復帰摂理歴史の真実 | ||||||||||
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i. 韓国併合の背景と実態(下) ■ 予言書「鄭鑑録」からキリスト教迫害へ(後編) <参照(再掲載)> ・ 朝鮮総督府による朝鮮の「予言」調査 青野正明(桃山学院大学 教授) B 三・一運動と朝鮮総督府の調査 植民地期の朝鮮において,朝鮮総督府は統治政策を進めるために調査事業をおこないました。三・一運動の衝撃を受けて開始された行政的な目的による調査で、1923年から1941年まで発行されているいわゆる「朝鮮総督府調査資料」です。 総督官房文書課嘱託である村山智順(民俗等に関するもの)と善生永助(経済事情や村落形態など)が担当し、村山の調査資料は統治政策に資することが目的となり、その中で 「予言」 に関するものは、『朝鮮の占卜と予言』(1933年)でした。 a. ) 村山智順 村山智順は新潟県出身で,1919年7月に東京帝国大学の哲学科(社会学専修)を卒業しました。 その後、朝鮮総督府中枢院の嘱託として旧慣制度調査事業の中の「朝鮮社会事情調査」(1919〜23年)を担当しています。1925年には総督官房文書課の嘱託(年手当2,500円)として、「朝鮮事情調査ニ関スル事務」を担当(『朝鮮総督府及所属官署職員録』1925年4月現在)しています。 当時の社会学は社会進化論が主要な位置を占めていたので、村山は社会進化論にもとづいて当時の朝鮮社会を位置付けたと考えられます。そして、調査対象それぞれの宗教事象に対していわば「理想型」(日本では、ウェーバーの「理念型」は「理想型」と訳されたため、大きな誤解を生じたという)を基準に評価を加えて、政策決定での判断材料として提供したとの推論を立てていました。 b. ) 『朝鮮の群衆』 『朝鮮の群衆』(1926年)は、三・一運動後の社会主義・民族主義運動対策のための参考資料として発行されたと考えられます。主に総督府警務局の調査や各地の警察署の取締りにもとづく資料が用いられました。 c. ) 『朝鮮の鬼神』 『朝鮮の鬼神』(1929年)では、「迷信」に位置づけられる「民間信仰」は「朝鮮文化の根幹をなし、外来思想の台木であり、苗床である」といわれます。 もそもこの調査の目的は取締りにあり、三・一運動やその後の社会主義・民族主義運動における精神的土壌の解明が目指されていました。 結論として、村山は「迷信」という言葉こそ用いませんが、『朝鮮の鬼神』の中で「神」と「鬼神」を安易に関係づけて、「神が鬼に接することに依つてその悪性を中和し、又は退消し、その結果人に与へた障害を消散せしめんとする」という「禳鬼」(「迷信」として蔑視・危険視されていた治病行為等)の解釈にまで論を拡大しました。それゆえ、取締りを念頭に調査結果を発表する村山にとって、「禳鬼」の理論的解釈を試みることに最大の関心をよせ、「鬼神信仰」の邪教性の基準を「禳鬼」に置くことになより、「鬼神信仰」は「消極的生活維持の欲求から出発」していると、その根本原因を村山なりに解説しました。 d. ) 『朝鮮の占卜と予言』の調査 『朝鮮の占卜と予言』の「緒言」には、次 のように述べられています。
ここでは「占卜法」における邪教性が「鬼神信仰」から派生したものとして、「自己の生活は他の外力外物の存在に依つて決定せられ、その決定のまゝに導かれるものである」という「宿命観念、運命観念」で表現されています。 さらに、「占卜法」に依頼する民衆の心理を「朝鮮民衆の精神生活を特色づける本質的要素」と、「社会伝統をして恣にその偉力を逞ふせしむる外部的生活環境」という二者の「協力作用」に求めています。後者の「外部的生活環境」については、「社会教化殊に科学的知識」が普及していない状況に起因するとして、社会教化や教育の徹底に解決策を見いだしています。 それは概して自力更生的気力の旺盛を欠くことであり、この気力盛ならざるが故に伝統の力に束縛せられ運命観・宿命観の人生観から解放せられない所以ではなからうか。 