復帰摂理歴史の真実
秀吉と天正遣欧少年使節 <トップ> 李氏朝鮮の成立と思想

■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
     b. 切支丹大名の非道と伴天連追放令


1. 代表的切支丹大名の信仰とその行動
 (1) 大友宗麟
 1530年1月3日、大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内(現在の大分県大分市)に生まれます。幼名を「塩法師丸」と言い、10歳の時に元服すると、当時の室町幕府第12代将軍「足利義晴」の “” の字をもらい、「義鎮よししげ」と名乗るようになります。
 父の大友義鑑は異母弟の塩市丸を寵愛し、塩法師丸を嫌い廃嫡を画策します。1550年2月(宗麟20歳の時)に父の大友義鑑は大友宗麟を湯治に行かせている間に宗麟一派を粛清しようとしますが、逆に宗麟派の重臣たちは決起し、2月10日に塩市丸とその生母を殺害し、その時の傷がもとで大友義鑑も12日は死去します(二階崩れの変)。
 1551年、大友宗麟がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可しました。この時、宗麟はポルトガル王へ親書と使者を遣わし、翌年1552年から多くのポルトガル人宣教師がこの豊後府内に訪れるようになります。これを契機にいわゆる “南蛮貿易” が、豊後国沖ノ浜を窓口として行われるようになりました。また博多商人の島井宗室神谷宗湛らと交友し、日明貿易日朝貿易も行いました。この南蛮貿易は、進取しんしゅの精神によって推進され、豊後府内の都市まちに空前絶後の繁栄をもたらすことになるのです。
 1567年、豊前国や筑前国で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起すると、これに重臣の高橋鑑種も加わるという事態になり、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させました。この毛利氏との戦闘の中で宗麟は、宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請し、その理由として「自分はキリスト教を保護する者であり、毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出しています
 1569年、肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため自ら軍勢を率いて侵攻すると毛利元就が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退します。そして重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の残党である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防国に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を安芸国に撤退へと追い込んだのです(大内輝弘の乱)。
 1578年7月、48歳の宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名はフランシスコ・ザビエルにちなんで自ら選んだ「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となりました。
 この宣教師フランシスコ・カブラルの日本人を評した言葉として、「私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で、偽装的な国民は見たことがない。…日本人は悪徳に耽っており、かつまた、そのように育てられている。」とあります。
 その後、耳川の戦いで島津軍に大敗すると、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久龍造寺隆信秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていきます。1586年、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願します。1587年、大友氏滅亡寸前のところで豊臣秀長率いる豊臣軍10万が九州に到着。さらに遅れて秀吉自身も10万の兵を率いて九州征伐に出陣すると、各地で島津軍を破っていきます。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、秀吉の九州平定の後、宗麟はこの年の5月に57年の人生に幕を下ろします。折しも秀吉によるバテレン追放令が出される直前の出来事でした。



  @ 当時のキリスト教と宗麟
 大友宗麟は若い頃、南蛮人が持ってきた鉄砲が試し撃ちの際に、暴発して弟が手に怪我をしましたが、その時に西洋医学による応急処置を見ていました。1553年に、デウス堂とよばれた府内教会が建てると、1555年には、ポルトガル・リスボンの商人であり、医師でもあったルイス・デ・アルメイダが、当時貧しさのために子どもを捨てたり、嬰児を殺したりする人々の惨状に驚き、宗麟の支持を得て子どもを引き取るための育児院を建設しています。数名の乳母が雇われて子どもたちの世話にあたり、牝牛2頭が用意され、幼児には牛乳が与えられました。また、1557年に府内(現在の大分県庁舎本館のある場所)で日本初の西洋外科手術をポルトガル人医師であるアルメイダと、助手に日本人医師2名の計3名で手術を行わせたのです。当時の豊後はらい病(ハンセン病)が風土病になっており、日本人医師2名は杏葉紋・苗字・太刀を宗麟から賜っています。現在、大分県庁舎本館前には「日本における西洋外科手術発祥の地」の記念碑が立っています。加えて宗麟は、領内に宣教師が伝えた西洋医学の診療所を作るなどして、領民は無料で診察を受けることが出来ました
 ところで、宗麟はキリスト教信仰の為に、神社仏閣を徹底的に破壊したり、金曜日・土曜日には断食をし、それまで家に伝わっていただるまを破壊する等の破壊行為も行なっています。宗麟がキリスト教の為に徹底した神社仏閣破の破壊解体を行ったのは、主にキリスト教国建設を夢見たとされる侵略先の日向国に於いてであり、本拠である豊後国内や筑後国内で行われた神社仏閣の徹底的な破壊は、次期当主義統が行っており、宗麟が主導したという資料は見当たっていません。これは当然に宗教心が発した行動ですが、仏僧の奢侈しゃしを嫌い寺社領を取り上げる政治的意図があったにせよ、単に寺社を破壊するだけでなく仏像や経典の類まで徹底して破壊しています



