復帰摂理歴史の真実
宗教改革、そして英国から米国へ <トップ> 英中印トライアングルとアヘン戦争

■ 第三章 第四節 メシヤ再降臨準備時代の幕開け
     e. アメリカの独立とイギリス


1. 迷えるイギリス、希望のアメリカ

 (1) 植民地戦争から独立戦争へ

実況中継!大人の読みなおし世界史講義 』(サンエイ新書)
<監修者略歴> 祝田秀全
 東京出身。歴史学・映像文化論専攻。大学受験予備校FORUM-7 OKS世界史講師。著書に『歴史が面白くなる東大のディープな世界史1・2』(KADOKAWA)、『東大生が身につけている教養としての世界史』(河出書房新社)、『銀の世界史』(筑摩書房)、『2時間でおさらいできる世界史』(大和書房)ほか多数。古典落語鑑賞と戦後日本社会のヴォーグ研究を趣味とするライカ小僧。

  @ 英蘭戦争

 17世紀〜18世紀にかけて植民地を巡る抗争にも激化しました。17世紀前半、まず対アジア貿易で覇権を握ったのはオランダです。1602年に国営貿易を一手に担う東インド会社を設立すると、1619年、ジャワ島にバタヴィア(現・ジャカルタ)を建設。ここを拠点としてアジア経営を進めていきました。1623年にはアンボイナ事件を起こしてイギリス勢力を排除すると、モルッカ(香料)諸島の支配権を確立。1624年には台湾を征服し、またポルトガルから1641年にマラッカ、1658年にセイロンを奪い、香辛料貿易で大いに繁栄を遂げました。
 一方、アメリカ経営にも乗り出し、1621年西インド会社を設立すると、1625年、北アメリカにニューアムステルダムを建設しています。こうしてオランダは、17世紀前半には世界最大の商業国家となりました。
 しかし、その栄華は長続きはしませんでした。その原因のひとつとなったのは、香辛料です。香辛料価格の下落により、貿易による利益が減少してしまったのです。また、イギリスが1651年に発布した航海法もオランダの衰退を促しました。これはイギリス、もしくはその植民地に輸入される商品はイギリス船か原産国の船でのみ輸送を認めるという法律です。中継貿易で繁栄していたオランダを排除すべく公布されたのです。
 こうして1652年英蘭戦争(第一次〜第二次)が勃発しますがが、オランダはイギリスの敗北となる寸前でフランス軍の南ネーデルラント侵攻(ネーデルラント継承戦争)に対処するため、オランダ側がイングランドと協力する方針に転換したのです。1667年7月31日、講和の条件をかなり譲歩したブレダの和約が結ばれ、戦争は終結しました(オランダはフランスとも和睦)。和約の結果、ニューアムステルダム(毛皮貿易の中心地)はイギリスの領土となり、ニューヨークと改称されましたが、バンダ諸島ラン島(香辛料貿易の中心地)などをオランダが占領し、南アメリカのギアナ地方の一部は、そのままオランダ領ギアナ(現在のスリナム)となりました。

