復帰摂理歴史の真実 |
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛 e. 慶長奥州地震津波と慶長遣欧使節 1. 伊達政宗の構想とローマ教皇 (1) 震災から復興へ @ 慶長遣欧使節の経緯
A 慶長奥州地震津波 <参照> ・ 1611年慶長奥州地震・津波を読み直す (東北大学東北アジア研究センター 教育研究支援者 蝦名裕一 : PDF / 本サイト) 慶長16年10月28日、1611年12月2日に発生した地震(マグニチュード8.1)で、通称「慶長三陸地震」または「慶長三陸津波」と言われています。その前後の大津波は、以下の通りです。
(2) 徳川家康と伊達正宗とソテロ @ 支倉常長 支倉常長(1571年〜1622年8月7日)は、1571年に山口常成の子として羽州置賜郡長井荘立石邑(山形県米沢市立石)に生まれます。その後、伯父支倉時正の養子となりますが、時正に実子・久成が生まれたため、政宗は時正の1200石の俸禄を二分して、600石ずつとし、常長に分家を立てさせました。 常長が支倉の養子となって、1200石の家禄を継ぐはずであったのに、実子が生まれたというので600石ずつに格下げして分家された処置を恨んで山口常成が若い政宗に抗議しました。これに対して、正宗は閉門を言い渡しておきましたが、いよいよもって不届きを犯したため切腹を申し付けました。このとき常長は俸禄を召し上げられ追放となりますが、政宗は常長が名君の素質をもっていたので、自分の処置が名門の武士の気位を害する不適切なものであったことを反省して、一旦は追放した常長を呼び返し、600石をもって側近として重用しました。 1591年、常長は大崎葛西一揆の鎮圧にあたった武将の一人であり、翌1592年には、文禄の役に正宗と共に日本海を渡った人物です。 A ソテロはイエズス会からフランシスコ会へ 1608年、徳川家康が駿府に隠居すると、フィリピンとの通商条約を締結して、相模国の浦賀港がメキシコに渡るスペイン船の寄港地とされました。さらにウィリアム・アダムス(日本名は三浦按針)に西洋式の帆船の建造を命じ、オランダ、イギリスに朱印状を与え、両国との通商を開始しました。このときは、キリシタンの布教を禁止し、宗教を通商の条件にしないなどの制約がありました。 当時日本からフィリピンへの輸出品は、小麦粉、塩、干果物、釘、銅、硝石、その他軍需品が主力でしたが、メキシコの輸出品は、布類、絹布、藍、洋紅、毛織物、コルドバ皮、干果物、ぶどう酒などでしたが、通商よりもカトリックの布教を望んでいたドン・ロドリゴは、メキシコ市場を開放することの見返りとして、家康がカトリック布教公認することを目論み、1609年10月29日に駿府で家康と謁見したロドリゴは「三箇条の請願書」を提出しました。
本田正純は、返書を渡した後、家康の言葉を伝えました。
ソテロは1603年の来日以来、イエズス会の伝統と強い基盤の前に、成す術を失いかけていましたが、ロドリゴの提案を実現させて、東日本にフランシスコ会の布教基盤を確立しようと考えました。ソテロが、家康の重臣で幕府の通商関係の責任者である後藤正三郎に提出した協定文案は次の内容です。
これに対して家康は、条項四・五・六・七を削除、条項一・三は一部削除、条項二は承認し、新しい三条項を付加えました。
ところで、マルコポーロの東方見聞録に伝わるジパングから、ロドリゴは次の様に日本を観ていました。
