復帰摂理歴史の真実
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
     d. 細川ガラシャと修道士


1. ガラシャの覚悟とその愛

細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯(安廷苑 著 / 中公新書)
 明智光秀の娘として生まれ、細川忠興の妻として非業の死を遂げた細川ガラシャ。神父に宛てた書翰をはじめ、海の向こうのイエズス会史料にも、彼女の記録は遺されている。本書は、それらの史料をひもとき、ガラシャの生涯に新たな光をあてる、意欲的な試みである。父光秀の謀叛、秀吉によるバテレン追放令、関ヶ原の戦い直前に襲った悲劇。キリシタンでありながら最後に死を選択した、彼女の魂の真の軌跡に迫る。


 (1) 細川ガラシャ
  @ 細川忠興との結婚
 明智たまたま)は、1563年に明智光秀の三女として越前国に生まれました。母は妻木範煕の娘・煕子ひろこであったとされています。光秀は越前朝倉氏に仕えていて、“たま” が9歳の時、光秀は信長から坂本を拝領して城を構えるようになりました。
 細川忠興の父である細川藤孝は、将軍足利義晴の側近三淵晴員はるかずの次男・萬吉として京都に生まれました。萬吉は、足利義晴の命によって細川元常の養子となり、1546年の元服時に足利義輝のいみな義藤の「藤」を受けて、藤孝と名乗ることとなりました。1563年、細川藤孝の長子として忠興が京都で生まれました。
 1578年、織田信長の命を受けて、光秀の娘 “たま” と藤孝の息子・忠興が結婚。“たま” と忠興は双方数えで16歳でした。翌1579年には長男の忠隆が生まれています。

  A 光秀の謀反と味土野への幽閉
 1582年6月21日、明智光秀による本能寺の変が起こりました。このとき織田信長は、弓や槍で戦いましたが、腕に槍傷を受け御殿の奥に入るとすでに火がかけられていて、信長はなかから納戸の戸を閉めて切腹しました。この事によって、20歳の “たま” の運命は、謀反人の娘として一変してしまったのです。
 本能寺の変の後、“たま” は、夫の忠興が「御身の父光秀は、主君の敵なれば、同室叶うべからず」と言って、“たま” を味土野に幽閉しました。このとき “たま” は妊娠していて、味土野で次男・興秋を生んでいます。味土野には、一色宗右衛門という浪士、小侍従という侍女2人が付いていました。“たま” が味土野に幽閉されている間、忠興は側室に “”(郡宗保の娘)を迎え入れ、1582年10月には “古保こほ” と言う娘が生まれています。
 1548年、秀吉から(復縁の)許しがあり、2年の幽閉から解かれると、“たま” は細川家に帰還しました。

<参照>
 安部 龍太郎・作『味土野へ』〜ガラシャ物語より

  B 忠興の警戒と、“たま” の洗礼
 味土野から細川家に戻ることを許された “たま” は、大坂城下の玉造にある細川邸と宮津城を居所とする生活を送っていました。1586年には、三男・忠利が誕生しています。
 忠興が不在中に秀吉が “たま” 言い寄ってくることを警戒して、忠興は “たま” に和歌を送りました。(『細川ガラシャ』p40)
 なびくなよ我がませ垣をみなへし 男山より風は吹くとも
 (なびいてはならない。我が家の垣根に咲く女郎花よ。たとへ男山から風が吹いたとしても) 

これに対して “たま” は次のような歌を返しました。(『細川ガラシャ』p40)
 なびくまじ我れませ垣のをみなへし 男山より風は吹くとも
 (なびきません。私は垣根に咲く女郎花ですから。たとえ男山から風が吹いたとしましても) 

 “たま” は、忠興の命によって、依然として軟禁状態を強いられていました。1987年、忠興は秀吉の九州平定のため出陣して屋敷を留守にすることとなりました。なお、この年には伴天連追放令が発布されています。
 イエズス会は布教に関する記録を、ローマの本部に大量に書き送るような修道会であったため、“たま” の生涯において表に出てくることの多くは、イエズス会の記録に拠るしかありません。
 細川家は禅宗に帰依していましたが、彼女は、禅宗によっては自らが救われないことを感じていました。そのような中で、1587年の復活節の時に、“たま” は大坂の教会を訪ねました。夫忠興から外出を禁じられていた “たま” にとって生涯でたった一回の教会訪問でした。そのときの様子を、アントニーノ・プレネスティーノは次の様に記しています。

