復帰摂理歴史の真実 | |||||||||||
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j. 摂理としての韓国併合 1. アダムとエバの堕落による、自我と自己否定、主体意識と対象意識 a.) 「蕩減」から「堕落」を考える 「蕩減」の意味について考えてみると、「減」は“罪を軽くすること”という意味があります。では、何の“罪”を軽くするのかが「蕩」という字にあります。『蕩かす(とろかす)』という言葉がありますが、これは“惑わして本心を失わせる”という意味です。このことから、「蕩減」とは、(サタンに)惑わされて、自らの“本心”を見失った“罪”を軽くすることとなり、「復帰」とは、自らの“本心”を明確にして、(本心の主体である神との)関係を取り戻すことにあるといえます。 このことから、「堕落」とは、サタンに惑わされて、自らの“本心”を見失い、サタンと相対基準を結ぶことによって、その(サタンの)対象となる“邪心”が確立し、“本心”が未熟な(神との関係が築かれない)ままとなったため、“邪心”の志向性が優先される(あるいは、本心の志向性が閉ざされる)様になったことをいいます。 b.) 「自我」と「自己」 <参照> ・ 「自我」と「自己」の違いとは? アイデンティティとパーソナリティの意味 リバータリアン心理学研究所 <下記は、上記参照ページからの転載です。>
c.) 「主体意識」と「対象意識」
『人間はまず、(第一義的に神の)対象挌位にあり、次に(被造世界において)主体挌位に立つようになります』。また、人間は、誕生と同時に子として、親が愛する愛の対象的存在であり、子はその親の愛を受け入れて、満足と喜びの「(親から見ての)美」を返す対象各位です。 つまり、人間はその主体の対象であるという自覚や意識なしに、その主体の対象としての「挌位的存在」として出発するのです。 これは、天使長ルーシェルにとっても同じことであり、アダムとエバの誕生とその成長によって天使長ルーシェル自身に「自己(Personality)」が芽生え始め、自らの「自我(identity)」と葛藤するようになり、エバを誘惑するようになったと考えられます。 ところが、エバがその誘惑に反応してくると、ルーシェルは主体的立場でエバを誘惑するようになり、神の対象としての天使長の立場を逸脱してしまいました。 結局、「自己(Personality)」によって「自我(identity)」がコントロールできなくなってエバと(霊的性)関係を結んだことが『堕落』となって『邪心』を実らせたのです。 人間は、創造主としての神を主体としてその(各位や意識が)対象に立つことができなかったことは、「自己」という立場での環境とのかかわりの中で「自我」と絶えず葛藤しながら、その環境が厳しくなればなるほど「自我」の要求が強くなり、混沌とした心の状態となって様々な争いを繰り返してきました。このため、人類は有史以来その心の善の主体となる存在を探し求めてきたのです。 2. 善悪の分立による蕩減復帰とは、何を蕩減し、何を復帰するのか a.) 分立摂理の「象徴」と「実体」 天使長ルーシェルがエバを誘惑して(霊的)堕落したことによって、サタン(堕落した天使長ルーシェル)の性稟をエバは「邪心」として実を結び、「邪心」によってアダムを誘惑し、アダムとの肉的堕落によってアダムには「邪心」が宿り、エバの胎には子が宿りました。 堕落による良心の呵責によってエバの胎には長子カインを宿し、神の前へ再起を願って次子アベルを宿しました。カインとアベルは血統的に見ればアダムを分立した善悪の表示体ではありますが、エバの心の状態を善悪の表示体として象徴したものともいえます。カインは「邪心」の表示体、アベルは「本心」の表示体として考えれば、その解決はアダムだけではなく、むしろエバ自身にもあったといえます。 