復帰摂理歴史の真実

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■ 2. キリシタン禁制と寺請制度



フランシスコ ・ ザビエル


 スペイン ・ ナバラ生まれのカトリック教会の司祭であるフランシスコ ・ ザビエル (1506年頃4月7日〜1552年12月3日 左図)。

 スペインのザビエル城 (左下図) で地方貴族の家に5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子として育ちました。

 父はナバラ王フアン3世の信頼厚い家臣として宰相を務めますが、ナバラ王国はフランスとスペインの紛争に巻き込まれると、1515年スペインに併合されます。

 フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた父ドン・フアン ・ デ ・ ヤスは、この激動の中で世を去りました。

 1525年、19歳で名門パリ大学に留学。
 1529年、ザビエルの母が死亡。
 1533年、ガンディアの女子修道院長だった姉が亡くなる。

 1534年8月15日に、聖職者を志していたフランシスコは、イグナチオ・デ・ロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、イグナチオザビエルファーブルシモン ・ ドリゲスディエゴ ・ ライネスニコラス ・ ボバディリャアルフォンソ ・ サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において “神に生涯を捧げる” という誓い (モンマルトルの誓い) を立てて、 “イエズス会” を創立しました。。


 世界宣教をテーマに掲げたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、当時ポルトガル領だったインド西海岸ゴアに派遣することになり、フランシスコは35歳の誕生日である1541年4月7日に、ミセル ・ パウロフランシスコ ・ マンシリアスディエゴ ・ フェルナンデスと共にリスボンを出発しました。

 1541年8月にアフリカのモザンビークに到着。

 1542年2月にモザンピークを出発。

 1542年5月6日ゴアに到着しました。

 ゴアを拠点にインド各地で宣教活動を行い、1545年9月マラッカに、さらに1546年1月にはモルッカに赴き宣教活動を続けた後、マラッカに戻ると、1547年12月に鹿児島出身のヤジロウ (アンジロー) という日本人に出会います。

 ヤジロウは、若い頃に人を殺し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れていましたが、その罪を告白するためザビエルを訪ねてきました。

 ザビエルは、日本の様子を詳しく聞くと、日本宣教こそ神の声だと悟りました。

 ザビエルが、イグナチオ・デ・ロヨラにあてた手紙によると、

 「日本でたくさんの人々を信者にしなければならないと、私は主なる神において、大きな希望に燃えています。私たちは、はじめにマラッカを経由し、シナ沿岸を通り、その後、日本に行きます。ゴアから日本まで1300レグア、それ以上あります。大暴風雨、大雨、暗礁、たくさんの海賊など、数々の危険、そして、死の危険が差し迫っているこの航海をすることで、内心どれほど大きな慰めを感じているかを書き尽くすことはできません。四隻のうち二隻がどうにか救われれば、大変幸運だといわれているほどです。しかし、私は、日本に行くことを止めません。」

 と、神への愛と、宣教の決意を綴っています。

 1549年8月15日、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着しました。

 1549年9月には、伊集院城 (一宇治城/現・鹿児島県日置市伊集院町大田) で薩摩の守護大名 ・ 島津貴久に謁見、宣教の許可を得ると、ザビエルは即席で大日如来の名前で神を表して伝道すると、約100人に洗礼を授けました。

 しかし、島津貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、京都の天皇に謁見して、日本における宣教の許可を得るため薩摩を去りました。

 1550年8月、ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行うと、同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸を発つと、博多を経由して、11月上旬周防山口に入り、周防の守護大名 ・ 大友義隆に謁見しましたが、ザビエルが汚れた旅装のままで面会に臨み、ろくな進物も持たずに義隆の放蕩振りや仏教の保護、当時一般的だった男色などを非難するなど、礼を大いに欠いていたことから義隆が立腹し、布教の許可は下りませんでした。

 1551年1月、一行は念願の京に到着すると、ザビエルは、全国での宣教の許可を 『日本国王』 から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願しましたが、献上の品がなかったためかないませんでした。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みましたが、拒まれました。

 これらの失敗は応仁の乱 (1467年〜1477年) の後遺症による足利幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたため、効無きと悟ると再び南下します。

 1551年3月、平戸に戻ると、ザビエルは平戸に置き残していた献上品を携え、1551年4月下旬、ザビエルは再び大友義隆に謁見します。

 ザビエルはそれまでの経験から、一行を美麗な服装で飾り、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガルインド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃など献上品としては珍しい文物を義隆に献上しました。

 これに対して義隆は、ザビエルに布教の許可を与え、その拠点として、大道寺 (日本最初のキリスト教教会) を与えました。

 ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼりました。

 ザビエルは、豊後府内 (大分市) にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、豊後へ赴きました (この時点での信徒数は約600人を超えていたといわれています)。

 1551年9月、ザビエルは豊後に到着すると、守護大名 ・ 大友義鎮 (後の宗麟) に迎えられ、宗麟の保護を受けて宣教を行いました。

 この頃、ザビエルが、ゴアのイエズス会員にあてて、日本人について語っている手紙では、

 「日本についてこの地で私たちが経験によって、知り得たことを、貴方たちにお知らせします。この国の人々はいままでに発見された国民の中で最高であり、日本人よりすぐれている人々は異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何物よりも、名誉を重んじます。大部分の人々は、貧しいのですが、武士も、そうでない人々も、貧しいことを不名誉とは思っていません。」

 と、書き送ると、日本の布教の基礎ができたのを見届け、1551年11月中旬、沖の浜からポルトガル船でインドに戻ると、1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル ・ ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、ザビエル自らは中国を目指して、同年9月中国広東省上川島に到着しました。

 しかし中国への入境は思うようにいかず、体力も衰え、精神心的にも消耗しており、ザビエルは病を発症すると、1952年12月3日未明、46歳でこの世を去りました。




日本におけるキリスト教の興隆と衰退

 ザビエルが日本に滞在した2年2ヶ月ほどの間に、確かにキリスト教の基礎ができたと言えましょう。

 その後、多くの宣教師がはるか遠くの南蛮からやってくると、熱心に伝道を行い、1587年当時1,227万人と言われている日本の人口に対して、キリシタンが約30万人と言われていますから、人口比にして2.45%キリシタンでした。

 しかし、その頃スペイン、ポルトガルでは多くの国々を植民地にすると、人々を奴隷として売買していました。 ( 「 新大陸発見−中南米編 」 参照 )

 それらの事が日本で行われているという情報が秀吉の耳に入ると、状況は一変したのです。

 下記の愛知大学の論文は、 「なぜ韓国がキリスト教国になったのか」 を日本との関係も含めて、歴史的現象からその回答を試みたものなので、ぜひご一読頂きたく掲載いたしました。

 日本のキリスト教の興隆と衰退がなぜ起こったのか、キリシタン禁制と寺請制度をテーマとしてみていきます。

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愛知大学 論文

 韓国における初期キリスト教受容の要因  【 】 - 【 】 - 【



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