我々に最も勇気と慰めを与えたのは、丹後国の越中殿[細川忠興]の夫人の改宗であった。この夫人は明智[光秀]、すなわち信長を討ったあの有名な将軍の娘である。彼女は、霊魂の不滅を否定する日本の宗派に属していた。それゆえ、この夫人は深く憂愁に閉ざされ、ほとんど現世を顧みようとしなかった。夫人の態度は、夫を心配させることが少なくなかったので、二人はしばしば言い争っていた。越中殿は[高山]右近殿と親密な間柄であった。越中殿は、右近殿から神とキリスト教に関する様々な話を聞き、この問題について夫人に語った。それは全く初めて聴く話であった。しかし、夫人は、大変な理解力と聡明さを備えた人だったので、聴いたことを時折熟考し、問題をより根本的に知ることを切望するようになった。けれども、夫人はこの気持ちを全く夫に漏らさず、願望を満たす好機が来るのを待っていた。ところが、夫が関白[秀吉]に従って薩摩[島津義久]攻略の戦のために留守であるのを幸いに、屋敷を抜け出ることを思いついた。しかし、この国の習慣に従えば、夫の不在中に夫人は警護を受けていて自由に外出することは許されない。そこで、夫人は、この屋敷に忠実に仕えている数名の侍女と相談し、自ら病気と偽って一室に引き籠り、侍女以外の面会をすべて禁じた。そして、警護の者たちに気づかれないように侍女たちを伴って屋敷を抜け出した。警護の人々は、夫人を通常の侍女の仲間と思い込み、全く怪しまなかった。夫人は、数人の侍女を連れて大坂の我々の聖堂に着いた。そして、名を明かさずにある宣教師に乞い、長時間その教示を聴いた。夫人は、賢明かつ謙虚な態度であり、異論を立てたりはしたが、それは以前から疑問に思っていたことやその場で思ったことだった。(『細川ガラシャ』p45〜p46)


 “たま” 教会を訪問したとき、対応したのはグレゴリオ・デ・セスペデスでした。彼は、スペインのマドリード出身のイエズス会士で、東アジアの布教を志して1575年にインド経由でマカオに到着、1577年に来日して、文禄の役で朝鮮に出兵している日本人の司牧を行なうため、宣教師として初めて朝鮮半島に渡った人物です。
 セスペデスは日本人修道士の高井コスメが教会に戻ってくるまで “たま” をかなり待たせていました。彼女はコスメから聴いたキリシタンの教えの内容に満足すると、その場で洗礼を受けることを希望したのです。

 夫人は、大変満足して洗礼を望んだ。しかし、当時かの地 (大坂) に滞在していたセスペデスは、この夫人に洗礼を授けるのは適当ではないと思った。それは、この夫人が関白秀吉の夫人の一人であると考えたからである。しかし、のちに彼女が忠興殿の奥方であるとわかったとき、我々は大変喜んだ。(『細川ガラシャ』p52)


 しかし、彼女が洗礼を受けることを強く希望しましたが、セスペデスは、この時点でそれを認めていませんでした。

  C ガラシャの受洗
 “たま” は、侍女を教会に派遣して信仰に関する疑問を質したり、贈物を届けたりしていました。また、キリシタンの教えを日本語で記した書物を送るよう願いを届けてもいました。その願いによって 「ジェルソンの書」 を受け取ると、屋敷でそれを侍女たちと講読していました。
 「ジェルソンの書」 とは、キリスト教の信仰生活について述べた著作で、当時、ヨーロッパで広く読まれていた 『キリストに倣いて』 または 『コンテムツス・ムンヂ』 のことです。
 さて、“たま” への授洗は、オルガンティーノの指示によって、すでに洗礼を受けていた侍女・清原マリヤを介して行なわれることになりました。侍女・清原マリアは、朝廷の要職である外記だった儒学者・清原枝賢の娘の「いと」であると考えられています。オルガンティーノは、侍女マリヤを介して洗礼を授けることを決め、教会でマリアに洗礼を授ける手順を教え、マリアが屋敷に戻ってから司祭に代わって洗礼を授けました。こうして “たま” は、「ガラシャ」という洗礼名を与えられました。ガラシャに洗礼を授けた侍女マリアは、洗礼を授けることは司祭の役務であり、代理とはいえ彼女がそれを行なった以上、自らが司祭と同様に生涯貞潔を守るべきであると考えて、自ら生涯結婚しないことを決意して剃髪しました。