<参照>
 メシヤ再降臨準備時代の幕開け

  A 英仏植民地戦争

 こうしてオランダが衰退すると、イギリスは次にフランスと対立を深めていくことになります。アンボイナ事件後、東南アジアの利権を失ったイギリスはインド経営に注力します。カルカッタ、マドラス、ボンベイに拠点を置き、インドの伝統的な綿織物を中心とした交易を行いました。当時のヨーロッパでは毛織物に代わって綿織物が人気を博していたためです。
 一方、フランスもシャンデルナゴルポンディシェリに拠点を置き、イギリスに対抗しました。このとき、インドに勃興していたのはムガル帝国です。両国ともムガル皇帝に近づくことでインド経営を優位に進めようと試みましたが、1707年にムガル帝国6代アウラングゼーブ(在位:1658年〜1707年)が没すると、インドを取り巻く情勢が一変。各地で地方豪族による反乱が相次いで勃発するようになりました。これを契機とし、イギリスとフランスは地方豪族に近づき、勢力争いを展開します。1744年には、オーストリア継承戦争と連動する形で第1次カーナティック戦争(1744年〜1748年)が勃発。フランスのインド総督デュプレクス(1697年〜1763年)率いるフランス軍がイギリス軍を破りました。結果、フランスがマドラスを獲得しましたが、1748年に締結されたアーヘンの和約でマドラスはイギリスに返還されます。その後も争いは続き、1757年には七年戦争に連動する形でプラッシーの戦いが勃発しました。
 同時期に、北米でもフレンチ・インディアン戦争が起こります。オランダからニューヨークを得たイギリスでしたが、その西ではフランスがミシシッピ川の東西にかけて広大な植民地ルイジアナを有していたためです。
 こうして七年戦争と同時進行で英仏の植民地戦争がインド、そして北米で繰り広げられましたが、どちらの戦いもイギリスの勝利に終わり、イギリスがインド、そして北アメリカ支配の主導権を握ることになりました。

 (3) アメリカの独立戦争とその後

 イギリスで産業革命が進展していた頃、イギリス人がアメリカに築いた13植民地で独立の機運が高まりました。この13植民地はいずれも自治を行い、何かの問題が起これば植民地全体の会議(植民地議会)を開いて話し合うという体制が築かれました。
 しかし18世紀、イギリス本国はその体制を大きく揺るがす運営方針を打ち出したのです。イギリスはフランスとの植民地戦争の結果、北アメリカの覇権を握りましたが、長年に及んだ戦争で国庫が窮迫してしまいます。そこでイギリスは、13植民地に重税を課して財源を捻出しようとしました。まず1764年には砂糖法を発布し、イギリス領以外から輸入する砂糖に対する税率を上げました。そして1765年には印紙法を出し、新聞や書籍などの出版物に対してイギリス本国発行の有料の印紙を貼ることを義務づけたのです。これに対して、従来の自治権を無視された植民地側は猛抗議をします。印紙法反対運動のリーダーであるパトリック・ヘンリ(1736年〜1799年)は、「代表なくして課税なし」すなわち、イギリス本国の決定であっても、植民地の代表が会議への参加を許されていないのだから納税の義務はないと主張しました。
 イギリスと13植民地の対立はますます深まるばかりです。そうした状況下の1773年、イギリスは茶法を制定します。経営難に陥っていた東インド会社の救済策として、倉庫に余っていた紅茶を13植民地に直接販売することを許可するとともに、独占販売権を与えたのです。これにより、商人をはじめ植民地の住民の怒りが爆発。同年12月、マサチューセッツ植民地ボストン湾に入港した東インド会社の船舶を襲撃し、342個もの茶箱を次から次へと投げ捨てました。これを、ボストン茶会事件といいます。事件後、イギリスはボストン港を閉鎖するとともにマサチューセッツ植民地の自治権を剥奪するという懲罰を課しました。
 1774年、ジョージアを除く12の植民地代表はフィラデルフィアに集まり、大陸会議を開きました。そしてイギリスに対して通商の断絶と自治の尊重を要求しましたが、イギリスはこれを無視し、武力で抑圧しようとしたため、1775年、ついにレキシントンで武力衝突が起こりました(レキシントン・コンコードの戦い)。同年5月、13植民地の代表はフィラデルフィアに集まり、再び大陸会議を開きます。そこで出た結論は、抵抗闘争でした。彼らはジョージ・ワシントン(1732年〜1799年)を総司令官に選出すると、自治防衛のための戦いを起こしたのです。ただしここで注意しておきたいのは、この時点ではまだ独立までは考えられていなかった点です。彼らが求めていたのは、あくまでも自治権だったわけです。しかしイギリスとの戦いを続ける中で、徐々に独立が意識されるようになります。はじめに独立を主張したのは、ニューイングランドやプリマスなどを中心とする北部でした。ピューリタンや自営農民が多かったことから、独立意識が強かった一方、ヴァージニア以南の南部地域煙草や綿花などを栽培する大農園が多く、本国が輸送してくれる黒人奴隷に労働力を頼っていたことから、独立には消極的でした。そうした中、彼らの独立意識を目覚めさせる1冊の本が出版されます。トマス・ペイン(1737年〜1809年)の『コモン・センス』です。君主政の害悪を批判するとともに独立の正当性を主張したこの本はたちまちベストセラーとなり、当時の人口が250万人ほどで12万部売れたといわれています。
 こうして13植民地の自治防衛戦争は独立戦争へと転換し、1776年7月4日アメリカ独立宣言を発表したのでした。すべての人間は平等で、自由を主張するのは当然の権利だと強く訴えるこの宣言は、フランス革命時の人権宣言にも多大な影響を与えることになります。そして1777年にはアメリカ連合規約を制定し、13州からなる連邦国家・アメリカ合衆国を成立させました。なお、すべての人間は平等」と謳っておきながら、アメリカ独立宣言には奴隷貿易の廃止を訴える文言は盛り込まれなかった南部の代表者らの反対を受けたのです。ただし、20年後には奴隷制を廃止するという「妥協」が行われましたが、結局実行されませんでした

