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02. 血統転換と基元節


■ 王族と皇族となるための蕩減復帰

1 『原理講論』に明記されていないヤコブ路程

 『原理講論』では、後編の第二章、第一節が「サタン屈伏の典型的路程」(p342〜p348)とされている。ここで注意しなければならないことは、「屈服」と「屈伏」の違いである。「服する」とは、“従う” という意味の他に、“ある仕事に就く” という意味がある。また、「伏する」は、“従う” という意味の他に、“隠れる” や “潜む” という意味がある。つまり、「サタン屈服」と「サタン屈伏」の違いは、サタンが人間に屈して天使長の立場に戻る” ことを「サタン屈服」サタンが人間に屈しはしたものの、隠れ潜んで様子を伺う状態にある” ことを「サタン屈伏」と理解するのが正しいといえる。後編、第二章の第一節では、“ヤコブ路程” を「サタン屈伏の典型路程」としている。

 ヤコブ路程は、とりもなおさず、サタンを屈伏してきた路程である。そして、サタンを屈伏させる路程は、サタンが侵入したその経路を、逆にたどっていかなければならない。(『原理講論』p343〜p344)

 ここで、サタン屈伏の路程が、サタンが侵入した堕落の経路と逆の経路とは、復帰摂理がたどる経路として神の創造の順序に基づいたものである。故に、神の復帰摂理は “再創造摂理” であるともいえる。しかし、この “サタン屈伏の典型路程となったヤコブ路程” における詳細は『原理講論』のどこにも記されてはいない。只、文先生が直接語られた “御言” としてあるだけである。




2 「堕落性を脱ぐための蕩減条件」の意味するもの

 イサクの家庭を中心とする復帰摂理において、「実体基台」を立てる中心人物であったヤコブが、アベルの立場を確立して、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるために、サタンを屈伏してきた全路程は、ヤコブによるその象徴路程を、形象的に歩まなければならないモーセ路程と、それを実体的に歩まなければならないイエス路程とを、あらかじめ示した典型路程であった。そして、この路程は、イスラエル民族と全人類が、摂理の目的を成就するために、サタンを屈伏させながら歩まなければならない、表示路程でもあるのである。(『原理講論』p342)

 @) アダムとエバの堕落による原罪と血統

図1
 人類始祖となるアダムとエバの堕落は、どの様に始まり、どんな結果を招いたのかは、『原理講論』の前編第二章「堕落論」の第二節から第四節にかけて述べられている。結果として生じた原罪」とは、人類始祖となるアダムとエバから受け継がれた罪のことである。
 天使長ルーシェルとエバが、ルーシェルの “不義なる言葉” によって誘惑され、不倫なる愛” の関係を結び(霊的堕落、更にアダムがエバの誘惑を受け、エバがルーシェルと結んだ “不義なる愛 によって主管を受けたアダムは “神の御言” を失い偽りの愛による不倫なる性関係(肉的堕落)を結び、「悪の(愛の)実」となる子女を産み、出生した子女は堕落したアダムとエバによってその “偽りの愛が伝授” され、サタン(偽りの愛)の「血統」として繁殖したのである(図1)。
 こうして、アダムとエバによって生じた「原罪」は、その子女たちが「アダムとエバの “堕落性による不義なる愛の結実(血統)” 」 として生存し、繁殖することとなった。

 天使が神に反逆して、エバと血縁関係を結んだとき、偶発的に生じたすべての性稟を、エバはそのまま継承したのであり、こうして天使長の立場におかれるようになったエバと、再び血縁関係を結んだアダムも、またこの性稟を受け継ぐようになった。そして、この性稟が堕落人間のすべての堕落性を誘発する根本的な性稟となってしまったのである。これを堕落性本性という。(『原理講論』p122)

