復帰摂理歴史の真実
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■ 第1章 第2節 メシア誕生のための内的摂理
     a. アブラハム家庭はノア家庭のやり直し


1. 死を覚悟することは、自我 (エゴ) を消滅させる

 (1) (霊的)死線を超えて堕落したエバ

 こうなるともう矢も楯もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。 ( 「原理講論」 第二章 堕落論 第二節 堕落の動機と経路 (一) 霊的堕落 )


 「原理講論」 によると、 “死を覚悟” して堕落したのは天使長ルーシェルでした。
 では、ここでいう “” とは“神の愛の圏”から逸脱して“非原理的な愛の圏”に入ってしまうことをいいます。
 では、このことによってエバに何が起こったのでしょうか。

 愛によって一体となれば、互いにその対象から先方の要素を受けるように創造された原理によって、エバはルーシェルと愛によって一体となったとき、ルーシェルの要素をそのまま受け継いだのであった。すなわち、第一に、エバはルーシェルから、創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心を受けたのであり、第二には、自分が本来対すべき創造本然の夫婦としての相対者は天使ではなく、アダムだったという事実を感得することのできる新しい知恵を、ルーシェルから受けるようになったのである。 ( 「原理講論」 第二章 堕落論 第二節 堕落の動機と経路 (一) 霊的堕落 )


 天使長ルーシェルと愛によって一体となったエバは、強烈な良心の呵責を覚えました。これは、エバの良心に外圧がかかったために恐怖心として感得されました。これが堕落人間が持つ矛盾性です。

 それでは、幸福は如何にしたら得られるのであろうか。人間は誰でも自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心から湧き出ずるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望をしりぞけ、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。これこそまさに、死の暗闇を押しのけて、生命の光を探し求めながら、辛く、険しい人の道を彷徨するいつわらざる人生の姿なのである。一体、不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わい得る人間がいるであろうか。このような欲望を満たす度ごとに、人間は誰しも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。 ― 中略 ―
 ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。 ( 「原理講論」 総序 )




  @ 石打ち刑

<参照>
 古代イスラエルにおける死刑考―石打刑― (PDF : 聖泉大学 人間学部 人間心理学科 教授 赤井伸之) / 本サイト

 さて、摂理を担う人物たちは、この人間の堕落によってもたらされる犯罪行為に対して、どの様に応じてきたのでしょうか。それは“石打ち刑”という刑罰でした。
 この石打ち刑は、古代イスラエルにおける死刑の死刑の一形態で、最も一般的でした。それは下半身を生き埋めにして、動きが取れない状態の罪人に対して、大勢の者が投石を行い死に至らしめる処刑法でした。処刑の中でも最も苦痛が多いとされています。
 ところで、石打ち刑が適用される犯罪は以下の通りです。

 @ 他の神々への礼拝、あるいはそうするようにと民衆を誤導する者
    (異教礼誘因者または誘因する行為、実行者とその家族や友人)
 A 神への冒涜
 B 口寄せや霊媒
 C 安息日の違反
 D エリコの町の掠奪品を保持 ・ 隠匿すること
 E 両親への不服従
 F 不敬行為
 G 姦淫 ・ 姦通
 H 人を突く癖のある牛と、時にはその所有者
 I 神が顕現する山に近づき過ぎた人や家畜


 ところで、この様な残酷な刑罰は復帰節理上どのような意味があったのでしょう。これから数ページに渡り、その観点を含めながらみていきたいと思います。



  A 自我 (エゴ) の消滅

 人間の心に矛盾性をもたらしている本心と邪心は善と悪の真逆の指向性で、互いに引き合っているのではなく、ぶつかり合っています。それは、人間の行為によってある変化をもたらします。
 悪を行ったときは、邪心が強くなり、本心を圧迫します。そのことによって、本心は良心の呵責からくる恐怖心を覚えます (左図下)。 これは丁度エバが堕落 (霊的堕落) した直後と同じ状態です。
 また、善を行ったときは、本心が邪心を圧迫し、それによって、邪心は恐怖心を覚えます (左図上)。 この善行は良心的善行ではなく、神からの命令ならざる命令に従い行動することです。堕落もその行為によって成立したので、復帰も行為が成立して復帰されます。これが、信仰基台実体基台基台」 として成立することなのです。
 この本心による、邪心の圧迫が強くなると、邪心は消滅の方向へ向かいます。これを原理では 「サタン分立」 と呼んでいます。

