復帰摂理歴史の真実 |
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛 c. 李氏朝鮮の成立と思想 1. 李氏朝鮮の儒教思想 (1) 李氏朝鮮の成立過程 1206年にチンギス・ハーン(1162〜1227)が即位して建国されたモンゴル帝国は、チンギス・ハーンの死後1229年に、第3子オゴデイ・ハーン(左図)が後を継ぎ、1231年に朝鮮半島に対する征服戦争が開始されました。当時の朝鮮半島にあった高麗王国の実権を握っていた崔氏は、都を開城から江華島に移して徹底抗戦しましたが、高麗はこのあと1258年までの30年間に6度もモンゴル軍の侵略を受けました。1258年に江華島内でクーデターが起こると、崔氏政権が倒れたため高麗はモンゴルと和議を結び、1259年には高麗の太子で後の元宗王がフビライに降り、その息子である忠烈王は、フビライ・ハーン(1215〜1294)の娘婿となったのです。これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後に高麗王の位を継ぐのが習慣となっていました。高麗王の母は、みなモンゴル人になったのです。この頃、モンゴル軍は多数の高麗人を満洲に連れ去り、オゴデイ・ハーンは彼らを遼河デルタの遼陽と瀋陽に定住させていました。 1271年に国号を大元と定めたフビライ・ハーンは、満洲統治のために遼陽行省を置くと、その重職には高麗人を当てていました。また満洲の高麗人コロニーの王として、高麗王の一族が、瀋陽王(瀋王)に任命されたのです。瀋王が高麗王を兼ねた時代には、満洲と高麗本土は統一が取れていましたが、瀋王と高麗の世子の関係は微妙で、元朝宮廷の継承争いに高麗王家も関与すると、満洲と高麗本国の関係は緊張をはらむようになっていきます。 元朝宮廷の権力闘争の余波の一つとして、1356年、高麗国王の恭愍王は、久しく元朝の所領であった双城総管府(元が1258年に咸鏡南道和州の永興郡、現在の金野郡近くに設置した植民地)を攻め落としましたが、このとき双城で高麗軍に降伏した者のなかに、李子春という女真人がいましたが、その息子が李成桂(朝鮮の太祖王:左図)で、当時22歳でした。高麗軍はそのまま北に進んで、咸興・洪原・北青の地を99年ぶりにモンゴルから奪回したのです。 母方でチンギス・ハーンの血を引いている恭愍王のモンゴルに対する反抗運動は、瀋王派の圧迫から身を護るためのやむを得ない行動でした。恭愍王は、高麗本国内の反対派の打倒に成功すると、直ちに元朝皇帝トゴンテムル・ハーンと和解しました。1368年、紅巾軍の一派朱元璋が南京で即位し、大明皇帝と称して元の大都(北京)に迫ると、フビライ家の元朝皇族は北方のモンゴル草原に引き揚げました。中国史で言うところの元朝滅亡ですが、元朝皇帝はこのあともモンゴル草原に存続していました。 高麗の恭愍王は、直ちにこの明の太祖洪武帝を中国の皇帝として承認し、1370年にトゴンテムル・ハーンがモンゴル高原の応昌府で死に、その息子アーユシュリーダラ・ハーンがさらに北方にのがれると、恭愍王は高麗軍を満洲に派遣し、李成桂もこれに参加しました。高麗軍は遼陽城を攻め落とし、遼河デルタを一時制圧しました。この作戦は、遼陽・瀋陽が、歴代の高麗国王と結婚した元朝の皇女の領地であり、高麗王国の領土の一部であるという立場を主張するためのものでした。 1374年、恭愍王は側近に暗殺されると、養子の牟尼奴が後を継いで、高麗は明の満洲進出に反発して、北元と親密な関係を回復したのです。1388年、明軍がモンゴル高原深く進攻して、北元のトクズテムル・ハーンが逃走の途中で殺されると、牟尼奴王は北元を助けるべく、再び高麗軍を満洲に進攻させようとしましたが、高麗軍が鴨緑江に達したとき、副司令官の李成桂らが命令を拒否して、方向を転ずると王都開城に向かって進軍し、牟尼奴王を廃位して “昌” という王子を立て、またこれを廃位して、王族の “恭譲王” を立てました。その4年後の1392年に李成桂は、いよいよ恭譲王を廃位すると、自ら高麗国王の玉座についたのです。