 (2) 大村純忠
 大村純忠は、肥前国彼杵郡大村武部郷(現長崎県大村市三城町)にあった三城城、大村氏の第12代当主。1563年に日本初のキリシタン大名となり、長崎港を開港した人物で、同じキリシタン大名の有馬晴信は甥にあたります。
 1550年にポルトガル船が支配地に入港するようになると、これによる南蛮貿易の利益で有馬氏はさらに発展しましたが、同時にキリスト教も広まるようになり、キリスト教を嫌った有馬晴純は激しく弾圧しました。父である有馬晴純は次男の純忠を大村氏へ養子に出して肥前支配の強化を図ります。母が大村純伊の娘であったために、1538年に有馬純忠は大村純前養嗣子となりますが、大村純前には庶子の又八郎(後の後藤貴明)がおり、この養子縁組のために又八郎は武雄に本拠を置いていた後藤氏に養子に出されました。その後、純忠は1550年に大村家の家督を継ぐようになります。
 このような経緯から後藤貴明は大村純忠に恨みを抱き、一方の純忠も「実子をおしのけて家督を継いだ」という精神的重圧としてのしかかりました。その中で、打開策を模索してい純忠が見出した答えがキリスト教だったのです。
 1561年、松浦氏の領土であった平戸港でポルトガル人殺傷事件が起こったため、ポルトガル人は新しい港を探し始めると、1562年に純忠は、自領にある横瀬浦(現在の長崎県西海市)の提供を申し出たのです。イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠は、イエズス会士に対して住居の提供などの便宜をはかりました。1563年、宣教師からキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した結果、大村領内では最盛期のキリスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったとされています。記録によれば彼自身は、次第に純粋な信仰に目覚めると、側室とは離縁し受洗すると、正室のおえんとキリスト教に基づく結婚式をやり直して妻以外の女性と関係を持たず、一夫一婦制を守り続けたとあります。
 純忠は、死にいたるまで忠実なキリスト教徒であろうと努力していました。また、横瀬浦を開港した際も、仏教徒の居住の禁止や、貿易目的の商人に10年間税金を免除するなどの優遇を行ったりもしています。しかし、純忠の信仰は過激なものでもありました、領内の寺社を破壊や、先祖の墓所も打ち壊したり、領民にはキリスト教の信仰を強いて、改宗しない僧侶や神官を殺害したり、領民が土地を追われるなどの事件が相次ぎ、家臣や領民の反発を招くこととなりました。
 1570年、純忠はポルトガル人のために長崎を提供しましたが、1578年には長崎港が龍造寺軍らによって攻撃され、純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退することができたことで、その後1580年に、純忠は長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進しています。1582年には、巡察のため日本を訪問したイエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、天正遣欧少年使節の派遣を決めています。しかし、1587年3月、豊臣秀吉の九州征伐においては秀吉に従って本領を安堵されますが、55歳の純忠は既に咽頭癌並びに肺結核に侵されて重病の床にあり、1587年6月23日、坂口の居館において死去しました。バテレン追放令の出る前の死でした。