「占卜法」の邪教性は「宿命観念、運命観念」で表現され、その原因が別言すれば「自力更生的気力の旺盛を欠くこと」にあると結論づけられました。 <参照> ・ 「朝鮮総督府の宗教政策と国内法の関係」 静岡県立大学 平山洋 C 宗教迫害と神社参拝 <参照> ・ 「韓国に於けるキリスト教弾圧と靖国」 赤羽聖書教会 牧師 野寺博文 (PDF 本サイト) ・ 日本の朝鮮統治における「皇民化政策」と在朝米国人宣教師への圧力・追放 上智大学教授 長田彰文 (PDF 本サイト) a. ) 植民地化と独立運動 1910年8月、朝鮮半島は完全に日本の植民地となり、初代朝鮮総督の寺内正毅(左図)は反キリスト教政策を鮮明にしました。 1911年に起こった105人事件では、逮捕者の大半はキリスト教信者でした。この頃、知識人の多くが信者で、全国的な組織力を持っていました。 寺内は反キリスト教政策のなかで、学校において天皇の写真に敬礼する儀式を強制しましたが、教会はこれを偶像崇拝であるとしてこれを拒んだのです。1915年、総督府は改定私立学校規則(下記資料参照)を公布し、学校教科における礼拝と聖書教育の撤廃を要求したのです。 <参照> ・ 韓国併合および武断統治期における朝鮮総督府の宗教政策 日本基督教団京都教区 長岡京教会 主任担任教師 韓守信 (PDF 本サイト) 1919年1月21日の高宗が崩御すると、朝鮮の独立を主張する全国規模の運動が起きました。1919年3月1日の三・一独立運動は、朝鮮民族代表33名の名前で日本からの独立宣言書が発表され、これに呼応した各界各層の参加によって、抗日独立運動が展開されていきました。 これに対して、日本はキリスト教会が独立運動を操っていると見なして教会を破壊したり、キリスト教の信者を検挙したりしていました。教勢が盛んな地方では、信者に対して過酷な処分がなされました。そのなかでも、1919年4月15日には韓国南西部の水原の近くにあった提岩里教会において、日本軍が信者を教会に集めたうえで、放火して焼き殺してしまいました。このような行為は、中国東北地方の朝鮮教会まで及んでいました。 b. ) 1920年代から30年代にかけて その後、共産主義思想が朝鮮半島に入ってくると、当初は共産主義者とキリスト教信者は必ずしも敵対的存在ではありませんでした。初期の社会主義者として活躍した人物には、キリスト教に入信したか、あるいはキリスト教系の学校で教育を受けた者が少なくありませんでした。彼らの多くは反キリスト教の立場を表明せず、1925年4月17日の社会青年運動が引き金となって朝鮮共産党が結成されると、自信をもった共産主義者たちは、宗教、とりわけキリスト教に挑戦的活動を行うようになったのです。 c. ) 神社参拝問題 1930年代の朝鮮総督府は、朝鮮半島の人々に神社参拝を強制しました。 日本は皇民化政策の一環として植民地に神社を設立していましたが、朝鮮半島でも朝鮮神宮をはじめとする神社を各地に設立しました。 左図上は、戦前に創建された海外神社。左図下は朝鮮神宮。 <参照> ・ 海外神社(跡地)に関するデータベース(旧朝鮮) ・ 玄松子の記憶(廃絶神社) 朝鮮総督府は、神社参拝が宗教儀礼ではなく、国家儀礼であるとして人々に参加を強制しました。 カトリック教会は、国家儀礼であるとする日本政府の説明を表向き受け入れて神社参拝を行うことを決定しました。1936年にローマ教皇庁は、神社参拝は愛国心と忠誠心の表現であるという見解を表明して、神社で国家儀礼が挙行される際は参列するよう日本のカトリック信者を促しました。プロテスタントではメソジストの教会が、カトリック教会に続いて神社参拝に参入し、教会の存続を優先しました。 しかし、長老派は、1938年の総会で警察の介入もあって神社参拝を一度は容認しましたが、後には宗教儀礼であると見なして参加を拒否しました。その結果、長老派の学校や教会が朝鮮総督府から迫害を受け、宣教師の国外退去や、信仰のために参拝に反対する姿勢を貫いた聖職者や信者は逮捕され、殉教していきました。 1920年代から韓国には、教義を理知的・科学的に再解釈する自由主義神学が紹介されていましたが、当時の韓国教会が直面していた神社参拝への対応問題をめぐって、自由主義神学と保守主義神学が激しく対立してしまい、1930年代には韓国教会が、公式的に日本の政策に服従しました。 結局、1940年代の初めには、外国人宣教師が出国させられ、諸教派の教会は強制的に日本のキリスト教団に編入されてしまいました。