 「堕落性本性」は、『原理講論』(p123〜p124)によると次の4つに分類することができる。

1.神と同じ立場に立てない
天使長が堕落するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙したところにあった。
2.自己の位置を離れる
ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界においてもっていたと同じ愛の位置を、人間社会においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落したのであった。
3.主管性を転倒する
人間の主管を受けるべき天使が、逆にエバを主管し、またアダムの主管を受けるべきエバが、逆にアダムを主管するようになったところから、堕落の結果が生じたのである。
4.犯罪行為を繁殖する
もし、エバが堕落したのち、自分の罪をアダムに繁殖させなかったならば、アダムは堕落しなかったであろうし、エバだけの復帰ならば、これは容易であったはずである。しかし、エバはこれとは反対に、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。
図2
 そもそも結論から言えば、堕落性本性の問題はエバの問題である。先に堕落したエバがアダムに対して主管性転倒さえしなければ、アダムは堕落せずに済んだのである。では、アダムを堕落させてしまったエバの動機となるものは、どこにあったのであろうか。それは、堕落性本性の「第1」と「第2」の性稟であり、それを置き換えたのが、“正妻” としての “妾” に対する愛の妬み(嫉妬)である(図2)。つまり、ヤコブ家庭において、レア(正妻)がラケル(妾)に抱いた怨讐としての情念がまさしくそれであった。

 A) 原罪からの重生

 罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう。その罪を分類してみれば、第一に原罪というものがあるが、これは人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をいい、この原罪はすべての罪の根となるのである。(『原理講論』p121)
 我々がコリントT一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という。(『原理講論』p266)

図3
 さて、人間始祖となるアダムとエバによる霊的堕落と肉的堕落にって堕落の血統が生じた。その血統は、アダムとエバの肉的に不倫なる性関係(肉的堕落)によるものであり、それに先立ってエバと天使長ルーシェルによる非原理的な愛の力による淫行関係(霊的堕落)によって、血統的な「罪の根」となる「原罪」が生じたのである。故に重生」は、霊的堕落の蕩減復帰によって根本的に解決されなければならない(図3)。

 エバは天使との霊的な堕落によって受けた良心の呵責からくる恐怖心と、自分の原理的な相対者が天使長ではなくアダムであったということを悟る、新しい知恵とを受けるようになったのである。ここにおいて、エバは、今からでも自分の原理的な相対者であるアダムと一体となることにより、再び神の前に立ち、堕落によって生じてきた恐怖心から逃れたいと願うその思いから、アダムを誘惑するようになった。これが、肉的堕落の動機となったのである。(『原理講論』p110)
 罪の根は人間始祖が果実を取って食べたことにあったのではなく、蛇に表示された天使と不倫なる血縁関係を結んだところにあったということを知るようになった。したがって、彼らは神の善の血統を繁殖することができず、サタンの悪の血統を繁殖するようになったのである。(『原理講論』p104)

図4
 「重生」とは、生まれかわること。死んだ人間が再び生まれてくることを意味する。このことは、文先生の正妻(韓鶴子)における “四大心情圏の体恤たいじゅつ が成されたこと(正妻圏の復帰)によって、妾が正妻のような立場に立てる「皇族圏」が成立された(図4)ことによって、この地上に真の父母の存在が無くなっても、その皇族圏に立てる条件が成立すれば、妻を通じた夫の重生によって血統転換も可能となるのです。

 ちなみに、「体恤」とは “他人の身になって同情し、いたわる” という意味であって、上記の場合では “妻(正妻)となる韓婦人が夫である文先生の復帰摂理における困難と苦労を、神の娘としての立場に立って同情し、夫の妹となって、奥さんとなって、お母さんとなって夫を労わる” こととなります。しかし、蕩減復帰摂理としてもう一つ残っています。それは、“妾の姉に立ち返って、姉として妾を妹のように愛する” ことで “夫を喜ばせる” ことが文先生にとって最大の労わりになるということです。これは、蕩減復帰摂理を担う文先生にとっての “きも” となる部分です。ここで、「妾」とは日本食口シック、中でも日本女性食口であることは言うまでもありません。