 (3) 有馬晴信
 有馬晴信有馬義貞の次男で、肥前日野江藩(長崎県南島原市、のちの長崎県島原市)初代藩主。1571年、兄の有馬義純が早くしてこの世を去ったため、有馬家の家督を継承した晴信は、龍造寺隆信やその支援を受けた西郷純堯深堀純賢兄弟の圧迫を受けて、龍造寺隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなりました。1584年に島津義久と通じて沖田畷の戦いで龍造寺隆信を滅ぼしましたが、1587年の豊臣秀吉による九州征伐においては、島津氏と縁を切り豊臣勢に加わっています。
 家督を継いだ当初はキリシタンを迫害していましたが、1580年に洗礼を受けてドン・プロタジオの洗礼名を持ち、以後は熱心なキリシタンとなりました。1582年には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣しています。
 南蛮貿易に熱心であり、朱印船派遣の回数は、大名の中では島津氏・松浦氏と並び九州大名の中でも最多でした。有馬氏の領内は龍造寺氏の侵攻によって度々戦火にさらされ、国人衆らの反乱も相次いだ為、決して肥沃な土地ではありませんでしたが、南蛮貿易により多大な利益を上げると、それによって多くの宣教師・キリシタンの協力も得て、沖田畷の戦いでも大量の鉄砲・兵糧の援助を受けています。しかし、信仰に熱心なあまり、破壊した寺社の資材でキリスト教育施設を領内に作らせたり、宣教師の要求によって領民から少年少女を徴集し、ゴアに本拠を置くポルトガル領インドの副王に奴隷として送ろうとしたとも言われています。
 文禄・慶長の役では、同じキリシタン大名の小西行長の軍に属して従軍し、26歳から32歳までの7年間を朝鮮で過ごしています。
 1600年の関ヶ原の合戦では当初、在国のまま西軍に属したものの、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返ると、小西行長の居城であった宇土城を攻撃して、その功績によって旧領を安堵されることとなります。1609年2月、幕府の許可を受けて台湾へ出兵しますが、明との貿易拠点を築くことは出来ませんでした。ところが同年、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオ市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きました。これに怒った晴信は徳川家康に仇討ちの許可を求めると、そこへマカオにおけるポルトガル側の責任者アンドレ・ペソアノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号マードレ・デ・デウス号)に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船でポルトガル船を包囲すると、船長は船員を逃がして船を爆沈したのです(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)。この事件の後、本多正純の家臣であった岡本大八が晴信に近づき、黒船を沈めた恩賞として家康が有馬の旧領を戻してくれるだろうと、偽りの話しを晴信に持ちかけました。岡本大八は晴信をだまして口利き料として多額の金子を受け取っていたのです。これが発覚して家康は激怒し、大八は火あぶりになりましたが、晴信もまた贈賄の罪を問われて追放され、妻のジュスタと35名の家臣と共に、富士山の麓にある甲斐の国の谷村に向かいました。そこで彼は岡本大八に被せられた無実の罪に対し、汚名を晴らそうと幕府に弁明の書状を出しましたが、これは受け入れられず処刑がきまりました (岡本大八事件)。キリシタンであった晴信は自害を選ばず、妻たちの見守る中で家臣に首を切り落とさせました (この最後の記述はキリスト教徒側の記録かのもので、日本側の記録では切腹して果てたとされています)。
 岡本大八事件で事件の当事者である晴信と大八がキリシタンであった事から、有馬氏は所領代えとなり、旧有馬領内ではキリシタンへの弾圧がはじまり、これが島原の乱の遠因となっていったともされています。



