復帰摂理歴史の真実

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第5章 第2節 a. 歴史の転換点となった魔王織田信長


 キリストになろうとした魔王信長   斎藤忠

 自ら仏敵、第六天魔王と称した織田信長は、なぜキリシタンの存在を容認したのか!?
 なぜ安土城は天守閣ではなく、天主閣なのか!?なぜ本能寺で大規模な茶会を開いたのか!?
 なぜ本能寺の変は起こったのか!?なぜ自決した信長の遺体は消えたのか!?
 すべての謎を解く鍵は、知られざる「ノブナガ・キリスト教」にあった!!

<参照>
 織田信長の政権構想 : 「天下布武」の実態をめぐって   (広島大学留学生センター ウ・ウェイキュン 著 / 本サイト



 織田信長

 織田信長は1534年、尾張の那古野城にて織田信秀の嫡男(三男)として生まれました。
 信長の母は、父・信秀の正室・土田御前であったため、織田家の嫡男として扱われました。
 1551年、父・信秀の急死により、18歳の信長が織田家の家督を継ぎ、1554年4月10日から清州城を本拠地とし、その後、小牧山城岐阜城安土城と、居城を移し、領土を拡大していきました。

 左の肖像画は、宣教師が描いたといわれ、それを明治の中頃、天童 (現在の山形県天童市) 織田藩出身の宮中写真師大武丈夫が複写したものです。
 1830年 (文政13年・天保元年) に天童織田藩は、織田宗家の菩提寺として三宝寺に織田家御霊屋 (御位牌堂) を造りました。この御霊屋には、織田信長の位牌をはじめ、織田家歴代藩主の位牌が納められています。また、御霊屋の正面には織田信長の肖像画が飾られています。

<参考>
 天童織田藩のあらまし



1. 牛頭天王の化身、第六天魔王

 @ 牛頭天王の化身

 織田信長軍の旗印は「五つ木瓜紋(右図)」で、尾張牛頭天王社こと津島神社(愛知県津島市)のスサノオ(素戔嗚)を垂迹神とする牛頭天王神紋です。

 摂津国(大阪府の北部、兵庫県の南東部)にある、為那都比古神社(大阪府箕面市)の由緒書には、天正年間に織田信長がキリシタン大名の高山右近に命じて北摂津一円の寺社を破却させることがありました。その時、多くの寺社が祭神を牛頭天王に改めたことで破却を免れたことがありました。それ以外は天主堂、教会に改築させられたのです。つまり、祭神がキリスト教の神、デウスに替えられてしまったのです。
 信長が若い頃、好んだうつけ姿は、津島神社祭礼における舞い手のスサノオこと牛頭天王の似姿でした。彼がこの荒ぶる神を氏神に定め、その紋所を旗印として押し立てて天下布武を推し進めたことは、己をこの神に擬していたのは疑いないことです。
 加えて、安土城の天守閣は信長の命で「天守」ではなく、「天主」と呼び慣わされ、また天主閣に住まったのは独り信長のみです。 信長は牛頭天王の「天王」を「天主」、すなわちデウスとも深く繋がっていたとも考えられます。実際彼は、逆らう寺社勢力を弾圧する一方で、キリスト教を庇護し、その教義に並々ならぬ興味を示したのです。しかし、入信することはなく、自らを神とし、己を祀る寺院、総見寺を建てました。

