復帰摂理歴史の真実

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■ 2. キリシタン禁制と寺請制度
     c. 秀吉と伴天連追放令(上)


代表的キリシタン大名の信仰とその行動


大友宗麟

 1530年1月3日、大友家第20代当主大友義鑑の嫡男として豊後国府内 (現在の大分県大分市) に生まれます。

 幼名を 「塩法師丸」と言い、10歳の時に元服すると、当時の室町幕府第12代将軍 「足利義晴」 の “” の字をもらい、「義鎮 (よししげ) 」 と名乗るようになります。

 父の大友義鑑は異母弟の塩市丸を寵愛し、塩法師丸を嫌い廃嫡を画策します。

 1550年2月 (宗麟20歳の時) に父の大友義鑑は大友宗麟を湯治に行かせている間に宗麟一派を粛清しようとしますが、逆に宗麟派の重臣たちは決起し、2月10日に塩市丸とその生母を殺害し、その時の傷がもとで大友義鑑も12日は死去します (二階崩れの変)。

 1551年、大友宗麟がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可しました。

 この時、宗麟はポルトガル王へ親書と使者を遣わし、翌年1552年から多くのポルトガル人宣教師がこの豊後府内に訪れるようになります。これを契機にいわゆる “南蛮貿易” が、豊後国沖ノ浜を窓口として行われるようになりました。また博多商人の島井宗室神谷宗湛らと交友し、日明貿易日朝貿易も行いました。

 この南蛮貿易は、「進取」 の精神により推進され、豊後府内の都市まちに空前絶後の繁栄をもたらすことになるのです。

 1567年、豊前国や筑前国で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起すると、これに重臣の高橋鑑種も加わるという事態になり、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させました。

 この毛利氏との戦闘の中で宗麟は、宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請し、その理由として 「自分はキリスト教を保護する者であり、毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」 との手紙を出しています。

 1569年、肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため自ら軍勢を率いて侵攻すると毛利元就が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退します。そして重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の残党である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防国に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を安芸国に撤退へと追い込んだのです (大内輝弘の乱)。

 1578年7月、48歳の宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名はフランシスコ・ザビエルにちなんで自ら選んだ 「ドン・フランシスコ」 と名乗り、正式にキリスト教徒となりました。

 この宣教師フランシスコ・カブラルの日本人を評した言葉として、「私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で、偽装的な国民は見たことがない。…日本人は悪徳に耽っており、かつまた、そのように育てられている。」 とあります。

 その後、耳川の戦い島津軍に大敗すると、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久龍造寺隆信秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていきます。

 1586年、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願します。

 1587年、大友氏滅亡寸前のところで豊臣秀長率いる豊臣軍10万が九州に到着。さらに遅れて秀吉自身も10万の兵を率いて九州征伐に出陣すると、各地で島津軍を破っていきます。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、秀吉の九州平定の後、宗麟はこの年の5月に57年の人生に幕を下ろします。折しも秀吉によるバテレン追放令が出される直前の出来事でした。



  キリスト教と宗麟の信仰

 大友宗麟は、若い頃南蛮人が持ってきた鉄砲が試し撃ちの際に暴発して弟が手に怪我をしましたが、その時に西洋医学による応急処置を見ていました。

 1553年に、デウス堂とよばれた府内教会が建てると、1555年には、ポルトガル リスボンの商人であり、医師でもあったルイス・デ・アルメイダが、当時貧しさのために子どもを捨てたり、嬰児を殺したりする人々の惨状に驚き、宗麟の支持を得て子どもを引き取るための育児院を建設しています。数名の乳母が雇われて子どもたちの世話にあたり、牝牛2頭が用意され、幼児には牛乳が与えられました。

 また、1557年に府内 (現在の大分県庁舎本館のある場所) で日本初の西洋外科手術をポルトガル人医師であるアルメイダと、助手に日本人医師2名の計3名で手術を行わせたのです。

 当時の豊後はらい病 (ハンセン病) が風土病になっており、日本人医師2名は杏葉紋 苗字 太刀を宗麟から賜っています。

 現在、大分県庁舎本館前には 「日本における西洋外科手術発祥の地」 の記念碑が立っています。

 加えて宗麟は領内に、宣教師が伝えた西洋医学の診療所を作るなどして、領民は無料で診察を受けることが出来ました。

 ところで、宗麟はキリスト教信仰の為に、神社仏閣を徹底的に破壊したり、金曜日 土曜日には断食をし、それまで家に伝わっていただるまを破壊する等の破壊行為も行なっています。