 四番目の皇族圏復帰は、正妻圏が復帰されてきて、めかけが正妻になり、正妻が妾になるような立場で立つのだから、マリヤの立場が姉さんになり、エリサベツは妹として神様の妾の立場で蕩減復帰して、まるっきり反対にして、神に帰らなければならないのが蕩減復帰原則です。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p139)
 これから特別に、先生はそういうようなことを教育するのです。堕落のゆえに四大心情圏を破壊したのだから、蕩減復帰は、エバがなしてきたのと同じような所で、一八〇度転覆するのです。
 四大心情圏を女が体恤しないと、宇宙の転換点を正すことができません堕落の瞬間に、四大心情圏、四大心情を失ってしまいました。子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情を一遍に崩壊させてしまったことを、いつ女として体恤するかという蕩減復帰です。同じように体恤するのです。それが、キリスト教を中心として、歴史を通して一点を求めてきた、新郎新婦が出会う時です。その時に女たる者はみな、神の娘として、妹として、奥さんとして、お母さんとしての心情を爆発的に体恤しないと、変わらないのです
 そのような大もとが、再び生れてこなければならないのです。そういう体恤をした場合、「旦那さん」と言えば、旦那さんは遠い所にいるのではありません。もう既に、自分の中に入っているのです。それは主体だからです。そのような愛の本郷地を求めていくのが、人間の本来の生来の生涯、生活です。真の父母という観念が分かりましたか? それは宇宙の根本的な基本姿勢となっているのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p172〜p173)

 B) 「ヤコブの典型路程」の失敗とイエスの誕生

 さて、ヤコブ路程に戻って、イエス誕生までの内容を図5を参考に簡単に見ていくことにする。

図5
 ヤコブ家庭から、「女のカインとアベルによる蕩減復帰摂理」が始まった。本来なら、姉(カイン)のレアがヤコブの “正妻” となった上で、妹(アベル)ラケルが “妾” として、アブラハムの神、イサクの神を信仰するヤコブの愛の対象の立場に立たなければならなかった。しかし、ラケルは父ラバンの偶像テラピム信仰を根強く受け継いできたため久しく子を宿すことができなかったのである。挙句の果てに、ラケルはヨセフの弟ベニヤミンを出産した直後死んでしまった(創世記35章18節〜19節)。
 この間レアは、夫ヤコブに対する “愛の怨讐” となった妹を一度も愛せなかったのである。その為、ヤコブを中心とした摂理は、ユダを中心とした摂理に移行することになった。

 以下の内容は創世記38章になるが、ユダは父ヤコブの愛するヨセフを死なせてしまったと思い込んで心を痛めて(創世記37章)逃避し、異邦人となるカナン人の娘シュアを妻に娶った。シュアは三人の男の子を産むと、長子エルの妻となったのがタマルであった。
 月日が経って、ユダの妻シュアが死んだ(創世記38章12節)。それまで子を宿すことのできなかったタマルは、舅のユダを騙して関係を結び、双子の男の子をはらんだのである。長子となるゼラが先に胎から手を出して「の糸」がその手に結ばれた。しかし、ゼラは胎中にいたペレヅに引き戻され、争った末にタマルの胎中から先に出て来たのがペレヅであった。この長子として誕生するはずのゼラが胎中に引き戻され、次子となる筈だったペレヅが先に誕生して長子として迎えられたことは、「胎中における長子権復帰」(胎中聖別)が成されたのであって、血統転換されたということにはならない。血統転換が成されるには、ある条件が必要である。

 タマルは、“ヤコブ(イスラエル)の血統” を愛してユダの嫁となった。タマルは、夫が亡くなると舅のユダによってレビラト婚の破綻が生じ、寡婦となった。この為、ユダにはタマルを扶養する義務が生じた。また、ユダの妻シュアが亡くなることによって、タマルにはユダによって子を産める権利が生じた。しかしその後、ユダはタマルと夫婦関係を持たなかった(創世記38章26節)ことから、タマルはユダの “” の様な立場に立っていたも言える。父ヤコブから逃避していたユダは、こうしたタマルの愛と覚悟によって父との一体化が可能となったのである。

 マタイによる福音書第1章を見れば、4人のふしだらな女性が出てきます。バテシバタマルルツラハブがまさにその人たちです。なぜ聖書にこのような女性たちの名前が出てくるのでしょうか。何の理由もなくただ現れるのではありません。それだけの事由があるのです。新約聖書のマタイによる福音書第1章は旧約聖書の創世記第1章に該当するものであり、記された歴史的悲運の事情が、再びマタイによる福音書と関係をもって現れるのです。いわば、新しい歴史の道は、創世記の歴史的な悲運の内容から始まったということを暗示するために、創世記のような悲運の内容が聖書にしばしば記録されているのです。(『神の摂理から見た南北統一』 p63〜p64 1980.11.18 )