 さて、スサノオノミコトは牛頭天王とも呼ばれていますが、この「牛頭」という言葉には以下の説があります。
 日本書紀によると、天照大神に命じられてウケモチノカミ (保食神) を見舞いに行くアメノクマヒト (天熊人) の神話があります。ところが既にウケモチは死んでおり、その頭は牛と馬に、そして体のいたる部分が食物に変わっていたのです。この話が農耕作や牧畜の起源として語り継がれ、その過程において頭と牛が結びつき、「牛頭」という言葉が使われるようになったという説があります。
 スサノオが祀られている八坂神社の社伝には、7世紀、斉明天皇の時代に高麗からの遣いが日本を訪れた際、新羅国牛頭山にて祀られていたスサノオノミコトが伝来し、山城国の八坂郷(現在の京都八坂神社付近)で祭られたことが八坂神社の起源であると書かれています。また日本書紀にも高麗からの遣いの記述があり 「スサノオが五十猛神と共に新羅国のソシモリに降りた」 とあります。朝鮮語の 「ソシモリ」 は日本語で 「牛頭」 となるため、これらの記述からスサノオと牛頭の結び付きが考えられます
 アジア大陸の西方、カナンの地において、イスラエル人の風習には居住していた牛の頭を祭り崇める風習がありました。カナンより渡来してきたイスラエル人により牛頭天王崇拝が持ち込まれたとして、ヘブライ語ではGZLの子音を持ち、ガザラもしくはゴゼルと発音される言葉が存在し、その意味は「略奪」となり、スサノオと 「ゴズ (牛頭) 」 が結びついてきます

<参照>
 「牛頭天王」に見え隠れする日本人のルーツ
 牛頭天王の牛-1
 牛頭天王
 [神仏]牛頭山・牛頭天王についての疑問
 スサノオは朝鮮半島出身の神か?
 牛頭山(489m) の地図と場所情報



 A 第六天魔王と安土城

 織田信長は第六天魔王と自称していました。宣教師の司祭ルイス・フロイスが書いた書簡にのみ確認できます。それは、フロイスが当時の上司、イエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルに宛てた1573年4月20日付けの書簡によれば、信長は甲斐の武田信玄に宛てた手紙に、ドイロク・テンノマオウ・ノブナガ、つまり第六天魔王信長と署名したといいます。それは、1572年(元亀3年)の西上に際して、信玄が信長宛ての書状にテンダイノ・ザスシャモン・シンゲン、つまり天台座主沙門信玄と署名したことに対抗して、その返書に書き記したものでした。

  a. ) 第六天魔王とは

 さて、第六天魔王の「魔王」とは仏教の敵のことですが、「第六天」とは天台宗の教義において、人間の心の全ての境地を十種に分類したもの(十界)の中の一つで(左図参照)、十界には「六道」と「四聖」があり、六道とは主に人間の内面において繰り返される (輪廻) 世界をいい、四聖とは天台宗において六道輪廻に付加された4つの世界を指します。
 六道の一つに「天界」がありますが、神々の世界である天界は、大きく分けて三つの世界、無色界(梵天界)・色界(梵天界)・欲界(一般的な神々)のに分かれるとされています。
 天界の一番下にある「六欲界」という世界は、一番下にあるといっても、人間界と異なり、快楽の多い世界になります。六欲界といわれるのは、6つ階層構造から成る世界で、上に行くほど徳と寿命が長くなり、力も強くなるとされています。
 さて、「第六天」とは、六欲界の最上にある他化自在天のことをいいます(下図)。
天界(悦びの心)→六欲界
 ・ 他化自在天第六天→他人を楽しませる事を楽しむ
 ・ 楽変化天→自分で楽しみを作り出す
 ・ 兜率天→宇宙の法則を楽しむ
 ・ 夜摩天→自然を楽しむ
 ・ とう利天→秩序を維持する事を楽しむ
 ・ 四大王衆天→敵と戦って世界を守る事を楽しむ


