。

 しかし、イエスは新婦を迎えることが出来ず、洗礼ヨハネも迎えられず、弟子たちまでも失って、霊界(黄泉国)に逝かれてから、その事が霊的に成されたのがキリスト教の歴史です。

 神はメシアとしてのイエスを地上に送る摂理をされて来られましたが、地上ではメシアを迎えるための準備をして来ました。この、メシアを迎える立場は、この世(堕落世界)においては“最高立”として考えられ崇められてきました。

 つまり、メシアを迎えるまでは“”(向かって右)が最高位とされて、メシアを迎えてからは“”(向かって左)が最高位とされてきたと考えられます。

 さて、「京雛」では“お内裏様”は向かって“”に座して、「関東雛」では向かって“”に座しています。

 なぜ右から左になったのでしょうか。それは、明治時代に西洋の流れを受けて、国際儀礼として「向かって左が上位の考え方が取り入れられるようになり、大正天皇即位の礼で、洋装の天皇陛下が西洋のスタイルで皇后陛下の右(向かって左)に立たれた事からこの風習が広まりました。

 そのため、関東雛」では「お内裏様」が「お雛様」の“”、向かって“に座しておられるのです。



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