復帰摂理歴史の真実

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■ 1. 日本のはじまり
     c. 空海と密教(後)


仏教の灌頂

 原始仏教がキリスト教の影響を受けるようになると、仏教には無い様々な内容を取り入れて大乗仏教として変化を遂げました。

 「仏教とキリスト教」(参照)

 “灌頂”とは、頭頂に水を灌いで曼荼羅にある諸仏と縁を結び、正当な継承者としての資格を受ける密教の儀式です。

 入信時の儀式が無かった原始仏教は、キリスト教の “洗礼” を変化させて“灌頂”とするのですが、釈尊の説いた原始仏教には無い新たな仏教の真理を、体験や経験による秘密の教えとしての “密教” を、佛界による象徴的な “かたち” にしたものが、空海の説いた “曼荼羅” と言えるでしょう。




大日如来と昼の神様


 さて、左図は 「人間堕落と三位神と偶像崇拝」 で取り上げた内容ですが、そこでは十字架以降のイエスと聖霊によって摂理してきたキリスト教を考えてきました。

 しかし、本来、神様の創造されたアダムとエバが堕落せずに完成したならば、神様は人間の “心(=神の宮)” となって、人間はその体となり、夫婦となって一体となり、円満な家庭を築けば、そこがまさしく神様が本来願われた理想の世界でした。

 つまり、アダムは神様の本陽性 (夜の神様) の実体となり、エバは神様の本陰性 (昼の神様) の実体となって夫婦となって一体となれば、唯一無形な神様のように、人間は “有形な神様” としての “真の愛の実体” となって理想世界が実現されたはずでした。

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 天宙をおつくりになった神様は、天宙のどこでも運行し、作用なさいます。一ヶ所にだけいらっしゃる神様ではありません。(「原理本体論」101ページ)

 神様は夜の神様として、また昼の神様として存在されます。また、神様は万王の王であり、真の父母です。また、神様はイエス様の先祖であられ、真の父母様の先祖でもあられます。
 本性相と本形状は別の表現をすると、夜の神様と昼の神様だということができます。夜には見えなかった形体が昼なら現れるのを比喩した表現です。それが心の神様、体の神様です。
 神様はに当たる性相的な夜の神様を実体化するために、神様のに当たる形状的な昼の神様を創造されました。自ら体の神様を創造されたのです。その動機は夜の神様です。夜の神様の中に定められた構想、すなわち抽象的な観念が一つの原則と数理によって具体的に現れたのが昼の神様です。(「原理本体論」102ページ)



<注意!>
 「性相的夜の神様」と「形状的昼の神様」とは神様の性相)と形状)の関係であり、主体的な部分対照的な部分であることを表現しています。
 その主体であられる夜の神様陽性的要素が多く、対象であられる昼の神様陰性的要素が多く、この様な神様の陽性と陰性を本陽性 (男性) と本陰性 (女性) と表現しています。
 また “” と “” とは “闇に閉ざされた暗黒の無形世界(=)” と “明かりがともされて見えるようになった具体的な世界 (=)” を表現しています。
 “明かり” とは、 “明確 ・ 具体的に現れること” を表現した言葉で、神様が成そうとされた構想段階の はまだ “夜の世界” であり、愛の対象を創造することによって、その “愛が具体的に展開される” ことを “” と表現されました。



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「仏教とキリスト教」参照
「日本のはじまり」参照

 さて、神道では天照大御神が、仏教では大日如来が上記の昼の神様と同じ位置関係にあったとしても、夜の神様と昼の神様は唯一神の相対的属性としての二つの関係(不二法門)を表しています。

 ところで、キリスト教は “神は愛なり” と神の愛を説きましたが、神道は森羅万象に内在する神様を説き、仏教は人間の心に臨在する神様大日如来として人間としての生き方 (あるべき姿) を説いてきました。

 次に、空海が人間の心と大日如来との関わりを図にした曼荼羅を考えてみます。





両界曼荼羅

 曼荼羅のページ
 東寺ビデオ「曼荼羅とは?」


 曼荼羅には、 「胎蔵界曼荼羅」 と 「金剛界曼荼羅」 があります。

  「胎蔵界曼荼羅」 は、宇宙の構成要素を 「」 、 「」 、 「」 、 「」 、 「」 の “五大” としての物質世界の理(ことわり)を説いたもので、 “理曼荼羅” とも言われ、その宇宙の究極的存在であられる “大日如来” が、あらゆる事象や存在に姿形を変えたものであるとしています。

 その被造万物の中心であられる大日如来の “慈悲” と “” が放射されると同時に、衆生 (しゅじょう) の願いを収歛 (しゅうれん) しているとしています。

 一方、 「金剛界曼荼羅」 は、中心の 「成身会」 と言われる完結した ” の世界から右回りで下降する “向下門” が 『佛の慈悲により衆生を救済する過程』 として、堕落した人間世界に救いの手を差し伸べるためにこの世に降りて来られると同時に、その救いを求めて、修行を積み “悟り” に至ろうとする “向上門” が 『修行者の佛の悟りに到達する過程』 として左回りで上昇しているとしています。