 宗麟がキリスト教の為に徹底した神社仏閣破の破壊解体を行ったのは、主にキリスト教国建設を夢見たとされる侵略先の日向国に於いてであり、本拠である豊後国内や筑後国内で行われた神社仏閣の徹底的な破壊は、次期当主義統が行っており宗麟が主導したという資料は見当たっていません

 これは当然に宗教心が発した行動ですが、仏僧の奢侈 (しゃし) を嫌い寺社領を取り上げる政治的意図があったにせよ、単に寺社を破壊するだけでなく仏像や経典の類まで徹底して破壊されています。




大村純忠

 肥前国彼杵郡大村武部郷 (現長崎県大村市三城町) にあった三城城、大村氏の第12代当主。1563年日本初のキリシタン大名となり、長崎港を開港した人物で、同じキリシタン大名の有馬晴信は甥にあたります。



 1550年ポルトガル船が支配地に入港するようになると、これによる南蛮貿易の利益で有馬氏はさらに発展しましたが、同時にキリスト教も広まるようになり、キリスト教を嫌った有馬晴純は激しく弾圧しました。

 父である有馬晴純は次男の純忠大村氏へ養子に出して肥前支配の強化を図ります。

 母が大村純伊の娘であったために1538年に、有馬純忠は大村純前養嗣子となりますが、大村純前には庶子の又八郎 (後の後藤貴明) がおり、この養子縁組のために又八郎は武雄に本拠を置いていた後藤氏に養子に出されました。その後、純忠は1550年に大村家の家督を継ぐようになります。

 このような経緯から後藤貴明は大村純忠に恨みを抱き、一方の純忠も 「実子をおしのけて家督を継いだ」 という精神的重圧としてのしかかりました。

 その中で、打開策を模索してい純忠が見出した答えがキリスト教だったのです。

 1561年、松浦氏の領土であった平戸港ポルトガル人殺傷事件が起こったため、ポルトガル人は新しい港を探し始めると、1562年に純忠は、自領にある横瀬浦 (現在の長崎県西海市) の提供を申し出たのです。

 イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠は、イエズス会士に対して住居の提供などの便宜をはかりました。

 1563年、宣教師からキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した結果、大村領内では最盛期のキリスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったとされています。

 記録によれば彼自身は、次第に純粋な信仰に目覚めると、側室とは離縁し、受洗すると正室のおえんとキリスト教に基づく結婚式をやり直して妻以外の女性と関係を持たず、一夫一婦制を守り続けたとあります。

 死にいたるまで忠実なキリスト教徒であろうと努力していました。また、横瀬浦を開港した際も、仏教徒の居住の禁止や、貿易目的の商人に10年間税金を免除するなどの優遇を行ったりもしています。

 しかし、純忠の信仰は過激なものでもありました、領内の寺社を破壊や、先祖の墓所も打ち壊したり、領民にはキリスト教の信仰を強いて、改宗しない僧侶や神官を殺害したり、領民が土地を追われるなどの事件が相次ぎ、家臣や領民の反発を招くこととなりました。

 1570年、純忠はポルトガル人のために長崎を提供しましたが、1578年には長崎港が龍造寺軍らによって攻撃され、純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退することができたことで、その後1580年に、純忠は長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進しています。

 1582年には、巡察のため日本を訪問したイエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、天正遣欧少年使節の派遣を決めています。

 しかし、1587年3月、豊臣秀吉の九州征伐においては秀吉に従って本領を安堵されますが、55歳の純忠は既に咽頭癌並びに肺結核に侵されて重病の床にあり、1587年6月23日、坂口の居館において死去しました。バテレン追放令の出る前の死でした。





有馬晴信

 有馬義貞の次男で、肥前日野江藩 (長崎県南島原市、のちの長崎県島原市) 初代藩主。

 1571年、兄の有馬義純が早くしてこの世を去ったため、有馬家の家督を継承した晴信は、龍造寺隆信やその支援を受けた西郷純堯深堀純賢兄弟の圧迫を受けて、龍造寺隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなりました。

