復帰摂理歴史の真実
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■ 第三章 キリスト教と大航海時代
 第三節 ローマ教皇庁の腐敗と大航海時代

1. 大航海時代の黎明

 (1) 航海の草創期

  @ 地中海交易





 海上交易は河川の舟運として、古代文明の発祥の地から始まります。ナイル川のエジプト文明、ユーフラテス川のメソポタミア文明、そして地中海。最初は、イカダと丸木舟から始まりました。
 ナイル川(エジプト)とユーフラテス川(バビロニアやアッシリア)は舟運、ナイル川から地中海のウガリット(シリア西端の地中海沿岸の都市)の間をを海運、ウガリットからビブロス(レバノン、古代フィニキア人都市として栄えた)を中継地点として東へは陸上交易でした。
 エジプトとプント国(右図)との交易など紅海から海運交易が盛んになりますが、ペルシャ湾では海上交易は発達しませんでした。
 ビブロスのレバノン杉(左図)の一番の買取手はエジプトで、海路(地中海)での交易となります。

 レバノン杉は、腐食や昆虫に強く、材質が緻密で、真っ直ぐな木目をしていて、磨くと艶が出て、芳香性があり、船材、建材、墓材、香油(ミイラの防腐剤)などに利用されいました。
 紀元前3千年紀には、レバノン杉の大部分ははビブロスからエジプトへの交易品ですが、一部は寄進物、時には略奪品であったといわれています。ソロモンとヒラムの贈答交易など(列王記上5章5節〜10節)。
 エジプト王、トトメス三世(右図:紀元前1479〜1425)が神殿建設に熱心であったため、そのころ、膨大な量のレバノン杉が輸入されました。
 驕慢になったヒラムを、預言者エゼキエルはレバノン杉の運命を操った一人として断罪しています(エゼキエル書27章)。
 ウガリットはメソポタミアからシリア砂漠を越えて地中海に入る交易路の出口で、穀物ワインオリーブ油を産出していて、紀元前1900年から紀元前1200年ころに栄えました。バアル神殿遺跡のあるところで、地中海交易で活躍するフェニキア文明の原型と考えられています。また、ウガリットはヒッタイト帝国の支配下にあり、帝国はウガリットから富を吸い上げて繁栄していました。このころ古代エジプトの勢力圏にあったのがビブロスです(左図は、紀元前16世紀〜紀元前1180年ころ)。
 ウガリットには異国の商人も多く滞在していて、輸出品は、穀物ワインオリーブ油木材香油など。なかでも織物は人気があり、ビブロスやパレスチナ、ヒッタイトに送られました。
 ヒッタイトには貢物として送られたりもした、深紅色の高価な羊毛や衣類も含まれていました。ウガリットには深紅色染料の原料として、堆積した巻貝の殻が利用されていました。一方の、ウガリットの輸入品は“”でした。
 日本でも “紅花” を染料とした深紅色の織物は大変高価なものとされた歴史があることは知られているところです。

<参照>
 ウガリット神話
 バアル神



  A 東方へ

 北朝イスラエルや南朝ユダに影響を与えた、物質的豊かさと偶像崇拝はここからとも言うべき中東シリアは東方にも計り知れない影響を及ぼしました。
 メソポタミアとの交易ルートとしての、シリア中央都市パルミラは、重要な世界遺産としての古代都市です。(右上図は、ベル神を祀っていたベル神殿。)
 ここで注目したいのは、“パルミラの神々”(右下図)です。左に “月の神”、中央に “最高神” が位置し、右に “太陽神” の三神が祀られています。

   a)紀元前10世紀

 アラビア南部のシバ王国は、すでにアフリカ、メソポタミア、シリア、エジプトなどと広汎な貿易に従事していました。“シバの女王” は贈答貿易をしていたとされ、特にアフリカ各地の真珠香料薬などを中継貿易していましたが、ソロモン王がアカバ湾に港を建設し、航海貿易を支配したためソロモンに税金を支払って海上交易権を維持していたと言われています。