ロドリゴらが日本の船を借り、無事に帰国できたお礼のためと言い、1611年にスペイン国王フェリッペ3世は、駿府の家康のところにセバスティアン・ビスカイノ大使を正式に外交官として派遣しました。ビスカイノの本当の来日の目的は、日本近海にあると伝えられていた「金銀島」の発見や、スペインが将来日本を侵略するために、日本の島や港として使える場所を測量することでした。 <参照> ・ 江戸のオランダ人 (元別子銅山文化遺産課長 坪井利一郎 : PDF / 本サイト) B 正宗のビスカイノとソテロとの出会い (@)ビスカイノ ビスカイノは、1611年3月22日にヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコを発ち、同年6月10日浦賀に入港します。6月22日に江戸城で徳川秀忠に謁見し、8月27日に駿府城で家康に謁見します。家康から日本沿岸の測量についての許可は得ると、11月8日に仙台に着き、11月10日伊達政宗に謁見し、11月27日から奥州沿岸の測量を始めました。12月2日、気仙郡越喜来村(現大船渡市)沖を航海中に慶長奥州地震の大津波に遭遇しましたが、海上にいたため被害はありませんでした。 次いで南下し九州沿岸まで測量を行い、日本沿岸の測量を終えると、1612年9月16日に家康、秀忠からビスカイノが返書を受け取り、「サンフランシスコ号」でヌエバ・エスパーニャへの帰途に向かいました。帰途の途中にもう一つの目的である「金銀島」を探しますが発見できず、11月14日に暴風雨に遭遇して、船が破損したので浦賀に戻ることになりました。伊達政宗がヌエバ・エスパーニャに正式な使節を送ることについて家康を説得すると、1613年、幕府が新造した船でメキシコへ出発しましたが、この船も暴風雨で難破してしまい、再度浦賀に戻ってしまいました。サン・フランシスコ号も幕府の船も使い物にならなくなったので、伊達政宗が船を新造することになったのです。ビスカイノの帰国は、ルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号(右上図)に同乗してのこととなりました。 (A)ソテロ ところで、ソテロの方は、伊達政宗の側室の病気の治療をきっかけに出会いました。1610年、ソテロの教会堂に伊達家の勘定奉行が訪ねてきました。何故ここに彼が来たかというと、政宗は側室の中でも異国人の女性をもっとも愛していたとも言われていますが、その女性が病になり日本人の多くの医師達に診てもらったのですが一向に良くならず、往診を頼みに来たのでした。ソテロの命令で教会堂付属病院の医師であるペドロ・デ・ブルギーリョス修道士が江戸の仙台屋敷に行き、女性は全快しました。政宗は感謝のしるしに治療代に加え、金・銀の延べ棒や絹地、衣装を贈りましたがソテロは受け取りませんでした。それは、「宣教師が治療するのは利益の為では無く、神の愛そして隣人の愛の為に治療するのです」と断ったのです。政宗にとって、贈り物の拒絶は初めてのことで驚き、ソテロとその医師に会見を申し入れます。ソテロとブルギーリョス医師は献上品として、パンを50個、ローソク30本、薬剤になるチョウジ3斤(1.8キロ)、コショウ3斤を持って、仙台屋敷に参上したのです。ソテロが日本語を話すことを知って、正宗は長時間語り合うと、領内における布教活動も許しました。1613年、ソテロは布教が禁止され捕らえられますが、伊達政宗の助命嘆願によって赦されます。 その後正宗は、仙台藩独自でどんな荒海にも耐える巨船を新造することを決意すると、幕府の許可をもらって造船してのがサン・ファン・バウティスタ号でした。 (3) 慶長遣欧使節 @ 出航まで