これを明の洪武帝に報告したところ、新しい国号を何にするのかと問われ、李成桂は「和寧」と「朝鮮」の二つの候補を挙げて、洪武帝に選択を請いました。「和寧」というのは、李成桂の故郷の永興の別名でしたが、北元の根拠地のカラコルムの別名も「和寧」であったので、洪武帝は「朝鮮」を選びました。1393年、こうして李成桂は正式に朝鮮国王となったのです。 この様な経緯があるため、秀吉の中国征服(唐入り)へ向けた朝鮮との和平交渉は、決裂して「文禄・慶長の役」へと進展していくこととなります。 <参照> ・ 論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である ・ 儒教国家における嘘の根源を知るべし (日本安全保障戦略研究所 前原清隆 : PDF / 本サイト) (2) 朝鮮の儒教思想おける2つの大弊害 朝鮮の儒教については、「儒教と道教の問題点」でも触れましたが、その問題点の核心というべき点を見ていきます。 @ 孔孟の「正直」という概念 <参照> ・ 儒教道徳の源泉としての情感主義 (南山大学社会倫理研究所 橋本昭典 : PDF / 本サイト)
ある県の長官が孔子に 「私の村には、父親が羊を掠めたことを告発した正直な息子がいる」 と告げると、孔子は 「私の町の正直者はそれとは異なる。父は子の為に隠し、子は父のために隠す、正直さとはこの中にある」 と答えたという話があります。 この場合の “正直” と言うのは、父親が羊を掠めた事実に対する正直さと、父親は自分の家族のために隠し、子は父のために隠したことは、父親の家族を思う心と子の父親を思う心に “正直” だとする全く異なった視点から “正直” を捉えた見方を表現しています。孔子はこれを “人間の情感の正当な表出” とし、行いの善し悪しよりも心に正直に生きることを重んじたのが儒教の本質としたのです。このことを孟子は「性善説」として確立させました。 この事は、人間の心における「善悪を判断する知恵」としての “叡智” を全く無視した結論であり、他人のものを掠めるその行為に対して、またその動機や結果に対しても “反省” を妨げることとなってしまいました。結局、朝鮮においてはこれらのことを含めた儒教が、その精神史に於いて最も重要な影響を及ぼしてきたことは間違いないことでしょう。 <参照> ・ 朝鮮の儒教 A 『武士道』で解く「誠」
「矩を超える」とは “人の道にはずれたおこないをする” ことであり、「正直」とは、“素直で偽りのないこと” とされる。日本では、単に「心に正直」であるだけでなく、“人の道(道理)” を第一義としてそれを捉え、「誠」として “嘘のない一言" として体現してきたのである。新渡戸稲造は、『武士道』の著書の中で “「正直」と「信用」は何よりも確かな保証である” として、「正直」と並んで「信用」を徳目としたのは、単に心の「正直」よりも人間関係における繋がり(絆)は「信用」を土台として築かれていて、「正直」と言うよりも “嘘をつかない” こととしての「正直」が武士の間では名誉なこととされたと記している。これらの概念は、武士から一般庶民へと浸透し、“日本のこころとしての特質” として形成されていった。 <参照> ・ 儒教観に対する日中韓の違い B 朱子学の問題点と科挙 12世紀に朱子によって説かれた朱子学は、孔子の論語の不足を補うかのように説かれましたが、それ以前の儒教から一段階上の優れた儒教として、李氏朝鮮ではむしろ朱子学を重要視し、そのための社会秩序を強固なものとするため科挙制度を取り入れ、儒教国家としての李氏朝鮮は1392年から1910年までの518年間も続いたのです。そこでは、「仁」よりも「忠」や「孝」が重んじられて来たのです。
朱子(1130年〜1200年)が生まれたのは、中国において科挙(高級官僚を登用するための試験制度)が最も効果的に機能した宋(960年〜1279年)の時代でした。しかし、明(1368年−1644年)の時代になると朱子学の影響が強くなり、時代を下るにしたがって、どんどん自己目的化( “科挙に受かる” こと自体が目的となる)し、本来の “優秀な人材の輩出” という機能を失って、腐敗していきました。そこには、朱子学そのものの本質的問題によるものであり、それは「仁」よりも「忠」や「孝」を重んじたことである。
