復帰摂理歴史の真実
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
 第二節 イエズス会修道士の来日と蛮行


1. イエズス会士による伝道

細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯(安廷苑 著 / 中公新書)
 明智光秀の娘として生まれ、細川忠興の妻として非業の死を遂げた細川ガラシャ。神父に宛てた書翰をはじめ、海の向こうのイエズス会史料にも、彼女の記録は遺されている。本書は、それらの史料をひもとき、ガラシャの生涯に新たな光をあてる、意欲的な試みである。父光秀の謀叛、秀吉によるバテレン追放令、関ヶ原の戦い直前に襲った悲劇。キリシタンでありながら最後に死を選択した、彼女の魂の真の軌跡に迫る。


 (1) イエズス会の活動目的
  @ 創設目的
 イエズス会は、スペイン出身のイグナティウス・ロヨラ(1491〜1556)らが1534年にパリ大学に学ぶ若い聖職者たちと共に設立したカトリック修道会である。日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン出身のフランシスコ・ザビエル(1506〜52)も、その創設時の中心メンバーであった。
 イエズス会の創設は、当時進行していたプロテスタンティズムに対抗するカトリック教会のひとつの動きであったといわれる。その動きは、カトリック宗教改革、反宗教改革とも呼ばれる。日本にイエズス会士たちがやってきたのも、世界布教を創設の目的としたイエズス会を、プロテスタントに対抗するものとカトリック教会が評価したからである。(『細川ガラシャ』p19)


  A 伝道手法
 イエズス会は、ポルトガルに承認され、ポルトガルの海外進出の枠組みによって海外布教を行うことになった。イエズス会の布教方法は、支配者たちを改宗させれば配下の者たちが続いて改宗するはずであるとする、「上からの布教」という考え方に基づいている。したがって、イエズス会は権力者との関係を大事にしたのである。この布教方法は一定の成果を挙げたが、十六世紀末以降に来日したフランシスコ会など、ポルトガル系のイエズス会としばしば対立していたスペイン系の托鉢修道会からは非難されることとなった。(『細川ガラシャ』p19〜p20)


<参照>
 キリシタンと「殉教」の論理 (東京大学名誉教授 五野井隆史 : PDF / 本サイト

 中世のヨーロッパで、聖書は印刷されることなく、宣教師から直接宣べ伝えられるものであった。一般の信者が見ることはできなかったのである。愛読されたのは「イミタティオ・クリスティ」という “新しい信心運動” の精神的拠り所となった修養書で、イエス・キリストの人性に注目してイエスに従って生きるべきことを説いている
 キリストに倣って真理を証し、受難の苦しみに堪え、栄光に至るべきこと、天国へ行く道である十字架を負うこと、十字架にこそ救いがあることなどが説かれ、最初は写本によって、1596年以降には印刷本によってキリシタンに広く流布した。
 これは、イエス・キリストが十字架に懸けられたように、キリストに倣ってデウス(神)のために命を捧げることである。これがデウスに対するカリダデ(愛)であり、「知音(友人)のために命を捨てること」と同義に考えられ、その行為は「丸血留(マルチリヨ)の位」とされた
 キリシタン達がザビエルの宣教以来、教えられてきたマルチリヨ(殉教)の思想は、マルチリヨが「キリストのなら」であり、キリストの証し人となることによってデウスの御旨に叶う御奉公をする、とういうものであった。従って、ヒイデス(信仰)のために死ぬことが第一であり、マルチリヨ(殉教)を目前にした時には先ずキリストの受難を想起しコンヒサン(告解)を行い、次にデウスのガラサ(恩寵)に頼って大罪に陥らないように赦しを乞い、決して自力に頼ってはならないこと、死を甘受して成敗(罰)に抵抗しないことであった。「成敗を辞退せず心能く堪忍して受くること、その成敗をいやがりて死するに於いては丸血留に非ず」として、絶対無抵抗が要求されたデウスの御旨に叶う御奉公とは、デウスに対する絶対的な愛と、その証しとしての自己奉献であった



 (2) 修道士来日の元祖
  @ フランシスコ・ザビエル
 スペイン・ナバラ生まれのカトリック教会の司祭であるフランシスコ・ザビエル (1506年頃4月7日〜1552年12月3日)は、スペインのハビエル城 (右下図) で地方貴族の家に5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子として育ちました。父はナバラ王フアン3世の信頼厚い家臣として宰相を務めますが、ナバラ王国はフランスとスペインの紛争に巻き込まれると、1515年にスペインに併合されます。フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた父ドン・フアン・デ・ハッソは、この激動の中で世を去りました。
 世界宣教をテーマに掲げたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、当時ポルトガル領だったインド西海岸ゴアに派遣することになり、フランシスコは35歳の誕生日である1541年4月7日に、ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデスと共にリスボンを出発しました。
 1542年5月6日ゴアに到着すると、ゴアを拠点にインド各地で宣教活動を行い、1545年9月マラッカ、1546年1月にはモルッカに赴き宣教活動を続け、再びマラッカに戻ると、1547年12月に鹿児島出身のヤジロウという日本人に出会います。ヤジロウは、若い頃に人を殺し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れていましたが、その罪を告白するためザビエルを訪ねてきたのです。
 1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父ジョアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指しました。
 一行は1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着し、1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見。宣教の許可を得ると、ザビエルは即席で大日如来の名前で神を表して伝道し、約100人に洗礼を授けました。しかし、島津貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、京都の天皇に謁見して日本における宣教の許可を得るため薩摩を去りました。
 1550年8月、ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行ない、ジョアン・フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸を発ちました。博多を経由して、11月上旬に周防山口に入り、周防の守護大名・大友義隆に謁見しました。ザビエルは汚れた旅装のままで面会に臨み、ろくな進物も持たずに義隆の放蕩振りや仏教の保護、当時一般的だった男色などを非難するなど、礼を大いに欠いていたことから義隆が立腹し、布教の許可は下りませんでした。
 1551年1月、一行は念願の京に到着すると、ザビエルは全国での宣教の許可を得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇足利義輝への拝謁を請願しました。しかし、献上の品がなかったためかないませんでした。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も拒まれ、効無きと悟り、再び南下します。
 1551年3月、平戸に戻ると、ザビエルは平戸に置き残していた献上品を携え、1551年4月下旬にザビエルは再び大友義隆に謁見します。ザビエルはそれまでの経験から、一行を美麗な服装で飾り、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガル領インド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃など、献上品としては珍しい文物を義隆に献上しました。これに対して義隆は、ザビエルに布教を許可し、その拠点として大道寺(日本最初のキリスト教教会)を与えました。ザビエルは、この大道寺で1日に2度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼりました。
 ザビエルは、豊後府内にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ豊後に到着(1551年9月)すると、守護大名・大友義鎮(宗麟)に迎えられ義鎮の保護を受けて宣教を行いました。
 1551年11月中旬、沖の浜からポルトガル船でインドに戻り、1552年4月ザビエルは日本全土での布教のために、日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考えバルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、ザビエル自らは中国を目指して、同年9月、中国広東省上川島に到着しました。しかし中国への入境は思うようにいかず、体力も衰え、精神心的にも消耗しており、ザビエルは病を発症すると、1552年12月3日未明に46歳でこの世を去りました。