 ところで、天使長ルーシェルは、死を覚悟してエバを誘惑し堕落しました。堕落したエバはルーシェルからそれらを相続したため、恐怖心を覚え、その解消のためアダムを誘惑し、さらに堕落行為 (肉的堕落) を重ねました (左図右)。  神側で死を覚悟してサタン側に来たので、サタン側で死を覚悟して神側に来なければならなくなってしまったのが、堕落人間の立場です (左図左)。 それゆえイエスは 「死なんとするものは生きる」 と言ったのです。死を覚悟して善を行えば、自我 (エゴ) から解放されるのです。




2. ノア家庭をやり直すアブラハム家庭

 (1) 愛の減少感を乗り越える

 天使長ルーシェルがエバを誘惑したのは、神の愛の減少感によるアダムに対する嫉妬心にありました。

 神は天使世界を創造されてから、ルーシェルに天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。
 しかし、神がその子女として人間を創造されたのちには、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。 ( 「原理講論」 第二章 堕落論 第二節 堕落の動機と経路 (一) 霊的堕落 )


 このような堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。 ( 「原理講論」 第二章 堕落論 第四節 人間堕落の結果 (六) 堕落性本性 )


 堕落性本性とは、神の愛に対する一種の減少感によって引き起こされたもので、天使長ルーシェルはその知恵によって自我が芽生えたのです。そのことがアダムに対する嫉妬心となって、エバを誘惑するようになりました。ルーシェルは、エバに誘惑に引かれてくる気配が見えてくると、エバから (神からの愛よりも) 一層強い愛の刺激を受けて、矢も楯もたまらず、死を覚悟してまでも、より深くエバを誘惑して堕落したのです。



  @ サラとハガル、正妻と侍女

・ 創世記15章
  アブラハムの三種の供え物と、その失敗
・ 創世記16章
  産まず女のサラが、仕え女ハガルを夫アブラハムに妻として与える。( 1節〜3節 )
  ハガルは子を孕み、女主人であるサラを見下げた。 ( 4節 )
  サラはアブラハムにハガルを愚痴る。( 5節 )
  アブラハムは、ハガルはあなたの仕え女なのだから、あなたの好きにしなさいと答える。 ( 6節 )
  サラはハガルを苦しめたので、女主人を避けて逃げた。 ( 6節 )
  主の使がハガルに会い、女主人のもとに帰るように言った。 ( 7節〜12節 )
  ハガルが、アブラハムの子イシマエルを産む。 ( 15節 )
・ 創世記17章
  アブラムをアブラハム、サライをサラと呼び、アブラハムは99歳、イシマエルは13歳割礼を受ける。
・ 創世記18章
  サラに、男の子が生まれるとのお告げあり。アブラハムは、神が背徳の町ソドムとゴモラを滅ぼそうとされるのをとりなす。
・ 創世記19章
  硫黄の火によって、ソドムとゴモラは滅亡する。
・ 創世記20章
  ゲラルの王アビメレクから、アブラハムとサラは兄妹として難を逃れる。
・ 創世記21章
  アブラハムが100歳のとき、サラがイサクを産む。 ( 1節〜5節 )
  サラは、イシマエルがイサクと遊ぶのを見て、イシマエルが世継ぎとなるべきではないといって、アブラハムはそのようにした。 ( 8節〜14節 )
・ 創世記22章
  イサク献祭
 三種の供え物で失敗したアブラハムの摂理は、3代まで延長されることになりましたが、そのためには 「信仰基台」 の確立と、それを支えるサラの信仰が必要でした。
 愛の減少感を乗り越えるには、正妻と侍女の関係では根本的に限界があったため、神はリベカを導いて、重要な摂理を展開します。そのことは、次のイサク献祭の後に考えることにします。




<参照>
 石打ち (ウィキペディア)
 死を覚悟すること
 自我の捨て方


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