「復帰」とは、まず「本心」が「邪心」の前に主体的立場を取り戻し、「本心」が「邪心」を主管することにありましたが、サタンとの堕落によって生じた「邪心」は、神との授受が確立しないままの「本心」の前にはより強固なため、自分の心の内に潜む「邪心」を否定(自己否定)することが不可避的なことでした。 さて、神の再創造の摂理はメシアの降臨によって、@@アダムは天使長の立場でメシアの本心の対象(絶対対象)となり、善の天使長の立場を復帰し、サタンとエバの堕落を蕩減復帰するために協助し、Aエバはメシアを創造本然の夫に立つべきアダムの身代わりとして(メシアの)娘の立場から妹の立場を経て本然の愛で愛する心情を取り戻して、BBアダムを夫として迎えて、メシアの祝福によって堕落以前のアダムとエバに立場で家庭を出発していくことでした。 それらのすべてにおいて「邪心」の否定としての「自己否定」は必要なのですが、エバが死線を超えて堕落した(霊的堕落)様に、死ぬ様な境地の中で本心を通じて神の愛にのみ相対し、邪心からくる自己の一切を否定する「完全(絶対的)な自己否定」によってメシアが誕生し、救いの摂理は蕩減の原則に従って今日まで来ました。 蕩減復帰によるメシアによる祝福によって、神が臨在する「本心」が互いに授受する夫婦となり、神が直接主管する家庭を築くことが、メシア降臨の目的です。 b.) 韓国併合前後における日本と韓国 ところで、1902年1月30日に英国と日英同盟を結んだ日本は、英国が失敗したことを蕩減するエバの国に立った(前頁参照)としたなら、大韓民国はアダムの国となるのですが、このとき韓国は、中国とモンゴルやロシアとの歴史的経緯からメシアに対して善の天使長国家としての使命を担うべきでした。しかし、すでに日本は韓国を支配下に治め満州帝国を築きはじめていて、神の復帰摂理に背く立場にいました。
3. イエス以前のユダヤと、植民地化前後の日本と韓国 a. ) 日本の使命と大東亜共栄圏の失敗 さて、大東亜共栄圏のもととなる考えは、幕末に福井藩の政治顧問として、政治総裁職・松平春嶽(慶永 福井藩主)に仕え、将軍後見職・徳川慶喜(後に将軍)のブレーンとしても、幕政改革に参画した政治思想家・横井小楠(1809年〜1869年/左図)は当時、列強に伍する為に日清朝三国による同盟・団結することを提唱しました。 <参照> ・ 横井小楠の教育・政治思想 愛知東邦大学 荒川紘 (PDF・本サイト) ・ 坂本龍馬の明治維新構想への影響大!横井小楠の故郷・熊本へ ・ 横井小楠 先生 奇しくも、横井と同様の構想は、当時の朝鮮においても「三和主義」(日清朝の東亜諸国が協力して列強の侵略に抵抗する)として唱えられました。しかし、この構想は、1869年(明治2年)横井が暗殺され、日本が「日韓同盟」路線から「征韓論」へと国策を転換した事で幻に終わったのです。 その後、1881年(明治14年)3月に、外国の首脳としてハワイ国王・カラカウア1世が初めて来日し、明治天皇と会見すると「日本とハワイが天皇の下に合邦(連邦)し、更に、日本を盟主に『大アジア連邦』を創設、一丸となって列強に対抗する」と言う提案をしました。この提案は幻となりましたが、これを契機として日本は間違った方向に進みはじめました。 時を経て、1943年(昭和18年)11月5日から11月6日にかけて東京で行われた「大東亜会議」は、1943年5月31日に御前会議で決定された大東亜政略指導大綱に基づき開催されたアジア地域の首脳会議です。 参加国は、日本、中華民国、満州国、フィリピン共和国、ビルマ国、タイ王国のほか、インドもオブザーバーとして、それぞれの国家を代表する指導者たちが一堂に会しています。また、この会議の直後にはインドネシアのスカルノ氏も東京を訪れ、最大級の接待を受けていました。 そして、11月6日に大東亜共同宣言が全会一致で採択されました。