 (4) 高山右近
 1552年に、高山右近(幼名は彦五郎)は摂津高山(現在の大阪府豊能郡)に生まれます。
 ところで、キリスト教に対し好意的でなかった松永久秀によって、奈良の仏僧との宗論のために派遣されたロレンソ了斎が理路整然と論破するのを、その論議の審査のために居合わせた高山友照(右近の父)が聞いてこれに感心し、自らの城にロレンソ了斎を招き教えを請い、友照は子の右近や家臣などと共にガスパル・ヴィレラから洗礼を受けました。このとき、右近の洗礼名はジェスト(義人の意)で12歳の時でした。
 やがて、友照が高槻城となり、50歳を過て城主の地位を右近に譲ると、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになりました。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され、神官や僧侶は迫害を受けました。この父の生き方は当然息子の右近にも大きな影響を与えたのです。
 さて、1578年に右近が与力よりきとして従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻しました。村重の謀反を知った右近は、村重の翻意を促そうと、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしたが失敗しました。右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めると、神父は信長にくだるのが正義であるが、よく祈って決断せよとアドバイスしました。
 ところで、高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとしたのです。右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫しました。すると、高槻城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと、開城を求める派で真っ二つとなると、懊悩おうのうした右近はここにいたって城主を辞し、家族も捨てて紙衣かみこ一枚で城を出て、信長の前に出頭しました。この右近の離脱は荒木勢の敗北(有岡城の戦い)の大きな要因となり、信長はこの功績を認めて、右近を再び高槻城主としました。



  @ 右近の信仰が結んだ果実
 さて、秀吉からも信任のあつかった右近は、1585年に播磨明石郡に新たに領地6万石を与えられ、船上城を居城としました。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行されると、秀吉の側近の黒田孝高が真っ先に棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況となりますが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせました。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住みますが、1588年に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴くと、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。
 1614年、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去すると、長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しました。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近は、マニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けましたが、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1615年2月4日に息を引き取りました。享年64歳でした。葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われました。
 右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなりました。細川忠興前田利家は洗礼を受けないまでも、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的でした。しかし、右近はキリスト教徒にとっては名君でしたが、神道氏子・仏教徒にとっては父・友照同様に暴君だったとする記録もあります。友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し、神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥りました。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述があります。
 反面、『フロイス日本史』 などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしませんでしたが、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となったがために寺社が必然的に減り、廃寺も増えたので、これを打ち壊して教会建設の材料としたと記されています。宣教師側は右近をキリスト教を広めた功労者として賛美する傾向がある一方、寺社側は右近によって領内のキリスト教徒の数が絶大的になり収入が激減したという事情のため、多分に誹謗中傷などをしている経緯があります。

<参照>
 戦国キリシタン武将・高山右近はなぜマニラに没した?63年の生涯まとめ



2. 伴天連追放令と秀吉

 豊臣秀吉の九州平定の後、1587年6月8日に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の11か条の覚書と、1587年7月24日の筑前箱崎に滞在していた秀吉が、ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)のドミンゴス・モンテイロおよび当時のイエズス会日本地区の責任者であったコエリョに対して『宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書(同年6月19日付の五か条の文書)』を手渡してキリスト教宣教の制限を表明したのを併せて “伴天連追放令” と言い、原本は長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されています。

<参考>
 「伴天連追放令に関する一考察」(日本の歴史学者 神田千里 : PDF / 本サイト
 バテレン追放令 (Edict expelling Jesuit missionaries)



