復帰摂理歴史の真実

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聖徳太子とその影響 <トップ> 空海と密教(前)

■ 1. 日本のはじまり
     b. 景教とその周辺



大秦景教流行中国碑 現代訳


 431年エフェソス公会議異端とされたネストリウス派は、聖霊の導きによって大秦(ローマ帝国シリア領)にたどり着くと、西方のキリスト教とは違った歩みをたどりました。

  (618-690、705-907) との親交があった大秦では、635年太宗皇帝 (第2代皇帝 626-649) の善政を耳にすると、優れた宣教師 “阿羅本” を向かわせました。

 太宗皇帝は歓迎すると、 “阿羅本” が携えてきた聖書を翻訳すると、638年には、皇帝が伝道を命じ、詔を発して公認されることとなりました。この頃から、大秦寺が京の義寧坊に建設されるなど、景教は瞬く間に広がりを見せました。

 次の高宗大帝 (第3代 649-683)の時もその意志が継がれ、景教の勢力は全ての都市に行きわたりました。


 高宗の皇后である則天武后 (武周皇帝 690-705) は、660年、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こして百済を滅ぼすと、倭国(日本)・旧百済連合軍と唐軍が戦った“白村江の戦い”にも勝利し、その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼすと、暴政と横暴が続き情勢は却って悪化しました。

 その後帝位に就くと、自らを“聖神皇帝”と称し、“弥勒菩薩”の生まれ変わりとして『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせました。

 「中国三大悪女」とされた則天武后が、仏教を擁護しキリスト教を非難するようになると、その傾向は仏教徒たちにも現れ、景教は一般庶民からさえも多くの中傷と罵倒を受けたとされています。


 その後、玄宗至道皇帝 (第9代 712-756) の時には、744年、大秦国の僧・佶和(ギワルギス)が来唐し、粛宗文明皇帝 (第10代 756-762) の時には、皇帝によって景教寺院を建てるなどされました。

 この様に、景教が栄えた唐の時代に一時期光が照らされた仏教が再び景教に影響されて、大きく変化した仏教を密教として日本に持ち込んだのが、唐時代の最期の時期に中国を訪れた空海でした。

 その後、中国は全土を統一できず、五大十国分裂の時代に入って行くようになり、中国は道教を取り入れると景教はその姿を失って行きました。


 さて、日本に景教が伝来されたのは、736年、景教徒で医者だった李密翳(りみつえい)というペルシア人宣教師が、皇室に景教を伝えたようとして来日したのが最初です。


日本景教研究会」参照





 藤原鎌足の次男であった藤原不比等は、第三夫人である賀茂比売(かもひめ)との間に藤原宮子を儲けると、歳若い文武天皇の後宮に入れ、文武天皇が18歳のとき首皇子である後の聖武天皇を生みました。

 さらに藤原不比等は、文武天皇の乳母をしていた橘三千代との間に安宿媛(光明子)を儲けると、聖武天皇の後宮に入れました。

 こうして、藤原不比等は天皇家に楔を深く打ち込んでいくことになります。

藤原不比等、光明皇后、元明天皇」参照


 崇仏派だった藤原氏は、天皇家にその影響を及ぼすようになった聖武天皇のころ、李密翳が日本に遣って来たのです。

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 ところで、680年天武天皇は、皇后の病の全快を願って薬師如来を祭る寺として「薬師寺」を建設しました。

 「医王」とも呼ばれる「薬師如来」は、自分の名を聞く者を病気から救う、と信じられていた仏です。

 薬師信仰は、キリスト信仰を仏教化したもので、薬師如来の周囲には「12の神将」が取り巻いていますが、これはイエスの12使徒を象徴していました。

 「いやし主」と呼ばれたイエスは、薬師如来と同じ「医王」として、たくさんの病人をいやす奇跡を行ってきました。


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 景教徒であり、医者だった李密翳の影響を強く受けたのは、聖武天皇 (左図) と光明皇后 (701〜760) でした。

 大秦景教流行中国碑につぎのようにありますが、・・・

 「高宗大帝(在位649〜683年)の時代に、皇帝はうやうやしく皇祖の意志を継いだ。真宗(景教)を敬い、広めた。中国の諸州に景教の寺を置き、その鎮国大法主(景教会の長)に阿羅本をすえた。
 福音は国の10区画(627年以後、国は10区画に分かれていた)に流れ、祝福が国に満ちた。景教の寺はすべての都市にあり、各家庭に景教の祝福(景福)があふれた。」



 聖武天皇は、この10区画に置かれた景教の寺をモデルとして、「国分寺」を建立しました。

 来日した景教徒たちは天皇から位を授けられると、皇室と親しく交わり、皇室は景教徒から多くの刺激を受けました。

 中でも光明皇后は、貧しい人々のために病院を建てたり、無料で薬を恵んだり、孤児院を造って孤児たちを養ったりするための、「療病院」(無料の病院、診療所)や、「施薬院」(無料の薬局)、「悲田院」(身寄りのない人々の保護施設)などを造り、皇后の身でありながら、そこで自ら看護師のようにして働いたと言われています。

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 奈良の法華寺には、光明皇后が温室(浴室)を建て人々に開放し、「私は1000人の垢を流そう」と誓い、999人の垢を流し終え、いよいよ最後の一人になったその人は、体の崩れかかったハンセン病患者でした。異臭の激しさに驚いた皇后は、最後のひとりと思い、背中をこすりにかかると、患者は「ある医者の話では、だれかに膿を吸ってもらえれば、きっと治るのだそうでございます。」 と話すと、ためらいのあった皇后は、心を決めて彼の膿を吸い出したという言い伝えが『元亨釈書』にあります。

 光明皇后は、その後 「慎んでこのことを人に話さないように」 と言ったようですが、これはマタイによる福音書8章1〜4節を思い起こさせる様な出来事です。

 ところで、この法華寺は、別名を 「滅罪寺」 と呼び、「罪を滅ぼす」 と言う概念が込められています。

 また、光明皇后の夫であった聖武天皇が建てた東大寺では、「悔過(けか)」 と言って、“過ちを悔いる” 「悔い改め」 の儀式が行われていて、もともと仏教には無かったキリスト教的概念です。

 このような滅罪悔過の立場に立ち、「景福」 と言う幸福を広める景教精神に対する感謝の思いを込めて、光明皇后は、奈良の春日大社に 「飛来天神社」 を造りました。





鑑真 (688〜763年6月25日) 奈良時代の帰化僧。

 754年鑑真は何度も日本へ渡ろうとしたが、暴風雨のため叶いませんでしたが、6回目でようやくその願いが叶ったのが66歳でした。

 『聖書』の「父なる神」を仏教化した東大寺の大仏を拝して、天皇の信任を得ると、日本に「律宗」を伝えました。

 律宗は戒律を重んずる宗派で、戒律を守ることが成仏の道だとする宗教です。

 その戒律は、僧侶250戎、尼僧348戎以上の戒律が厳しく定められて、まるでユダヤ教のパリサイ派を思い起こさせる内容です。

 鑑真もまた、光明皇后にならって、救済事業を行いました。




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