   b)紀元前6〜5世紀

 アケメネス朝ペルシア王のダレイオス大王(紀元前550年〜紀元前486年)は、エジプトに進出して、ナイル川と紅海間の水路を建設し、紅海、ペルシャ湾、インダス川の河口方面との交易を盛んにしようとしました。

   c)紀元前4世紀

 アルゲアデス朝マケドニア王のアレクサンドロス大王(在位:紀元前336年〜紀元前323年)の東方遠征とヘレニズム世界の建設により、中国、中央アジア、インド、アラビアから地中海に向けての交易が拡大し、地中海の華美が促され、このユーラシア大陸規模の交易となったのです。
 アレクサンドロスが紀元前331年にアレクサンドリア(ナイル川の河口)。セレウコス一世が紀元前300年に西シリアアンティオキア(オロンティス河畔)、セレウケイア(ティグリス河畔)。カッサンドロスが紀元前315年にテッサロニカ(マケドニア)などの交易港を建設しました。

  B 東方交易ルートとインド交易

 当時の、東方への交易ルートは3つありました(下記)。中でもシルクロードは有名ですが、交易に限らずあらゆる面で西と東を結んだルートとなりました。

北方ルート
カスピ海北岸を経て、黒海北岸のボスポロス王国を通過する。
中央ルート
インドからバビロニアまで陸路または海路で、そこから小アジア、シリア、フェニキアの海岸に向かう。
南方ルート
インドから海路で南アラビア、南アラビアから紅海を北上して、エジプトのアレクサンドリアやフェニキアの海港都市に向かう。


 アルケサス朝パルテリア(紀元前247年〜紀元前228年)には、ミトリダテス2世(在位紀元前123年〜紀元前88年)の時、漢の武帝が西域遠征に派遣した張騫(ちょうけん)の副使が到来し、中国(このころの中国は“”である)との “絹交易”(「シルクロード」の謂れ)も開始され、セレウコス朝(紀元前312年〜紀元前63年)と盛んに交易がなされました。
 プトレマイオス朝はヘレニズム世界において最も裕福な国家でした。この王朝が南方ルートを通じて東方交易に取り組んだ南海交易は、プトレマイオス1世(紀元前305〜紀元前285年)の頃は現実には紅海交易にとどまりました。
 プトレマイオス2世になると、ナイル河と紅海を結ぶ運河の改修工事が行われ、交易の拠点となる都市を築きましたが、これも紅海交易にとどまり、インド交易に乗り出すものではありませんでした。ところが、インド人は自らの船でアラビア南岸まで物資を送り、アラビア人などが紅海方面に送っていたと言われています。
 プトレマイオス7世の治世末、キュジコス人エウドクソスエジプトからインドに初めて航海しました(紀元前120年〜紀元前116年頃)。それは、紅海に漂着して助けられたインド人が探検隊を案内して、インドから香料や宝石を積んでエジプトに帰航した船にエウドクソスがたまたま乗り込むことができたためですが、これを通じて海上交易としての “インド交易” が始まっていくようになったのです。



2. ローマ教皇庁の腐敗

 さて、これまでの流れを簡単に図解しておきましょう。
 アダム家庭において、カインのアベル殺害によって、摂理は「セツ」の系統へと引き継がれていき、ノアの家庭へとなります。
 ノアの家庭では、次子ハムの失敗によって、神側が長子を取り戻し、セムの子孫から救世主メシア(イエス)が誕生することとなります。
 しかし、イエスが十字架刑によって復帰摂理も霊肉分離摂理となり、イエスの霊的復活によって出発したキリスト教徒は聖地エルサレムを追い出され、イエスを十字架に追いやったユダヤ教は聖地エルサレムの壁に向かって嘆いている状態となり、聖地エルサレムの中心部をイスラム教が占めるところとなって行きました。
 ところが、要となるキリスト教が協議やその取り扱いで混乱しているところへ、ゲルマン人が流入して強い影響力をもつと、東西ローマの分裂という結果となってしまします。
 さて、イスラム教は内部分裂モンゴル軍の侵攻はあったものの、むしろそれによって活気が増し、勢力を拡大していく様になります。
 イスラムの攻勢に危機を感じた東ローマ皇帝は、西ローマ教皇に助けを要請しますが、西ローマ教皇はここぞとばかりに皇帝と手を結び十字軍を編成して、イスラム社会からの聖地エルサレム奪還掛け声に、皇帝から手厚いもてなしと富と権力を得た教皇は腐敗し堕落していくようになり、十字軍は大義とした目的も失敗に終わり、結局は皇帝の前に無力な立場に落ちていくようになりました。

