復帰摂理歴史の真実 |
||||||||||||
≪ 李氏朝鮮の成立と思想 | <トップ> | 細川ガラシャと修道士 ≫ | ||||||||||
■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛 c. 文禄・慶長の役 1. イエズス会宣教師の目論見 <参照> ・ 文禄・慶長の役とキリシタン宣教師 (慶応義塾大学教授 柳田利夫 : PDF / 本サイト) フランシスコ・ザビエル以来、中国布教の橋頭堡と考えられていた日本での布教は、秀吉の中国へ向けての出兵は宣教師にとっての絶好の機会であり、そのための軍事的援助は当然のことでした。 1587年5月28日、ガスパール・コエリョが秀吉と対面すると、圧倒的軍事力を背景に中国征服へ向けて意欲をあらわにし、九州平定後コエリョと再度会見して、コエリョの乗船して来たポルトガル軍船としてのフスタ船に興味を示し船内を見て廻りました。こうした中で宣教師側では、朝鮮侵略の結果日本と中国との取り引きにおける交渉が開始され、その機に乗じて宣教師を中国に派遣して布教を開始すべく目論んでいました。ところが、朝鮮における戦闘が膠着状態に陥り、和平交渉が決裂したことによって、この侵略行為が中国布教に不利益であり、かえって中国人の外国人に対する恐怖心を煽ってしまうと踏んでいましたが、こうした膠着状態が秀吉の絶対的権威の崩壊を招くとも考え、窮地に追い込まれた宣教師に望みを抱かせました。 (1) 文禄の役とイエズス会宣教師 文禄の役(1592〜1593)時に、キリシタン大名である小西行長の要請により、日本軍キリシタン将兵の教化や慰問のためイエズス会の二人の宣教師が朝鮮を訪問しましたが、キリスト教宣教師が朝鮮に足を踏み入れたのはこれが最初と思われます。スペイン人のグレゴリオ・デ・セスペデス神父と日本人のファンカン・レオン修道士は、1593年12月27日に朝鮮に上陸しましたが、その翌日、現在の慶尚南道昌原市の鎮海区にあった熊川倭城に到着した。セスペデス神父は朝鮮から日本へ送った書簡の中で、熊川倭城の様子を次のように報告しています。
セスペデス神父らは、この城の中でのみ宣教活動が許され、城から出ることは禁じられていた。したがって、朝鮮人に対する宣教活動は行うことができなかった。セスペデス神父らは1年間ここに滞在し、長崎に戻っている。なお、セスペデス神父は1587年(天正15年)に細川ガラシャに洗礼を施している。朝鮮国内で初めて朝鮮人に洗礼を授けたのは、正式な聖職者である宣教師ではなく、文禄の役に従軍していた日本の武士だったという。 ルイス・フロイスは著書『日本史』で、1592年から1593年の間に豊後のあるキリシタンの武士が、朝鮮の首都・漢城及びその周辺で約200人の子供に洗礼を授けたと述べている。『遥かなる高麗 : 16世紀韓国開教と日本イエスス会』には次のように記載されている。
『遥かなる高麗』の著者であるルイズデメディナ ホアン・ガルシア(Ruiz de Medina, Juan G)氏は、
と述べています。 一体、宣教師でない者が洗礼を授ける資格があるのかという疑問が生じますが、ルイズデメディナ氏は注書きで次のように述べています。
このように、洗礼を受けた子供たちには何のことか意味が全くわからなかったであろうが、200人もの子供たちがキリスト教の洗礼を受けたこと自体は、韓国キリスト教史上大きな意義があることは間違いないことであろう。 文禄・慶長の役で日本に捕虜として連れて来られた朝鮮人は2、3万人に上ると言われていますが、九州を中心にかなりの数の者がキリスト教に改宗しています。五野井隆史著の『日本キリシタン史の研究』によると、宣教師が書いた「1595年度日本年報」によれば、島原半島の有馬の領内では、捕虜となった朝鮮人が前年及び本年の2年間にわたって教理を聴き、2,000人がキリシタンになったといわれています。また同書には続けて、「1596年度日本年報」は、
と記載されています。 また、この捕虜として連れてこられた朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、そして朝鮮の陶工らによって、有田焼(鍋島氏)、薩摩焼(島津氏)、萩焼(毛利氏)などの窯業が日本各地に起こり、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えました。しかしその一方で、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役されたり、奴隷として海外に売られたこともあった言われています。 2. 文禄・慶長の役 (1) 日朝交渉 @ 朝鮮の認識と兵力 文禄・慶長の役 (壬辰倭乱) は、豊臣秀吉が明の征服を目指す「唐入り」途上の朝鮮半島で行われたものですが、朝鮮側は秀吉の侵攻も、倭寇による襲撃の延長線上程度にしか考えておらず、1589年に軍事訓練所が設置されます。