 1584年島津義久と通じて沖田畷の戦いで龍造寺隆信を滅ぼしましたが、1587年の豊臣秀吉による九州征伐においては、島津氏と縁を切り、豊臣勢に加わっています。

 家督を継いだ当初はキリシタンを迫害していましたが、1580年洗礼を受けてドン・プロタジオの洗礼名を持ち、以後は熱心なキリシタンとなりました。1582年には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣しています。

 南蛮貿易に熱心であり、朱印船派遣の回数は、大名の中では島津氏・松浦氏と並び、九州大名の中でも最多でした。有馬氏の領内は龍造寺氏の侵攻によって度々戦火に晒され、国人衆らの反乱も相次いだ為、決して肥沃な土地ではありませんでしたが、南蛮貿易により多大な利益を上げると、それによって多くの宣教師・キリシタンの協力も得て、沖田畷の戦いでも大量の鉄砲 ・ 兵糧の援助を受けています。

 しかし、信仰に熱心なあまり、破壊した寺社の資材でキリスト教育施設を領内に作らせたり、宣教師の要求によって、領民から少年少女を徴集し、ゴアに本拠を置くポルトガル領インドの副王に奴隷として送ろうとしたとも言われています。

 文禄・慶長の役では、同じキリシタン大名の小西行長の軍に属して従軍し、26歳から32歳までの7年間を朝鮮で過ごしています。

 1600年の関ヶ原の合戦では当初、在国のまま西軍に属したものの、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返ると、小西行長の居城であった宇土城を攻撃して、その功績によって旧領を安堵されることとなります。

 1609年2月、幕府の許可を受けて台湾へ出兵しますが、明との貿易拠点を築くことは出来ませんでした。

 ところが、同年、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオ市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きました。これに怒った晴信は徳川家康に仇討ちの許可を求めると、そこへマカオにおけるポルトガル側の責任者アンドレ・ペソアノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号 (マードレ・デ・デウス号) に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船でポルトガル船を包囲すると、船長は船員を逃がして船を爆沈したのです(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)。

 この事件の後、本多正純の家臣であった岡本大八が晴信に近づき、黒船を沈めた恩賞として家康が有馬の旧領を戻してくれるだろうと、偽りの話しを晴信に持ちかけました。岡本大八は晴信をだまして口利き料として多額の金子を受け取っていたのです。これが発覚して家康は激怒したことによって、大八は火あぶりになりましたが、晴信もまた贈賄の罪をとわれて追放され、妻のジュスタと35名の家臣と共に、富士山の麓にある甲斐の国の谷村に向かいました。そこで彼は岡本大八に被せられた無実の罪にたいし、汚名を晴らそうと幕府に弁明の書状を出しましたが、これは受け入れられず処刑がきまりました (岡本大八事件)。

 キリシタンであった晴信は自害を選ばず、妻たちの見守る中で家臣に首を切り落とさせました (この最後の記述はキリスト教徒側の記録かのもので、日本側の記録では切腹して果てたとされています)。

 岡本大八事件で事件の当事者である晴信と大八がキリシタンであった事から、有馬氏は所領代えとなり、旧有馬領内ではキリシタンへの弾圧がはじまり、これが島原の乱の遠因となっていったともされています。





高山右近

 1549年フランシスコ・ザビエルが来日すると、、一人の目の不自由な琵琶法師が、1551年に山口の街角でザビエルの話を聞いてキリスト教に魅力を感じて、ザビエルの手によって洗礼を授かると、ロレンソという洗礼名を受けました。

 1552年に、高山右近 (幼名は彦五郎) は摂津高山 (現在の大阪府豊能郡) に生まれます。

 ところで、キリスト教に対し好意的でなかった松永久秀によって、奈良の仏僧との宗論のために派遣されたロレソンが理路整然と論破するのを、その論議の審査のために居合わせた高山友照 (右近の父) が聞いてこれに感心し、自らの城にロレンソを招き教えを請い、友照は子の高山右近や家臣などと共にガスパル・ヴィレラから洗礼を受けました。

 このとき、右近の洗礼名は、ジェス ト義人の意) で12歳の時でした。

 やがて、友照が高槻城となり、50歳を過て城主の地位を右近に譲ると、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになりました。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され、神官や僧侶は迫害を受けました。この父の生き方は当然息子の右近にも大きな影響を与えたのです。