“愛” とは、川の水が流れ下るように、その気概の高いところ(主体)から低いところ(対象)へ施されるものである。一方の “美” とは、その愛に敬意と感謝の念を体現することである。この “愛” に該当するのが「仁」であり、“美” に該当するのが「忠」や「孝」である。李氏朝鮮では、体制維持のために敢て「仁」よりも「忠」や「孝」を重んじたことによって、その権力構造は長期に及んだが、腐敗は甚だしいものとなったのである。これは、「忠」「孝」を重んじるあまり、「仁」としての “愛の質” を軽んじたことで生じたといえよう。
この一文(赤下線部)を勘違いしてはならない。「それからくる刺激」とは、単なる愛の対象からくる “刺激” によって主体に喜びが生じているのではない。「それ」とは、“自己(主体)の性相と形状のとおりに展開された対象” であって、主体に喜びが生じる以前に「それ」(対象)にも既に喜びが生じているということである。つまり、愛する対象がその愛を自らの喜びとしたとき、その対象の喜びが刺激となって主体に喜びが生じるということである。端的に表現すれば、主体がその対象を愛する目的は、“対象が喜ぶこと” に他ならない。結局、「仁」を重要視すれば、自ずと「忠」や「孝」となって帰ってくるということである。正しく李氏朝鮮は、これとは真逆のことを行ってきたことになる。
ところで、日本における『武士道』では、二言の無い “誠” としての「仁」(愛)を、“高き身分の者に伴う義務” として、歴史を通じて培い実践してきたことを新渡戸はこの一冊に表現しているのである。 <参照> ・ 科挙とは何か――あらゆる制度は自己目的化し、腐敗する ・ 李氏朝鮮の科挙制度 (@)朱子の説く漠然とした曖昧な「理気説」の問題点
朱子の本体論を構成する基本概念は、“太極” と “理” と “気” であることには間違いがない。しかし、ここで言う “理” は理性としての “理” でもなければ、“気” は “理” の対象となる法則とは全く関係がない(「理趣経と生殖器のみ言葉」参照)。理気説において宇宙の根源としての本体は “太極” ではあるが、“太極” は “理” であるとしている。“理” は天地の法則であるとともに人間の内にある法則でもあるとし、“気” が凝結して造作し、“気” が凝集するところに “理” が内在するとしている。“気” は、陰陽の統一体であるとされることから、“太極” は陰陽の統一体としての “気” であることとなる(左図)。これは、形而上の “太極” が形而下の “気” として現象化することを表している。 ところで、朱子の理気説が問題とされるところは、“太極” と “理” と “気” の関係を曖昧にして、宇宙の本体である “太極” は “陰陽の統一体としての気” のことであるとしたところにある。 <参照> ・ 朱子の「太極」と「気」(岡山大学准教授 孫路易 : PDF / 本サイト) ・ 朱子の「理」(岡山大学准教授 孫路易 : PDF / 本サイト) 李氏朝鮮が取り入れた朱子の理気説には、理性としての自由性が存在せず、突如として法則としての必然性が “理” として登場する。そのため、秩序維持に偏重し、能動的な改革が軽視され、自然や社会の変化や混乱に対して傍観的態度をとる傾向が生じたのも止むを得ないことである。 結局これは、『原理講論』でいうところの性相と形状より陽性と陰性の二性性相を重視するという、「性相と形状としての本質」を軽視し「性相と形状の属性としての陽性と陰性」を重視することによって無謀な企てが成されたのである。それは『原理本体論』において、“絶対性” ――絶対性の “性” は性別(sex)としての “性”。男性と女性のこと―― を重視することで(『原理本体論』p71〜p86)、「先惟条件」なる言葉を持ち出して “エバを先惟してアダムを創造した” と結論付けてしまったのである(「理趣経と生殖器のみ言葉」参照)。
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