 なぜ第六天魔王なのかと言えば、この他化自在天(第六天)は六欲界の最高位で、六欲界全体を支配しています。つまり信長は、他化自在天の主であると言えます。このことから他化自在天主となり、安土城天守閣を天主閣と呼んだのかもしれません。
 ところで、仏教によると、この六道には欲界 (淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた世界) 色界(欲界の2つの欲望は超越したが、物質的条件にとらわれた世界)無色界 (欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界) の三つの世界 (三界 : 左図) があり、欲天の最高位である他化自在天は、望む事はすべてかなえられ、望みうる最高の快楽が自由自在に得られる世界で、ここの住人は、他人が楽しむ事を自ら楽しむ、つまり、周囲の人々を幸せにすることを楽しむ世界とされています。この天界の主である他化自在天王は、天界・人間界はおろか、地獄界までを含めた欲界全体にわたって自由自在に楽しみを与え、欲界の衆生が楽しむ事を楽しむといいます。
 しかし、仏教の教えによって人々から欲望が無くなると、楽しませるべき欲界の人が色界や無色界に移ってなかなか欲界に戻ってこなくなり。更にすすんで全ての人々が悟りをひらいてしまうと欲界から人がいなくなって、人が楽しむ事を楽しむ他化自在天の人は楽しむ事が出来なくなってしまうために、仏教がひろまる事を妨害したり、人々の欲望をかきたて、六道の苦しみから逃れる根本的な解決策である悟りを開くための仏道修行を忘れさせる事から第六天魔王と呼ばれています

<参照>
 第六天魔王・その1
 六欲天
 六欲界という天界



  b. ) 安土城と第六天魔王


 1575年 (天正3) 5月21日長篠の戦いで武田軍に勝利し、8月19日越前一向一揆を平定して、東と北の脅威がなくなった年、織田信長は、11月28日に息子の信忠に、織田家の家督と尾張 ・ 美濃2国を与え、自らは隠居して岐阜城から、城下の佐久間信盛邸に移りました。
 家督を譲った織田信長は、新しい自らの居城として、琵琶湖の東岸、岐阜と京の中間にあって、近江半国の大名であった、佐々木六角の居城、観音寺城 (標高433m) 、の北の尾根続きで半島状に琵琶湖に突き出た、目賀田山と呼ばれた小山を、安土山と改称して、1576年 (天正4) 正月丹羽長秀に命じて築城を開始します、2月23日には仮の御殿が完成し、信長は安土へ移り住んだのです。
 1576年 (天正4) 4月1日には石垣工事が開始され、天主の工事は、1577年 (天正5) 8月24日に立柱、1577年 (天正5) 11月3日に屋根の葺き合せ、1579年 (天正7) 正月には、村井貞勝らに天主内部を見せていて、1579年 (天正7) 5月11日に信長が天主へ転居しました。
 その後も工事は続き、本丸御殿、高雲寺御殿、ハ見寺など、次々と建物が整備されていきましたが、1582年 (天正10) 6月2日払暁の本能寺の変により、信長は明智光秀によって弑せられ、その後の混乱の中、6月15日に、天主などの主郭部分を焼失してしまいます。

<参照>
 安土城復元案
 信長、神への道 6

天界(悦びの心)→六欲界
・ 他化自在天第六天
 6階 : 古代中国の帝王や聖人が描かれている。
・ 楽変化天
 5階 : 八角形で、釈迦をはじめとする、仏教の世界が描かれている
・ 兜率天4階
・ 夜摩天
 3階 : 信長用の居間だったらしい。東北には金の茶室があった。
・ とう利天2階
・ 四大王衆天
 1階 : 吹き抜けの周囲は座敷で、東に家臣控え室、北には倉がある。信長は、ここの南側座敷に盆石という石を置いて自分の代わりとしたと言う。

 さて、ここで先に述べた「六欲界」と上の安土城の各階をみてみると次のようになります。
六欲界 安土城の各階
・ 他化自在天→他人を楽しませる事を楽しむ
・ 楽変化天→自分で楽しみを作り出す
・ 兜率天→宇宙の法則を楽しむ。
・ 夜摩天→自然を楽しむ
・ とう利天→秩序を維持する事を楽しむ。
・ 四大王衆天→敵と戦って世界を守る事を楽しむ
6階 : 古代中国の帝王や聖人が描かれている。
5階 : 八角形で、釈迦をはじめとする、仏教の世界が描かれている。
4階 :
3階 : 信長用の居間だったらしい。東北には金の茶室があった。
2階 :
1階 : 吹き抜けの周囲は座敷で、東に家臣控え室、北には倉がある。