<参照>
 近世日本におけるキリスト教伝道の一様相 (京都大学教授 狹間芳樹 : PDF / 本サイト
 バルザックにおける『キリストにならいて』(早稲田大学助教 大須賀沙織 : PDF)

  D 夫忠興とガラシャ
 ガラシャがセスペデスに宛てた書翰

タケダ・サンチョがここに参りましたので、私は、パードレ[司祭]方とイルマン[修道士方]についての知らせを受けました。何よりも私が喜ばしく思ったのは、全員が日本を立去らないと決意したことを知ったことです。なぜならば、これによって、私も勇気が増し、当地に戻る方々と会える希望が強くなったからです。私について申しますと、尊師もご承知の通り、私がキリシタンになったのは人の説得によるものではなく、私が出会った全能かつ唯一の神の恩恵と慈悲によるものです。そのお方によって、天地は動いており、たとえ草木がなくなることがあっても、私が神を信じる気持ちは動くことはありません。パードレ方の迫害に続発する私どもへのこの誘惑の出会いはとても大きなものですが、神に対するよきキリシタンの信仰はそこで証明されます。司祭方の出発後、私は苦労に事欠きませんが、すべてにおいて神が恩恵と扶助を授け給います。(三歳の男の子である)二番目の息子が重病になり、生命の希望が完全になくなり、私は彼の霊魂が失われることを悲しんで、彼に何をすべきかマリアに相談し、私どもは、最善の方法は彼を作り給うた神にお委ねすることであると考えました。そこで、マリアが密かに彼に洗礼を授け、彼をジョアンと名づけました。その日からすぐに彼は回復し始め、すでに完全に健康です。越中殿[忠興]は、戦から帰った後(そのやり方には容赦がありません)、(洗礼を受けている)私の子供たちの乳母の一人を、些細なことによって捕えると、その耳と鼻を切り取って追い出しました。その後、別の二人の髪を切り、三人がキリシタンであるからと追い出しました。私は、彼女たちが必要なものをすべて都合するよう世話しており、信仰を堅持するよう励ましています。数日前、越中殿は、丹後国に赴きましたが、出発前、「帰宅後に屋敷内で取り調べをするつもりだ」と私にいいました。私たちが抱いている懸念によれば、神の教えについての事柄と、家中にキリシタンになった者がいるかどうかに違いありません。私とマリアは、越中殿によるものであっても関白殿によるものであっても、いかなる迫害が続発しようとも準備ができており、神への愛のために、このことについて苦痛を受けられることに喜んでおります。私は、つねにパードレ方の知らせを聞くことを願っております。私たちの主がこの子供たちを救うよう私を助けるために、彼らを当地にお戻しなられんことを。私は、尊師に、持参者がいる時は私に書翰を送り、励まし、祈りとミサの際、神に私を委ねられんことを切望します。私と共にいるキリシタンは全員が強く、もし私たちがそれほど偉大なことに値するならば、殉教者となるよう説いています。大坂より、11月7日。(『細川ガラシャ』p79〜p80)


 伴天連追放令が発布されたなかで、忠興は、ガラシャがキリシタンに改宗することを危惧していました。忠興は、ガラシャが改宗したことをまだ把握していなかったのです。
 この頃ガラシャは、忠興との離婚を考えていました。忠興はキリシタンを嫌っており、ガラシャが洗礼を受けたことを知れば秀吉の命令に従って迫害者となる可能性がありました。
 ガラシャがオルガンティーノに離婚の是非について相談していました。