図6
 タマルにはじまる “4人のふしだらな女性” としてのラハブルツバテシバはを経てマリアに至る(図6)のである。この4人のを経てイエスが無原罪の “独り子イエス” の誕生となります。
イエスの血統は、祭司レビの血統で、ユダの子ペレヅの血統を通じて無原罪のイエス誕生を妾(アベル)側する正妻(カイン)側との蕩減復帰原理型(図5)として築いてきたのです。
 イエスが、無原罪として誕生できたのは、“エリサベツがマリヤを歓迎して迎え、胎中のイエスに胎中のヨハネが喜んだ” こと。そして、イエス誕生後のマリヤをエリサベツが喜んで面倒を見ていたことが決定的な要因となります。
取りも直さず、これができたのは、「聖霊の働きかけ」があったことを見逃すことができません。聖霊がエリサベツ心情に働きかけ”、嬉しく、喜ばしくイエスの誕生を迎える(ルカによる福音書1章39節〜56節)ことができたのです。時間が過ぎて、聖霊が離れ去ると、エリサベツにも、マリヤにも、“不安” が “不信” を引き起し始めるようになったのです。

 洗礼ヨハネの母は、マリヤがイエス様を身ごもったのち面倒を見てくれました。イエス様が腹中にいるときから歓迎しました。(『イエス様の生涯と愛』p121)

 C) メシヤは祭司(祭祀)の血統として誕生される

 神様は、世界がいかに反対しても、リベカを中心としてみ旨を全うするのです。リベカはヤコブに協助し、ヤコブは四十歳で長子権を蕩減復帰しました。しかし、それでは四十歳下を中心として、腹の中での長子権がまだ蕩減されていないのです。ですからタマルを中心として、ペレヅ・ゼラを中心として、腹の中、子宮の中で転覆運動をするのです。兄さんが先に出ようとするのを引き戻して、弟が兄さんの立場で出ることによって、血統基準において長子が逆になったことを元返してきたのです。その血統をつなげ、イスラエル民族、選民を中心として、二千年後、国が成立する基準になったときに、初めて(メシヤが)地上に生れてくるのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p140)
 神様は世界がいかに反対しても、リベカを中心として、み旨を全うするのです。リベカは四十歳で蕩減復帰しました。しかし、それでは、四十歳以下を中心として腹の中で、まだ蕩減されていないのです。だから、タマルを中心として、ペレヅ・ゼラを中心として、腹の中で、子宮の中で転換運動をするのです。兄さんが先に出ようとするのを引き戻して、弟が兄さんの立場で出るのだから、血統基準下から、長子が逆になったのをもとがえしてきたのです。その血統をつなげて、イエス様が殉教されたので、イスラエル民族を中心として、選民民族を中心として、二〇〇〇年の後に国が成立する基準になった時に、初めて生まれてくるのです。(『訪韓修練会御言集』p137)

 「血統」とは、一般的に親子や先祖から続く血のつながりとしての「血筋」を意味する。しかし、これは生物学的な遺伝(血縁)によるものであって、原理で言うところの「神の血統」や「サタンの血統」となると、単なる遺伝的なものではなく、ある特定の「価値観」が家系的な “誇りや慣習” が伝統となって歴史的に受け継いできたものを “神側” と “サタン側” に分別ぶんべつした言葉と言える。文先生の御言には、言葉が省略された部分が多く、ややもすると、その内的な側面が軽視されて捉えられる部分が多く見掛ける。これが文先生の「御言集」にもあることは、注意を要することである。

 さて、上の二つの文章は文先生が語られた全く同じ内容である。『訪韓修練会御言集』は、初版が1994年11月3日に発行され、『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』の初版の発行は2018年11月10日となる。この間は24年もの歳月を要していて、『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』の前版となった『訪韓修練会御言集』は既に絶版となっている。