 十字架で亡くなったイエス様について見ると、殺人強盗である右の強盗がイエス様と共に逝きました。もし右の強盗がその場にいなかったとすれば、イエス様は地に対して、人間に対して関係を結べる何の因縁もなかったでしょう。 けれども、右の強盗が死ぬ立場でイエス様の味方に立って、イエス様を擁護しました。人間歴史においてイエス様の味方になった最初の人は誰でしょうか。ペテロでもなく、イエス様の親でもなく、イスラエルの国でもなく、ユダヤ教でもありませんでした。  ……(中略)……
 彼が中心になっているという事実は、彼が使徒たちよりもましだということを物語っています。ペテロよりもましなのです。
 なぜなら右の強盗は、内容は知らなかったとしても死ぬ立場で命が尽きるまで、イエス様に侍り得る方向性を備えました。しかしペテロやヤコブのような十二使徒は、内容を知り方向性を備えると誓った者たちでありながらも、方向性を備えられませんでした。 それゆえ右の強盗が、人類歴史上において地に代わって、未来を再起させ得る中心的な存在になった事実を、皆さんは知らなければなりません。(『イエス様の生涯と愛』p246)


 イエス様を中心として、その十二弟子と七十門徒が完全に一つになれば、歴史過程で失敗したその時代ごとに蕩減できなかったすべての男性たちの失敗が蕩減されるのです。 ……(中略)……
 このような土台、すなわちこのような背景の上に強固に立ち、女性を求めて母の基準をつくらなければならないのです。 ……(中略)……
 これによって第二の垣根をつくり、今日、男性を中心としたキリスト教の歴史を再編成することができたという事実を知らなければなりません。 このようにして霊的な基準を中心として、今まで二千年間数多くの殉教の歴史を経ながら発展させてきたのが、キリスト教の歴史なのです。(『イエス様の生涯と愛』p285-p287)


 今日のキリスト教について言えば、キリスト教の数多くの教派はなぜ生じたのでしょうか。キリスト教の中に教派ができたという事実は、「怨讐を愛せよというキリスト教の教理とは異なるのです。 キリスト教の教理は「怨讐を愛せよ」です。自分の教会内では愛しているかもしれませんが、キリスト教徒同士が戦っているのです。「あなたの兄弟姉妹を愛せよ」と言いました。キリスト教の兄弟とは、キリスト教です。長老派教会、メソジスト教会、ホーリネス教会、すべて兄弟です。
 真なる伝統的主流思想に立っているキリスト教はどこなのでしょうか。怨讐を愛する教団になり、怨讐の国を取り戻すために怨讐を助けてあげ、再度生かしてあげようとするそのような教団が真なる教会なのです。 ……(中略)…… キリスト教が一つにならない限り、世界は一つになれません。(『イエス様の生涯と愛』p293)


 イスラエル民族が待ちわびたメシヤは来ましたが、イスラエル民族はそのメシヤが分かりませんでした。なぜ仕えることができなかったのでしょうか。簡単なのです。メシヤのみ旨は世界を救い、人類を救うところにあります。そして、そのイスラエル民族を選んで立てたのは、イスラエル民族のゆえに選んで立てたのではありませんでした。皆さんはこのことを知らなければなりません。統一教会を選ばれたのも統一教会のために選ばれたのではないのです。文先生が統一教会の責任者であっても、統一教会を立てた文先生のために選ばれたのではないのです。神様と世界のためにお選びになったのです。
 それゆえ、ヨハネによる福音書第三章十六節を見れば、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」とおっしゃったのです。神様がキリスト教を愛され、ひとり子を与えたのではありません。滅びるキリスト教は覚醒しなければならないのです。イエス様がキリスト教のために来たのではないのです。万民のために来たことを知らずにいるのです。イエス様がキリスト教だけのメシヤになるための方ではないのです。万民のメシアであることを知らずにいるキリスト教は滅びます。(『神様の摂理か見た南北統一』p90)