<参照>
 アメリカ独立宣言の「すべての人間」には有色人種、女性は含まれていない。

 さて、こうして勃発したアメリカ独立戦争は、他の諸国を巻き込み、国際戦争へと発展しました。1778年にはフランスがイギリスに宣戦布告し、それに次いでスペイン、オランダもアメリカの独立を支援する立場を表明します。また、1780年には、イギリスの対アメリカ海上封鎖に反発したロシアが武装中立同盟を提唱。これにプロイセンやデンマーク、スウェーデン、ポルトガルが参加し、イギリスの貿易妨害に対して抵抗を示しました。
 当初、イギリス軍に苦戦を強いられた植民地軍でしたが、格国の支援のもと勢力を巻き返し、1781年ヨークタウンの戦いでは見事勝利をつかみます。これによって、アメリカ独立戦争は事実上の終結を見ました。1783年イギリスはパリ条約でアメリカの独立を承認し、ミシシッピ川以東のルイジアナをアメリカに割譲。フランスやスペインとはヴェルサイユ条約を結び、フランスにはトバコ島とアフリカ西部、スペインにはフロリダとミノルカ島を譲りました。そして1789年ワシントン(在位:1789年〜1797年)が初代大統領に就任しました。



 (2) 独立したアメリカを象徴する建造物と人物

  @ ベンジャミン・フランクリン

 ベンジャミン・フランクリン(1706年1月6日〜1790年4月17日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。
 1724年の18歳の時、印刷職人としてロンドンへ渡りると、1726年にフィラデルフィアに戻って印刷業を再開して「ペンシルバニア・ガゼット」と言う新聞を発刊しました。この新聞にメーソンの記事を載せた彼は、1730年にメーソンに入会して、1750年には、フィラデルフィアの「セント・ジョンズ・ロッジ」の副グランド・マスターになり、1757年にはペンシルヴァニアの全メーソンの代表としてイギリスに渡っています。
 1775年にレキシントンの戦いが起こった時に英国からアメリカに帰国してから独立宣言の起草委員の一人になります。そして、1776年にはアメリカの代表としてフランスに渡り、独立戦争のための支持をフランスから取りつけようと、フランスで最も有力なメーソンロッジの会合に足しげく顔を出し、そこに所属していた政治家、哲学者、芸術家や有力者などを動かし、1777年サラトガの戦い(1777年9月〜10月)を契機にフランスが参戦すると、1778年米仏同盟条約(1778年2月6日)が締結されることになったのです。
 この様に印刷業で成功を収めた彼は、政界に進出して成功するなど、理神論や啓蒙主義と密接な関係にあった当時の自然科学にも才能を発揮して、凧を用いた実験で雷が電気であることを明らかにした事でも有名です。また、己を含めて権力の集中を嫌った人間性は、個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、“アメリカの父”として讃えられています。

