復帰摂理歴史の真実

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■ 2. キリシタン禁制と寺請制度
     d. 秀吉と伴天連追放令(下)


@ イエズス会宣教師


フランシスコ・カブラル (1529年〜1609年4月16日)

 スペイン系貴族の子。
 日本布教区の責任者であったカブラルは、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに徹底的に批判され、解任されました。

 インド各地で要職を歴任したのち、コスメ・デ・トーレスの後継者として日本に派遣されました。
 1570年6月天草志岐に到着するとただちに日本布教区責任者となったカブラルは、志岐で宣教会議を行い、今後の宣教方針を決定しました。
 そこでカブラルの指摘した問題点は、「日本においてイエズス会員が絹の着物を着ているのは清貧の精神に反している」 ということでした。前任者のコスメ・デ・トーレスは日本においては身なりや服装がきちんとしていない人物は軽蔑されるという事実にかんがみて、宣教師たちにあえて良い服を着ることを奨励していましたが、着任早々のカブラルはそういった事情は考慮していませんでした。

 カブラルは、コスメ・デ・トレースの 「適応主義」 を真っ先に否定しました。彼は元来インドに赴任した軍人であり、「ヨーロッパ中心主義」 という同時代人の制約を超えることができなかったのです。カブラルの目から見れば、アジア人である日本人は低能力な民族であり、布教においても宣教師が日本文化に合わせるより、「優れた」 ヨーロッパ式を日本人に教えこむことのほうが日本人にとって良いと考えていたのです。

 1573年にはカブラルは山口へ足を伸ばすと、そこはコスメ・デ・トーレスが1556年に訪れてから誰も宣教師が訪れていなかった地域であったため、信徒の大歓迎を受けました。九州に戻ると、大友宗麟に洗礼を授けたのもカブラルだったのです。

 一見、順調に進んでいるかのようなイエズス会の布教活動でしたが、カブラルの方針によって日本人信徒と宣教師たちの間に溝ができつつありました。カブラルは日本語を不可解な言語として、宣教師たちに習得させようとせず、日本人に対してもラテン語を習得させようとしなかったため、日本人が司祭になる道を閉ざしていました

 カブラルにとって日本人改宗者は堪えられない存在だったのです。特に誇り高い武士や元僧侶は、後にイエズス会から多くの棄教者、背教者を出す結果となりました。その一例として、禅僧ファビアン・フーカン (不干斎) はすぐれたキリスト教布教書を著した有能な司祭志願者だったのですが、後に寝返るとその著書である反キリスト教論 『破提宇子(はでうす)』 の中で、宣教師に対して 「人には謙遜を勧めるが伴天連自身は高慢で、日本人を人と思っていない」 と表現しています。

 1579年総長の名代として日本を訪れた巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、九州においてカブラルから日本人が布教に適していないという悲観的な報告を受けて衝撃を受けました。カブラルは止めたが、ヴァリニャーノはあきらめきれずに畿内へ視察に赴くと、畿内においてヴァリニャーノは多くの優れたキリスト教徒たちや、キリシタンの武将たちに会って感激し、日本布教区の問題点が実はカブラルにあるのではないかと考え始めたのです。

 視察を終えたヴァリニャーノはカブラルの宣教方針を完全に否定し、カブラルが禁じた日本人司祭の育成、日本布教区と本部との連絡通信の徹底、トーレスの適応主義の復活を指示しました。ヴァリニャーノはトーレスの日本文化尊重の姿勢を絶賛し、宣教師が日本の礼儀作法を学ぶことの重要性を指摘しています。

 カブラルはヴァリニャーノを逆に非難しましたが、結果として1581年布教責任者の立場を解任されると、後任にはガスパル・コエリョが任命され、日本地区が準管区に昇格したため、コエリョは初代準管区長となりました。




ガスパル・コエリョ (1530年〜1590年5月7日)

 ポルトガルのオポルト生まれのイエズス会司祭。

 コエリョは1556年にインドのゴアでイエズス会に入会しました。同地で司祭に叙階され、1572年に来日すると、九州地方での布教活動にあたりました。

 1581年に日本地区がイエズス会の準管区に昇格すると、アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって初代準管区長に任命され、1585年には宣教を優位に行いキリシタン大名を支援する為、フィリピンからの艦隊派遣を求めています。

 さらに日本全土を改宗した際には日本人を尖兵として、中国に攻め入る案を持っていました (この案は、彼だけでなく多くの宣教師が共有していました)。

 1586年には地区責任者として畿内の巡察を行い、3月16日に大坂城で豊臣秀吉に謁見を許されると、日本での布教の正式な許可を得たのです。しかし翌年1587年に、九州征伐を終えた秀吉は、ポルトガル商人が日本人を奴隷等として海外に売っていた事 (奴隷貿易が行われていたこと) を知ると、バテレン追放令を発布し、布教責任者であるコエリョを召喚して叱責しました