 さて、1578年に右近が与力 (よりき) として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻しました。村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を篭城していた有岡城に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしたが失敗しました。右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めると、神父は信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよとアドバイスしました。

 ところで、高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとしたのです。右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫しました。すると、高槻城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと、開城を求める派で真っ二つとなると、懊悩 (おうのう) した右近はここにいたって城主を辞し、家族も捨てて紙衣一枚で城を出て、信長の前に出頭しました。この右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となり、信長はこの功績を認めて、右近を再び高槻城主としました。

 さて、秀吉からも信任のあつかった右近は、1585年に播磨明石郡に新たに領地6万石を与えられ、船上城を居城としました。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行されると、秀吉の側近の黒田孝高が真っ先に棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況となりますが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせました。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住みますが、1588年に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴くと、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。

 1614年、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去すると、長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着しました。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近は、マニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けましたが、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1615年2月4日に息を引き取りました。享年64歳でした。葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われました。



 右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなりました。細川忠興 前田利家は洗礼を受けないまでも、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的でした。

 しかし、右近はキリスト教徒にとっては名君でしたが、神道氏子・仏教徒にとっては父・友照同様に暴君だったとする記録もあります。友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し、神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥りました。領内の多くの寺社の記録には 「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」 などの記述があります。

 反面、『フロイス日本史』 などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしませんでしたが、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となったがために寺社が必然的に減り、廃寺も増えたので、これを打ち壊して教会建設の材料としたと記されています。宣教師側は右近をキリスト教を広めた功労者として賛美する傾向がある一方、寺社側は右近によって領内のキリスト教徒の数が絶大的になり収入が激減したという事情のため、多分に誹謗中傷などをしている経緯があります。





秀吉の詰問を否定した、イエズス会司祭ガスパル・コエリョ

<参考> 「伴天連追放令に関する一考察」 (東洋大学文学部 史学科 著者:神田千里)
  ダウンロードがわからない方は、こちらからダウンロードして下さい。(ファイルは容量が大きいので分割してあります) No.1 No.2


 豊臣秀吉の九州平定の後、1587年6月8日伊勢神宮の神宮文庫から発見された 『御朱印師職古格』 の “11か条の覚書” と、1587年7月24日の筑前箱崎に滞在していた秀吉が、ポルトガル側通商責任者 (カピタン・モールドミンゴス・モンテイロおよび当時のイエズス会日本地区の責任者であったコエリョに対して宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書同年6月19日付の五か条の文書)を手渡してキリスト教宣教の制限を表明したのを併せて 『伴天連追放令』 と言い、原本は長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されています。

 秀吉がキリスト教の制限に走った一つの理由は、伊勢神宮の内訴がなされた事にあります。


a) 大村純忠の場合

 イエズス会宣教師ルイス・デ・アルメイダの証言によると、大村純忠が家臣をキリシタンに改宗する方法として下記のように記されています。

 「彼が総ての領主をキリシタンになるべく説得したことを仏僧らが見た際、彼の領地に起るかも知れない動揺を心得て、そのため、また(本書翰が)長くならないように、述べないことにする他の数多の理由により、最も身分の高い領主たちを、総て一緒にではなく、四人ずつ、五人ずつと(改宗)させることを決めた。さらなる偽装のため、かれらは当の戦場からパードレのもとに送られ、これらの者たちが(改宗)すると、別の者たちを、と総てが改宗し終わるまで送られたのである。」

 1578年1579年の段階では、大村領内の一般民衆は異教徒でしたが、追放令当時(1587年)に大村領内では、キリシタン信仰と伊勢信仰とがせめぎ合っていました。しかし、後の慶長年間には伊勢信仰が復活していたといわれています。


b) 有馬晴信の場合

 島原半島の海岸線に点在する伊勢信仰の極めて盛んな地域で、有馬晴信が受洗した1580年は、キリシタンの盛んな地域となりましたが、晴信刑死直後には大量の一族や家臣らが伊勢信仰の徒となっています。このことから、イエズス会は、伊勢信仰の破壊を意図して、伊勢神宮と天照大神を攻撃の対象としていた事が伺えます。


 キリシタンと伊勢信仰の対立によって、豊臣秀吉は小西行長を使者に立てて、有馬晴信大村喜前の両キリシタン大名に棄教を勧告しましたが、両人とも本音の信仰を隠して切り抜けました。このとき、秀吉の棄教勧告を受けたのは、高山右近小西行長有馬晴信大村喜前大友義統蒲生氏郷6名です。