 これは、六欲界を安土城に置き換えているようにみえます。
 信長が政策として掲げた “天下布武” もここから窺い知ることができます。
 つまり、外敵から武によって天下を守り、天下は楽市楽座によって欲望を充足させ、程々の宗教によって秩序を維持しようとしたのが信長の政策と考えられます。
 信長の影響下でのそれらの成功が、“唐入り”の構想があったのでしょう。その広大な構想を具体的に示す史料は残念ながら国内には残っていません。しかし、信長がそれをはっきりと表明したことを書いた史料がポルトガルにあったのです。フロイスが報告した 『一五八二年日本年報追加』 と 『日本史』 の中に、それは書かれています。

<参照>
 信長、神への道 1
 信長の「唐(から)入り」



2. 信長キリスト教


 戦国時代の宣教師によるキリシタン伝道は、都市の貧民、下層階級の人々のために、救貧、救らい (ハンセン病) などの慈善事業を行い、 人々の心を動かすと同時に、適応主義によって日本文化の中に浸透していきました。
 宣教師マテオ・リッチは、仏像をキリスト教に取り込みました。中国で、菩薩像である観音像に似せて、「東洋の聖母」を描かせ、白磁の像が製造されました。これが日本にも導入され、 “マリア観音像” としてキリシタンの間に広まりました。
 そうした中で、安土城の天主閣を設計、施工した尾張の大工棟梁・岡部又右衛門以言 (これとき) が書き残した 『安土御城御普請覚え書』 によると、 「安土城天主の外壁のうち木部のところは防禦のため、後藤平四郎の製造した銅板で包まれていて、その赤銅、青銅に覆われた柱にバテレンの絵 (大天使ミカエル : 左図) が刻まれていた」 とあります。


<参照>
 ・ 日本人とキリスト教 -キリシタン伝道の場合-   深津容伸 山梨英和大学教授 (PDF本サイト
 城の再発見!中国皇帝か?キリスト教か?安土城に二つが同居できた理由
 安土城天主6層めにバテレンの絵、大天使ミカエルの肖像が描かれていた



 a. 千利休の “茶の湯”

 千利休は、キリシタンを己の膝下に組み敷きたいという信長からの用命に、キリシタンとの祭儀の共有を図り、現在に伝わる “茶の湯” を行いました。利休自身は入信していませんが、 “茶の湯” は和流ミサ (聖餐式) の名に十分に値するものです。

<“茶の湯”と“ミサ”の類似点>
茶の湯 ミ サ
@ 亭主が食籠 (じきろう : 菓子器) を持ち出し、食籠を主客に預け、客は食籠に盛った菓子を取り回していく作法がある。 @ パテナ (聖体皿) に置いた聖体 (水と小麦粉だけで作られた 「種なしパン (イースト菌の入っていないパン) 」 ) を取り回しして頂く所作がある。
A 茶の手前では、茶碗の中に茶巾を入れ、茶筅を真ん中に入れ、その右に茶杓を伏せて置き、仕組んで、茶室に運び出しをする。 A カリスと呼ばれる杯を仕組んで運び出しをします。
B 濃茶の作法で男子同士の場合、茶を頂いた後茶碗と出し袱紗を右手に乗せたまま、左手で懐紙で飲み口を拭き次客に手渡します。 B カリスの飲み口を拭いて順次手渡していく所作があります。
C 帰ってきた茶碗に湯を入れ回してすすぎ、湯を建水に捨ててから、茶巾で茶碗を拭きます。 C 拝領が終わったあとパテナを拭き、カリスに水を注いですすぎ、プリフィカトリウム (清掃布) で拭く所作をします。


<参照>
 ミサと茶の湯のどんなところが似ているのか



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