復帰摂理歴史の真実
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■ 後編 第二章 日本の伝統的精神と神の愛
     d. 堕落論と即身成仏


1. 煩悩から仏性への大転換(中)
 (1) 堕落とその愛
  @ 堕落の実を結んだ相対関係とは
 ルーシェルは神様の愛を天使世界に仲保する愛の天使長であり、ガブリエルはニュースを伝える天使長であり、ミカエルは軍隊を管掌する力の天使長です。(『原理本体論』p307)


 それでは、善の目的のために創造された天使長から、いかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていたはずであった。このようにして、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということ比較し、識別することができたのであり、またその上に欲望をもっていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあったということは当然なことである。そして、こういう思いは、自動的に嫉妬心を生ぜしめたのである。したがって、このような嫉妬心は、創造本性から誘発されるとことろの、不可避的な副産物であり、それはちょうど、光によって生ずる、物体の影のようなものであるといえよう。しかし、人間が完成すれば、このような付随的な欲望によっては決して堕落することはできなくなるのである。(『原理講論』p122)


 原理講論では、神は被造世界の創造と、その経綸のために、先に天使を使い(僕)として創造された。そしてまた、天使は神に頌栄をささげる存在として創造されていたとだけ記されている(『原理講論』p106〜p107)。しかし、原理本体論には “ルーシェルは神様の愛を天使世界に仲保する愛の天使長” であり、“天使長にも創造本性として欲望と知能とが賦与されていて、堕落時の天使長ルーシェルは既に完成期にあった” としている。前頁で述べたように、欲望とは目的を実現していくための衝動的な意欲であるが、欲望の本質は神の心情によるものであり、心情の目的は喜びを得ることである。ところで、神はその喜びの対象として、人間を神御自身に似せて男と女を創造された(創世記1・27)。つまり、神は唯一であり二性性相の神で有られるが故に、神御自身も愛による喜びとしての御存在であられるが、霊的存在としての神は、実体的な愛による喜びを得ることを目的として人間を創造された。しかし、天使は霊的存在であり、二性性相としては創造されていない。神の愛を天使世界に仲保するとはいっても、エバを愛する対象としてあったアダムを見る度に、創造本性から誘発た不可避的な副産物とされるアダムに対する嫉妬心は否めない。

 愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。
 被造世界は、そもそも、神の愛の主管を受けるように創造されている。したがって、愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素となるのである。それゆえに、この愛をより多く受ける存在であればあるほど、より一層美しく見えるのである。ゆえに神の僕として創造された天使が、神の子女として創造されたエバに対したとき、彼女が美しく見えたというのも当然のことであった。ましてやエバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創三・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。
 愛によって一体となれば、互いにその対象から先方の要素を受けるように創造された原理によって(創三・7)、エバはルーシェルと愛によって一体となったとき、ルーシェルの要素をそのまま受け継いだのであった。すなわち、第一に、エバはルーシェルから、創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心を受けたのであり、第二には、自分が本来対すべき創造本然の夫婦としての相対者は天使ではなく、アダムだったという事実を感得することのできる新しい知恵を、ルーシェルから受けるようになったのである。当時、エバはまだ未完成期にいたのであった。したがって、そのときの彼女自体は、既に完成期にあった天使長に比べて、知恵が成熟していなかったために、彼女は天使長からその知恵を受けるようになったのである。(『原理講論』p109〜p110)


 ところで、アダムの関心が思うように自分に向いてくれないことに不満を感じていたエバは、ルーシェルの誘惑に思わず反応してしまう。ルーシェルは自分の言葉にエバが惹かれてくるようになると、自身においても神に対する不満や反逆心が掻き立てられ、神の創造とその目的をエバの欲求に乗じて偽って伝え、死を覚悟してまでより深くエバを誘惑するようになったのである。既に完成期にあったルーシェルは、神の意図がどこにあったのかを熟知していたはずであるから、それを偽った愛の関係を結んでしまったので、エバは神の御意みこころが理解不能となって、霊的無知に陥ったのである。
 堕落したエバの良心は、堕落性による束縛によって不安と恐怖心が生じた。エバは堕落によって生じた自らを顧みず、この不安と恐怖心から解放に導いてくれるのはアダムであるとの一途な思いから、ルーシェルがエバを誘惑したようにアダムを誘惑したのである。アダムは神の戒めを棚上げにして、エバがルーシェルの誘惑に反応したように、エバの不安と恐怖心に怯えるエバに対応して肉的堕落が起こったのである。結果的に、アダムも神の御意が理解不能となると同時に、神に対する不安と恐怖心が生じた。結果的に神は、アダムとエバを、エデンの園から追放せざるを得なかったのである(創世記3章24節)。