 秀吉がキリスト教の制限に走ったもう一つの理由は、当時日本でのキリスト教布教の最高責任者はフランシスコ・カブラルで、布教の中心の地は豊後にありました。しかし、カブラルの後任のガスパル・コエリョが責任者となるや、その中心は島原に移ったのです。


 ガスパル・コエリョが秀吉に謁見した際、島津を攻める時にポルトガルの武装船二艘を斡旋するとか、全九州のキリシタン大名を私の手で殿下のもとに集結させましょうと大口をたたいてしう大失言をしてしまいました。それが権力者である秀吉の不興を買うと、さらにこれに加えて、コエリョが自慢げに案内した持ち舟の重武装のフスタ船を見た秀吉が、キリスト教を利用した日本侵略という危惧を抱いた事も制限令の動機となったと言われています。

(左図はフスタ船





 秀吉が準管区長ガスパル・コエリョに送った三ヶ条の「伝言」(詰問)とこれに対するコエリョの回答が、その後の伴天連追放令の発令になりました。


<秀吉の詰問>

第一の事柄 「汝らがこの日本の地で(人々を)強制してキリシタンにする理由は何か。」

 「汝らは他の宗派の仏僧たちと協調した方がよかった。彼らは彼らの家の中やその寺院内で説教するが、自分の宗派にしようとする汝らのように、非常な欲求をもって人々を駆り立てつつ、一地方から他の地方へと歩きまわりはしない。よって今より以後、汝ら全員がここ下に戻るよう命じる。そして、日本の宗教者たちの行うような通常のやり方による以外のやり方で、汝らの宗派を弘めようと望んではならぬ。そしてもしそれをすることを望まないのなら、汝らはみなシナへ帰るがよい。(その場合)予は都、大坂、そして堺の修院と教会の財産を接収するよう命じ、その中にある汝らの家財は明け渡すよう命じる。そしてもし今年はシナからナウ船(フスタ船)が来ないために帰国する機会もなく、(あるいは)帰路の旅費もないのなら、予は一万クルサードに値する米一万俵を帰る費用として遣わそう。」


第二の事柄 「汝らが馬や牛を食する理由は何か。」

 「これは道理に反することである、何故なら馬は交通において人間の労苦を軽減し、荷物を車で運び、戦争で奉仕するために養育されたものである。牛は、それを使って土地を耕すため(に養育され)、農民が食物を栽培する道具である。しかし汝らがそれらを食するならば、日本の王国にとって大変重要なこの二つの恩恵を取り上げられることになる。そしてもしシナからナウ船でやって来るポルトガル人たちもまた、やはり馬や牛を食することなく生きる決心がつかないのなら、全日本の君主である予が、多量の鹿、野生の豚、野生の犬、狐、野生の鶏、ホエ猿、その他の動物を、汝らもポルトガル人も、それらを食して、国民全体の財産として必要な動物の土地を破壊せぬために、(これら野獣を)狩るよう命じよう。もしそれを受け入れないのなら、むしろナウ船が日本に来ることを(予は)希望しない。」


第三の事柄

 「予は当地にやってくるポルトガル人と、シャム人と、カンボジア人が大量の人間を買い取り、故国の日本人、その親族、息子や友人から根こぎにして、奴隷として彼らの国に連れていくことを知っている。そしてこれは我慢ならないことである。
 それゆえパードレは、今日までインドやその他の僻遠の地に売られた総ての日本人がもう一度日本に帰還できるよう計らわれよ。彼らが非常に遠くに、僻遠の国々にいるために、それが可能でない時には、少なくとも現在買い取った者たちを解放されよ。予は彼らを買い取るための銀を遣わそう。」



<ガスパル・コエリョの回答>

第一の事柄に対する回答

 「我らがヨーロッパから多大な労苦、費用、それに危険をともないつつ、日本人に天地の創造主の法と人間が救われることの可能な真実の道とを説くためにのみ来ているのは事実である。しかし誰に対しても強制的にキリシタンにしたことは決してない。というのは見受けるところ、世界の国民の中で、この(アジア)地域における日本人ほど自由な者は存在せず、ここでは強制なしで(改宗が)なされうるのであり、単に理性と真実とによって(改宗が)なされたのである。なぜなら日本人は極めて理性的だからであるこの法について聴いたことを納得し、それら(偶像)の中に救いはないと理解したから、彼らの偶像を崇めることを放棄したのである。人々に宣教を行って、国々を、一地方から他地方へと歩き回ることについては事実である。というのは、聴衆を探して歩くという以外の方法では、我らが外国人であり、我らが説く教説は聴衆にとっては新たなものなので、我らの説く法を広めることはできないのである。」


