復帰摂理歴史の真実
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■ 第二章 ユダヤと失われた10支族
 第三節 失われた10支族の行方

1. 背信のイスラエル

「主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。
わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、
わたしはいつくしみ深い者である。
いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。
ただあなたは自分の罪を認め、
あなたの神、主にそむいて
すべての青木の下で異なる神々に
あなたの愛を惜しまず与えたこと、
わたしの声に聞き従わなかったことを
言いあらわせと、主は言われる。
わたしはあなたがたの夫だからである。
 ― 中略 ―
どのようにして、 あなたをわたしの子どもたちのうちに置き、
万国のうちで最も美しい嗣業である良い地を
あなたに与えようかと、わたしは思っていた。
わたしはまた、あなたがわたしを「わが父」と呼び、
わたしに従って離れることはないと思っていた。
イスラエルの家よ、
背信の妻が夫のもとを去るように、
たしかに、あなたがたはわたしにそむいた」と
主は言われる。(エレミヤ書3章12節〜20節)
聖歌66番「イスラエルよ帰れ」

  1. 背信のイスラエルよ
    わが許に帰り来よ
    裸の山に聞こえる
    イスラエルの民の声が
    悲しみ祈る声が

  2. 背信のイスラエルよ
    わが許に帰り来よ
    背きし罪責めじと
    主は涙流し給う
    許しの愛もて

  3. 見よわれらは帰らん
    主こそわれらが神
    今なつかしき名をば呼びて
    帰り仕えんわがふるさと、わが父

<参照>
 聖歌32番「帰れわが子よ」 66番「イスラエルよ帰れ」



 日本書紀と日本語のユダヤ起源 ヨセフ・アイデルバーグ/著 久保有政/訳
<著者からのコメント>
 「イスラエルの失われた十部族」は紀元前七二一年に捕囚の身となり、アッシリア帝国に連れ去られた人々である。じつはそれと時期をほぼ同じくして、今日「日本」と呼ばれる国に古代日本人が住むようになった。
 日本古代の伝統、宗教的儀式、歴史的な名前、俳句、また日本語に含まれるヘブル(ヘブライ)語起源の言葉、かな(ひらがな、カタカナ)、また日本の民謡までもが、すべて、「古代サマリア王国」(北王国イスラエル)と「スメラ王国」(日本)との間の強いつながりを示していたのである。



 (1) イスラエル捕囚当時の状況

  @ イスラエルの成立から分裂と捕囚まで

 イスラエル人の国家としての歴史は、紀元前1250年に始まります。そのとき指導者モーセに率いられたイスラエルの民は、エジプトでの奴隷状態から解放され、エジプトを脱出し、カナンの地に帰還するため40年に及ぶ旅を経て、イスラエルの民はカナンの地に入ったのです。その地はイスラエルの12部族に分割され、ゆるやかな連合体を形成したのです。(「イスラエル12支族」参照)
 その連合体の首都は、当時「シロ」の地にありました。エルサレムから北へ30kmほどの所です。そのシロで、12部族は毎年、祭を行い、議会を開き、戦争の際に彼らを導く「士師」もそこで選出されたのです。
 士師たちに導かれた約250年の後、イスラエル人らは王を立てて、王国を造ることを決意します。そこで預言者サムエルは、サウルをイスラエル初代の王に任命しました。当時、イスラエルの部族長たちの指導力は、まだ部族の枠内にとどまっていましたが、サウルは軍隊を率いて、勇敢にイスラエルの敵を打ち破ったのです。しかし、紀元前11世紀末に、サウル王はペリシテ人との戦いに敗れると、自ら重傷を負ってしまい、敵に捕らえられる屈辱を嫌って自害してしまいます。
 サウル王の死後、ダビデが2代目の王となって優れた指導力を発揮しました。その最初の仕事は、12部族を1つの旗のもとに統一することでした。彼はまたエルサレムを、エブス人の手から取り戻し、そこを全イスラエルの政治的・宗教的な首都としたのです。
 さらにダビデ王は、イスラエルの安全を脅かす周囲の国々と戦って、ペリシテ人を討ち、モアブ人を征服し、シリアの地に警備隊を置きました。かつて弱小だったイスラエルの国は、こうして次第に、東はユーフラテス川から、南はエジプトの境に至るほどの、巨大な王国に成長していったのです。
 しばらくして、ダビデに死が近づくと、息子ソロモンを立てて、全イスラエルの王に任命しました。ソロモン王は隣国との友好関係を築き、遠い国々との貿易のために船団を組織したのです。またエルサレムに壮大な神殿を築き、エルサレを重要な国際都市としたのです。
 しかし、古代イスラエル王国の栄光は、永くは続きませんでした。ソロモンの死後、彼の息子レハブアムが王となったのですが、そのときイスラエル12部族のうち10部族が、反旗をひるがえしたのです。彼ら10部族は自分たちの国を別につくったのです。そして紀元前931年ユダヤ暦8月15日に、10部族は独立を宣言しました。こうして統一王国だったイスラエルは、北王国イスラエル(10部族、首都はシケム)、および南王国ユダ(2部族、首都はエルサレム)に分断されたのです。そののち北王国イスラエルは、首都がシケムからサマリアに移されます。サマリアは約200年間存在しましたが、紀元前721年に、次のような出来事が起こりました。(「王国の分裂と滅亡」参照)