 エバは天使との霊的な堕落によって受けた良心の呵責からくる恐怖心と、自分の原理的な相対者が天使長ではなくアダムであったということを悟る、新しい知恵とを受けるようになったのである。ここにおいて、エバは、今からでも自分の原理的な相対者であるアダムと一体となることにより、再び神の前に立ち、堕落によって生じてきた恐怖心から逃れたいと願うその思いから、アダムを誘惑するようになった。これが、肉的堕落の動機となったのである。
 このとき、不倫なる貞操関係によって天使長と一体となったエバは、アダムに対して、天使長の立場に立つようになった。したがって、神が愛するアダムは、エバの目には非常に美しく見えたのである。また、今やエバは、アダムを通してしか神の前に出ることのできない立場であったから、エバにとってアダムは、再び神の前に戻る望みを託し得る唯一の希望の対象であった。
 だからこそエバは自分を誘惑した天使長と同じ立場で、アダムを誘惑したのである。アダムがルーシェルと同じ立場に立っていたエバと相対基準を造成し、授受作用することによって生じた非原理的な愛の力は、アダムをして、創造本然の位置より離脱せしめ、ついに彼らは肉的に不倫なる性関係を結ぶに至ったのである。
 アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェルから受けたすべての要素を、そのまま受け継ぐようになったのである。そのようにして、この要素はその子孫に綿々と遺伝されるようになった。エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである。(『原理講論』p110〜p111)


 ところで、授受作用を成すためには、相対基準を結ばなければならない青下線部)。相対基準と言うのは、ある共通目的を中心として主体と対象の関係を築くことであるから、ルーシェルとエバの堕落は、神の目的とは別の目的で授受作用を成して堕落したことになる。これが先に述べたルーシェルがエバを誘惑した偽りの神のみ言葉で相対基準を結び、霊的に堕落したエバとアダムが授受作用することによって霊肉ともに堕落し、堕落の愛の実としてカインとアベルが誕生したのである。実は、このことが堕落の重要なポイントである。



