復帰摂理歴史の真実

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イエスの弟子たち <トップ> ローマ帝国国教とキリスト論

■ 1. イエス誕生の秘話
     d. ペテロ・パウロと原始キリスト教


 み言葉より


   ユダヤ民族について

 長い間、神様の摂理のみ旨に従ってきたイスラエル民族の中でも、選ばれたユダヤ教は、神様のみ旨を成し遂げ、勝利の基台を準備すべき使命がありました。これが彼らを選んだ神様の願いであり、また彼ら自身の希望でした。
 このようなみ旨がかなえられるその時を願って、神様は御自身が信じることができ、創造理想を実現する全体の任務を遂行し得る一人息子であるイエス様を送りました。 「イエス様の生涯と愛」158頁

 ユダヤ教はイエス様のために神様が準備されたものでしたが、そのようなユダヤ教徒はイエス様がベツレヘムに生まれたことを知りませんでした。むしろ東方の博士が先に知って、黄金、乳香、没薬をラクダに乗せて国境を越え、イエス様が誕生した場所をヘロデ王に尋ねたのです。こうしてイエス様の生まれたことがヘロデ王に知られると、ヘロデ王はイエス様を捕らえて殺そうと計画を立てます。 「イエス様の生涯と愛」161頁


   ペテロにつて

 しかしペテロは、三度もイエス様を知らないと否認しました。それゆえ天のみ旨とは完全に分離された立場に立つようになり、イエス様とは関係のない立場に立つようになったのです。そのようなことを知っているイエス様でしたが、死の道に向かっていく自分のあとを死守して、同情してくれる一人の人を探そうとされたので、愛する一番弟子であるペテロを振り返られたのです。このように一人の真の人を探そうとされたみ旨が、愛弟子ペテロを見つめるその視線の中にしみ込んでいたことを知らなければなりません。 「イエス様の生涯と愛」190頁

 天に向かう信仰路程において、永遠、不変の姿で宇宙的な使命を少しも疑わずに推し進めるイエス様を見つめる瞬間、ペテロの心が一変して、一生の間、主のために生きようという衝動感が起きたことを知らなければなりません。不信の自我を悟ったときから、ペテロはイエス様と自分との関係、あるいはお互いの生涯を比較しながら、自分の足りなさをより強く感じるようになったのです。 「イエス様の生涯と愛」192頁

 それからペテロは、どのようなことを感じたのでしょうか。自分の不信を感じると同時に、周囲の不信を感じたのです。罪のないイエス・キリスト、どこの誰に尋ねてみても罪がないというイエス・キリストを、悪なる周囲の人々が縛り、むちで打って喜ぶのを見ながら、ペテロは迫害されるイエス様の視線の中で、イエス様の悲しく孤独な心を見抜くことができました。
 このような悔しい立場でも、天の道を守っていく姿を見せるイエス様の熱い視線の前に、ペテロは周囲の人々の不遜さを感じたのです。そこからイエス様の弟子ペテロは、イエス・キリストの味方になり得ない悪なる群れを滅ぼすために、主が再び来られるまで、周囲の不遜な勢力と戦おうと、正義感あふれる覚悟をしたのです。
 天に向かって歩んでいくイエス様の善なる不変の姿と、周囲の人々の不遜さは、天地の差がありました。それゆえ、瞬間的に振り返るイエス・キリストの視線を通して、ペテロは自分の愚かだった生涯を精算することができ、周囲の環境を浄化して善の基準を立てなければならないと決心をし、より一層神様に向かったのです。
 言葉なく、天のため地のため、万民のために亡くなったイエス・キリストの死を通して、ペテロはおのずと主を尊敬するようになり、その死の前に懺悔の涙を流して痛哭したのです。 「イエス様の生涯と愛」192頁


   パウロについて

 パウロは復活されたイエス様に出会い、天の使命を受けました。そうして裏切った使徒ではなく、裏切らなかった生きた使徒の立場で異邦の国であるローマに行き、迫害を受けながら福音を伝えました。
 パウロが十二弟子の殉教に代わり、洗礼ヨハネの死に代わって主を探し出したので、地上においては摂理的な軌道が異邦の国に移されました。こうしてパウロは、ローマ帝国に入り、独りで追われるようになります。宗教的に歓迎されない立場に置かれるようになったのです。
 しかしパウロは、イエス様が定められた摂理のみ旨一つを抱いて人類の十字架であるゴルゴタの道を行かれたように、ローマのいかなる迫害の矢にも屈せずに貫いて進みました。天のみ旨のためには、死も意に介さずに進んでいく姿がイエス様の姿を彷彿させたのです。
 そうしてパウロを中心としてキリスト教は動き、一つの家庭型を経て、部族型、民族、国家、世界型と経てきました。イエス様がゴルゴタの道を行ったように、パウロは天の使命を担い、十二弟子の代わりにサタン世界に対して死のゴルゴタの道を自ら進んで乗り出したのです。そうして、ローマのネロ皇帝時代の激しい迫害と虐殺の過程を経てきたということを知らなければなりません。 「イエス様の生涯と愛」288頁