これは、若すぎるか老兵ばかりを採用し、その他に冒険好きの貴族と、自由を求める奴婢階層がいるのみでした。1590年には釜山港湾の要塞化案が出されても却下されました。日本の侵攻がますます現実味を帯びてきても、政治的な権力争いのための論争が行われるばかりで、実際の軍備拡張は不十分だったのです。朝鮮の軍人は、軍事的知識よりも社会的な人脈によって昇進が決定されていたといわれ、軍隊は組織が緩み、兵士はほとんど訓練されておらず、装備も貧弱で、普段は城壁などの建設工事に従事していました。さらに、これらのことと同時に、官僚制の弊害も指摘されています。 ところで、一般的に朝鮮の城塞は山城で、山の周りに蛇のように城壁をめぐらせるものでした。城壁は貧弱で、日本や西洋の城塞のような塔や十字砲火の配置は用いられておらず、城壁の高さも低く、戦時政策として住民全員が近隣の城へ避難する事として、避難しなかった住民は敵に協力する者とみなすとされました。しかし、多くの住民にとって避難場所としての城は遠すぎたのです。 また両班の私兵は、主に朝鮮正規軍の敗残兵、常民出身、両班が所有する奴婢、李朝社会では賤民と見做されていた僧兵から構成されていました。 A 日朝交渉の破綻 明の征服を企てた豊臣秀吉は、1587年の九州征伐で臣従させた対馬領主・宗義調を通じて、「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導」を命じました。しかし、宗氏は、元来朝鮮との貿易に経済を依存していたため対応に苦慮しましたが、家臣の柚谷康広を日本国王使に仕立てて、要求の内容を改変して、新国王となった秀吉の日本統一を祝賀する通信使の派遣を李氏朝鮮側に要請しました。それに対して朝鮮側は、秀吉が日本国王の地位を簒奪したものとみなして要請を拒絶したのです。 1589年には秀吉の命により、宗義智自らが博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇、博多豪商島井宗室とともに朝鮮へ渡り、重ねて通信使派遣を要請しました。翌1590年11月、李朝からの通信使として黄允吉(西人)と金誠一(東人)が派遣され、聚楽第での引見に際して宗氏は秀吉に、通信使を服属使節だと偽って面会させ、事を穏便に済まそうとしました。このため秀吉は、朝鮮は日本に服属したものだと思い、李氏朝鮮に明征服の先導をするよう命令しました。ところが明の冊封国であった李氏朝鮮にそのような意思は無く、命令は拒否されると、秀吉は明の前にまず朝鮮を征伐することを決めたのです。 一方、翌1591年3月、朝鮮に帰国した朝鮮通信使は秀吉のことを報告しましたが、報告内容は2つに分かれていました。 結局、政権派閥だった東人派が戦争の警告を無視し、対日本の戦争準備はほとんど行われませんでした。この時、朝鮮通信使には、日本人の柳川調信と景轍玄蘇が随行していたので、朝鮮側はそれとなく両者から日本の情勢を聞こうとしたのです。すると玄蘇は「中国(明)は久しく日本との国交を断ち、朝貢を通じておりません。秀吉はこの事に心中、憤りと辱めを感じ、戦争を起こそうとしているのです。朝鮮がまず(この事を)奏聞して朝貢の道を開いてくれるならば、きっと何事もありますまい。そして、日本六十六州の民もまた、戦争の労苦を免れることができましょう」と言ったのです。金誠一らはこれを責め諭したが、玄蘇は「昔、高麗が元の兵を先導して日本を攻撃したことがあります。日本がこの怨みを朝鮮に報いようとするのは当然のことです」と言いました。朝鮮側はこれに対して何も問わず、調信と玄蘇を帰国させました。 同年6月、宗義智が釜山を訪れ、「日本は大明と国交を通じたい。もし朝鮮がこの事のために(明に)奏聞してくれるならとても幸いであるが、もしそうでなければ、両国は平和の気運を失うことになるだろう。そうなれば一大事です。だから(自分はここに)来て告げるのです」と言いました。しかし朝鮮の朝廷では当時、通信使を咎め、日本の使者の傲慢さ・無礼さを怒る議論が沸騰しており、義智にはなんの返事も与えませんでした。義智は不満足ながらも去っていくと、これ以降日本との通信は途絶え、釜山浦の倭館に常時滞在していた日本人数十人もだんだんと帰国し、ほとんど無人となったため、朝鮮ではこの事を不審に思っていたのです。 (2) 文禄の役(1592年〜1593年) 宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、「唐入り」 の決行を全国に告げると、名護屋城築造を九州の大名に命じました。1592年1月に、秀吉は小西行長と宗義智に、再度朝鮮に服属と唐入りへの協力の意思確認を行い、もし朝鮮が従わないなら4月1日から「御退治あるべし」と命じました。 