戦争とロシア正教 |
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二、戦死を「聖」とするロシア正教の欺瞞 1. ロシア化されたギリシャ正教 1. 「キリスト」に関する原理的問題点 (1) 両性説と受肉した神 <参照> ・ パウロの伝道と三位一体論の展開(本編) @ ローマ帝国の分裂 4世紀後半アジア系のフン族がアッティラに率いられてヨーロッパに侵入し、ゲルマン民族の住む東ヨーロッパに定住しました。居住地を追われたゲルマン民族の一部族がローマ帝国内への移住を開始し、これをきっかけにしてその他の部族も、ローマ帝国への移住を開始すると、いわゆる “ゲルマン民族大移動” が始まったのです。 多民族国家であるローマはゲルマン人の移住に寛容でしたが、大規模な移住に対応しきれず国内が混乱してしまいます。そこで、395年テオドシウス1世は、帝国を東西に分割して2子に分け与えたのです。テオドシウス帝の死後、ローマは東西に分裂し、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、都市経済や政治システムが安定しており、1453年まで存続したのですが、ローマを首都とする西ローマ帝国は混乱から立ち直ることができず、476年西ローマ帝国の傭兵隊長オドアケルによって西ローマ皇帝は退位させられ、西ローマ帝国は滅亡してしまいます。 A 神性と人性における論争
(@)受肉した神の神性と人性 <参照> ・ 御言の受肉について (九州工業大学 論文著者 堺正憲 : PDF / 本サイト)
イエスは神を “父” と呼び、十字架によって死に至ると、復活して現れた。神が “父” ならばイエスは “子” でなければならず、また復活したイエスは聖霊によるとしたのである。このことによって父(神)は子(イエス)を生み出し、子としてのイエスは、聖霊によって “霊(spiritus)” として発出(復活)したとして、「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」による『三位一体論』が生じた。 その後、『マタイによる福音書』(1章18節)や『ヨハネによる福音書』(1章1節〜3節・1章14節)などの聖句によってイエス ・キリストは “受肉した神” であり、全てのものはこの御言によって造られたのであるから、イエスもまた「子なる神」であるとされたのである。 イエスが “受肉した神” であるとするならば、公会議で議論された「神性」と「人性」は右図のように考えられる。イエスの肉体は、マリアを母体として聖霊によって発出されたのであるが、このときイエスの「人性」は肉体と一緒にマリアの母体から聖霊によって発出されたと見ることができる。 しかし、ここで問題となるのは十字架後のイエスの「神性」と「人性」はどうなったのか(左図)であるが、ここに一つの回答を見出したのがロシア正教である。このことに関しては後の頁で述べることにする。 <参照> ・ 受肉およびその本質とは何か ・ 0733夜 『三位一体論』 アウグスティヌス ・ アウグスティヌスの三位一体論 (東京都立大学名誉教授 加藤信朗 : PDF / 本サイト) (A)両性説、単性説、合性説
<参照> ・ カルケドン信条 (B)正当と言える単性説 コンスタンティノープル公会議(381年)で三位一体論が確定し(ニカイア・コンスタンティノポリス信条)、その後キリスト論が討議され、まず合性説が排斥され、次いで単性説、残った両性説が正式に採択された。これらの問題に関して『原理講論』のキリスト論(p251〜p268)から見れば、単性説が最も近く(@赤下線部)、両性説が最も遠い説である。両性説を正式採択したことは、時代の変化とともにキリスト教の信仰に混乱をきたし、分裂を招くようになり様々な課題を提起することとなったのである。 <参照> ・ ローマ教皇庁の腐敗と大航海時代(本編) ・ 東方教会 2. ギリシャ正教からロシア正教へ <参照> ・ 帝政ロシア末期の宗教政策 (早稲田大学名誉教授 霜田美樹雄 : PDF / 本サイト) ・ ロシア正教会 - 名称と概念「ギリシャ正教」「ロシア正教」 (1) ロシアにおけるギリシャ正教
@ ロシア正教会の独立 (@)ウラジーミル1世(聖公) ウラジーミル1世(955年頃〜1015年7月15日)は、955年頃にキエフ大公・スヴャトスラフ1世の子として生まれ、37歳の時キエフ大公に即位した。 988年にウラジーミルは洗礼を受けると、異教の偶像を破壊するよう命じ、ビザンツ帝国からギリシャ正教を国教として導入することに決めたのである。加えて東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚し、当時最先端であったビザンツ文化を取り入れるなど、優れた手腕を見せた。このキリスト教の教えはロシアにまで拡大し、これまでの古い文化を解体し新しい時代の要請にこたえ、キエフ大公国の権威を上昇さたのである。 (A)イヴァン4世(雷帝) モスクワ大公は、初代となるダニール・アレクサンドロヴィチ(在位:1271年〜1303年)から数えて11代目の大公がイヴァン4世(右図・在位:1533年〜1547年)である。きわめて苛烈な性格であったため、ロシア史上最大の暴君と言われ「雷帝」という異称でも知られる。 ここに至るまでのキリスト教および組織は、古い文化を解体し新しい時代の要請にこたえ、ばらばらなロシア領土が統一的集権国家に合同し始めた。しかし、イヴァン4世は、16世紀ヨーロッパにおける絶対君主制の発展の中で、ツァーリズムと呼ばれるロシア型の専制政治を志向し、大貴族の専横を抑えることに精力を傾注した。