 コエリョは、ヴァリニャーノの定めたキリシタン領主に過度の軍事援助を慎むと言う方針を“無視” して、フスタ船を建造して大砲を積込むと、更にはそれを博多にいる秀吉に見せるという行為を行ったのです。高山右近や小西行長がこの行為を懸念して、コエリョにその船を秀吉に献上するように勧めましたが、これには全く応じませんでした。ヴァリニャーノやオルガンティノによると、バテレン追放令はコエリョのこうした秀吉に対する挑発的な行為に主な原因があるとしています。

 これを受けたコエリョは大友宗麟や有馬晴信に対して、キリシタン大名を糾合して秀吉に敵対することを求めると、自身もその準備に乗り出しましたが、有馬は小西と同様にコエリョを嫌っていたので実現しませんでした。その後、コエリョはフィリピンへ援軍を求めましたがこれを拒否され、次に1589年にはマカオに使者を送ると、天正少年使節を伴って再来日を伺っていたヴァリニャーノには、各位に働きかけて大規模な軍事援助を求めるよう要請したのです。その間、全国のイエズス会員たちを平戸に集結させて、公然の宣教活動を控えさせることにしたのです。

 コエリョは1590年に肥前国加津佐で没しましたが、ヴァリニャーノはこのコエリョの要請に驚き、彼が準備していた武器・弾薬を総て売り払って、日本で処分するのが不適当と思われた大砲はマカオに送ることを命じています (ただし、ヴァリニャーノも程度の差こそあれ、かつてはコエリョと同様にキリシタン大名へ支援することは考えていたのです)。




コスメ・デ・トーレス (1510年〜1570年10月2日)

 カトリック教会の司祭。ザビエルの意志を受けてイエズス会宣教師として18年にわたって日本で宣教。彼の目指した「適応主義」 (宣教師が現地の文化に根ざして生きること) は当時のヨーロッパ人の限界を超えた思想であり、日本におけるキリスト教布教の成功をもたらしました

 スペイン・バレンシア出身のトーレスは若くして司祭となると、故郷を離れてメキシコに渡りました。さらにビリャロボス艦隊に同行して東南アジアのモルッカ諸島までやってきたのです。

 1546年、そこでトーレスは運命的な出会いをすることになります。たまたま同地に来ていたザビエルと出会うと、ザビエルに心酔し、トーレスは共にインドのゴアへ渡り、同地でイエズス会に入会したのです。

 ザビエルや日本人ヤジロウと共に日本への宣教を志したトーレスは、1549年8月15日鹿児島に到着すると、ザビエルと同じように日本人に好印象を抱き、宣教への夢をふくらませました。

 一行は平戸の松浦氏の庇護を受けることができたため、トーレスは京都を目指したザビエルらと別れて平戸に滞在したのです。さらに1551年にザビエルがインド目指して出発すると、ザビエルはトーレスに日本布教の責任を託しました。トーレスは日本人ロレンソ了斎などの協力者を得て地道な宣教を続けて行きました。

 トーレスが宣教責任者として成功した理由には彼の 「適応主義」 があげられます。これはサビエルの意志でもあったもので、日本ではヨーロッパ人の宣教師たちが、日本文化を尊重することによって日本式の暮らしを行うことを求めたのでした。トーレス自身、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、日本の着物を着て後半生を過ごしたのです。

 トーレスの地道な活動は実をむすびました。山口や九州の各地で徐々にキリスト教が広まり始めたのです。彼は戦乱に翻弄されて山口、豊後、肥前などを転々としながら、後続の宣教師たちを教育し、日本人協力者を養成し、信徒の世話をし、仏僧たちの議論に答えました。1556年には商人だったルイス・デ・アルメイダがトーレスの感化によってイエズス会に入会すると、以後宣教師として盛んに活躍することになます。

 トーレス自身も九州各地で宣教を続け、1563年には大村純忠に洗礼を授けて初のキリシタン大名とし、またキリシタン布教と不可分の関係にあった南蛮貿易の拠点として1562年には横瀬浦 (長崎県西海市) 、ついで1570年長崎の開港に尽力したのです(ただし長崎に最初のポルトガル船が来航したのはトーレスの没後の1571年でしたが、彼自身はこれには立ち会えませんでした)。