1592年4月7日、景轍玄蘇が対馬へ帰還し、朝鮮側の拒絶の意志を日本に伝えると、小西らは侵攻準備を開始します。1592年4月12日、釜山に上陸した一番隊・小西軍は最後通牒を朝鮮側に渡しますが、返事がなかったので、翌13日に、小西軍は釜山上への攻撃を開始したのです。日本軍は9組に編成され(左図は、一番隊の小西行長軍と二番隊の加藤清正軍の進攻経路)、5月3日には、首都・漢城が陥落して朝鮮国王は逃亡しました。 漢城は既に一部(例えば、奴婢の記録を保存していた掌隷院や、武器庫など)が略奪・放火されており、住民もおらず放棄されていました。漢江防衛の任に当たっていた金命元将軍は退却していたし、王の家臣たちは王室の畜舎にいた家畜を盗んで、王よりも先に逃亡していたのです。村々で王の一行は住民と出会いましたが、住民を見捨てて逃げてしまいました。「宣祖実録」によると、このとき朝鮮の民衆は朝鮮政府を見限り、日本軍に協力する者が続出したとされています。ルイス・フロイスも、朝鮮の民は「恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似でなにか必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」 と記録しています。 日本軍の進撃が平壌に迫ると宣祖は遼東との国境である北端の平安道・義州へと逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請しました。明軍の参戦を受けて、日本軍は、諸将の合議の結果、年内の進撃は平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとなりました。 1592年7月16日、明朝廷は祖承訓の平壌戦の敗北という事態に、沈惟敬を代表に立て、日本軍に講和を提案。以降、日本と明との間に交渉が持たれる事になります。 @ 朝鮮水軍 5月7日、海岸移動を行っていた日本輸送船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍91隻艦隊が攻撃、海戦を想定していなかった50隻の日本輸送船団は昼夜戦で15艘が撃破されます。 7月7日には、海戦用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった日本軍は、陸戦部隊や後方で輸送任務にあたっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗しました。しかし、脇坂安治の抜け駆けが主な原因となって日本水軍が敗北します。しかし、9月1日に李舜臣率いる朝鮮水軍が、日本軍の輸送拠点である釜山浦の制圧を目指して日本軍に攻撃を仕掛け、朝鮮水軍は鹿島万戸・鄭運が戦死するなど損害を多く出して敗退しました。この敗退を契機に、朝鮮水軍の出撃回数は激減し、朝鮮水軍のゲリラ活動は沈静化しました。 <参照> ・ 『宣祖実録』に見る鳴梁海戦後、日本水軍が全羅道西岸に進出していた証拠 A 日本と明の講和交渉 1593年3月、漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれ、窮した日本軍は講和交渉を開始します。これを受けて明軍も再び沈惟敬を派遣、小西・加藤の三者で会談を行い、4月に次の条件で合意しました。
「2」においては、4月18日に合意条件に基づいて、日本軍は漢城を出て、明の勅使・沈惟敬・朝鮮の二王子とともに釜山まで後退しました。その後、5月8日に小西行長と石田三成、増田長盛、大谷吉継の三奉行は明勅使とともに日本へ出発して、明の勅使は5月15日に名護屋で秀吉と会見したのですが、そのとき秀吉は以下の7つの条件を提示しました。
一方、明へ向かった内藤如安は秀吉の「納款表」(明皇帝に誼を通じる文書)を持っていましたが、明の宋応昌は秀吉の降伏を示す文書が必要だと主張したので、これに対して小西行長は「関白降表」を偽作して内藤に託し、内藤は翌1594年12月に北京に到着しました。 またこの頃、秀吉も朝鮮南部の支配確保は必須として、晋州城攻略を命じます。戦闘要員42,491人の陣容で、近隣には釜山からの輸送役や城の守備に当たる部隊が存在しました。当初は漢城戦線を維持したまま日本本土からの新戦力を投入する計画でした。日本軍は6月21日から29日に掛け僅か8日(戦闘開始から3日)で攻略します。6月には明軍も南下しており、李氏朝鮮軍は救援を要請しましたが「城を空にして、戦いを避けるのが良策」との返答があり、対する日本軍は晋州城を攻略すると更に全羅道を窺い各地の城を攻略しますが、明軍が進出すると、戦線は膠着し休戦期に入ることになりました。 