2. イエズス会士による日本人奴隷化
 (1) 日本人奴隷売買の経緯

<参照>
 博士論文審査及び最終試験の結果(PDF / 本サイト

 16世紀半ばに来日したイエズス会は、布教活動の一方で、会の運営に「下人げにん」「所従しょじゅう」などの日本の隷属的身分の人々を「奴隷」とみなして使役したほか、ポルトガル商人と日本の商人や戦国大名との仲介者として活動したイエズス会による日本人奴隷の売買が行われていた。
 ザビエル来日後間もなく、ポルトガル商人による中国人・日本人の購入が始まり、イエズス会はポルトガル商人と奴隷を供給した日本の商人や地方大名との仲介役を果たしていたが、やがて布教の妨げになるとしてポルトガル王国に禁止を働きかけ、ポルトガル国王セバスティアン1世による禁止令(1571年)につながる(この王令は有名無実化した)。1587年に豊臣秀吉が禁止した後も、イエズス会は密貿易を黙認していたが、1590年代半ばに非難に転じ、日本人の奴隷化の全面禁止を求めるもののポルトガル領インドの有力者の反対によって失敗した。
 1567年の第1回ゴア宗教会議では、ゴア神学校長フランシスコ・ロドリゲスを中心に、イエズス会士や神学者が集まって、植民地社会でのヨーロッパ人の生活規範やアジアでの布教上の様々な問題を問題を討議するために開かれた。会議の結果はゴア教令としてまとめられており、奴隷問題に関する規定ではによると、アジアで奴隷扱いされる人々を合法的な奴隷と非合法的な奴隷に分類し、適切な手順で奴隷化される5つの基準を規定した。
  1. 世襲奴隷(奴隷の母親から生れた子)
  2. 正当な戦争
  3. 自らの身売り
  4. 父親が子を売る
  5. 現地法による処罰
以上の5つである。また、アジア人の奴隷化は布教活動と重ね合わされ、「不信心者」がキリスト教徒になる段階と理解された。
 さて、セバスティアン王の禁止令は非合法の奴隷売買を禁じる一方、合法と判断される奴隷の売買は認められ、その判断はイエズス会に委ねられていた。日本での布教を統括していたコスメ・デ・トレースは奴隷貿易を管理し、不正な貿易を防ぐために許可証の発行を開始したが、そのきっかけとなったのは、豊後の日本人との間の奴隷取引の仲介であった。豊後の大名大友家は、東南アジアの王朝との外交関係を深めるために日本人女性を送り出し、ポルトガル商人との関係もその延長にあった。
 また、ヴァリニャーノは、アジア人を「黒いアジア人」と「白いアジア人」に分類し、日本人は中国人とともに後者に入れ、前者より上位に位置づけた。さらに、イエズス会の中で使用する奴隷を famuli 、国外に輸出される奴隷を servi とラテン語で表記することで定義を曖昧にし、後者は奴隷扱いされるものとして、イエズス会の権限で奴隷貿易許可証を発行していた。
 1591年に秀吉の朝鮮侵略が始まると、多数の朝鮮人捕虜が日本に連行され、奴隷貿易は活況を呈する。1596年、イエズス会日本司教ペドロ・マルティンスは、長崎に着任すると奴隷貿易を非難し、関与した商人を破門するよう命じた。フランシスコ会の来日(1593年)と布教活動の開始によってイエズス会の独占が破られたこと、ローマのイエズス会本部からの命令、朝鮮人捕虜の連行による奴隷の増加が関係し、マルティンス自身も一旦日本を離れて管区本部のマカオに戻り、奴隷問題を議論している。ここでの方針は、マルティンスの後継者として1598年に来日するルイス・デ・セルケイラに引き継がれ、セルケイラは、長崎に宣教師を集めて開いた会議を経て、奴隷貿易の全面禁止と違反者の破門を決定した。

<参照>
 ジョアン・ロドリゲス
 「大量の日本人女性を、奴隷として本国に持ち帰る」豊臣秀吉がキリスト教追放を決意したワケ
 大量に輸出された日本人!?秀吉が奴隷貿易を禁止した背景とは?


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