ビスカイノは、日本に黄金などないことがわかり、船が大破して帰れなくなってしまって気落ちしていると、正宗から思いがけない申し出があったのです。それは、仙台藩で大型外洋帆船を建造中で、近々ノビスパニアに人を送る予定であるから、この船で帰国してはどうかという事でした。船を遠くのノビスパニアに渡すには、ビスカイノや部下の航海士たちの操船技術が必要であり、建造中の船も、艤装の段階で彼らの豊富な知識が必要でした。この正宗とビスカイノの会談を通訳した人物が、イスパニアから来日した聖フランシスコ会宣教師で、同会の江戸修道院長兼関東遣外管区長だったルイス・ソテロ神父でした。 さて、幕府から使節の中に密かに諜報任務を負った人間が送り込まれてくる可能性を予測していた正宗は、支倉がもっていくセビリア市、イスパニア国王、ローマ法王宛の正宗からの書状は、すべて正宗自身が「慶長十八年九月四日、伊達陸奥守正宗」と書いてから花押を入れ、押印だけして白紙のままヨーロッパへもって行き、現地に着いてから誰かに書かせ、国王や法王に謁見したり、そのほかの要人と大事な用件で会うときには、いつも支倉と通訳のソテロ神父のほかには誰にも立ち会わず、仙台藩士も遠ざけられていました。本当の交渉内容は伏せられたまま、この二人しか知りませんでした。 さて、いよいよ船出のときが来ました。ビスカイノを筆頭に、イスパニア人船乗りたちも含め総勢180人を超える外交使節は三つ集団からなっていました。
A メキシコ・アカプルコ 1614年1月25日、サン・ファン・バウティスタ号はノビスパニア(メキシコ)のアカプルコに到着。日本人26人とソテロらスペイン人宣教師4人、そしてイタリア人神父からなる支倉使節と、一部の交易商人は一路、総督府のあるメヒコ(メキシコ市)をめざしました。 B 総督府メヒコ 1614年3月末、メヒコに到着。支倉は、ソテロを通訳に同伴して、総督(副王)グァダルカサル公に面会して、仙台藩への宣教師の派遣や通商を求める正宗からの親書を手渡します。ところが、ノビスパニア総督といえども、本国イスパニアの出先機関にすぎず、責任者といえども本国の国王からすべての権限を与えられていなかったので、通商交渉の申し出に返答できず、イスパニア、ローマで交渉せざるを得ませんでした。実際のところ、メヒコでの使節への対応は極めて儀礼的で、ソテロ神父の悪評や日本におけるキリスト教への迫害の実情を聞き及んでいたノビスパニア総督は本国のイスパニア国王に対し、使節の求める通商に否定的な書簡を送っていました。 こうして支倉常長を筆頭に、仙台藩の侍、彼らの下僕、さらに仙台藩とは関係の無いキリシタンら日本人の総勢26人と、ソテロら外国人5人の計31人のメンバーが、1614年5月8日、メヒコを発って大西洋を渡り、イスパニアへ向かいました。メヒコで使節の随員のおよそ80人が受洗しています。 C ハバナ 彼らがプエブラを発ち、ベラクルスの港町の突端にあるサン・ファン・デ・ウルアから、イスパニアの軍艦に便乗して大西洋を渡り、1614年7月23日、キューバのハバナに到着。 8月7日、ハバナを出航。船内で支倉は、宰相レルマ公爵宛に書状を書いています。
「我が主人、奥州王伊達正宗から私とソテロはイスパニア国王陛下とローマ法王様にお目どおりするよう命を受けてきたので、お取次ぎくだされたい。」と言う趣旨の書状でした。 D セビリア セビリア市庁舎で、支倉は、市長のサルバティエラ伯爵に、伊達政宗から託された書状を手渡しました。セビリア市に友好関係と通商を求めたものでした。同行したのは、通訳のソテロ、護衛隊長の瀧野嘉兵衛以下のほとんど全員。 E マドリッド 1614年12月20日、マドリッドに入る。翌1615年1月30日、イスパニア国王に謁見。支倉は、国王フェリペ3世の前で、政宗から託された親書を読み上げるのではなく、自らの言葉で演説しました。
