復帰摂理歴史の真実
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
     a. 秀吉と天正遣欧少年使節


1. 天正遣欧少年使節の目的と構成

 1582年に九州のキリシタン大名である、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団のことで、イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案しました。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機は、日本語書物の活版印刷が初めて行われたキリシタン版と呼ばれています。

 (1) 目的
 ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明しています。
  1. ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的 ・ 精神的援助を依頼すること。
  2. 日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたい。
と、いうことでした。
 当時のローマ教皇は、グレゴリウス13世(在位:1572年〜1585年)でした。教皇位についた彼がまず全精力を傾けて取り組んだのは教会改革でしたが、1572年8月にフランスでサン・バルテルミの虐殺が起こってプロテスタント支持者たちが多数殺害されると、「テ・デウム」を歌って神を賛美し、記念メダルを作らせました。
 さらに1582年2月に、暦の切り替えの勅令を発すると、“新しい暦” をカトリックの国であるイタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランドなどで採用して、これまでのユリウス暦1582年10月5日グレゴリウス暦10月15日に改めるなどしました。
 なお、スペイン国王は、フェリペ2世。ポルトガルは、1581年から1640年の期間、スペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合” の状態にありました(スペイン帝国)。



 (2) 使節
  @ 中浦ジュリアン(副使)14歳
 中浦ジュリアンの父は肥前国中浦の領主中浦甚五郎大村純忠の家臣)とされ、ジュリアンは司祭を志して有馬のセミナリヨに学んでいました。帰国後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続け、1593年7月25日、他の3人と共にイエズス会に入会しました。1601年には、神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移ると(この時点で千々石ミゲルは退会)、 1608年に伊東マンショ原マルティノ、中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階されました。
 司祭叙階後は博多で活動していましたが、1613年に、領主黒田長政がキリシタン弾圧に乗り出したため、そこを追われ長崎に移りました。
 1614年の江戸幕府によるキリシタン追放令の発布時は、殉教覚悟で地下に潜伏することを選びました。ジュリアンは九州を回りながら、迫害に苦しむキリシタンたちを慰めていたのです。二十数年にわたって地下活動を続けていたジュリアンでしたが、1632年に小倉で捕縛され、長崎へ送られました。そして、1633年10月18日には、イエズス会員神父のジョアン・アダミアントニオ・デ・スーザクリストファン・フェレイラ、ドミニコ会員神父のルカス・デ・スピリト・サントと3人の修道士と共に穴吊りの刑に処せられました。穴吊りの刑は、全身の血が頭にたまり、こめかみから数滴ずつ垂れていくため、すぐに死ねずに苦しみもがくという惨刑でした。あまりの苦しみに人事不省の状態でクリストファン・フェレイラが棄教し、ほかの人々は教えを捨てずにすべて殉教しました。最初に死んだのは中浦ジュリアンで、穴吊りにされて4日目で65歳の10月21日のことでした。「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」 と最期に言い残したといわれています。



  A 原マルチノ(副使)12〜13歳
 両親共にキリスト教徒であり、司祭を志して、有馬のセミナリヨに入りました。
 帰国後のマルティノは当時の司祭の必須教養であったラテン語にすぐれていたため、宣教活動のかたわら、洋書の翻訳と出版活動にも携わり、信心書『イミタティオ・クリスティ』の日本語訳や『こんてむつすむんぢ』などを出版しています。渉外術にすぐれ、小西行長加藤清正とも折衝にあたり、当時の日本人司祭の中ではもっとも知られた存在でした。
 1629年10月23日に死去。遺骸は、マカオの大聖堂の地下に生涯の師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られました。



  B 伊東マンショ(主席正使)13歳
 1569年頃、日向国都於郡(今の宮崎県西都市)にて、伊東祐青と母である伊東義祐の娘の間に生まれました。
 伊東氏が島津氏の攻撃を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だったマンショは家臣の田中國廣に背負われ豊後国に落ち延びます。同地でキリスト教と出会い、その縁で司祭を志して有馬のセミナリヨに入りました。
 帰国後、マンショは豊前小倉を拠点に活動していましたが、1611年に領主細川忠興によって追放され、中津へ移り、さらに追われて長崎へ移りました。長崎のコレジオで教えていましたが、1612年11月13日に病死しました。



  C 千々石ミゲル(正使)13歳
 肥前国釜蓋城城主であった千々石直員の子として生まれ、父は肥前有馬氏の分家を開き、千々石氏の名を用いていました。肥前有馬氏と龍造寺氏の合戦で父が死に、1577年に釜蓋城が落城すると乳母に抱かれ、戦火を免れたと伝えられています。その後は有馬晴純の次男として大村氏を継承していた叔父の大村純忠の元に身を寄せていましたが、1580年にポルトガル船司令官ドン・ミゲル・ダ・ガマを代父として洗礼を受け、千々石ミゲルの洗礼名を名乗ります。これを契機にして同年、有馬のセミナリヨで神学教育を受け始めます。
 帰国後、千々石は次第に神学への熱意を失ってか勉学が振るわなくなり、また元より病弱であった為に司祭教育の前提であったマカオ留学も延期を続けるなど、次第に教会と距離を取り始めていました。また、欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られています。
 1601年、キリスト教の棄教を宣言しイエズス会から除名処分を受けます。千々石は棄教を検討していた大村喜前の前で公然と日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものであると述べ、主君の棄教を後押ししています。また藩士としても大村領内での布教を求めたドミニコ会の提案を却下し、更に領民に「修道士はイベリア半島では尊敬されていない」と伝道を信じない様に諭したと言われています。