 (2) 即身成仏の本質と原理
  @ 授受作用の核心
 即身成仏というのは「父母所生の身に、すみやか大覚だいかくの位を証す」ということであり、父母からもらった肉体のままに、仏になるということであるが、どうしてそういうことが可能になるかが問題となる。
 いったい、ここでいうとは何か。身とは六大であると、空海はいう。六大とは何か。六大とは、地水火風空の五大に心を加えたものである。このうち五大は、いわば、物質的存在である。地水火風空の五つの原理で、あらゆる物質は出来ていると考える。しかし、物質的原理のみで、ものは存在しているのではない。物質的原理に、必ず精神的原理が加わっている。この精神的原理が、心といわれ、識といわれ、また覚といわれ、智といわれるものである。
 密教によれば、あらゆるものは、物質的原理、すなわち五大と、心、すなわちからなり立っている。その六つの存在、六大は互いにまじり合って、あらゆるものを構成している
 もしも、あらゆるものが、そのように六大から出来ているとすれば、すべてのものは、すべてのものを、その内面に含んでいる。「六大無碍ろくだいむげにして常に瑜伽ゆがなり」というのは、そういうことであろう。
 これは、ヨーロッパ哲学の用語をつかえば汎神論はんしんろんといえるかもしれない。到るところに六大がある。到るところに神がある。世界の一部をとって見れば、そこに世界の全部が宿っているのである。
 「四種曼荼まんだ各々離れず」というのは、密教では、曼荼羅まんだら崇拝すうはいする。それは、大日如来だいにちにょらいを中心として仏の世界の図式的表現である。この曼荼羅に四種がある。大曼荼羅三昧耶さんまや曼荼羅法曼荼羅羯磨かつま曼荼羅である。大曼荼羅というのは仏菩薩ぶつぼさつの形を画いた曼荼羅であり、三昧耶曼荼羅というのは仏菩薩のもっているヒョウ、刀剣、輪宝、金剛、蓮華れんげ等の類を画いたもの、法曼荼羅というのは梵字ぼんじを書いたもの、羯磨曼荼羅というのはその菩薩の働きを画いたものをいう。
 密教における曼荼羅まんだら大日如来だいにちにょらいを中心として、仏菩薩ぶつぼさつの世界を、さまざまな形によって表現したものである。あるいは形によって、あるいは持物によって、あるいは種字によって、あるいは働きによって、こうして四種の曼荼羅がつくられるが、それらの四種の曼荼羅はすべて同じような世界の本質を、少し角度をかえて表現したにすぎない。「四種曼荼まんだ各々離れず」というのは、そういうことをいうのであろう。
 そのように、世界におけるすべての存在は六大からなり立ち、すべてのものはすべてのものをその内面に宿し、しかも、その世界そのものの中心に大日如来がいて、そしてそれを、多くの仏菩薩がとりかこんでいるとすれば、われわれは、われわれ自身の中にすべての世界を宿し、われわれは自己の中に大日如来をはじめとして、さまざまな仏菩薩を引き入れることが出来る。
 ライプニッツモナドというものから世界を説明したが、密教の場合、自己というものは、外に大きな窓があいていて、そこから、あらゆるものが入ってくることが出来るモナドといってよいであろう。すぐに、われわれ自身は、その本質において、六大からなりたっていて、宇宙の中心である大日如来と同じ性質である。しかし、われわれは小さい自我にとらわれているために、このような自己の本質をよく理解しない。しかし、われわれがこうした小我へのとらわれを離れ、自己の内的本質に目覚めるとき、われわれの中に大日如来は入り来たり、われわれは大日如来だいにちにょらいと一体となり、そして、それによって、われわれは自由自在に仏の安楽行をし、そして、それによって、また、不思議な力を発揮することが出来る
 ここに、一つの人格の転換が行われるわけであるが、この転換は、われわれの存在と、仏の存在の共通性を前提とするのである。私は、この八句の詩のうちのこの前三句がもっとも重要であると思うが、空海の説明も、ここにもっとも力がこもり、後の説明は簡単である。「三蜜加持さんみつかじすれば速疾そくしつあらわ」。三蜜というのは身蜜しんみつ語蜜ごみつ意蜜いみつであるが、われわれの身体、言葉、心には、それぞれ、深い秘密がかくれていて、ふつうの仏教ではとても説き尽くせない。この三蜜を通じて、われわれは大日如来と一体になるわけである。
 し、真言行人有しんごんぎょうにんあり此義このぎを観察し、手に印契いんげいし、口に真言をしょうし、心、三摩地さんまじに住すれば、三密相應そうおうして加持するが故に、早く悉地だいしつじを得る。
 とある。
 密教はふつう加持祈祷かじきとうの宗教、呪術じゅじゅつ的宗教であり、それゆえに、それは迷信といわれるが、加持というのは、本来はただの祈祷を意味しているのではない。
 加持とは如来にょらい大悲だいひ衆生しゅじょうの信心とを表す。佛日の影、衆生の心水に現ずるを加とひ、行者ぎょうじゃの心水く佛日を感ずるを持と名づく。
 つまり、仏と衆生が感応するのを加持というのである。この仏と衆生との感応を仏の方から加といい、衆生の方から持というのである。それは、密教ばかりか、すべての仏教にとって本質的なことである。
 加持の本義はこのような仏と衆生との感応であるが、密教ではその感応による即身成仏そくしんじょうぶつを強調する。
 行者若ぎょうじゃもし、く、理趣このりしゅを観念すれば、三密相應するが故に現身速疾そくしつ本有ほんぬの三身を顯現けんげん證得しょうとくす。故に速疾顯そくしつけんと名づく。常の即時即日そくじそくじつごとく、即身そくしんの義もまたかくの如し
 つまり、ここで、仏と衆生とが加持することによって、われわれはこの身そのまま仏になれるのである。
 これはまさに大胆だいたんきわまる説のように思われる。われわれが、この身のまま、仏になる。この大胆きわまりない教えは、当時の人に、大きなショックだったにちがいない。このショックをやわらげるために、空海はこのような著書を書いたのであろうが、今日、われわれが見ても、なおこの説は、大胆すぎるように思われる。
 ここで、身体性の原理が百パーセント肯定されているのである。この身体というものは、多くの宗教においてわれわれの精神的な活動をさまたげる悪なるものと考えられてきた。西洋のプラトン哲学においてもそうであるし、キリスト教においても、そういう傾向が強い。仏教においてもやはりそうである。それは、釈迦しゃか仏教をそのまま伝える阿含あごん系の仏教においてはもちろん、また大乗だいじょう仏教の龍樹りゅうじゅ世親せしんにおいてもそういう傾向をまぬがれなかった。
 しかし、ここで、身体性の原理を、はっきり肯定するのである。この身体をのぞいて、どこに、われわれの住む世界があろう。
 身体性の原理が肯定されることによって、同時に物質世界が肯定されるのである。密教は、あの唯識ゆいしき仏教のように、単なる唯心論ゆいしんろんではないのである。そうではなくてそれは、物質的原理を、精神的原理以上に強調している。身体は、すなわち、わが内なる物質なのである。
 物質が肯定されるとき、客観世界が肯定されるのである。密教は偉大なるコスモロギーをもっている。コスモスの中で、われわれの存在が考えられている。
 私はこの身体性の肯定、物質の重視、コスモロギーの存在を、密教の思想的特徴と考える。
 先に述べたように、この三密加持さんみつかじが空海のの中心であるが、即身の偈は、もう一度、コスモロギーにもどって終る。
 「重重帝網なるを即身と名づく」。自己の中に仏身が宿る。わが身が仏身であり、仏身がわが身である。衆生と仏とが、無限に相互にうつし合っている。自己の中に、全世界が反映されている。
 かくごととうの身は縦横重重にして、鏡中の影像と燈光の渉入しょうにゅうとの如し。彼の身すなわの身、此の身即ち是れ彼の身、佛身即ち是れ衆生しゅじょうの身、衆生の身即ち是れ佛身なり、不同にして同なり、不異にして異なり。
 この境地が、密教の悟りの境地であろう。自己は世界に対して完全に透明になっている。われはあるがごとく、なきがごとく、世界はあるがごとく、なきがごとく、すべてがわれにおいてあり、われはすべてにおいてある。不思議きわまる世界。一度、その境地に目覚めたら、あらゆる智慧ちえむなしくなる。そういう智慧を空海は説く。
 『即身成仏義』はまさに、空海の著書の最高傑作で、密教の秘義を語って余すところがない。(『空海の思想について』p65〜p72)