D 創氏改名について
創氏改名―日本の朝鮮支配の中で 京都大学人文科学研究所教授 水野直樹 著
この本は、創氏改名政策の実態を明らかにして、その全体像を描きだそうとしたものです。創氏改名については、これまで「同化」の側面ばかりが強調されてきましたが、この本では、以下の三つの点が初めて論じられており、大きな特色となっています。
a. ) 創氏改名まで 朝鮮人の名前は、本貫・姓・名の三要素で構成されています。本貫とは、ある宗族集団(氏族)の始祖の出身地とされる地名のことです。 朝鮮で戸籍が作成されるようになったのは新羅時代(668年〜935年)のことで、本貫の記載が始まったのは高麗時代からです。しかし、本貫と姓を持つ者は貴族などに限られ、農民など一般民衆は名を持つだけでした。 李氏朝鮮王朝時代(1392年〜1910年)になると、次第に本貫・姓を持つ者が増えましたが、両班とされる身分の場合、女性は結婚すると、名ではなく本貫・姓だけが戸籍に記載され、日常生活でも名を呼ばれなくなるのが一般的でした。逆に、奴婢には本貫・姓がなく、名だけで記載されていました。 18〜19世紀に奴婢身分の法律上の解放が徐々にすすみ、奴婢も次第に独立した戸籍に本貫・姓が記載されるようになり、1894年からの甲午改革の中で身分制の廃止、人身売買の禁止などの法令によって最終的に解放されました。 1909年に韓国の法律として民籍法が公布・施行されました。これによって、戸籍によって民族を分別・区別する強固なシステムが築かれました。 民籍編製にあたって日本人官僚は、女性や奴隷身分出身者も含めて朝鮮人一人ひとりに本貫・姓・名を付けさせようとしました。民籍とそれに登録される名前によって朝鮮民衆を把握・管理することが、その目的でした。 しかし、その名前には次のような制限が加えられていました。
1937年7月7日に始まった日中戦争の中で、総督府は朝鮮人の「皇民化」を最大の政策課題に設定すると、「皇国臣民の誓詞」の制定、朝鮮教育令の改正、陸軍志願兵制度の実施、日本語の普及などの政策を相次いで実施しました。総督府内でこれらの政策の立案・実施の先頭に立ったのが、学務局長塩原時三郎(左図)でした。 満州国総務庁人事処長を務めていた塩原は、1936年朝鮮総督に就き、翌1937年7月学務局長に就任しました。 さて、『創氏改名』の真のねらいは、朝鮮的な家族制度、特に父系血統にもとづく宗族集団の力を弱め、日本的なイエ制度を導入して天皇への忠誠心を植え付けることにありました。 当時出版された解説書は、「従来は一身に宗族に結びつけられたが、今後は『各家庭が直接天皇に結びつけられて居る』この理念が第一義となるのである」とその意義を説明しています(緑旗連盟)。朝鮮人を兵士などとして戦争に動員するためには、天皇への忠誠心が必要だったのです。 <参照> ・ 日中戦争の真実 キリスト教読み物サイト ・ 緑旗連盟と戦時下「国語」普及・常用運動 山本博昭(佛教大学大学院紀要/本サイト) ・ 日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策 井上薫(北海道大學教育學部紀要/本サイト) 南次郎(上右図)は次のように語っています。
