復帰摂理歴史の真実
神道とは何か <トップ> 空海による仏教思想の大転換

■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
     b. 仏教に影響を与えた景教


1. 大秦景教
 (1) 景教の源流と辿った道
景教のたどった道
川口一彦
 1951年、三重県松阪市生まれ。愛知福音キリスト教会宣教牧師、基督教教育学博士。聖書宣教、仏教とキリスト教の違い、景教に関するセミナーなどを開催。日本景教研究会(2009年設立)代表、国際景教研究会・日本代表を務める。季刊誌「景教」を発行、国際景教学術大会を毎年開催している。2014年11月3日には、大秦景教流行中国碑を教会前に建設。最近は、聖句書展や拓本展も開催している。
 著書に 『景教―東回りの古代キリスト教・景教とその波及―』(改訂新装版、2014年)、『仏教からクリスチャンへ―新装改訂版―』『一から始める筆ペン練習帳』(共にイーグレープ発行)、『漢字と聖書と福音』『景教のたどった道』(韓国語版)ほかがある。


<参照>
 新・景教のたどった道(1)(59)



  @ 波斯経教はしきょうきょうから大秦景教へ
 景教はイスラエルからシルクロードで、東のシリアからイラク、ペルシャ(現在のイラン)、中央アジアへと伝わり、そこを中継点として中国に布教した古代アジアのキリスト教です。
 中国では太宗皇帝の時代、ペルシャから635年に初代宣教師らが来たことから波斯ペルシャ経教と言っていました。しかし、ペルシャからはゾロアスター教マニ教なども来ていたので、独自の名前を用いることを考え、745年ごろに「大秦景教」と改名し、多くの宣教師や信徒らが中国に入り、全土で栄えました。781年に有名な「大秦景教流行中国碑」が西安(旧称長安)に建ち、景教と中国皇帝との良好な関係を石に刻みました。
 景教碑の末尾には彼らが「東方の景衆」と名乗り、東方に来た景教徒の意味で使っていた。会堂を大秦寺、景寺などと表記していました。佐伯好郎氏によると、「景教」の景の字は “” を意味し、メシアすなわち “キリストは世の光” であるという信仰に基づき、日と京の二字より成り立ち、日は “太陽の光”、京は “” を意味するため、景の字には「大いなる光明」の意味を持つことに基づく。つまり、「大いなる日」という意を持つ景の字を使用することによって、当時、既に長安の上下に流行していた『大日経』の勢力を少なからず景教の勢力扶植に利用することを得たことは争いなき事実であるとしている。
 しかし、850年ごろには堕落した仏教を皇帝が排撃する中で、外国人の宗教すべてを追放する政策に景教も含まれ、指導者や信徒らは殉教し、多くは中央アジアや福建省、モンゴル、北京近郊などへと生き延びていきました。850年ごろに景教碑は土に埋められ、約770年後の1625年ごろに発見されて景教の存在がクローズアップされたのです。
 やがて中国の唐が滅び、13世紀ごろの元の時代になると、也里可温エルケウン(キリスト教徒の意味)と名前を変え、会堂を十字寺として信仰を守り続けていました。彼らの証しを墓石や石碑などの遺跡(左図)として各地で見ることができます。
<参照>
 大秦景教流行中国碑 現代訳 (PDF)