 アッシリアの王は攻め上って国中を侵し、サマリヤに上ってきて三年の間、これを攻め囲んだ。ホセアの第九年になって、アッスリヤの王はついにサマリヤを取り、イスラエルの人々をアッスリヤに捕らえていって、ヘラと、ゴザンの川ハボルのほとりと、メデアの町々においた。(列王紀下17章5節〜6節)


  A 失われた10支族の行方

 10部族の捕囚をなしたアッシリア王サルゴン2世(在位、紀元前722年〜705年)は、古代記録に次のように記しています。

 私、サルゴンは偉大で強大なる王。諸国を土の器のように打ち砕き、エジプトの谷から、広い西方の地、ヒッタイト人の地、また太陽の昇る遠いメディアの地に至るまでを征服した。……私は治世の初めに、サマリアの都を包囲、征服し、そこから27,290人の住民を捕らえ移した。また私の手が捕らえた諸国の民を、代わりにサマリアに住まわせた。(『サルゴンの年代記』より)


 サルゴン2世自身は、その年代記に、サマリアの人々をどこへ移したのかについて記していません。また、それを彼が(南王国)ユダの人々に語ったということもありません。では、サマリアの人々が「ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に」捕らえ移されたことを、なぜ聖書の記者は記すことができたのでしょうか。

<参照>
 ・ サマリア王朝の終焉PDF本サイト

  B イスラエル選民としてののアイデンティティ

 聖書、および他の古代記録をよく調べると、10部族は少なくとも捕囚時から800年間は、民族のアイデンティティ(同一性)を保持しながら、存在し存在し続けていたことがわかります。彼らは当時、決して「失われて」はいなかったといえます。聖書の歴代志には次のように記されているのです。

 イスラエルの神は、アッスリヤの王プルティグラト・ピレセル3世)の心を奮い起こし、またアッスリヤの王テルガテ・ピルネセル(ティグラト・ピレセル3世のこと)の心を奮い起こされたので、彼はついにルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族を捕らえて行き、ハウラハボルハラゴザン川のほとりに移して今日に至っている。(歴代志上5章26節)

注意 口語訳聖書では「ハウラ」と表記されていますが、新共同訳聖書では「ヘラ」とされています。また、「ハボル」は、パキスタンの北西部,アフガニスタンとの国境にあるカイバー峠の辺りのこと。


 歴代志は、紀元前400年頃記されたと信じられている。つまり当時も、イスラエルの捕囚民はまだそこにいたのです。サマリアの陥落と捕囚後、約320年たってもなお、彼らは部族としてのあり方を失っていなかったのです。
 また、西暦1世紀末に書かれた「エズラ第2書」(聖書外典)と呼ばれる別の書は、おもに黙示、幻を記した書物で歴史的に重要な記述も含み、神がエズラに見せてくださったという幻の内容について、こう説明されています。

 それからあなたは、平和な一団を集める者を見た。彼らは(イスラエルの)ホセア王の時代に捕囚とされた10部族である。
 かつてアッシリアのシャルマナサル王(サルゴン2世の前王で、サマリアを3年間包囲した)は、ホセアを捕虜とし、また10部族を川(ユーフラテス)の向こうの異国に捕らえ移した。しかしそれから10部族は、異教徒の住むその地から離れ、誰も住んだことのない遠い地へ行くことを決心した。かつて自国では守れなかった律法を、その地で守ろうとしたのである。
 彼らがユーフラテス川のほとりの細道に来たとき、至高者は奇跡を行なわれた。彼らが川を渡り終わるまで、川の源を止めたのだ。アルザレトと呼ばれる地域を通ったその旅は、1年半の長さに及んだ。以来、彼らはそこに住み、終わりの日まで住むであろう。しかし彼らが帰ろうとするとき、ユーフラテス川を渡れるように、至高者は再び川の源を止めるだろう。(エズラ第2書13章39節〜47節)