 日本地区の布教責任者として、各地を転々としての宣教に疲れ果てたトーレスは、1560年代のおわりにインドの上長に新しい布教長の派遣を依頼すると、これに答えて派遣されたのが、1570年6月に天草に到着したのがフランシスコ・カブラル神父だったのです。その後コスメ・デ・トーレスは、1570年10月2日天草志岐(熊本県天草郡苓北町)で死去しました。

 トーレスが日本に来たとき、1人の信者もおらず、1つの教会もありませんでしたが、彼の死去時には京都、堺、山口、豊後、博多、肥前などに多くの教会と多数のキリスト教徒が生まれていました。サビエルの夢を実現させたのは盟友トーレスであったと言えるでしょう。




ルイス・デ・アルメイダ (1525年〜1583年10月)

 ポルトガルの首都リスボンに生まれます。
 商人でしたが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して日本初の病院をつくったことで知られています。後にイエズス会員となりました。


 1546年ポルトガル王から与えられる医師免許を取得したあとで、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡ると、1552年に貿易目的で来日しました。山口でアルメイダはイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会い、フランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていました。

 アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して、思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまると、私財を投じて乳児院を建てました。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされています。

 さらに、豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年外科内科ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てました。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所となったのです。一般病人のうち彼は外科を受け持ち化膿創(かのうそう)の治療に当たりました。日本語が堪能で患者と自由に話し合いが出来たため、200人以上の患者を治癒することができました。このため名声は京都、東北地方まで達し、僧侶、武士、著名人が次々に訪れ、1559年には早くも第二のより大きな病院が建てられたのです。

  戦国時代には、悲しい庶民の口べらし手段として乳児を山野・海浜に捨てたり、扼殺、溺死させられたりする子供たちがいましたが、彼は大友宗麟にこの現実を告げると、子殺し禁令を出させて、自ら資金を提供して乳母と乳牛二頭を備えた育児院も建設しました。

 布教においては、コスメ・デ・トーレス神父が、改宗のむずかしそうな土地へたびたびアルメイダを向かわせると、学識あるアルメイダは僧侶など知識人の欲求によく応えて改宗へと導きました。医師としても貧しい人々を助けたことで多くの信者を獲得したのです。

 神父としての活動を始めてからは、貿易への投資を続け、病院の資金を調達したり、慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく私財を寄進しました。

 日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは、1558年には医学教育を開始し、医師の養成を行っていました。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになと、1566年には五島の領主宇久純定に治療を依頼されるほどにその名声は高まっていたのです。

 1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭に叙階されると、再び日本に戻って宣教活動・医療活動に専念しますが、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没してしまいます。

(現在のアルメイダ病院




グネッキ・ソルディ・オルガンティノ (1533年 - 1609年4月22日)


 イタリア人宣教師。カトリック司祭。イエズス会員。
 日本人が好きな彼は、「うるがんばてれん」 と多くの日本人から慕われて30年を京都で過ごしました。

 1533年北イタリアのカストで生まれたオルガンティノは22歳でイエズス会に入会しました。ロレート (イタリア) の大神学校、ゴア (インド) の大神学校で教えた後で日本に派遣されました。来日は1570年6月18日に、天草志岐でその第一歩をしるしました。

 オルガンティノは、はじめから京都地区での宣教を担当すると、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事しました。1577年から30年にわたって京都地区の布教責任者を務めたのです。オルガンティノは1576年に京都に聖母被昇天教会、いわゆる 「南蛮寺」 を完成すると、1578年における荒木村重の叛乱時 (有岡城の戦い) には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けたのです。

 1580年には、安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨを建てました。オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働くと、最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちでした。この第一期生の中には、後に殉教するパウロ三木もいたと言われています。しかしこのセミナリヨは、信長が本能寺の変で横死した後で安土城が焼かれた時に放棄されました。1583年には、豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願うと、大坂に与えられましたが、結局のところ右近の支配する高槻に設置されたのです。

 1587年伴天連追放令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てました。オルガンティノは右近とともに表向き棄教した小西行長の領地である小豆島に逃れて、そこから京都の信徒を指導したのです。翌年、右近が加賀国に招かれると、オルガンティノは九州に向かいました。

 1591年には、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁し、前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされました。1597年には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っています。オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたと言われています。

 半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは最晩年、長崎で病床につき、1609年76歳で没しました。





A 秀吉の懸念と伴天連追放令


 秀吉の伴天連追放令は、キリスト教を弾圧や抑圧するものではありませんでした。宣教師が優れた教義を説き、それに信者自らの自発的に帰依するのであればまだしも、日本の仏法を実力で破壊して信者を獲得しているのは不届きであるとして、イエズス会宣教師を対象として発令されたのが 「伴天連追放令」 でした。