 (1) イエズス会宣教師の功罪

  @ フランシスコ・カブラル
 スペイン系貴族ので日本布教区の責任者であったフランシスコ・カブラルは、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに徹底的に批判され、解任されました。インド各地で要職を歴任したのち、コスメ・デ・トーレスの後継者として日本に派遣されました。
 1570年6月、天草志岐に到着するとただちに日本布教区責任者となったカブラルは、志岐で宣教会議を行い、今後の宣教方針を決定しました。そこでカブラルの指摘した問題点は、「日本においてイエズス会員が絹の着物を着ているのは清貧の精神に反している」ということでした。前任者のコスメ・デ・トーレスは日本においては身なりや服装がきちんとしていない人物は軽蔑されるという事実に鑑みて、宣教師たちにあえて良い服を着ることを奨励していましたが、着任早々のカブラルはそういった事情は考慮していませんでした。
 カブラルは、コスメ・デ・トレースの「適応主義」を真っ先に否定しました。彼は元来インドに赴任した軍人であり、「ヨーロッパ中心主義」という同時代人の制約を超えることができなかったのです。カブラルの目から見れば、アジア人である日本人は低能力な民族であり、布教においても宣教師が日本文化に合わせるより、優れたヨーロッパ式を日本人に教えこむことのほうが日本人にとって良いと考えていたのです。
 1573年にはカブラルは山口へ足を伸ばすと、そこはコスメ・デ・トーレスが1556年に訪れてから誰も宣教師が訪れていなかった地域であったため、信徒の大歓迎を受けました。九州に戻ると、大友宗麟に洗礼を授けたのもカブラルだったのです。一見、順調に進んでいるかのようなイエズス会の布教活動でしたが、カブラルの方針によって日本人信徒と宣教師たちの間に溝ができつつありました。カブラルは日本語を不可解な言語として、宣教師たちに習得させようとせず、日本人に対してもラテン語を習得させようとしなかったため、日本人が司祭になる道を閉ざしていました。カブラルにとって日本人改宗者は堪えられない存在だったのです。特に誇り高い武士や元僧侶は、後にイエズス会から多くの棄教者、背教者を出す結果となりました。その一例として、禅僧不干斎 巴鼻庵ふかんさい はびあんすぐれたキリスト教布教書を著した有能な司祭志願者だったのですが、後に寝返るとその著書である反キリスト教論 『破提宇子は・だいうす』(デウスを破却する意)の中で、宣教師に対し 「人には謙遜を勧めるが伴天連自身は高慢で、日本人を人と思っていない」と表現しています。
 1579年、総長の名代として日本を訪れた巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、九州においてカブラルから日本人が布教に適していないという悲観的な報告を受けて衝撃を受けました。カブラルは止めたが、ヴァリニャーノはあきらめきれずに畿内へ視察に赴くと、畿内においてヴァリニャーノは多くの優れたキリスト教徒たちや、キリシタンの武将たちに会って感激し、日本布教区の問題点が実はカブラルにあるのではないかと考え始めたのです。視察を終えたヴァリニャーノはカブラルの宣教方針を完全に否定し、カブラルが禁じた日本人司祭の育成、日本布教区と本部との連絡通信の徹底、トーレスの適応主義の復活を指示しました。ヴァリニャーノはトーレスの日本文化尊重の姿勢を絶賛し、宣教師が日本の礼儀作法を学ぶことの重要性を指摘しています。
 カブラルはヴァリニャーノを逆に非難しましたが、結果として1581年に布教責任者の立場を解任されると、後任にはガスパル・コエリョが任命され、日本地区が準管区に昇格したため、コエリョは初代準管区長となりました。