悪魔は、夫から受けている妨害と混乱によって、彼女に救いが訪れないとささやき迫害している。このことについて、彼女は一通の書翰を寄越したが、それが私にとって大きな心配以上のものとなっている。なぜなら、彼女が司祭たちのいる西国さいこく地方に行きたいと述べているからである。そうなれば我々に対する迫害の炎は増大し、わずか数日ですべてを破壊してしまうことになる。これは、この五畿内のキリシタンたちも心配していたことである。(1588年5月6日のオルガンティーノの書翰 :『細川ガラシャ』p89)


 オルガンティーノは、忠興と離婚したいというガラシャを説得して離婚を思いとどまらせようとしました。

私は、使者と書翰によって、彼女の決意を思いとどまらせるのに大変苦労した。だが、ついに彼女はあることを理解し、我々の主に奉仕することにした。あることとは、私が他の事柄で記した「ジェルソン」の「一つの十字架から逃れる者は、いつも他のより大きい十字架を見出す」である。その結果、彼女は、落ち着いた。書翰や伝言によれば、我々の主である神が[彼女の]霊魂に対する恩寵を増大させたことが明らかなので、彼女が気持ちを変えることはないと思われる。(『細川ガラシャ』p90)


 「コリント人への第一の手紙」7章15節にある、「しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておくがよい。兄弟も姉妹も、こうした場合には、束縛されてはいない。神は、あなたがたを平和に暮らさせるために、召されたのである」と言う “パウロの特権” によれば、忠興の方から改宗したガラシャとの同居の意思がないため離婚を申し出た場合でも、ガラシャの方からの離婚は適応されないため許されないことでした。

<参照>
 離婚に関するキリスト教の見解

  E ガラシャの死に対する宣教師の苦悶
 慶長の役の最中に秀吉が死去するとたちまち情勢は不安定さを増し、関が原の戦いが始まる直前の1600年、細川忠興は徳川家康率いる東軍に合流するため大坂の屋敷を後にしました。

越中殿[忠興]は、名誉をきわめて重んじる人であったので、家を離れる時には、他の家臣たちにもまして小笠原殿と呼ばれる屋敷の警護を担当する主要な者に、もし留守中に何か反乱が起きて奥方の名誉に危機が生じたならば、日本の慣習に従って、まず奥方を殺し、次いですべての者が切腹して死を共にすべきであると命じていた。(1600年10月25日付、ヴァレンティン・カルヴァーリョ執筆の「一六〇〇年の日本年報」:『細川ガラシャ』p125)


 ガラシャは洗礼を受けて以来、オルガンティーノに信仰に関する質問をしてきましたが、そのなかには自殺の是非を質問しています。オルガンティーノは、自殺は神に対する重大な罪であるから、夫忠興がガラシャに自殺するよう命じたとしても自殺してはならないと答えていました。しかし、ガラシャは最期を迎える直前、オルガンティーノに多数の質疑を書翰で行なっていました。この時点で、ガラシャは死ぬことをすでに覚悟していて、この死がキリシタンとして許されるかどうかを知りたがっていたのです。これに対するオルガンティーノの回答に満足して、ガラシャは最期を迎えています。
 オルガンティーノは、“死が回避できない状況で、自身の名誉を守るためであるならば、介錯などによる自殺は必ずしも罪に当たらない” とするアレッサンドロ・ヴァリニャーノと同じ見解を採りました。ガラシャには日本の戦国武将の自殺に関する見解が適用可能であると考えられたのです。それは、「ジェルソンの書」に引用されていた「マタイによる福音書」16章24節のキリストの言葉でした。

 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」(マタイによる福音書 16章24節〜25節)


  F 「霜女覚書」とその後
 石田三成は大坂の細川家の屋敷に、細川家と縁のある比丘尼びくにを使者として派遣して、ガラシャに人質になるように内々に頼んできましたが、ガラシャは、どのようなことがあっても同意できないと断っています。
 そこで、三成は強攻策に出て、正式な使者を派遣してガラシャを人質に出すことを要求し、応じなければ武力を行使することを通告しました。
 「霜女覚書」、正式名称 「秀林院様御はて被成候次第之事」。1648年、肥後熊本藩二代藩主細川光尚が自身の曽祖母にあたるガラシャの最期のことを知りたいと、家老米田監物の縁者である「」に当時の状況を書かせました。