 ここで “赤下線” と “青下線” の二つの文における違いに注目して頂きたい。「長子が逆になったことを元返す」という内容はどちらにもあるが、「イエス様が殉教された」という言葉は『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』には記されていない。この事によって、「イエスの殉教」は血統に関係するものではないという位置付けになっていて、“血統転換” はタマルの産んだペレヅのときからイスラエル選民へと引継がれているという表現になっている。しかし、実際には “血統転換” に至らず、イエスの血統は殉教によって途絶え、“血統転換できる条件だけが成立したまま” となって、“血統転換は再臨主による復帰摂理へと引継がれることになった。
 本編の「詳論」で述べるが、「その血統をつなげ」たとされる日本民族と韓民族の違いは、「失われた10支族」と「消えたエルサレム教団」にかかわる重要な論点となって隠されたままになっている。
 図5の系図からも分かるように、『原理講論』において祭司職の起源となったモーセ路程がイエスのサタン屈服における形象的(モデル)路程と位置づけられているのは、モーセの使命をイエスが血統的に引継いでいることに他ならない。文先生も、両班が務めとする祖先祭祀の家系に誕生されたことは重要な意味を持っている。

 D) 神の再創造摂理の主眼となるのは “無原罪の「独生女」” ではない

 四大心情圏を女が体恤しないと、宇宙の転換点を正すことができません。堕落の瞬間に、四大心情圏、四大心情を失ってしまいました。子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情を一遍に崩壊させてしまったことを、いつ女として体恤するかという蕩減復帰です。同じように体恤するのです。それがキリスト教を中心として、歴史を通して一点を求めてきた、新郎新婦が出会う時です。その時に女たる者はみな、神の娘として、妹として、奥さんとして、お母さんとしての心情を爆発的に体恤しないと、変わらないのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p172〜p173)
 その入った子供とお母様の根っこは何かというと、渋柿の根っこから切って取り返してきた(状態の)ものです。分かりますか? それが天の家庭に入るには、手続きをしないといけなのです。何の手続きかというと、愛の手続きです。ですから、真のお母様の腹の中に入っていても、それは真のお父様の真の愛と真の血統にまだつながっていないのです。お母様(お一人で)は真の愛と真の血統を持っていません。向こうのほうなのです。それは、新婦の立場で、新郎を迎えて一つになるということです。分かりましたか?(「はい!」)。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p188)
 第一先祖、第二先祖、第三心情先祖をつないで、自分の子供たちも同じ立場で祝福して、それを平面に立たせた場合には、数千代が入籍して大移動が起こるのです、日本人は、エバ国家になっていても、そうなった場合、アフリカに大移動していきます。それが統一世界です。全世界に散らばるのです。分かりましたか?(「はい」)。
 日本人が世界的に混ざっていくのです。韓国人も散らばっていきます。韓国人の男も女も、韓国の政治体制の不均衡のゆえに、みな世界に行っているのです。帰ってくればチャンピオンです。だから今から、日本の女を送ります。日本の女を送ったら、韓国の男を送ります。父母の代わりです。分かりましたか?
 日本の男女が、家庭的な父母家庭になるのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p196〜p197)

 文先生の相対としてのお母様は、まだまだ復帰摂理上のお母様として根っこから切り取ってきた “渋柿の木(穂木)の状態” であって、そのままにしておけばその木に実るのは “渋柿” であるから、渋柿から “甘柿” にするには文先生(台木)に「接ぎ木」されなければならないと文先生は御言で語られている。
 「接ぎ木」とは、花や実をつけたい植物(穂木)の一部を、根や茎が丈夫な他の植物(台木)に繋ぎ合わせ、一つの植物として育てる技術です(右図)。弱い特性” を持つ植物の地上部を、“病気や環境に強い根を持つ木で補い”、成長や収穫を安定させるために行われます。
 渋柿としての “渋み” となっているのは “タンニン” の作用によるものであり、このタンニンは甘柿にも含まれているが、アルコールとの結合によってタンニンは渋みとして作用できなくなる
聖書でエバを「善悪知る木」に例えたのは、この渋柿・甘柿が併せ持つ “タンニンの様な特性” (タンニンは、植物が生成するポリフェノールの一種である色素や苦味成分であり、強力な抗菌・抗酸化による保身的作用を持つことが最大の特性である)があるからに他ならない。
 ところで、渋柿に “アルコール” を加えることによって甘柿に変えてしまうのであるが、この渋柿としてのお母様に対して “アルコール” の様な働きをするのが、堕落の瞬間にエバが失った「四大心情圏」だというのです。
 もちろん、お母様は動機となる心情圏に留まってはならず、行い(四大愛)によって “真の母” としての “真の愛の実(血統)” を結ばなければなりません。“無原罪の「独生女」” が問題ではないのです。更に、堕落性本性がそうであったように、創造本性としての繁殖作用を伴わなければならず、それがエバ国家の日本人が持つべき繁殖作用となります。
 なお、文先生の御言の途中に「アフリカ」という言葉が出てくるのは、アフリカが人間始祖としてのアダムとエバが誕生した所で、“ここが原点となってここから始まる” という意味での「基元節」を暗示している。文先生が語られている「アフリカに大移動していきます。それが統一世界です」とは、それを意味している言葉となる。