 これは、あたかも右回りで下降する “高気圧左回りで上昇する “低気圧 の循環の如くに、堕落人間が心の救いを求めれば、神様はそれに応じて “慈悲” と “” を与えようとされるのを表現したものです。

  「金剛界曼荼羅」 が “九つ” に分類 (九会曼荼羅) しているのも、人間の成長期間が九段階であることと一致しているのは単なる偶然でしょうか。

 空海は、この様な 「金剛界曼荼羅」 を “智曼荼羅” として、 “理曼荼羅” とともに 『金胎理智不二』 を説き、 金剛界曼荼羅」 が “人間の心の世界” を表現するとすれば、 胎蔵界曼荼羅」 は “人間の体の世界” を表現するものとして、人間の心と体が一つであるように、本来一つである存在世界両界曼荼羅) を二つに分けて表現しました。

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 神様は天地をどのように創造されたのでしょうか。神様の相対となれるのは人間しかいません。それで自己を100パーセント投入したのです。では、どうして投入したのでしょうか。知恵の王であるのに。完全に投入して神様はゼロ、無となり、あちら側は百二十となるのです。気圧でいうと、こちらは低気圧中の低気圧である真空状態となり、あちらは高気圧となつので、循環作用が起きて自動的な発展の原則、自動的な運動の原則を追求するのです。それは何によってでしょうか。愛によってそうなるのです。宇宙の根本が愛であるがゆえに、このような原則によってこうなるのです。 (訓教経(下)「根本思想」1004〜1005ページ)

 私たち人間は、人生を生きる間に自分と最も近く、天下を与えても換えることのできない主人がいるにもかかわらず、それを知らず、罪に捕らえられて生きる不幸な群れであったということを知らなければなりません。その主人が、正に私の良心なのです。この良心が私たちのためにどれほど忠告をし、昼も夜も悪い考えをする時に、どれほど制裁をしてきたでしょうか。
 このように心は真の主人の姿をもち、私を保護しようというのに、体とは怨讐となっています。心と体の争いをやめさせるまでは、天国はないのです。ですから、私の主人と私の師と父母の立場に立って私を正しい人にし、天地の大いなる父母であられ、大いなる師であられ、大いなる主人であられる神様の前に一体化させるために、努力するこの第二の主人である良心を蹂躙し、無視してはならないのです。
 今まで、体は空腹だといっては、盗みを働き、もう少し楽に生きるために強盗を働き、本然の起源を虐待したのです。この体の努力圏をどのように処断しなければならないかという問題が、課題として残っています。
 先生はその問題に誰よりも多くの血、汗を流してきました。 「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」 というのが、先生がこの道を開拓してきた時の標語でした。 「宇宙主管を願う前に、世の中のあらゆることと関連をもつ前に、自己主管を完成せよ」 と言いました。主人になることができ、師になることができ、父母になれるこの心を、私の体が千年、万年仕えたとしても不足であるという自分自身を発見するとき、初めてここに天運が臨むのです。心は体のためにしたがりますが、体は心のためにしようとはしません。これが問題です。問題は自分自身にあるのです。社会にあるのではありません
 自分の家に問題があればお兄さんが悪く、お姉さんが悪く、お父様が悪いのではなく、私が悪いからなのです。自分から正しくして、他人を批判する第二、第三の基準を立てなさいというのです。私が一つになってこそ、堂々と一つになった世界で生きることができるのであって、私が一つになれないのに、全体が一つとなった所でいかにして一つになれるでしょうか。それで、自動的に退くようになっているのです。
 心を踏みにじり、心を無視し、心を疲れさせ、気をもませたこの体が、主人になってはならないのです。体をつかんで心と共に 「ため」 に生きることのできる私になった時に、幸福が訪れてくるのです。そこに神様が臨在されるというのです。(訓教経(下)「真の統一と一つの世界」1061〜1063ページ)


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 さて、空海最澄が経典 『理趣釈教』 の借用を求めた時に、 「密教の奥義は、文章を得ることのみを尊しとはしない。ただ、心から心に伝えることが大切である」 として、最澄の申し出を痛烈に批判しました。(前ページ

 この事は後の仏教界に対して、密教としての禍根となり、最澄の築いた天台宗は後に “親鸞” (1173年〜1262年) が 「浄土真宗」 を生み、 “道元” (1200年1月19日〜1253年9月22日) が 「曹洞宗」 をと分派・分裂が加速して、ついに “日蓮” (1222年3月30日〜1282年11月14日) が仏教の現状を憂いて 『立正安国論』 を唱えるに至りました。

 また、空海真言宗は、豊山派智山派など政治的策略によって分裂を余儀なくされました。

 最澄と空海が協力しながら仏教界の発展に貢献していたなら、全く違った歴史を築いていたかもしれません。

 この様に仏教界がその影響力を弱めていく中で、1549年8月15日フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えることで、いよいよ日本も 「メシヤ再降臨準備時代」 の摂理的渦中に踏み込んで行くこととなりました。