<参照>
 フランシスコ・カブラル 布教拡大に燃えたイエズス会宣教師の栄光と挫折



  A ガスパル・コエリョ
 ポルトガルのオポルト生まれのイエズス会司祭であるガスパル・コエリョは、1556年にインドのゴアでイエズス会に入会しました。同地で司祭に叙階され、1572年に来日すると、九州地方での布教活動にあたりました。1581年に日本地区がイエズス会の準管区に昇格すると、アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって初代準管区長に任命され、1585年には宣教を優位に行い、キリシタン大名を支援する為、フィリピンからの艦隊派遣を求めています。さらに日本全土を改宗した際には、日本人を尖兵として、中国に攻め入る案を持っていて、この案は、彼だけでなく多くの宣教師が共有していたのです。1586年には地区責任者として畿内の巡察を行い、3月16日に大坂城で豊臣秀吉に謁見を許されると、日本での布教の正式な許可を得たのです。しかし翌年1587年に、九州征伐を終えた秀吉は、ポルトガル商人が日本人を奴隷等として海外に売っていた事(奴隷貿易)を知ると、バテレン追放令を発布し、布教責任者であるコエリョを召喚して叱責しました。コエリョは、ヴァリニャーノの定めたキリシタン領主に過度の軍事援助を慎むと言う方針を無視して、フスタ船を建造して大砲を積込むと、更にはそれを博多にいる秀吉に見せるという行為を行ったのです。高山右近や小西行長がこの行為を懸念して、コエリョにその船を秀吉に献上するように勧めましたが、これには全く応じませんでした。ヴァリニャーノやオルガンティノによると、バテレン追放令はコエリョのこうした秀吉に対する挑発的な行為に主な原因があるとしています。これを受けたコエリョは、大友宗麟や有馬晴信に対して、キリシタン大名を糾合して秀吉に敵対することを求めると、自身もその準備に乗り出しましたが、有馬は小西と同様にコエリョを嫌っていたので実現しませんでした。その後、コエリョはフィリピンへ援軍を求めましたがこれを拒否され、次に、1589年にはマカオに使者を送ると、天正少年使節を伴って再来日を伺っていたヴァリニャーノには、各位に働きかけて大規模な軍事援助を求めるよう要請したのです。その間、全国のイエズス会員たちを平戸に集結させて、公然の宣教活動を控えさせることにしたのです。
 コエリョは1590年に肥前国加津佐で没しましたが、ヴァリニャーノはこのコエリョの要請に驚き、彼が準備していた武器・弾薬を総て売り払って、日本で処分するのが不適当と思われた大砲はマカオに送ることを命じています(ただし、ヴァリニャーノも程度の差こそあれ、かつてはコエリョと同様にキリシタン大名へ支援することは考えていました)。



  B コスメ・デ・トーレス
 カトリック教会の司祭。ザビエルの意志を受けてイエズス会宣教師として18年にわたって日本で宣教。コスメ・デ・トーレスの目指した「適応主義」(宣教師が現地の文化に根ざして生きること)は当時のヨーロッパ人の限界を超えた思想であり、日本におけるキリスト教布教の成功をもたらしました。
 スペイン・バレンシア出身のトーレスは若くして司祭となると、故郷を離れてメキシコに渡りました。さらにビリャロボス艦隊に同行して東南アジアのモルッカ諸島までやってきたのです。1546年、そこでトーレスは運命的な出会いをすることになります。たまたま同地に来ていたザビエルと出会うと、ザビエルに心酔し、トーレスは共にインドのゴアへ渡り、同地でイエズス会に入会したのです。ザビエルや日本人ヤジロウと共に日本への宣教を志したトーレスは、1549年8月15日鹿児島に到着し、ザビエルと同じように日本人に好印象を抱き、宣教への夢をふくらませました。一行は平戸の松浦氏の庇護を受けることができたため、トーレスは京都を目指したザビエルらと別れて平戸に滞在したのです。さらに1551年、ザビエルがインド目指して出発すると、ザビエルはトーレスに日本布教の責任を託しました。トーレスは日本人ロレンソ了斎などの協力者を得て地道な宣教を続けて行きました。 トーレスが宣教責任者として成功した理由には彼の「適応主義」があげられます。これはサビエルの意志でもあったもので、日本ではヨーロッパ人の宣教師たちが、日本文化を尊重することによって日本式の暮らしを行うことを求めたのでした。トーレス自身、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、日本の着物を着て後半生を過ごしたのです。トーレスの地道な活動は実をむすびました。山口や九州の各地で徐々にキリスト教が広まり始めたのです。彼は戦乱に翻弄されて山口、豊後、肥前などを転々としながら、後続の宣教師たちを教育し、日本人協力者を養成し、信徒の世話をし、仏僧たちの議論に答えました。1556年には商人だったルイス・デ・アルメイダがトーレスの感化によってイエズス会に入会すると、以後宣教師として盛んに活躍することになます。トーレス自身も九州各地で宣教を続け、1563年には大村純忠に洗礼を授けて初のキリシタン大名とし、またキリシタン布教と不可分の関係にあった南蛮貿易の拠点として1562年には横瀬浦(長崎県西海市)、ついで1570年に長崎の開港に尽力したのです(ただし、長崎に最初のポルトガル船が来航したのは、トーレスの没後の1571年でした)。
 日本地区の布教責任者として、各地を転々としての宣教に疲れ果てたトーレスは、1560年代の終わりにインドの上長に新しい布教長の派遣を依頼すると、これに答えて派遣されたのが、1570年6月に天草に到着したフランシスコ・カブラル神父だったのです。その後コスメ・デ・トーレスは、1570年10月2日天草志岐(熊本県天草郡苓北町)で死去しました。