 これはあくまでも、寺社の破壊と強制改宗に対する非難であり、キリスト教の教義を非難したものではなく、その行動様式を非難したもので、「邪法」 と断じたのです。

 これに対して、多くのキリシタンは決してやめる事はせず、それに対して見せた弱さを罪として公の償いが行われ、その言葉を発したことを撤回する告解がなされたのです。

 当時の仏教にもいくつかの矛盾は当然としてあったのでしょう。改宗した仏僧らは、日本の諸宗派の誤りをよく理解していたたため、彼ら自ら仏堂に保持していた大量の重要な仏像を持参し、仏像の破壊をともなう改宗が行われていたのです。

 秀吉の伴天連追放令は、すべてのキリシタン大名にへ棄教勧告を求めたものではありませんでした。秀吉は、人々が自分のより一層求める宗派に従うことについては自由であるとして、これを一般的な 「日本の習慣」 としました

 むしろ、この習慣に背けば反乱が起こりかねないことえを危惧していました。秀吉は、キリシタンに改宗することは自由としながらも、それまでの気持ちがないままに、それを押し殺してまで強制的に改宗するのは不届きであるとしたのです。




B 摂理からみた日本の立場


堕落と復帰


 神によって創造されたアダムとエバは、天使長ルーシェルの誘惑によって堕落してしまいました (左図右側)。

 現実的には、(左図左側の) 堕落世界のみになってしまいました。



 さて、堕落した地上界は、サタンにアダムが主管され、アダムにエバが主管されたサタン主管圏と化されてしまいました (左図左上)。

 神は、堕落したアダムの代わりにメシヤを地上に送ります (左図右側)。

 この時、アダムとエバは (父母なる) 神によって誕生したので、父母なるメシヤによって救われ復帰されなければなりません (左図下右)。

 しかし、父母としてのエバ (本妻) も救いの対象であるエバ (妾) も堕落世界から選び出さなければなりません (左図下)。

 これは、ヤコブがレア (本妻) とラケル (妾) とともにイスラエルとして勝利した事によって可能な摂理となりました。

 その上で、メシヤはサタン圏から善の天使長男性を探し出し、次に復帰されたエバ (女性) を探し出して堕落の経路と反対の経路をたどって復帰の完成を果たさなければなりません (左図下左)。

 この時、メシヤがすでに勝利した縦的八段階の路程を復帰されたエバ (妾) もメシヤとともに勝利し相続していかなければなりません。しかしこれは、妾の立場でメシヤとともに上がっていきますが、相対的に本妻の立場は下がっていきます



 さて、真なる父母であるメシヤによって祝福 B を受けると男性は天使長 @ の立場から主観性を復帰して C、エバ A の夫の立場を復帰しなければなりません (左図上)。

 その祝福された家庭は、特に (妾としての) 女性はメシヤ家庭の完成のための天使長的立場で使えなければならないのです。

 (上図の時も) この時も天使長の立場は神のみ旨に絶対服従することによって、堕落の経路と反対の経路を辿って真の家庭を完成させるべき復帰摂理路程でした。

 (注) この内容は、1993年から1995年までに行われた女性と男性の修練会で語られた内容を極々簡単にまとめたももです。




西洋史と東洋史のなかの日本の摂理的位置


 上図またはこれまでの内容から、イエスの十字架以降、外的環境圏を復帰しようとした西洋摂理キリスト教をもってしても失敗し、東洋では内的環境圏として精神的宗教圏 (仏教や儒教) を取り入れながらその姿を変えてきた失われた10士族” は、中国大陸を経て、韓国を経由して日本にたどり着きました

 キリスト教は異邦人に伝えられ、ヤコブイスラエルの血統は東洋の最東端にたどり着いたのです。

 神の心情と血統は西と東に分かれ、西のその心情は腐敗し、東のその血統は不純となりますが、どちらも純粋を求めてぶつかり合って争いあったのが日本でした。





C 追放令とその後


 さて、伴天連追放令の直接の引き金になったのは、準管区長ガスパル・コエリョが秀吉のキリシタンに対する非難回避の一定の条件を提示したことに対して “拒否” したことによるものですが、その制裁として発令された伴天連追放令は、イエズス会に属さない日本人キリシタンに適用されたものではなく、その信仰の迫害を意図したものでもありませんでした。

 むしろ、イエズス会宣教師が一般的に持っていた 『日本全土を改宗した際には日本人を尖兵として、中国に攻め入る案』 をコエリョが根強く持っていたため、大砲の積み込まれたフスタ船を秀吉に見せるなどしたことによって、信長時代の中国大陸への進出を現実化させるものとなりました。

 さらに、サン・フェリペ号事件というとんでもない事件が起こることによって禁教令へ、信仰への迫害にその向きを変えていきました。



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