 サウロの回心 : 使徒言行録9章1〜19節
 迫害を続けるサウロにイエスは語りかけた。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。その後サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(使徒言行録9章4節〜9節)
 イエスがアナニアに、「ユダの家にいる、タルソス出身のサウロを訪ねよ。」と命ずる。しかし、アナニアは、サウロは悪事を働いたものと拒んだ。(使徒言行録9章10節〜13節)
 イエスはアナニヤに答えた。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにもわたしの名を伝えるためにわたしが選んだ器である」と。早速アナニアは、サウロの所へ出かけ、サウロはアナニヤを通し、聖霊で満たされると、目から沢山の涙を流し、元通り見えるようになり洗礼を受けた。(使徒言行録9章15節〜19節)


   聖霊について

 では当時の弟子たちの心情は、どうだったのでしょうか。愛する主を釘付けにした不信のイスラエル民族とユダヤ教の一団に対する、言うに言えない敵愾心が煮えくり返っていたでしょう。復活された主のみ旨、神様のみ旨ならば、身が粉となり骨が溶けることになろうとも、最後の勝利のために、復活された主に従って行こうという覚悟をもったことでしょう。
 そのような覚悟、すなわち主が去って行かれたのちに、天に対して切に敬い慕ったその心、死ぬようなことがあっても、あるいは困難な十字架の道が遮られていたとしても、この道を打開しなくてはならないという覚悟をもって、弟子たちはあの人この人に対するたびに、お互いに激励し合ったことでしょう。それでこのような心情に徹していた弟子たちにイエス様は現れて、聖霊を送ってあげることを約束されたのです。 「イエス様の生涯と愛」268頁

 百二十人の門徒は天地が振動し、炎のような舌が分かれる聖霊の役事を体恤するようになるとき、天に向かう切実な心に徹し、いかなる怨讐に対したとしても死を覚悟して行こうという心を持つようになったのです。ここに天によって力がさらに加えられると、その力はいかなる者が切ろうとしても切ることができなかったのです。このような力が土台になったがゆえに、彼らが語る言葉が天地を動かし得る能力を行使したということを知らなければなりません。 「イエス様の生涯と愛」277頁

 イエス様が来られ逝きながら、「私は成し切れずに行くので、私を信じる代わりに聖霊を信じなさい」と言われました。イエス様さえ信じれば救われると思っているのですか。とんでもないことです。聖霊を信じても救われるのです。神様の息子を信じさせるのが聖霊なので、聖霊も信じなければなりません。
 聖霊とは何の神でしょうか。母の神です。聖霊は母の神であり、イエス様は人類の真の父です。 「イエス様の生涯と愛」278頁

 ところがキリスト教では、三位一体の神がどうだこうだと言っています。イエス様は真の父であり、聖霊は母なので、この霊的な父と母の愛を受けてこそ、霊的に重生されるのです。子女は父母の愛がなくて生まれることができますか。
 それゆえ、黙示録には、「御霊(聖霊)も花嫁(新婦)も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」とあります。そのような日は、聖霊が実体をもつ日です。そのときが再臨時代です。新婦の着飾りを終える日です。 「イエス様の生涯と愛」279頁

 私たちは今まで、イエス・キリストを迎えるために自分だけが苦労してきたものと思っていましたが、自分の背後で自分以上に苦労された聖霊がいることを知らなければなりません。
 イエス様が願われることは、人間の苦労よりも聖霊の苦労が大きいので、この聖霊を立て、イエス・キリストの栄光に代わって人間を糾合しようとされるのです。そのような一日を迎えられなければ、イエス様はこの地に再び来て万民の主人公に立つことができないのです。 「イエス様の生涯と愛」280頁




 聖霊と霊的重生


   原理の観点から

 新生とは、新たに生まれるという意味である。(旧原理講論「キリスト論」より)

 重生とは、二度生まれるという意味である。(現原理講論「キリスト論」より)