  C ルイス・デ・アルメイダ
 ルイス・デ・アルメイダはポルトガルの首都リスボンに生まれます。商人でしたが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して日本初の病院をつくったことで知られています。後にイエズス会員となりました。
 1546年ポルトガル王から与えられる医師免許を取得したあとで、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡ると、1552年に貿易目的で来日しました。山口でアルメイダは、イエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会い、フランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていました。アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して、思うところがあり豊後府内(大分県大分市)にとどまると、私財を投じて乳児院を建てました。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされています。さらに、豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てました。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所となったのです。一般病人のうち彼は外科を受け持ち、化膿創かのうそうの治療に当たりました。日本語が堪能で患者と自由に話し合いが出来たため、200人以上の患者を治癒することができました。このため名声は京都、東北地方まで達し、僧侶、武士、著名人が次々に訪れ、1559年には早くも第二のより大きな病院が建てられたのです。

<参照>
 アルメイダ病院

  戦国時代には、悲しい庶民の口べらし手段として乳児を山野・海浜に捨てたり、扼殺やくさつ、溺死させられたりする子供たちがいましたが、彼は大友宗麟にこの現実を告げると、子殺し禁令を出させて、自ら資金を提供して乳母と乳牛二頭を備えた育児院も建設しました
 布教においては、コスメ・デ・トーレス神父が、改宗の難しそうな土地へたびたびアルメイダを向かわせると、学識あるアルメイダは僧侶など知識人の欲求によく応えて改宗へと導きました。医師としても貧しい人々を助けたことで多くの信者を獲得したのです。
 神父としての活動を始めてからは、貿易への投資を続け、病院の資金を調達したり、慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく私財を寄進しました。日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは、1558年には医学教育を開始し、医師の養成を行っていました。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになと、1566年には五島の領主宇久純定に治療を依頼されるほどにその名声は高まっていたのです。
 1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭に叙階されると、再び日本に戻って宣教活動・医療活動に専念しますが、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没してしまいます。



  D グネッキ・ソルディ・オルガンティノ
 グネッキ・ソルディ・オルガンティノは、イタリア人宣教師。カトリック司祭。イエズス会員。日本人が好きな彼は、「宇留岸伴天連うるがんばてれん」と多くの日本人から慕われて30年を京都で過ごしました。1533年北イタリアのカストで生まれたオルガンティノは22歳でイエズス会に入会しました。ロレートの大神学校、ゴア(インド)の大神学校で教えた後で日本に派遣されました。来日は1570年6月18日に、天草志岐でその第一歩をしるしました。
 オルガンティノは、はじめから京都地区での宣教を担当すると、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事しました。1577年から30年にわたって京都地区の布教責任者を務めたのです。オルガンティノは、1576年に京都の “聖母被昇天教会”、いわゆる「南蛮寺」を完成すると、1578年における荒木村重の叛乱時(有岡城の戦い)には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けたのです。
 1580年には、安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨを建てました。オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働くと、最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちでした。この第一期生の中には、後に殉教するパウロ三木もいたと言われています。しかしこのセミナリヨは、信長が本能寺の変で横死した後で、安土城が焼かれた時に放棄されました。1583年には、豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願うと、大坂に与えられましたが、結局のところ右近の支配する高槻に設置されたのです。
 1587年に伴天連追放令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てました。オルガンティノは、右近とともに表向き棄教した小西行長の領地である小豆島に逃れて、そこから京都の信徒を指導したのです。翌年、右近が加賀国に招かれると、オルガンティノは九州に向かいました。
 1591年には、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁し、前田玄以のとりなしによって再び京都在住を許されました。1597年には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っています。オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたと言われています。
 半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは、長崎で病床につき、1609年に76歳で没しました。