  A ジョージ・ワシントン

 ジョージ・ワシントン(1732年2月22日〜1799年12月14日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家、黒人奴隷農場主でもありました。1787年アメリカ合衆国憲法が制定され、1789年ワシントンが初代大統領に就任します。この時ワシントンは、連邦議会の行政機関として、国務、財務、陸軍、司法の4省を設けてアメリカ政府の重要機構を確立すると、4長官の閣僚に国務長官トマス・ジェファーソン、財務長官アレクサンダー・ハミルトン、陸軍長官ヘンリー・ノックス、司法長官エドモンド・ランドルを任命しました。
 1792年、大統領官邸ホワイトハウスの建築が始まり、20年後の修復作業で、外壁の傷を隠すため白く塗られました。1793年9月18日には、連邦議会の議事堂ワシントンDCに建設されますが、ワシントン大統領はその礎石式にメーソンの儀式用礼服を着用して出席しました。胸にはメーソンの標章を下げ、腰にはメーソンのエプロンをつけて。そして、3年後には政界から引退して、その3年後の1799年12月14日亡くなりました。

  B ワシントン記念塔

 ワシントン記念塔は、エジプト式オベリスクの世界一大きな石塔です。ちなみに、“メーソンの儀式”にはエジプトの神話である「オシリス・イシスの伝説」の密儀が使用され、モーツァルトの「魔笛」が(背景はエジプト)が用いられています。
 この記念塔は、ワシントンが亡くなった年に彼の友人のジョン・マーシャル(1755年9月24日〜1835年7月6日)によって企画され、国家承認されたものです。
 記念塔の着工式には、ワシントンが議事堂着工式で使用した槌、コテ、エプロンが使われました。
 落成式は1885年のワシントンの誕生日の2月22日、記念塔の高さは550フィート(166m)。オベリスクに高さは、底辺の一辺の10倍の長さという、エジプト古来の説が採用されました。

  C 自由の女神像

 1886年、フランス政府はアメリカ合衆国独立100年を記念して、自由の女神像をアメリカに贈りました。製作者はフレデリック・バルトルディです。この像は、ローマ神話の女神リベルタスをかたどった立像です。偶像崇拝から始まった女神が一神教のキリスト教国家アメリカに立像された事は奇異ではありますが、自由と民主主義を象徴し、かつアメリカの独立と建国を記念する重要なシンボルであることは事実です。



2. イギリスの重商主義

 (1) アメイジング・グレイス


  @ 父と母、メアリーとの出会い

 1725年7月24日ジョン・ニュートン(1725年〜1807年)は、イギリス東インド会社の地中海貿易に携わる貿易船の船長である父と熱心なクリスチャンだった母との間にロンドンで生まれました。
 母エリザベスは足しげく非国教会の礼拝堂に通い、幼い頃からジョンに聖書や問答、賛美歌などに触れさせました。彼女は肺の病気を患い、ジョンが6歳の頃に、30歳の若さでこの世を去っています。その後、1733年(ジョン8歳の頃)には父親が再婚します。
 11歳の時に父と共に地中海に最初の航海に出て、17歳頃には父親が貿易業を止めてしまったため、それ以降は一緒に海へ出ることはありませんでした。しかし、父は息子の将来を案じて友人のジョセフ・マネスティ(リバプールの商人で船のオーナー)に、息子の面倒を見てくれるよう手紙を出しました。マネスティ氏はこの依頼に対し、ジャマイカにあるプランテーションの監督役の職を薦めてくれたのです。ジョンはこれを喜んで受け入れ、ジャマイカに向けて出発するまでの間、ジョンはイングランド南東部ケント州の州都であるメードストンで父親の仕事を手伝っていました。メードストンでジョンの母親のいとこの娘に出会い、ジョンはその娘に心を奪われてしまったのです。その女性とは、ジョンより3歳年下で14歳のメアリー・キャットリットでした。