(1) 重生の使命から見たイエスと聖霊

 堕落人間が重生しなければならない理由について調べてみることにしよう。

 アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。

 しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。

 我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。

 ゆえに、ペテロ・一章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を後のアダムといい(コリント・一五・45)、永遠の父といったのである(イザヤ九・6)。また、神は、預言者エリヤを再び送り、彼の力で堕落した人間の心を、父母として降臨されるイエスの方へ向けさせることによって、彼らをその子女となさしめると言われた(マラキ四・6)。そして、イエスが再臨されるときも、父の栄光のうちに来られる(マタイ一六・27)と言われたのである。

 ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。

 このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労感動の働きをなさるのであり(コリント・一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。

(2) ロゴスの二性性相から見たイエスと聖霊

 ロゴスという言葉はギリシャ語で、み言、あるいは理法という意味をもっている。ヨハネ福音書一章1節以下を見ると、ロゴスは神の対象で、神と授受をなすような関係の位置をとっているという意味のことが書かれている。ところで、ロゴスの主体である神が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない。もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物(ヨハネ一・3)も、二性性相になっているはずがない。このようなロゴスの二性性相が、神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった(前編第一章第一節(一))。
 (統一思想的観点から論ずると、ロゴスの二性性相は、理性法則からなっている。つまり、心情の発動に正しい法則性を持たせることによって正しい愛となる。)

 アダムが創造理想を完成した男性、すなわち生命の木となり、エバが創造理想を完成した女性、すなわち善悪を知る木となって、人類の真の父母となったならば、そのときに、神の三大祝福が完成され、地上天国は成就されたはずであった。しかし、彼らが堕落したので、反対に、地上地獄になってしまった。それゆえ、堕落人間を再び生み直してくださるために、イエスは、後のアダム(コリント・一五・45)として、生命の木の使命をもって(黙二二・14)人類の真の父として来られたのである。このように考えてくると、ここに後のエバとして、善悪を知る木の使命をもった人類の真の母が(黙二二・17)、当然いなければならないということになる。これがすなわち、堕落した人間を、再び生んでくださる真の母として来られる聖霊なのである。

(3) イエスと聖霊による霊的重生

 父母の愛がなくては、新たな命が生まれることはできない。それゆえ、我々がコリント・一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という。ところが、人間は霊肉共に堕落したので、なお、肉的重生を受けることによって、原罪を清算しなければならないのである。イエスは、人間の肉的重生による肉的救いのため、必然的に、再臨されるようになるのである。

(二)三位一体論

 創造原理によれば、正分合作用により、三対象目的を達成した四位基台の基盤なくしては、神の創造目的は完成されないことになっている。したがって、その目的を達成するためには、イエスと聖霊も、神の二性性相から実体的に分立された対象として立って、お互いに授受作用をして合性一体化することにより、神を中心とする四位基台をつくらなければならない。このとき、イエスと聖霊は、神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである。

 元来、神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。もし、彼らが堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば、彼らの子孫も、やはり、神を中心とする善の夫婦となって、各々三位一体をなしたはずである。したがって、神の三大祝福完成による地上天国は、そのとき、既に完成されたはずであった。しかし、アダムとエバが堕落して、サタンを中心として四位基台を造成したので、サタンを中心とする三位一体となってしまった。ゆえに彼らの子孫もやはり、サタンを中心として三位一体を形成して、堕落した人間社会をつくってしまったのである。

 それゆえ、神はイエスと聖霊を、後のアダムと後のエバとして立て、人類の真の父母として立たしめることにより、堕落人間を重生させて、彼らもまた、神を中心とする三位一体をなすようにしなければならないのである。しかし、イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。したがって、イエスと聖霊は霊的重生の使命だけをなさっているので、信徒たちも、やはり、霊的な三位一体としてのみ復帰され、いまだ、霊的子女の立場にとどまっているのである。ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ彼ら(霊肉共の真の父母)によって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。このようにして、堕落人間が神を中心として創造本然の四位基台を造成すれば、そのとき初めて、神の三大祝福を完成した地上天国が復帰されるのである。



   統一思想の観点から


 統一思想(頭翼思想)にはこの様にあります。

 ロゴスとは理法である。
 理法とは理性と法則の統一を意味する。

 「理性」と「法則」とは、  「自由性」と「必然性」を意味し、「規範(四位基台)の中での自由による、愛の実現」を表します。これは、「原理を離れた自由はない」と言うことであり、“ 愛 ”という「実績を離れた自由はない。」と言うことでもあります。
 また、「目的生」と「機械性」とも言えます。これは、「目的の達成のために手段を選ぶと言う責任責任ゆえに手段を選ぶ)があっての、愛の実現」を表し、これは、「責任のない自由はない」と言うことであり、“ 愛 ”という「実績を離れた自由はない。」と言う事です。