<参照>
 オルガンティノの解説 日本人をこよなく愛したイタリア人宣教師



 (2) 秀吉の懸念と伴天連追放令
 「伴天連追放令(1587年)」は、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉が、長崎がイエズス会領となり要塞化され、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られているとの讒言を天台宗の元僧侶である施薬院全宗(右図)から受けたことによって発せられたもので、その制裁として発令された伴天連追放令は、イエズス会に属さない日本人キリシタンに適用されたものではなく、その信仰の迫害を意図したものでもありませんでした。宣教師が優れた教義を説き、それに信者自らの自発的に帰依するのであればまだしも、日本の仏法を実力で破壊して信者を獲得しているのは不届きであるとして、イエズス会宣教師を対象として発令されたものでした。これはあくまでも、寺社の破壊と強制改宗に対する非難であり、キリスト教の教義を非難したものではなく、その行動様式を非難したもので、「邪法」と断じたのです。これに対して、多くのキリシタンは決してやめる事はせず、それに対して見せた弱さを罪として公の償いが行われ、その言葉を発したことを撤回する告解がなされたのです。当時の仏教にもいくつかの矛盾は当然あったでしょうが、改宗した仏僧らは、自ら仏堂に保持していた大量の重要な仏像を持参し、仏像の破壊をともなう改宗が行われていたのです。
 勿論、秀吉の伴天連追放令は、すべてのキリシタン大名に棄教勧告を求めたものではありません。秀吉は、人々が自分のより一層求める宗派に従うことについては自由であるとして、これを “一般的な日本の習慣” としました。むしろ、この習慣に背けば反乱が起こりかねないことえを危惧していました。秀吉は、キリシタンに改宗することは自由としながらも、それまでの気持ちがないままに、それを押し殺してまで強制的に改宗するのは不届きであるとしたのです。
  • 吉利支丹伴天連追放令

  • 日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
  • 其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
  • 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
  • K船之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。
  • 自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。
已上
天正十五年六月十九日     朱印
(大意)
  1. 日本は自らの神々によって護られている国であるのに、キリスト教の国から邪法をさずけることは、まったくもってけしからんことである。
  2. (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。(秀吉が)諸国の大名に領地を治めさせているのは一時的なことである。天下からの法律を守り、さまざまなことをその通りにすべきなのに、いいかげんな態度でそれをしないのはけしからん。
  3. キリスト教宣教師はその知恵によって、人々の自由意志に任せて信者にしていると思っていたのに、前に書いたとおり日本の仏法を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教宣教師であるのに自分は違うと言い張る者がいれば、けしからんことだ。
  4. 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。
  5. いまから後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する
以上 天正15年(1587年)6月19日

 この後、天下統一を成し遂げた秀吉は、織田信長の発案した中国大陸(当時は明朝)への進出を、秀吉が “唐入り”(1592年〜1598年)として実行しましたが、1596年にはサン・フェリペ号事件が起こることによってキリシタン信仰への迫害にその向きを変えていき、秀吉は再び禁教令を発令し、キリスト教を信仰し布教したりすることを禁ずるまでに至りました。

<参照>
 なぜ豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を決意したのか
 世界史・近現代史のなかの「朝鮮出兵」(九州大学大学院教授 中野等 : PDF / 本サイト


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