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 人間の良心は授け受けします。神様と直接授け受けするのではありません。真理と授け受けするとき、良心の力は善に向かうようになります良心が真理と授け受けしながら、私たちの本心は成長します。本心は良心を通して真理と一つになって、成長し、成熟していくのです。人間が完成すれば本心が完成し、そのとき、神様が人間の本心の中に入って存在するようになります。(「原理本体論」165ページ)




愛と不二法門

 仏教の 「慈悲」 キリスト教の 「愛」 (参照)


 仏教の 『不二法門』 とは、互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではないとしていますが、これは心の持ち方一つで同じものが全く違ったものになってしまうことを逆説的に表現した言葉です。


 人の心は、修行を積み “佛の慈悲” に近づけば、佛が人の心に “” をもたらすようになり、自ずと人は “” を行うようになるとしたのが、空海の説いた “密教” でした。

 それ故、空海は経典よりも修行を優先したのでしょう。

 ところが、キリスト教では、人間の心を惑わしているのは愛の神と断絶してしまった “” であって、神はその子イエスを十字架で犠牲にしてまでも全ての人々をその罪から救おうとされ、愛されてこられたので、他の人々にもそのように犠牲を厭わず愛しなさいと説いたのがキリスト教でした。

 キリスト教では、神の愛の下では全てが平等であるとしたのです。

 聖書では、

 ひとりの律法学者がきて、彼らが互いに論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した。
 「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
 イエスは答えられた、 「第一のいましめはこれである、 『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心を尽くし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
 第二はこれである、 『 (神が自分を愛するように (あなたは )あなたの隣り人を愛せよ』。 これより大事ないましめは、ほかにない」。
(マルコによる福音書12章28節〜31節)

 それに対して律法学者は、次の様に答えました。

 「 『 (私は) 心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また (神が) 自分を愛するように (私の) 隣り人を愛する』 ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。 (マルコによる福音書12章33節)

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 この様に、仏教では修業によって体の欲求を心が乗り越えることによって、精神本来の働きを強くして人間としてあるべき生き方に努めるとしたのに対して、キリスト教は、まず神によって愛されていることを明確に知って、その愛を隣人にも施すこととしました。

 しかし、仏教では善と悪の根本が理解できず、キリスト教はイエスが独身で十字架によって亡くなることで救いの目的がわからないままに “” 経過し、歴史がうずを巻いていくと、沈んでいた見えないものが浮き出てきて大きな変化と混乱をもたらしました。

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 それから、動物も雄と雌、植物も雄しべと雌しべ、鉱物も陽と陰からなっています。すべて主体と対象の関係をもっています。相克的な存在はなく、全部相対的な存在です。主体のない対象もなく、対象のない主体もありません。(「原理本体論」162ページ)

 あらゆるものが相対的になって、授け受けします。その作用を授受作用といいます。宇宙も授受作用をしながら、秩序を維持して存在します。動物と植物も同じです。
 花は自分の位置を離れることができません。しかし種をつけ、結実するためには、受粉しなければなりません。植物は自ら動くことができないので、花は香りを広めます。花が香りを漂わせれば、蜂と蝶々は香りにひかれて、深い山中の岩間に咲いている花一輪を見いだします。花は蜜を与え、蝶々は蜜を吸い、あちらこちらの花を飛び回りながら受粉をしてあげます。それが授受作用です。(「原理本体論」163ページ)

 相対というのは、一点から出発して、動機と目的と方向が同じものを意味します。(「原理本体論」160ページ)

 すべての存在は、授受作用を通して愛と美を授け受けします。主体は対象に愛を与え、対象はその主体から来る愛を受け、主体に情的な力である美を返します。愛と美を授け受けすれば、喜びが生まれます。愛の中にも美があり、美の中にも愛があるので、与える者もうれしいし、受ける者もうれしいのです。主体と対象がこのように授受作用を通して愛と美を授け受けすれば、喜びがもたらされ、その結果、幸せになるのです。神様の創造目的が喜びのためなので、あらゆる存在は相対的に存在し、授受作用するために存在します。(「原理本体論」161ページ)





即身仏について


 さて、 “密教の極み” とされたのが “即身仏” でした。

 “即身仏” は上記 「マルコによる福音書12章33節」 にある “燔祭と犠牲” そのものと言えるかもしれません。

 飢餓や疫病などに苦しむ人々の苦しみと恐怖を一身に背負い山に籠り木食行断食行をして、最後には己の身と引換えに衆生救済を一心に祈願しながら土中入定をして念仏往生したというものです。

 即身仏は、14世紀頃から始められるようになりましたが、当時の気候風土や医療に対する技術的、科学的、医学的状況さからは、天災による飢餓大流行した疫病などに対して手をこまねくしかなかった時代としては、これ以上にない慈悲の表現だったのかもしれません。


<参考>
 『日本の即身仏・ミイラについて』
 即身仏のページ
 湯殿山総本寺 瀧水寺大日坊



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