 これらの内容から言えることは、「母の役割」とは、「規範教育」と「責任教育」にあると言う事です。





 ステファノの殉教とその後

 ステファノはイエスの復活以後、使徒たちの中で最初に殉教した使徒として有名です。(使徒言行録6章〜)

ステファノの選出
  伝道がすすみ、教会が拡大すると予想だにしない困難が起こる。ギリシャ語を話す信徒たちが、ヘブライ語を話す信徒に対して苦情を申し出た。日々の分配に対するもめ事だった。やむなく、教会の生活面を管理する執事として七人を選出し任命した。その筆頭がステファノである。聖書には “信仰と聖霊に満ちている人” とある。(使徒言行録6章1〜6節)

ステファノの逮捕
 七人の執事たちは、宣教活動にも手腕を振るうようになった。中でも、知恵と霊とによって語るステファノの活躍は目覚ましかった。しかし、これが民衆、長老、律法学者らの反感を買うようになり投獄されることとなってしまう。(使徒言行録6章8〜15節)

ステファノの殉教
 ステファノは、裁判の時、大勢の 群衆の前で説教を行ったが(使徒言行録7章1〜53節)、それを聞いた多くのユダヤ教徒らは激しく怒り、激しい石打の刑により殉教した(使徒言行録7章54節〜60節)。しかし、この時サウロは、ステファノの殺害に賛成していたのである。(使徒言行録8章1節)




 ユダヤ戦争とエルサレム陥落

 最初の異邦人キリスト教徒誕生の地と言われるカイサリアで、ユダヤ人が虐殺されたことで、ローマ帝国とユダヤ人との間で起きた戦争がユダヤ戦争です。66年〜74年まで続きましたが、詳しくは、「ユダヤ戦争」をご覧頂ければと思います。この間、70年にエルサレム神殿がローマ軍に火を放たれ炎上し陥落しました。




 御霊の九つの実 (愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制)



 聖書の、ガラテヤの信徒への手紙5章22節にはこのようにあります。

 「霊の結ぶ実はであり、喜び平和寛容親切善意誠実柔和節制です。」


 次に、文師が語られたみ言葉を見てみると、次のようにあります。

 「イエス様は、このような道を開拓するために、歴史上になかったを強調したのです。そしていかなる困難な環境にぶつかっても、その環境を克服するためには忍耐心をもたなければならないと主張し、罪人が悪に対して忠誠を尽くす以上に、神様のみ旨のために忠誠を尽くさなければならないと語られたのです。 これがキリスト教でいう御霊の九つの実の根本です。の生活をするようになれば喜び平和が生まれ、忍耐(寛容)を通しては慈愛善意が生まれ、忠誠(忠実)の生活をすれば柔和と謙遜(自制)が生まれるのです。」

 さらに、この様に語っておられます。

 「イエス様は堕落圏内にいる人間のすべての悪の要素を除去するために、天的な愛天的な忍耐天的な忠誠を強調したのです。これらが天国の理念を達成し得る実践的な理念なのですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。」 「イエス様の生涯と愛」232頁




 エバ国家、日本の使命

 さて、この様なみ言葉があります。

 「太平洋文明圏時代は、韓半島を中心として展開します。日本は女性の子宮とちょうど同じです。これらが、一つにならなければなりません。それゆえに、日本はキリスト教が誤ったこと、イギリスが誤ったことをすべて蕩減復帰しなければなりません。 また、ローマ教皇庁が誤ったことを、韓半島を中心として収集しなければなりません。ローマ教皇庁の理想、キリスト教の理想である再臨理想王宮圏をつくり、イエス様の体をアジアで失ってしまったので、再びアジアでキリスト教文化圏を霊的、肉的に合同させ、統一文化圏が展開されなければならないのです。」 「環太平洋摂理」211頁




 以上の内容から、原始キリスト教は、ペテロのように、イエス様と共に歩んできた者たちは懺悔の涙を流し悔い改めなくては行けない道となり、パウロのように迫害はしても裏切ることのなかった異邦人にその摂理の方向性は転換していくようになりました。
 しかし、このようなキリスト教徒の信仰を支え、神の愛による、未来に対する希望を与えたのはどこまでも “聖霊の働き” があったからにほかなりません。
 この聖霊の慰労と感動の役事によってメシヤであられるイエス様の愛に触れた時、死をも厭わない犠牲的精神がキリスト教徒たち芽生えて、世界的宗教となっていったことは事実としても、また、その間違いによって沢山の血の流してきたことも忘れてはならない歴史の事実でもあります。
 最後に、日本がエバの国として、その様な間違いを蕩減復帰しなければならないと言うみ言葉は、感慨深い摂理的意味合いが受け取られる天のメッセージではないでしょうか。



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