第二の事柄に対する回答

 「我らの出身国において馬を食することは習慣ではないし、日本人が食しているような他のものを食することも習慣ではない。すなわち、ホエ猿、猫、鼠、狐、野生の犬その他の類のもの(を食する習慣はない)。しかし、人間の最古の食料であるが故に牛が食されていることは事実である。そして我らの生地では、何らの損失を国民全体にも農業にも及ぼすことなく、これが習慣となっている。というのは、この目的のために大量の家畜が飼育されているからである。そしてポルトガルからナウ船がやってくる港に滞在しているパードレ(…「神弟」「兄弟」を意味するキリシタン用語。イエズス会の修道者のうち,司祭職にある者をパードレといい,パードレを補佐する者をイルマンといった)は、同国人らと共にそこに居たために何度か食した。しかし、五畿内に散在している者や他の僻地にいる者たちは、既に通常の日本食で過ごすことに馴染んでおり、牛は食していない。しかし、どちら(のパードレ)にとっても、これ以上決して食さないことは極めて容易である。日本に来るポルトガル商人に対しては、パードレが注意を喚起してもよい。」


日本人の売買に関する第三の事柄に対する回答

 「パードレが、厳罰をもってこれの禁止を命じていただくべく、閣下に恩恵を請うために用意していた覚書のなかにある主要な点の一つである。何故なら人間が売買されることは、彼らの間であれ、その王国の外部へであれ、どちらにしろ、日本人のように非常に優秀で名誉ある人々には大きな不名誉であり、恥辱であるからである。そしてこの(行為の)乱用は、この下(地方)の九ヶ国でのみ広まっており、五畿内でも坂東でも(広まってい)ないもので、我らパードレたちが、この(奴隷の)販売と奴隷への転落とを防ぐために力を尽して、相当な労苦に耐えてきたものである。しかし最も必要なことは、外国人の船が貿易のためにやって来る港を領有している殿たちや領主たちによる厳重な禁止がなされることである。そして現在日本にいる船舶に買い取られた者たちについては、それについてパードレがポルトガル人に通告するであろう。」


 以上のようにコエリョは、豊臣秀吉の提案に応答するのではなく、秀吉の提案であげられた事柄の実在を否定する方向で回答しています。しかし第一条の信仰強制と第三条の人身売買に関しては、既にコエリョは、イエズス会が日本の寺社を破壊すべくキリシタンを教唆したり、イエズス会が奴隷売買に関わっていたような事実を、故意に隠蔽しているのです。また第二条についても、日本人の食物として、ことさら猫や鼠をあげるなど、日本人の食習慣に対するヨーロッパ人の価値意識が前面に出ているかに思われる回答を示しています。こうした点から、ガスパル・コエリョはイエズス会を代表して秀吉の提案を、正面から拒否したと考えざるを得ません


 この回答に対して秀吉は、再度だめ押しの詰問をした上で、関白殿(秀吉)は以下のように言いました。
 「汝らが、日本の教えに反し、有害であり、諸国にとって破壊的であり、天下の支配に反する悪魔の宗派を宣教しているが故に、日本の如何なる地にもこれ以上滞在することを(予は)欲しない。そして二十日の間に日本に散在する汝ら総てが集まり、これら諸王国の総てから出て行くがよい」と。
 そしてこのために一通の彼の布告を、我らと共にその時フスタ船にいたポルトガル国王の権限を分与されたカピタン・モールドミンゴス・モンテイロに手渡しました。

 この伴天連追放令は日本滞在のポルトガル人の問題として、イエズス会宣教師を対象とするものであり、日本人を対象とするものではなかったと想定されます。

 豊臣秀吉は、伊勢神宮からのイエズス会への非難に対して、イエズス会に彼らとの一定の妥協ないし共存を勧告し、それを拒否したイエズス会に対して、いわば制裁として伴天連追放令を発令したと結論されます。

つづく・・・



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