・ 「大東亜共栄圏」の理想を共有した日本とアジア b. ) 満州国建国の失敗と共産主義 ・ 満州帝国の光と闇 〜建国80年目の真実〜 (徳間書店) 中国東北地方の満州(満蒙)とは満州族(古くは女真族といった)という民族の名であり、清王朝が満州族によって樹立ました。 清朝末期から辛亥革命(1911年)を経て中華民国が全国を統一するまでに約17年かかりましたが、関東軍はその最後の統一事業を妨害して満州帝国を誕生させ、日本の植民地としました。 日本は、日露戦争勝利後から満州に軍隊・関東軍を駐屯させていました。それは、日露戦争で得た ※ 満州の権益(関東州と満鉄線・その付属地)は、10万の戦死者の犠牲のもとに手に入れた歴史的に見て当然であるという、日本人全体の感情論があったためです。 その権益を革命政府の中華民国政府がいつ奪い返すかわからない情勢にありました。 ※ 満州の権益とは、日露戦争の勝利によってロシアから譲られ、清王朝に日本の租借地にすることを承知させた権益であり、「関東」は山海関の東側を指す呼び名で、満州地区のことであり、大連から長春間の南満州鉄道(満鉄)線及びその付属地を含む遼東半島の先端地区までを含めた地域の権益のことです。 1928年(昭和3年)3月1日、木曜会と名乗る軍人グループの会合が開かれ、そこに二葉会と名乗る軍人グループに属していた東条英機中佐がオブザーバーで出席し、「日本が存続していくために、満州の地でいかに戦争を起こすか」というテーマで会議が開かれました。 そこで、座長役の東条中佐がひとつの「判決(結論)」を書いて同意を求めました。
1928年(昭和3年)5月、張作霖が北京政府の最高指導者に就いていたころ、蒋介石率いり北伐軍は北京に迫りました。関東軍は北伐軍との戦いに勝つ見込はないからと、張作霖を古巣の満州へ帰還させようとしました。 しぶしぶ従った張作霖が列車で北京から奉天に帰る途中の6月4日早朝、その列車が奉天から皇姑屯間の皇姑屯寄りの満鉄線と交差する地点に差し掛かったとき、橋梁もろとも爆破して張作霖と同乗者らを殺害しました(張作霖爆殺事件)。 この事件をリードしたのは関東軍高級参謀の河本大作大佐で、これを機に、最大軍閥の首領が死んで満州の治安が悪化するという理屈をつけ、関東軍が全満州を制圧するという手はずでしたが、張作霖側の機転でそうはならず、事件は単なる張作霖暗殺で終わってしまいました。 1928年(昭和3年)10月、関東軍に作戦参謀として石原莞爾中佐が着任しました。石原は1927年の秋、伊勢神宮に参拝して瞑目して神前に祈っていると霊威を受けたとして、12月30日「現在及び将来に於ける日本の国防」という原稿を書き上げました。
そして、石原は「満州国」建設を推進し、「東亜諸国民(民族)の水平連合によって、欧米列強の覇道に対決する」と言う「東亜連盟」構想を唱えました。 関東軍は1931年(昭和6年)9月18日午後10時30分頃、満州事変の発端となる奉天郊外の柳条湖付近で満鉄線を爆破(柳条湖事件)し、全満州を制圧してしまいました。この頃、蒋介石は共産党軍の壊滅作戦を実行中で、国内をさせて外敵を攘つ「安内攘外策」を大方針としていたため、このことは思ってもみない暴挙でした。 こうして、関東軍は清朝廃帝の愛親覚羅溥儀を満州国皇帝に担ぎ上げ、「五族協和の王道楽土」を標榜する「満州国」を建設(1932年)したのです。 これに対して、国際連盟はリットン調査団を派遣して満州国建国のいきさつを調査し、1933年(明治8年)2月24日、連盟は中国人の自由意思による建国とは認めなかったため、日本は国際連盟を脱退(3月27日)してしまいます。 <参照> ・ 「大東亜共栄圏」は軍部が発想したものではなかった!! ・ 石原莞爾のホーム・ページへようこそ ・ リットン報告書(日支紛争に関する国際連盟調査委員会の報告) ・ リットン調査団の虚構 ・ 15年戦争資料 @wiki リットン調査団報告書 柳条湖事件(満洲事変)で満州から追い出された張学良は熱河省(満州内)で義勇軍を作り、反満抗日に動き出しました。 これに対して、関東軍は1933年(昭和8年)2月23日に熱河作戦を開始し、張学良軍を破って万里の長城の主要な関門を押さえ、張学良軍は万里の長城以南(関内)へ追いやられました。この作戦は、満州独立を脅かす敵を掃討するために行なった満州独立に付属するものでした。 こうして領域を拡大した満州国の範囲は、南は万里の長城を境界として河北省に、北は黒竜江省でソ連(今のロシア)に、西は当時の中国内モンゴルの察哈爾省・モンゴル人民共和国(現在のモンゴル共和国)・ソ連に接していました。 そして、1937年(昭和12年)7月7日に共産党による謀略によって盧溝橋事件が起こり、これが日中戦争へと進展してしまいます。中華民国では国民党に対して劣勢だった共産党は起死回生を図り、日本軍と国民党軍双方を戦わせて疲弊させ、漁夫の利を得ようと考えたのです。 <参照> ・ 仕掛けられた「日中戦争」 ・ まぼろしの満州国 こうしたことから、蒋介石率いる国民党と干戈を交えた日本は、その後太平洋戦争(大東亜戦争)に敗退し、大陸から撤退しました。このとき、ソ連から武器援助をもらって、日本との戦いに疲弊した国民党を叩いた毛沢東率いる八路軍は、国民党を追い出し中華人民共和国を建国しました。 c. ) メシアを迎えられなかったユダヤの蕩減復帰 <参照> ・ 韓国併合の背景と実態(上) さて、上記参照ページの問題となる箇所を見てみましょう。
・ “ユダヤ” ⇒ “韓国” ・ “ヘレニズム文化の導入” ⇒ “欧米文明を積極的に取り入れて近代化した日本文化の導入” ・ “ギリシャ文化” ⇒ “神道文化” ・ “ハスモン王朝” ⇒ “大韓帝国” ユダヤは、その後ローマ帝国に支配され、イエスの誕生を待つことになります。 <参照> ・ セレウコス朝支配下のユダヤ ・ ハスモン王朝 ・ ハスモン朝 話はもどりますが、幕末の日清朝三国による同盟構想は福沢諭吉に強く影響を受けた金玉均が「三和主義」を唱えられ、金玉均は開化派の指導者として朝鮮内政のクーデター計画を断行し実権を掌握しますが、守旧派である事大党の反動によって失脚し日本への亡命を余儀なくされます(甲申事変)。このことによってくすぶっていたハワイのカラカウア王が提案日本・ハワイ連邦構想が火種となって、日清・日露戦争が起こり、韓国独立への思いを込めて努力してきた伊藤博文の努力もむなしく、韓国併合を成し遂げると日本を中心とした東亜連盟構想によって満州帝国を樹立させ、ハワイの真珠湾攻撃によって太平洋戦争(大東亜戦争)を引き起こしました。 ここに至るまで、(下線部分における)韓国国民は頑なに反対し、暴動を起こし多くの血を流してきました。このことによって日本は平和的な路線から力による軍部主導の強行路線へと変貌していくのです。 太平洋戦争中に日本は東京で大東亜会議を開き、米英の侵略による人種差別や搾取から解放するとした植民地開放を唱えることで大東亜共栄圏の東南アジア諸国を結束させると同時に、韓国植民地化をそのための手段とし、太平洋戦争を正当化して勝利に導こうとのろしを上げたのです。 <参照> ・ カラカウア王の提案〜幻に終わった日本・ハワイ連邦構想 ・ 「三和」に殉じた金玉均 ・ 福沢諭吉の朝鮮独立支援から、「脱亜論」まで ・ 福澤諭吉 ・ 伊藤博文 ・ 石原莞爾(かんじ)と東亜連盟
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