 (1) ローマ教皇庁の腐敗と十字軍

 キリスト教が、ユダヤ教とイスラム教の影響を受け、振り回された挙句腐敗と堕落をもたらし、バビロン捕囚ならぬアヴィニョン捕囚に至り歴史は繰り返された結果となってしまいました。
 以下がその内容となりますが、1225年から1274年にかけて誕生した神学者、哲学者としてのトマス・アクィナスのキリスト教神学は、下記(統一思想)にもあるように、その不明確さが現実問題を解決するまでに至らず、多くの課題を残すだけとなってしまいました。

  @ 聖像崇拝を巡る対立
 330年 コンスタンティヌス帝の遷都により、ローマの首都はコンスタンティノープルに移る。
 395年 テオドシウス帝の死とともにローマ帝国は東西に分裂
 東西の教会の関係は、西から東へとその優位さが移行していくようになるため、東西の主導権争いが始まっていったのですが、これは、単なる教会の争いではなく、皇帝や国王たちを巻き込んでの争いに展開していく事となって行きました。
 476年 西ローマ帝国滅亡
 ローマ教会はフランク王国との関係を深め、フランク王国は “ローマ教会の政治的保護者” となっていきます。
 このころ、フランク王国とビザンツ帝国(東ローマ帝国)とは対立関係にありました。
 726年 ビザンツ皇帝レオン3世聖像禁止令を発布
 東西教会の対立が決定的とります。
 聖像禁止令は偶像を認めないイスラムへの対抗策。聖像での伝道でゲルマン人を改宗させたローマ教会が猛反発する。
 843年 聖像崇敬が承認東西の争いは一時的に決着
1054年 東西教会は、結局のところ相互破門して分裂は決定的となった。


  A 教皇と皇帝の権力闘争と教皇の腐敗

   a)教会組織

西 ローマ教皇を頂点としたピラミッド型 教皇と皇帝との癒着関係が始まっていき、教会が “世俗権” の優位に立つ様になっていきます。(教皇皇帝主義)
地域ごとに独立し、皇帝が教会を支配します。(皇帝教皇主義)

   b)ローマ教皇の腐敗

 8世紀、教皇がビザンツ帝国と対抗するため、世俗の君主である皇帝たちと提携します。このことにより、教皇は皇帝から “” と “権力” を与えられ、皇帝は教皇の選出に関与 することになります。
 また、、10世紀には世俗側による聖職者の任命が当然となり、聖職売買聖職者の妻帯(本来、聖職者は独身を貫いた)が起こります。
1077年 皇帝は北イタリアのカノッサで教皇に屈服。(カノッサの屈辱
 教皇と皇帝との間で武力闘争まで及ぶこともありました。
1122年 皇帝側が教皇の聖職叙任権を認めて解決。(ヴォルムス協約
 13世紀初頭、インノケンティウス3世は、「教皇は太陽であり、皇帝は月である」と豪語するまでに至りましたが、この後、教皇の力は衰退の一途をたどっていく事となります。



  B トマス・アクィナスによる新たな火種

 キリスト教神学を確立したトマス・アクィナスは、徳として神学的なものと倫理的なものを挙げた。神学的徳はキリスト教の三元徳、すなわち信仰、希望、愛であり、倫理徳はギリシア哲学の四元徳、すなわち知恵、勇気、節制、正義である。神学的徳は人間を至福へ導くものであるが、その中でも愛が究極的なものであって、神と隣人を愛することによって、人間は至福を受けるにふさわしいものとなる。一方、倫理徳は、理性の秩序に服することである。倫理徳は神学的徳に至るための手段と見なされた。(『統一思想要綱』p331)