このように、朝鮮人を「血族中心主義」から脱却させて「天皇を中心とする国体」の観念、「皇室中心主義」を植え付けることが、創氏のねらいでした。 日本での家の称号としての氏が法制化されたのは、1898年(明治31年)の明治民法親族編制定によってで、それ以前は夫婦別姓が一般的で、法律上も夫婦同氏の原則は定められていませんでした。明治民法は、家の長としての戸主に大きな権限を与えたうえで、国家が家を通じて個人を把握するという仕組みを作り上げました。そこでは、家が直接天皇と結びついているという観念が形成され、天皇を頂点とする国家体制を支える役割を果たしました。 しかし、朝鮮には「イエ」の伝統がなかったため、これを朝鮮人に強圧的に押し付けることによってしか、普及・定着を図ることができなかったことは、大きな問題であり誤りでした。 b. ) 創氏実施と強制の実態 1940年2月11日、改正された朝鮮民事令とそれに付随する諸法令が施行れ、氏の設定届の受付が始まりました。「皇紀2600年」の「紀元節」にあたる日に創氏が実施されたのです。 1922年に制定された朝鮮戸籍令の規定によって、管轄区域内の府庁、邑事務所、面事務所が扱う戸籍事務を監督する権限をもっていました。氏制度の周知徹底のために各地の法院長と検事正(検事局の長)を招集して会議を開き、法務局長宮本元は「氏制度の周知徹底」を述べ、地方官庁に指示を出す一方で、総動員連盟・警察署・学校・各種団体に協力させ、「氏制度の事務処理」に関する希望事項などを提示して、氏の届出を増やすための融通性のある事務処理をすることを強調しました。 法務局の指示、総督の訓示がなされ、各地方で創氏徹底の活動が展開され、地域間の競争を煽る傾向が次第に強まっていく中で、当時の咸鏡北道警察部長を務めていた倉島至は、戦後書いた回想で、彼自身は朝鮮人に苦痛を与える創氏を奨励しないと決めたといいますが、「管内巡視の際、創氏改名率の報告をきいた際も、よいと褒めもしなければ悪いと叱りもしなかった」と書いています(倉島至)。 <参照> ・ 植民地期朝鮮の思想検事 水野直樹(京都大学) こうして、氏の届出率は各地域の「皇国臣民」化の程度を測る物差しとなり、届出率の低いところは「不名誉」を挽回するために届出の督励にいっそう力を入れざるを得ない立場に置かれることになりました。 創氏を奨励する講演をしていた李升雨(興亜報国団 常任委員)は、「風聞によれば」としながら、「創氏しなければ、以後は子息が学校に入学する際や、就職する際に差別待遇があるだろうから、やむを得ず(創氏を)しよう」という者がいると書いています。李は、氏の届出をしない場合でも、もとの姓が氏になる、つまり「創氏」することになるから、このような差別待遇があってはならないとしていますが、「風聞」自体を否定していません(『三千里』1940年5月号)。 強制がなされていると指摘する声は、警察文書にも記録されています。「極めて親日家と目せられ相当有識者階級の人物」が語ったとされる次のような言葉があります。「仄聞する処に依れば、最近各官庁にありては成績不振なる事実に鑑み、或程度強制的に実行せんとする傾向もあり。若し斯かる強制手段が事実なりとせば洵に重大問題にして南政治の一大失政なりとの悪評は弥が上にも昂まるに非ずや」(『氏制度ニ於ケル民心動向ニ関スル書類』)。 農本主義者で中国問題研究者の長野朗は、朝鮮を視察した報告を7月初めに真崎甚三郎(陸軍中将・予備役)に提出しましたが、その中で創氏の政策について、「強制的にやっている。即ち警察、裁判所、学校の諸機関を動員している。営業其他の諸許可を受ける時に強制され、学校では生徒を通じ、創始して始めて真の日本人になると親を強制」していると記しています(朝鮮視察概況)。 1940年(皇紀2600年)8月10日、氏設定の届出が締め切られ、直後に報じられた数字は全戸数の「約70%」というもので、「すばらしき好成績」と評価されました。その後の集計によって、届出率は80%に達することになりました。
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