  A 景教の由来
 635年に初代宣教師として中国の都・長安に宣教にやってきた阿羅本について、中国の史書『唐会要とうかいよう』巻49には「波斯ペルシャ僧阿羅本」とあり、景教碑には大秦国の阿羅本と書かれています。大秦については大秦景教宣元至本経に大秦那薩羅ナザレとあり、大秦であるローマ帝国領ユダヤから来たことが分かります。
 彼らの出発地は大秦のユダヤということで、そこから東へ向かい、ペルシャ、中央アジア、中国に至りました。そこで皇帝をはじめとして全ての人に福音を伝えました。西アジアより東方にも散らされたイスラエルの民がおり、待望していたメシアが到来した重大な知らせを告知する必要があったのです。彼らは、聖書と賛美歌や教理書などを持参していました。聖書については旧約聖書の冊数が24とあり、新約聖書は27と景教碑には刻まれています。旧約聖書が24とあるのはイエス様も用いたユダヤ教の聖書の冊数と同じで、例えば列王記やサムエル記などのTとU(上下)を1冊にすると24となります。賛美歌もシリア語から漢文にして中国で賛美していました。その一つに「景教三威蒙度讃」は洗礼式に歌ったものと考えられます。
 景教経典における「・・・経」は聖書類、「・・・讃」は賛美歌、「・・・論」は教理書です。教理書の「一神論」は中国敦煌で発見され、日本に所蔵されています。
<参照>
 ・ 唐代の漢訳書『一神論』(1)
 唐代の漢訳書『一神論』(2)世尊布施論
 唐代の漢訳書『一神論』(3)世尊布施論A
 唐代の漢訳書『一神論』(4)世尊布施論B



 (2) 大秦景教徒たち
  @ 景教の源流
 新約聖書の使徒言行録2章に記されている聖霊降臨のとき、東方から多くの巡礼者がエルサレムに来ていたとあります。東方の地域とはパルティア、メディア、エラム、メソポタミア、アラビアで、その地から多くの礼拝者が来て、イエスをメシアと信じた者たちはバプテスマを受け、自国に帰り、イエス・メシアの救い、福音を伝えていき、信仰者の群れが起きていきました。それが東方教会で、大秦景教の源流となります。

  A 離散したユダヤ人による聖書伝道
 1世紀にはシルクロードを通じて福音が東西に拡大し、主を信じる弟子たちが各地で起きていました。宣教が拡大していった理由に、誰もが読めるコイネーのギリシャ語が普及し、道路網が整備されていたこと、ユダヤ人の会堂が各地に建てられ、旧約聖書がヘブル語や現地語のギリシャ語で読まれていたことが挙げられます。離散したユダヤ人への宣教が行われて、ユダヤ人以外の異邦人のうちにも主の弟子たちが多く起きていきました。聖書の写本も発見されています。
 一方で東方のイエス・メシア教では、使徒トマスや70人の弟子たちの中の一部が東方へ福音を伝えていきました。そこにも多くの離散したユダヤ人がいて、会堂で福音を語り、イエスを待望のメシアと信じた集まりが起きていきました。東方地域の言語はアラム語、シリア語で、旧約時代のアッシリアの言語が生きていました。シリア語とアラム語とヘブル語は同属語で読みも書くことも似ています。南インドでは今も礼拝でシリア語が使われています。
 イエスは昇天の前に、全世界に出て行きすべての造られた者に福音を伝えるよう弟子たちに命じ、弟子たちは西方だけでなく、東方にも、南方にも、東西南北に伝えていきました。弟子たちは誰もが聖書を読めるように後々にぺシッタという簡素なシリア語新約聖書を文書化し普及させました。

  B 東方教会の本拠地、エデッサに宣教
 『教会史』を書いたキリスト教初期の人物にエウセビオス(263年頃〜339年)がいます。その中で、シリア北部にあるオスロエネ王国の首都エデッサに派遣されて宣教した、70人の弟子の一人タダイ(アダイ)について、次のように記しています。
 その方(イエス)が死者から復活し昇天した後、12使徒の一人のトマスは、神的な力に動かされ、キリストの70人の弟子の一人に数えられているタダイを、キリストについて教える使者・福音伝道者としてエデッサに遣わした。そして、彼を介して、わたしたちの救い主のすべての約束が成就されたのである。これについて書かれた証言は、当時王の都だったエデッサの記録保管所から借り出された文書にある。(『エウセビオス「教会史」』秦剛平訳、講談社)