 アウグスティヌスは神を精神と見て、その神が無から質料をつくり出し、世界を創造したと主張した。アリストテレスの形相と質料の原理を継承したトマス・アクィナスは、質料をもたない純粋形相の中で最高のものを神とした。アウグスティヌスと同様に、トマスも神は世界を無から創造したと見た。
 このような神に対する理解は、現実問題といかに連結するのであろうか。このような神観は、精神を根源的なもの、物質を二次的なものと見るから、物質的な現実世界を二次的なものとして軽視し、精神の世界、霊的な世界のみを重要視する傾向があった。そして、死後の世界における救いのみを重要視する救済観が長くキリスト教を支配してきたのである。ところが現実的には、物質を無視した生活は不可能である。そのためにキリスト教徒の生活は、信仰上では物質生活を軽視しながら、現実的には物質生活を追求せざるをえないという相互矛盾の立場に立たざるをえなかった。そのように、キリスト教の神観では地上の現実問題の解決は初めから不可能であったのである。地上の問題は、大部分が物質問題と関係しちるからである。
 キリスト教の神観が現実問題の解決に失敗せざるをえなかった根本原因は、第一に、神を精神だけの存在と見て、物質の根源を無としたことにあり、第二に、創造の動機と目的が不明なことにあった
。(『統一思想要綱』p152〜p153)



 事実、トマス・アクィナスは、人間は神を理性によって認識できるが、理性に限界があるため神の本質は認識できないとしました。
 また、人間は生きている間は神から「恩寵の光」を与えられることによって、信仰 希望の導きを伴って神を認識できるとしたが、人は死して初めて神より「栄光の光」得ることができて、神の本質を認識できるようになることによって真の幸福がもたらされるとした理性論による来世主義を唱えたのです。



  C 十字軍の裏と表

 発端は、1095年 トルコ人イスラム王朝のセルジューク朝に恐れを感じた東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスが、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことに始まります。大義名分としては、異教徒イスラム教国からの聖地エルサレム奪還とされていました。
 ところで、東ローマ帝国の要請は “傭兵の提供” にしかすぎませんでしたが、西ローマ帝国は独自の軍団としての “十字軍を派兵” することとなったのです。つまり、軍隊の派兵となって一地域の争いでは収まらないことになってしまったのです。
 ローマ教皇のウルバヌス2世は、クレルモン宗教会議でフランス軍に「イスラム教徒から聖地エルサレムを奪還しよう!」と呼びかけて始まったのが十字軍です。参加者には “贖宥(贖罪の免除)” の特権が与えられました。この十字軍の提唱によって、教皇の絶頂期を迎えていく事となります。また、この十字軍戦争は170年間も続きますが、1291年アッコン陥落を最後に、聖地の奪還もかなわず失敗に終わりました。
 しかし実際は、正教会や東方諸教会も攻撃の対象とされ、侵攻後には、西ローマのカトリック教会が設置されていくのが現実でした。



  D アナーニ事件

 十字軍遠征の失敗で、十字軍を提唱し推進したローマ教皇の権威が薄らいできます。1302年教皇ボニファティウス8世は、皇帝フィリップ4世十字軍戦費捻出のために教会財産への課税を施行すると、これに対して反発し、教皇と皇帝が激しく対立するようになりました。
 同年、皇帝フィリップ4世がパリのノートルダム寺院で(聖職者 貴族 平民からなる)三部会における支持を取り付けると、教皇ボニファティウス8世との対立はますます激化し争いとなっていきます。このことによって、教皇ボニファティウス8世が、故郷アナーニに逃げ込むことになり、フランス軍に捕らえられた事件がアナーニ事件です。
 教皇ボニファティウス8世は、アナーニの住民によって救出されるものの、この一連の事態に怒りと失望で傷心して、3週間後に68歳で死亡しました。



  E アヴィニョン捕囚

 アナーニ事件以後、皇帝フィリップ4世は、十字軍で活躍したテンプル騎士団を解散し、ユダヤ人を追放などして、それらの財産を没収して王権の財政的基盤を強化しました。教皇クレメンス5世フランスのアヴィニョンに幽閉し、教皇に対して王権の優位を確立したのです。
 このアヴィニョン捕囚からの解放後、ローマ教会は大分裂をきたすこととなります。


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