 さて、ここで空海の説いた即身成仏を、統一思想的観点からこれまで述べてきたことを基に検証してみることにする。
 先ず、空海のいう “” であるが、身とは六大であるというのは、五大(地水火風空)に “(心)” を加えたものであるとしていることである。識が心であるならば、五大は体ということであり、“身” とは心と体の統一体ということになる。ここで “識” とは、事物の道理を知って分別できる自我であるとしているところから、“心” または “意” と同義とされる。つまり、明確な方向性をもった心(意思)といえる。これが、心と体が授受作用できる相対基準を持つための “目的” となる
 ところで、即身成仏を目的とする衆生にとっては、その中心とするのは、法身仏としての大日如来となる(左図破線矢印)から、この心と体の統一体となった衆生は、大日如来とも相対基準を結ぶことができ授受作用を成し得るというのが “加持” の持つ意味である。このことは、統一思想でいう神の心情が人間に欲望(仏性)として賦与されることを示している(前頁参照)。このため、煩悩と否定していた欲望を、本性と肯定できるようになったいわゆる成仏である。そういう意味において、天台密教(台密)僧の成した “即身仏” と真言密教(東密)僧の目指す “即身成仏” とは、言葉は似ているが、全く違う内容のものである。
<参照>
 「即身成仏義」の思想と構造 (高野山大学教授 村上保壽: PDF / 本サイト
 空海の六大思想 (高野山大学教授 村上保壽: PDF / 本サイト
 曼荼羅


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