 タダイは王アブガル以外にも大勢の市民を癒やし、イエスが語られた神の言葉やなされた事柄の福音を伝えました。その結果、シリアに大勢の信徒が生まれ、教会が建ち、さらに福音は東方世界に、つまり東の果てにまで拡大していきました(シリア語『使徒アダイの教理』)。
 シリアで福音の教えが広まった要因の一つに、ローマ帝国が70年にエルサレム神殿を破壊し、130年にも迫害を加えたことでパレスチナのユダヤ人やイエスを信じる信者が離散し、国外、特に反ローマのパルテア国に入ったことがあります。

  C 東方教会の特徴
 紀元後、ローマ帝国領のユダヤから多くのメシア信仰者たちが迫害を逃れて東方に向かったため、信徒たちが増えていきました。一方、339年から379年、420年、438年のペルシア帝国内では、皇帝やゾロアスター教徒からの迫害や大虐殺によって多くが殉教し、背教も起きました。逃れて離散した信徒たちは山麓で修道院を作り、信仰を守りました。
 年代は下り、唐代中国の女帝、則天武后ぶそくてんが帝位につくと「聖母」「聖神皇帝」と仏教徒らからあがめられ、景教徒たちは迫害に遭い、滅亡するかのようであったと景教碑文は刻んでいます。845年ごろには中国の武宗皇帝による景教徒迫害と殺害、国外追放と離散もありました。景教碑や各文書類が土に埋められ、焼却させられたりもしました。



 (3) 仏教と景教
  @ 仏教腐敗と景教の苦難
 景教碑には、女帝で仏教徒の則天武后は女帝退位後(698年〜699年)に、帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを “弥勒菩薩の生まれ変わり” と称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。そのことにより仏教徒らが優位となり、景教徒たちは釈迦の弟子たちの「釋子しゃくし」から迫害を受けた。この対策として、幾人かの指導者らが長安に来て、景教が失われないように彼らを励ました。
 さらに、景教徒たちが中国から国外に追放される事件が起きました。845年前後からの会昌の時代に行われた「廃仏」運動で、仏教徒側からは「三武一宗の法難」といわれるものです。それは、北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗の三武皇帝と後周の世宗皇帝によるもので、中でも唐代末の会昌の廃仏事件は最も激しく景教にも多大な影響を与え、中国外に追放されたり、還俗げんぞくさせられたり、殉教も起きました。皇帝側からすれば、仏教が強大化して金銭による賄賂などがはびこり、大変危惧することでもあったことから、武宗皇帝は時の総理大臣の李徳裕と道教徒で筆頭道士の趙帰真によって廃仏のために弾圧を加えたといわれます。これが「会昌の廃仏」というものです。
 この時に景教徒たちは多くの苦難を経験しました。彼らは都の長安から北は今のモンゴルに、南は海沿いの福建省近辺に、西は中央アジアに離散したと考えられます。北京近郊の三盆山には元の時代の会堂跡と十字寺碑と彫られた大きな石碑、シリア語の聖書の詩編が彫られた遺跡があります。また中央アジアのキルギス周辺には、景教徒たちの十字マークとシリア語で彫られた墓石類が多数発見されています。

  A 空海密教と景教
 景教と密教の関わりですが、仏教学者の高楠順次郎(1866年〜1945年)は、北インド出身の僧の般若三蔵(734年〜810年:788年に中国で書かれた『貞元新定釈教目録』の中の「般若伝巻17」に出る)と、781年に建った景教碑の撰述者・景浄とが密教経典の胡語(ソグド語)による『大乗理趣六波羅蜜多経』7巻を共訳(788年)したことを発見し、景教と密教のつながりについて唱えました。
 『貞元新定釈教目録』は、空海が遣唐使として805年に滞在した西明寺の僧で仏教史家の円照の著作で、空海は彼からも仏教を学びました。般若三蔵からは梵語や密教を学びました。
 般若三蔵が中国南部の広州から長安に来たのが、景教碑が建った781年か翌年で、彼は中国に来る前には南インドにいたといわれます。南インドは、使徒トマス教会の会堂や信徒が多く存在していた地であります。
 『空海辞典』(金岡秀友編、東京堂出版、1979年)の景教の項では「景教が密教および空海に直接・間接の関係があることは明らか・・・」とあり、般若三蔵の項では「景浄から西洋思想についても多くを学んだことであろう。空海思想の幅の広さは般若三蔵との交際によるところが大きい」と書いています。