 E) 真の愛を中心とした3つの完成圏と3度の聖婚式

 こう見た場合に、結局夫婦というものは、真の愛を中心としていえば(先生が左記の文字を板書される)、第一に統一完成圏、第二統一、第三統一です。これ(第一)は何かというと、心身一体です。分かりますか? 心身一体とは、真の愛を中心として心と体が一つにならなければならないということです。偽りの愛によって心と体が紛争するようになったのを蕩減復帰して、真の愛を中心として心と体が一つにならなければ、元の基準に返った立場ではないので、天国に入ることができません。分かりましたか?
 そういう真の(愛の)第一統一完成体たる男と女が、夫婦になって一つになるのが、第二統一完成体です。分かりましたか?(「はい」)。第二に、夫婦が一つになったとすれば、見えない神様の形状と性相が一つになったのと同じように、実体的に引き出して、男は本性相的男性の実体、女は本形状的女性の実体として、見えない神様が、見える実体圏となるのです。それはプラス・マイナスであり、例えば心と体が同じように、無形の神様と、神様の見える実体の、性相・形状一体圏です。分かりましたか?(「はい」)。
 心身が一つになって、夫婦が一つになって、三番目には、見えない性相・形状の実体が、見える実体の性相・形状として、心と体と同じように一つになるのです。それは、真の愛によってです。ですから、結婚初夜における愛の根は、神様です。愛の主人は神様なので、良心と愛と神様が一つになって、アダム・エバが結婚するのです。分かりましたか? 神様と(一つになるの)は縦的結婚式であり、アダム・エバの結婚式は横的結婚式になるので、縦的が横的よりも先に立つのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p88〜p89)

図7
 さて、文先生は、お母様との真の愛について『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』(p88〜p89)の中で三段階の統一完成圏あると述べられている。第一段階は “心身一体” としての段階、第二段階は “夫婦一体” としての段階であり、第三段階は “神人一体” の段階があるというのである(図7左)。これは、人間が神の似姿として男と女とに創造された(図8)とする “神の創造原理である「人間の成長の三段階」に基づいた内容” である。

図8
 第一段階の “心身一体” とは、『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1(p11〜p109)・2(p11〜p212)』に記された「真の自分を探しましょう」に語られた “良心革命”(心身の結婚式として)の内容である。
 第二段階の 夫婦一体” とは、男と女のそれぞれが “心身一体” となることで男が神の本性相的男性の実体(男子)となり、女が神の本形状的女性の実体(女子)となった上で、結婚によって “夫婦一体” となって神の似姿となることを示している。ここまでが、“横的結婚式” となる。

 ここで重要となるのは、第三段階の “神人一体” である。これは、見えない「愛の神」である “統一体” としての性相と形状が、見える「真の愛となる実体人間」である “統一体” としての性相(男)と形状(女)との “神人一体” となる “縦的結婚式” となるのです。
 この神の “無形の真の愛(アガペー)” と、人間の “実体的真の愛” と一体となることによって、神の真の愛(アガペー)が「根」(先) となって、実体的に真の愛によって結ばれた横的愛が全てその後に神と連結され、堕落によって神との愛の関係が断絶された状態から創造本然の立場に帰還できる道が開かれる「基元節」を迎えることが出来たはずでした。
 しかし、「真の父」としての文先生が、この “神人一体” となる “第三の聖婚式”(図7右)に「実体」として立つことができなかったことは、この第三の摂理が失敗に終わってしまったことを如実に物語っています。


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