A 交渉決裂から再出兵まで 秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けていました。これは日明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした為です。結局、日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられました。秀吉の降伏を確認した明は朝議の結果「“封” は許すが、“貢” は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが、勘合貿易は認めない)と決め、秀吉に対し日本国王(順化王)の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣しました。1596年9月、秀吉は来日した明使節と謁見すると、自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒しました。使者を追い返すと、再度朝鮮への出兵を決定したのです。なお沈惟敬は帰国後、明政府によって処刑されます。 和平交渉が決裂すると西国諸将に動員令が発せられ、1597年7月に進攻作戦が開始されます。作戦目標は諸将に発せられた2月21日付朱印状によると、「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というもので、作戦目標の達成後は仕置きの城(倭城)を築城し、在番の城主(主として九州の大名)を定めて、他の諸将は帰国するという計画が定められました。九州・四国・中国勢を中心に編成された総勢14万人を超える軍勢は逐次対馬海峡を渡り釜山浦を経て任地へ向かったのです。 (3) 慶長の役(1597年〜1598年) 李氏朝鮮王朝では、釜山に集結中の日本軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令しましたが、度重なる命令拒否のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免され、後任に元均が任命されました。この海上から朝鮮水軍の勢力を一掃した日本軍は、翌8月、右軍と左軍の二隊に別れ慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始し、たちまち二城を陥落させ全州城に迫ると、ここを守る明軍は逃走したため、8月19日に無血占領します。南原と全州の陥落により明・朝鮮軍の全羅道方面における組織的防衛力は瓦解しました。 日本の諸将は全州で軍議を行い、右軍、中軍、左軍、水軍に別れ諸将の進撃路と制圧する地方の分担を行い、守備担当を決めると全羅道・忠清道を瞬く間に占領しました。北上した日本軍に一時は漢城の放棄も考えた明軍でしたが、結局南下しての抗戦を決意すると、9月7日に先遣隊の明将・解生と黒田長政の部隊が忠清道と京畿道の道境付近の稷山で遭遇戦となりましたが、毛利秀元が急駆救援して明軍を水原に後退させました。明・朝鮮連合軍は軍を三路に分かち、蔚山、泗川、順天へ総力を挙げて攻勢に出ると、迎え撃つ日本軍は沿岸部に築いた城の堅固な守りに助けられ、第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功します。泗川の戦いでは島津軍7,000が数で大きく上回る明・朝鮮連合軍を迎撃。明軍で火薬の爆発事故や、島津軍の伏兵戦術などにより連合軍が混乱し島津軍が大勝しました。 順天を守っていたのは小西行長でしたが、日本軍最左翼に位置するため、新たに派遣された明水軍も加わり水陸からの激しい攻撃を受けるが防衛に成功し、先ず明・朝鮮陸軍が退却、続いて水軍(陳リン率いる明水軍と李舜臣率いる朝鮮水軍)も古今島(左図)まで退却しました。以後、明・朝鮮連合軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなり、兵糧や攻城具も十分に準備してのものでしたが、全ての攻撃で敗退しました。これにより、三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恐々となり、逃避の準備をしたといいます。 @ 秀吉の死と終結 秀吉は、翌1599年に大軍を再派遣して、攻勢を行う計画を発表していました。しかし、豊臣秀吉が8月18日に死去すると、五大老や五奉行を中心に撤退が決定され、密かに朝鮮からの撤収準備が開始されました。もっとも、秀吉の死は秘匿され朝鮮に派遣されていた日本軍にも知らされなかったのです。 秀吉が死去して以降、幼児の豊臣秀頼が後を継いだ豊臣政権では、大名間の権力をめぐる対立が顕在化し、政治情勢は不穏なものとなっており、もはや対外戦争を続ける状況にはなかったのです。そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令されました。 11月23日加藤清正等が釜山を発し、24日毛利吉成等が釜山を発し、25日小西行長、島津義弘等が釜山を発します。こうして、日本の出征大名達は朝鮮を退去して日本へ帰国し、豊臣秀吉の画策した明遠征、朝鮮征服計画は成功に至らないまま、慶長の役は秀吉の死によって終結しました。 A 耳塚(鼻塚) 左の写真は、京都市東山区の豊国神社門前にある史跡で耳塚もしくは鼻塚と呼ばれます。豊臣秀吉の朝鮮出兵のうち、慶長の役で戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻をはなそぎし持ち帰ったものを葬った塚です。古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれています。1968年4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定されました。当初は「鼻塚」と呼ばれていましたが、林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようで、2万人分の耳と鼻が埋められています。 この塚は1597年に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われました。この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って相国寺住持西笑承兌が行った物で、京都五山の僧を集め盛大に行われました。当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分しましたが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証しました(これをしないのを打捨という)。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされています。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養されました。 3. キリシタン禁教へと傾倒 1593年、文禄の役休戦交渉の後、様々な出来事があり情勢は “キリスト教信仰禁止” へと舵を切っていきます。
(1) 日本二十六聖人
1597年1月10日、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていたフランシスコ・ガヨも捕縛された。二人はキリスト教徒として、己の信仰のために命を捧げることを拒絶しませんでした。 上図は、二十六聖人が京都から長崎まで、1,000キロを1ヶ月(1597年1月9日〜2月5日)かけて歩いた行程図です。厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎(当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟)は、一行の中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」とルドビコに持ちかけたが、ルドビコは「(この世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない」と言い、毅然として寺沢の申し出を断りました。ディエゴ喜斎と五島ジョアンは、告解を聴くためにやってきたイエズス会員フランシスコ・パシオ神父の前で誓願を立て、イエズス会入会を許可されました。 26人が通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まると、一行はそこへ連行されました(一行は、キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ているという理由から、西坂の丘を処刑の場として望んだといいます)。処刑当日の2月5日、長崎市内では混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにも関わらず、4,000人を超える群衆が西坂の丘に集まってきていました。パウロ三木は死を目前にして、十字架の上から群衆に向かって自らの信仰の正しさを語ったのです。群衆が見守る中、一行が槍で両脇を刺し貫かれて絶命したのは午前10時頃でした。 <参照> ・ 日本司教ペドロ・マルチィンス日本退去の事情 (慶應義塾大学名誉教授 高瀬弘一郎 : PDF / 本サイト) ・ 秀吉末期と家康時代の対外政策 (国士舘大学教授 奥深山親司 : PDF)
|