昌斎[少斎]・石見・稲富の両人が談合して、稲富が表で敵を防ぎ、その隙に奥方様が最期を迎えられるよう話し合われましたので、稲富は表門に居ました。その日の夜の始め頃、敵が御門まで寄せてきました。稲富はその時、心変わりをいたし、敵と一緒になりました。その様子を昌斎が聞き、もはやこれまでと思い、長刀を持ち、奥方様の御座所へ参り、「今が御最期でございます」と申し上げました。内々に申し合わせた事でございますので、与一郎[忠隆]様の奥方様を呼んで一箇所で果てようということで、御部屋へ人を遣されましたが、[奥方様は]もはやどこかにお引きになられたのかいらっしゃいませんでしたので、御力なく果てられました。長刀で介錯しました。(『細川ガラシャ』p129〜p130)


 キリシタン資料では、次の様に記されています。

ガラシャは、祈り終えると、気を取り直して礼拝堂から出て、彼女といる侍女や女性たちに、自分一人で死にたいといって、退去するよう命じた。それは、彼女の夫が命令していたことである。侍女たちは、そうした場合は主人と共に死ぬことが日本の慣習でもあるから彼女と共に死にたいといって、退去することを拒否した。ガラシャは、家臣たちから深く愛されていたので、家臣たちが彼女に死のお供をすることを望んだが、奥方は、無理に屋敷の外に逃げさせた。その間、家来たちは共に全部の部屋に火薬を撒き散らした。彼女たちが屋敷を出た後、ガラシャは、ひざまずいて何度もイエズスとマリアの御名を繰返し唱えると、頸を露わにした。その時、一刀のもとに首が切り落とされた。家来たちは、彼女に着物を掛け、その上にさらに多くの火薬を撒き散らし、奥方と同じ部屋で死ぬことはできないといって、本館に退去した。そこで全員が切腹したが、それと同時に火薬には火が付けられ、これらの人々と共にかくも華麗で美しい屋敷がすべて灰燼かいじんに帰したのである。侍女たちはみな泣きながら、そのことがどう起きたかをオルガンティーノ師に話しに赴いた。司祭と我々はみな、この地方のキリシタン教界にとって、あれほどの夫人、あれほどの稀有な徳の模範である人を失ったことによって、深い悲嘆に暮れた。(『細川ガラシャ』p133〜p134)


 ガラシャが壮絶な最期を遂げた時、夫の忠興は嫡男の忠隆、次男の興秋、弟の興元と共に、会津の上杉景勝討伐のために東下していた家康軍のなかにいて、大坂を離れていました。三男の忠利は、人質として家康のもとに出されていて、忠興がガラシャの死の知らせを聞いたのは、三成挙兵の報を受けて会津進攻から反転した家康軍が、大坂へと進軍するなかでのことでした。
 屋敷から脱出した侍女たちが、大坂に潜伏していたオルガンティーノにガラシャの最期を報告しました。知らせを受けたオルガンティーノは、細川の屋敷にキリシタンの女性たちを向かわせると、ガラシャの遺骨や遺品、信仰を証明する聖遺物を見出しました。
 オルガンティーノは、ガラシャの葬儀と埋葬を執り行いました。
 その後、忠興の弟、息子、二人の娘がキリシタンとなり、忠興がガラシャの一周忌を営むことになりました。キリシタン教会に好意を示すようになっていた忠興はキリシタン教会の方法で執り行いました

イエズス会の日本人の修道士[イルマン・ヴィセンテ]が説教を行なった。彼は、大変博識であり、異教徒たちの諸宗派に精通しており、大変典雅な言葉を使う。彼は、サン・ジョアン[聖ヨハネ]の言葉「主において死する者に幸あれ」を主題とした。そして、来世における確かな救済と処遇があるものとして、我々の霊魂の不滅を重々しく説いた。彼は説教の最後に、ガラシャの徳と善き死について述べたところ、越中殿[忠興]とその家臣たちは感きわまり、涙を抑えることができず泣きぬれた。(『細川ガラシャ』p179〜p180)


 秀吉の死後、キリシタンに対する迫害は緩められていきました。
 人質生活が長かった忠利は、徳川秀忠に気に入られ、彼を嫡子とするよう忠興に勧めたため、細川忠興は1620年、三男の忠利に家督を譲ると、剃髪して三斎と号して隠居しました。


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