 エズラ第2書によれば、10部族は旅の途中で「アルザレトと呼ばれる地域を通った」とありますが、多くの学者は、この「アルザレト」(Arzareth)とはヘブル語の「エレツ・アヘレト」(arets aheret)であり、単純に「もう一つの土地」を意味すると考えられるとしています。
サマリアから日本への道
 しかし、私(『日本書紀と日本語のユダヤ起源』著者)はむしろ、「アルザレト」はアフガニスタン中央部の山岳地帯の名「ハザラジャト」(Hazarajat)のことだと考えます(上図参照)。
 そこは、聖書が10部族の捕囚地として記している「ハボル」や「ゴザン川」から、そう遠くはありません。「ゴザン川」(Gozan)とは、アフガニスタンの首都カブールの南西約120kmに位置する「ガズニ」(Ghazni)の町を流れるガズニ川のことと思われます。また「ハボル」(Khabor と発音される)は、カブールの東200kmの「カイバー」(Khyber)地方のことです。
 では、イスラエル10部族が「1年半」の歳月をかけて行った「誰も住んだことのない遠い地」とは、一体どこのことでしょうか。聖書によれば、かつてユダヤ人の一団がバビロン捕囚のあと、バビロンからエルサレムまで帰るのに4ヶ月かかったといいます。これと同様のペースで、エルサレムから出発してシルクロードを東方へ進み、1年半の旅をしたら、どこまで行けるかといえば、中央アジアまで行けるのです。ちょうどイシク湖(現キルギス共和国内)あたりまで行けます。そこは、古代には「ヘラ」(Khalakh と発音される)と呼ばれた地であり、「ハボル」や「ゴザン」(共にアフガニスタン東部)と共に、イスラエル10部族が連れ去られていったと聖書に記録された地です。

  C 中央アジアにしばらくいた10部族は、日本へ

 これまでの内容をまとめると、10部族はかつてアフガニスタンやキルギスあたりに、800年ほど住んでいました。中央アジアのこの地域には、ハルハ人(Khalkha)、ウイグル人、ウズベク人、トルクメン人などのモンゴロイド系民族が住んでいたのです。イスラエルの10部族は彼らとしだいに雑婚するようになり、モンゴロイド的な容貌に変化していきました。しかし容貌は変化しても、彼らの多くはイスラエル人としてのアイデンティティを持ち続けたままでした。
 また、自分たちの故郷へ、ときおりメッセージや挨拶も送ったとも思われます。それは頻繁ではなかったにせよ、その交信は、10部族がヘラやハボルの地域に住んでいる限りは続けられたのです。
 というのは、10部族の住むアフガニスタンやキルギスなどの中央アジアと、イスラエルの地は、シルクロードを通して結びついていたためです。そこには人や物、情報の往来があったため、ユダの地にいる兄弟たちとも、情報をやり取りすることができたのです。
 シルクロードは、だいたい紀元前2世紀頃に通商が開始されました。それは中国から地中海方面に絹を運ぶ隊商が行き来する、通商の動脈だったのです。多いときで年に12回くらいの行き来がありました。シルクロードは、中国東部の洛陽から、西に行って砂漠地帯を越え、さらにその先の巨大な「タクラマカン砂漠」の手前で、2ルートに分かれます。砂漠の北方を行くルートと、南方を行くルートです。
 南方ルートは、さらに西に行くと、ヤルカンドカイバー峠を通ります。北方ルートは、カシュガルカラクを通るのです。そして両ルートは、イランのマシュハドで再び出会います。そこからハマダンを通り、地中海方面へと通じています。
 また隊商はときおり、地中海沿岸からも出発しました。東へ行き、イランや、アフガニスタン北部を通り、パミール高原にある「石の塔」(タシ・クルガン)と呼ばれる地へ向かいました。そして中国方面から来た隊商と、商品の交換などを行ったのです。彼ら隊商はみな、ヘラ(カラク)や、ハボル(カイバー)を通過した上で、イスラエル人の領地を通らねばならなかったのです。ゆえに隊商の中には、イスラエル10部族から、ユダの地の兄弟たち(ユダヤ人たち)に対するメッセージを託された者もいたのです。
 こうして情報がもたらされた。西暦1世紀末にユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスが、10部族はユーフラテス川の向こうのどこかにいて、「巨大な群衆となっている」と書くことができたのも、そのためです。
 このようにヨセフスの記述、およびエズラ第2書から、私たちは、イスラエルの10部族と、ユダの地のユダヤ人たちとの交信は、少なくとも西暦1世紀頃までは続いていたと考えることができます。その後、イスラエル10部族は、日本への移動を開始しました。それにより、ユダの人々との交信は途絶え、10部族は「失われた」と考えられるようになったのです。

(以上の内容は、『日本書紀と日本語のユダヤ起源』から引用しています。)



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