その後、ローマ行きの許可を待ち、8ヶ月間マドリッドに滞在している間、支倉常長が国王臨席のもと洗礼を受けました。当日、金銀の祭具が煌く主祭壇に向かって右手に支倉、左手に修道院侍従長アルタミラ伯爵が起立し、側には王室聖堂司祭ドン・ディエゴ・デ・グスマン、教父母の役を務めるレルマ公爵とバラハス伯爵夫人らが見守り、洗礼名「ドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラ」の名を受けました。ラテン語のフィリッポはイスパニア語名のフェリペで、国王と同じ名です。 F ローマ 1615年10月25日、サン・ピエトロ大聖堂でローマ入府式が盛大に行なわれました。 羽織袴の七人の侍(シモン・佐藤内藏丞、トメ・丹野久次、トマス・神尾弥治右衛門、ルカス・山口勘十郎、ジョアン・佐藤太郎左衛門、ジョアン・原田勘右衛門、ガブリエル・山崎勘助)が一列縦隊で現れ、ローマの貴族二人がそれぞれ左右につき、その後から、身分の高い侍四人(瀧野嘉兵衛、小寺外記、伊丹宗巳、野間半兵衛)が、最後に法王庁の衛兵らが打ち鳴らす28発の祝砲が轟くなかで、白馬にまたがった支倉常長が、左側に法王の甥のドン・マルコ・アントニオ・ヴィットリオと、周囲にはスイス騎兵に囲まれて登場しました。 この入府式を終えると、ヴァチカン宮殿で支倉はローマ法王パウロ5世と謁見しました。11月3日、ヴァチカン宮殿の枢機卿会議室で、枢機卿、大司教、司教、法王庁書記官、法王庁付聖職者、ローマの貴族たちが居並び、法王パウロ5世が中央奥の天蓋の下の王座に座っていました。支倉常長は中央に進んで深くお辞儀をしてから、服従の作法通りに法王の足元に跪き、その足に接吻し、文箱の中から、絹地の錦織の袋に入った伊達政宗から法王に宛てた2通の親書を取り出し、法王の前で日本語で演説しました。しかし、親書にには日本を独立した司教区としてその大司教を任命することや、伊達領内への宣教師の派遣などの要望が記されているにもかかわらず、ヴァチカンの反応は「検討する」と言う鈍いものでした。また、通商協定についても法王は、「遠路はるばる来てくれたことをうれしく思う、しかし俗界の事は、イスパニアに戻って国王と再度談合するように」と返答するにとどまりました。 日本におけるキリスト教への弾圧の実態はすでにローマに伝わっていて、支倉使節の目的が布教よりも政治、経済的な匂いを嗅ぎ取り、法王側は一線を引くこととなったのです。 G セビリアとコリア・デル・リオの日本姓 ローマからイスパニアに戻った支倉一行は、帰国までの2年数ヶ月国王フェリペ3世からの返書を待って、セビリア郊外のロレトの修道院とコリア・デル・リオに分散して過ごしました。ロレトはソテロ神父の兄ドン・ディエゴ・カブレラの領地で、その修道院は聖フランシスコ派のため無償で泊まることができたのです。そこには足を骨折したソテロと、瀉血の治療を受けていた支倉が滞在していました。ロレト組のほかはみなコリア・デル・リオで待機していましたが、異端者が祈りを捧げる小さな礼拝堂の「エルミータ」で、朝晩の祈りを捧げていました。しかし、国王からの返書を受け取れないまま時が過ぎたある時、国王の側近から「マニラで返書を受け取るように」という指示があり、支倉は帰国を決意しました。それでもイスパニアとの関係樹立を諦めていなかった支倉は、次の使節団がくるまで情報を集めておくようにとコリア・デル・リオに9人を残留させたのです。このことから現在のスペインでは、多くの人が日本姓を名乗るまでになりました。 <参照> ・ ハポン姓の人たち H 帰国後の支倉常長 メキシコまで戻った常長は、そこへ迎えに来ていたサン・ファン・バウティスタに乗りフィリピンのマニラに到着後、マニラでスペイン艦隊に船を買収されたので長崎まで別の船に乗って、1620年9月20日ようやく仙台にたどり着いたのでした。しかし、帰国した常長を待ち受けていたのは、徳川幕府の禁教令でした。支倉は表舞台に立つことなく、帰国して2年後の1622年8月7日病死したと伝えられています。
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