<参照>
 天正遣欧少年使節と日本人奴隷



 (3) 随員

  @ 修道士
ジョルジェ・ロヨラ
日本人の修道士だが日本名は不明。使節の少年たちとほぼ同年代で教育係としてヨーロッパに同行した。リスボンで印刷技術を学ぶ。使節に伴って帰国の途中、マカオで秀吉のバテレン追放令を知り足止めを食らう。1589年9月、そのマカオで客死した。
オリヴィエーロ

  A 神父
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
インドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残った。
ヌーノ・ロドリゲス
ヴァリニャーノの後をついで一行に従います。
ディオゴ・メスキータ
通訳、イエズス会員。
ロレンソ・メシア

  B 印刷技術習得要員
コンスタンチノ・ドラード
日本人少年。1590年、グーテンベルク式活版印刷機を持って帰国した。
アグスチーノ
使節の随員。肥前国大村(現在の長崎県大村市)出身。イエズス会に入らなかったため、はっきりした生没年やその他詳しいことは不明。
<参照>
 天正遣欧使節とは



 (4) ローマにて
1585年3月23日
ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられる。(右図)
1585年5月1日
グレゴリウス13世の後継シクストゥス5世戴冠式に出席。
1585年6月3日
ローマを出発。



 (5) 使節団帰国後の秀吉

 天正遣欧少年使節の一行は、中国のマカオで大友宗麟・大村純忠の死と豊臣秀吉のバテレン追放令の公布を聞き愕然とします。これに対して、ヴァリニャーノはインド副王使節の名目で、また使節が各地で贈られた豪華な品々を秀吉に贈呈することを画策すると、これが秀吉の心を和らげ、秀吉から応諾を得て帰国することができました。
 1590年7月21日、実に8年半ぶりの帰国となり、20歳を越えていた彼らはたくましく成長し、母も息子を見間違えるほどでした。この時、遣使者として唯一健在していた有馬晴信の歓待を受けました。
 1591年3月3日、京都の聚楽第で豊臣秀吉と謁見。この様子をルイス・フロイスが次のように記録しています。

 秀吉が伊藤マンショに、「余に仕える気持ちがあれば十分な俸禄を与えるぞ。」と言うと、伊藤マンショは、「私はヴァリニャーノ神父にわが子のように育てられました。師のもとを去っては恩を忘れたことになります。」と、答えました。これに対して秀吉は、「なるほど、その通りだ。」と返すと、次に秀吉は千々石ミゲルにこう尋ねました。「汝は有馬家のものか?」。これに対して、千々石ミゲルは有馬家に迷惑になると考え、「千々石の出身です。」と答えました。さらに秀吉は、「千々石は有馬殿の領地である、有馬家の親戚か?」との問に対して、千々石ミゲルは仕方なく「父が遠縁のようです。」と答えました。秀吉は、「彼ら九州の諸侯はバテレンと親しく交わっているようだな…。」と感想を述べています。
 4人は西洋から持ち帰った楽器でジョスカン・デ・プレの曲を演奏すると、秀吉は大いに喜び「汝らが日本人であることをうれしく思うぞ」と終始ご機嫌であった。




2. 南蛮貿易と奴隷売買
 (1) 南蛮貿易
 1543年、種子島にポルトガル船が到来すると、日本の商人はポルトガル船との交易を歓迎し、ポルトガル領マラッカ(1511年〜1641年)から日本に訪れるようになる。1557年には、ポルトガルが中国大陸南岸の珠江河口(珠江デルタ)に位置するマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国()・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。この頃日本への貿易品として、カボチャ・スイカ・トウモロコシ・ジャガイモ・パン・カステラ・タバコ・地球儀・めがね・軍鶏などがもたらされました。
 また、火縄銃は、1543年、ポルトガル人フェルナン・メンデス・ピントが中国船で鹿児島県の種子島に漂着し、その際最初の3丁の銃が日本に輸入され、地名を取って火縄銃を「種子島」と呼ぶようになりました。
 各地の大名は伝来当初、この新兵器の実力を疑問視していましたが、合戦でその効果が証明されるとこぞって生産を始めました。火縄銃は世界的に見ても異常な速度で日本全土に普及し、主要な兵器となったのです。当時の日本の銃の保有量はオスマン帝国と並んで世界最大規模だったと推定されています。

 (2) 奴隷売買
 ところで、問題なのは “火薬” です。火薬の原料として中国産の硝石を輸入していた日本は、火薬一樽を50人の娘と交換して、海外で奴隷として売却していました。鬼塚英昭著 「天皇のロザリオ」(p249〜p282)には、

 「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし。」
 「行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている。」


と、述べられています。
 また、ローマに派遣された天正遣欧少年使節の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕していました。

 「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
 「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」


といったやりとりが、使節団の会話録に残されています。
 豊臣秀吉によって、「伴天連追放令」が発布されたのは、天正遣欧少年使節が帰国する3年前の1587年6月18日のことでした。



3. 天正遣欧使節の往復行路
【往路】長崎マカオマラッカコーチンゴアセントヘレナ島リスボン
(下図)→ シントラエヴォラヴィラヴィソーザグアダルーペトレドマドリードエスコリアールアルカラべルモンテムルシアアリカンテアルクディアリヴォルノピサフィレンツェシエーナローマ

【復路】ローマアッシジロレトイーモラボローニャフェラーラヴェネツィアパドヴァヴィチェンツァマントヴァミラノジェノヴァバルセロナモンセラートアルカラマドリードトレドヴィラヴィソーザエヴォラリスボンコインブラバタリヤ
(上図)→ リスボンモザンビーク島ゴアマラッカマカオ長崎


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