  B 景教を日本に紹介したゴルドン
 エリザベス・アンナ・ゴルドンは景密同祖論を唱えた人です。景教は密教に影響し、密教は景教と同じという独自の宗教論を唱えました。和歌山県高野山奥の院に自費で明治44年に大秦景教流行中国碑(レプリカ)を建て、隣にゴルドンの墓碑も建っています。特に景教碑の上部の裏面には、西安碑林博物館の景教碑原碑にはない密教の曼陀羅が彫られ、関連の文字も彫られています。
 さて、ゴルドンの心になぜ碑の建設というビジョンが起きたのでしょうか。彼女は1870年代に比較宗教学者のマックス・ミュラー教授に出会い、日本から英国に学びに来ていた仏教学者の南条文雄高楠順次郎らにも会ったことがきっかけで日本の宗教文化に興味を抱きました。そして1891年に世界旅行中に来日し、日本を見て大変感動した。当時は日英同盟締結時で、彼女は英国の書物を多く日本に寄贈しました。特に太平洋戦争の時の戦火で焼失する前の日比谷図書館には「日英文庫」があり、一部の公立図書館や私立大学図書館には寄贈された図書(ゴルドン文庫)があり、当時は日英親善に尽力しました。
<参照>
 ゴルドン夫人と日英文庫(レファレンス協同データベース)

 1919年に再来日し、“仏基一元” という習合宗教・混合宗教観を持ち、やがて密教と空海に傾倒し、キリスト教を捨てて仏教徒に転向し灌頂かんじょうも受けました。晩年は京都に住み、1925年6月17日京都ホテルに滞在中死去したが、葬儀は真言宗で営まれ、遺言により遺骨は、高野山と朝鮮の金剛山長安寺に葬られた。
<参照>
 「弘法大師と景教」(E. A. ゴルドン 著 高楠順次郎 訳 / 青空文庫
 E・A・ゴルドンの人と思想 (日本史・女子教育史、会員 中村悦子: PDF / 本サイト
 景教碑

  C 浄土教と景教
 唐代の中国浄土教の有名な指導者は善導(613年〜681年)です。彼は20代後半に晋陽(山西省太原市)にいた道綽どうしゃく(562年〜645年)から浄土教典の『観無量寿経』の教えを受けました(浄土教典には『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経がある)。
 善導が説いた救いとは、どんな者でも「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を称えることにより極楽浄土に入ることができるという「称名念仏」で、南無帰依するの意味)と称えることができるのも人間を極楽浄土に入れるために本願修行した阿弥陀が信者に差し向けてくれたもの、だから阿弥陀は称える者を浄土に行かせてくれる。阿弥陀の名を称え、浄土に入れることは、一方的な計らいという他力本願の考えです。
 阿弥陀の意味は “永遠の命” “永遠の光” で、新約聖書「ヨハネによる福音書」1章4節に啓示された「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」から取り入れられたとされ、使徒トマスのインド宣教によると考えられています。
<参照>
 原始キリスト教と融合した大乗仏教
 唐初の景教と善導大師 (京都女子大学 森田眞円: PDF / 本サイト

 善導の著作の中に、阿弥陀仏を賛美する讃仏歌や極楽浄土への往生を願う緩やかな旋律で歌う『六時礼讃』があります。これは、景教碑に彫られ、実際に景教徒らが行った「七時礼讃」から影響を受けたと考えます。


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