1547年に「全ルーシのツァーリ」の公称を開始。行政・軍事の積極的な改革や、大貴族を排除した官僚による政治を試みた反面、強引な圧政や大規模な粛清、恐怖政治というマイナス面も生じたため、全土にわたって経済は低迷し、ビザンツ帝国の滅亡(1453年)も相まって財政的に逼迫してきた。 イヴァン4世の3男でモスクワ・ロシアのツァーリで、モスクワのリューリク朝最後の君主となったフョードル1世(在位:1584年〜1598年)は、1580年当時イヴァン4世の信頼を得ていたタタールの貴族ボリス・ゴドゥノフの妹イリナ・ゴドゥノヴァを妻に迎える。翌1581年に兄イヴァンが父イヴァン4世に誤って殺害されると、思いがけず後継者の地位につけられたのである。 (B)摂政ボリス・ゴドゥノフ 1584年にイヴァン4世が死に、息子のフョードルがフョードル1世として即位すると、ボリス・ゴドゥノフ(左図)は摂政団の一員となる。当時のモスクワ国家は甚大な経済的・社会的危機を迎えていた。飢饉と重税のため逃亡農民が激増し、労働力不足と税収の落ち込みで国家・社会は停滞しつつあった。ボリスは農民の移動制限などで対処したが、効果は出なかった。南部や東部へ大量に逃亡・移住した農民やコサックを国家はうまく管理出来なかった。 ところで、ロシアの正教会は、1448年以降、事実上コンスタンディヌーポリ総主教庁から独立していたが、その頂点である首座主教は従来通り、モスクワ府主教の位階を有すに止まっていた。 1589年になって、モスクワ大公国の実権を握っていた摂政ボリス・ゴドゥノフはロシア教会の公式の独立を望み、コンスタンディヌーポリ総主教イェレミアス2世、および他の3人の総主教(アレクサンドリア総主教、アンティオキア総主教、アレクサンドリア総主教)の認可を取った。そのことにより、ロシア正教会は独立した正教会と認められ、その頂点にはモスクワ総主教がおかれた。 A キリスト教ゆえに受け入れ難いユダヤ <参照> ・「ユダヤ人の歴史―迫害の克服と信仰の保持―」 黒川知文先生(ユダヤ教編) ・ 「解放」表象の反転 : 人種主義的反ユダヤ主義の成立:1842-1862 (関西大学経済学部教授 植村邦彦 : PDF / 本サイト) (@)ユダヤ民族の離散 ユダヤ史の中で最も重要な年代である西暦70年に、ローマ帝国の圧倒的な軍隊によってエルサレムの神殿が崩壊します。135年にはユダヤ人がローマ帝国によってエルサレムから追放され、1948年に今日のイスラエル国が樹立されるまで、彼らは全世界へと離散状況にありました。ドイツ以来のユダヤ人をアシュケナズ系ユダヤ人、スペインのユダヤ人をセファラド系ユダヤ人と呼びます。ここでは、ドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々としてのアシュケナズ系ユダヤ人を見ていきます。アシュケナズの語源は創世記10章3節ならびに歴代誌上1章6節に登場するアシュケナズである。 (A)キリスト教とユダヤ 中世に起こった “反ユダヤ主義” は、「ユダヤ人は神の子であるキリストを殺した」故に「ユダヤ人は神の敵だ」と考え “ユダヤ人は悪魔だ” としたのです。聖書にはそのように書かれていませんが、前述した “神が受肉したイエス・キリスト” という内容は、それを肯定すべく格好の神学的裏付けとなったのです。つまり、イエスはユダヤの血族とは全く別だと結論付け “イスラエル民族は虚構に過ぎない” とし、“ユダヤ人の国民的特性とその宗教はキリスト教の精神と対立する立場にある” としたのです。 ユダヤ人の国民的特性とその宗教と言うのは、“イスラエル人として培われた粘り強い不屈の仕事熱心さ” という特質のことであり、ユダヤ教徒として持ち合わせた “選民意識による頑なさ” を指します。 (B)ロシア正教の弁証法哲学導入 カール・マルクスはユダヤ人の血筋に生れましたが、6歳の時にプロテスタントの洗礼を受け、ユダヤ教からキリスト教に改宗しました。しかし、ユダヤ人としての血筋を持つ者としての差別から生活は困窮をきたし、キリスト教徒でありながら無神論的唯物論に帰結したのです。 反ユダヤ主義が成立しマルクスが全盛した頃、ロシアでは哲学教育の受難の時代となり、西欧での1848年革命への反動として大学では哲学は危険な学問とみなされて哲学講座そのものが廃止され、神学アカデミー(神学大学)でも哲学教育の内容は著しく制限された。しかし、この哲学教育の制限が逆に学生たちの間でのいわゆる「唯物論」の蔓延を許してしまったという反省から政府は、1860年になって各大学での「哲学史」授業の再開を認めるようになり、復活された哲学講座には多くの神学アカデミー出身の学者たちが招聘されることになったのです。こうして彼ら神学系の哲学者たちは、1860年代以降、ジャーナリズムで激しい哲学論争を繰り広げた在野の思想家たちや当時盛んに紹介された西欧の思想家(唯物論者、功利主義者、実証主義者、進化論者)とともに、その後のロシア思想の展開の一翼を担っていきます。 こうして、プラトンの古代ギリシャ哲学を弁証法的に「キリスト教化」した上で、さらにロシア正教に適合するように解釈(ロシア正教化)することで、プラトン思想をロシア正教の「古典」として扱うことを可能としたのである。 <参照> ・ 世界の有力なIT企業の多くはなぜユダヤ系なのか (一橋大学大学院経営管理研究科 特任教授 藤田勉 : PDF / 本サイト) ・ ヨーロッパにおけるホロコースト以前のユダヤ人の生活 ・ 図録▽世界のユダヤ人人口 ・ 共産主義の台頭(本編)
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