  A 軍役から商船へ

 ジョンが次の船出を待つ商船が停泊している港の周辺には、フランスとの戦争のためにいくつもの軍艦が臨戦態勢におかれていました。当時のイギリス海軍はプレス・ギャングと呼ばれる軍の強制徴募隊により、使えそうな若者を手当たり次第に水兵として軍艦に連行していました。フランスとの戦争の真っ只中にあったイギリス海軍にとっては兵の増強は急務であり、プレスギャングもいつも以上に港周辺で目を光らせていたのです。その様な状況下で水夫の格好をしていたジョンは、プレス・ギャングによって取り押さえられ、軍艦ハリッチ号の水兵として強制連行されてしまいました。
 19歳の息子がプレス・ギャングに連行されたことを知ったジョンの父親は、貿易船の船長をしていた頃のツテを使って、すぐさまハリッチ号のカートレット船長と交渉を試みると、著名な船長の息子ということもあって、彼の海軍内の階級を少尉候補生まで特別に引き上げてもらうことになりました。
 ちょうどこの頃、オーストリア継承戦争から発展したイギリス・フランス間の植民地戦争は、東インド周辺にも及んでいました。ジョンは、1745年の初頭に軍艦ハリッチ号が東インドへ展開することを知ると、彼は最低でも4〜5年は戻って来れないことを直ぐに悟り、食料調達を命じられ船を離れた隙にそのまま脱走を試みたのです。しかし、すぐに捕らえられて船に戻され、階級を最低ランクの三等兵へ格下げされてしまいます。
 最低ランクの三等水兵に格下げされ、脱走歴のある下っ端として以前よりも辛い兵役についていたジョン(当時21歳前後)にとって、大きなチャンスが訪れます。アフリカ南西の岬である喜望峰への長旅の準備のために、ハリッチ号がアフリカ北西海岸沖カナリア諸島の北方にあるマデイラ島に停泊していた時、ハリッチ号の船員がギアナの商船から二人の腕のある船員を強制徴兵したところ、商船の方も人が少なくなるのは困るとのことで、代わりの船員を2人交換する形を取ることになったのです。この様子を見ていたジョンは、脱走による格下げで辛く厳しい待遇から逃れるため、交換要員の1人として自分を任命してもらうようカートレット船長に懇願しました。カートレット船長は、脱走歴のある三等水兵を厄介払いできるいいチャンスと考え、彼の必死の要望を受け入れたのです。

  B 三角貿易(奴隷貿易)での役務とその転機

 ジョンが乗船したのは、三角貿易に携わる商船でした。三角貿易とは、イギリスから持ち込んだ衣類や生活用具、武器を黒人達と物々交換し、その後西インド諸島やアメリカ南部の植民地で黒人達を砂糖やたばこなどと交換し、それをイギリスへ持ち帰るというものでした。ちなみに、アメリカ南部の植民地に運ばれた黒人達により収穫された綿花はイギリスへ輸出され、産業革命の基盤となったとされています。(右図)
 ジョンは約半年間、アフリカ南部から川の河口付近へ集められた黒人達を集めて船に乗せる役務をこなしていきました。一連の作業が身についてくると、商船のオーナーであったクロー氏に認められ、シエラレオネの河口付近での作業を1人で任されるようになります。この頃のジョンは22歳前後で若く体力もあり、熱帯地方での過酷な作業も精力的にこなしていたのですが、ある時熱病にかかって動けなくなる程に体調を崩してしまい、ある地元の黒人女性に助けを求めます。ところが助けを求めたはずの彼が受けた待遇は、病人への「助け」とは程遠いものでした。
 アフリカのシエラレオネで熱病にかかったジョンが助けを求めた女性は、プリンセス・ピーアイと呼ばれる地元育ちの黒人女性で、現地で最も重要な女主人でした。クロー氏が島を離れている間、何故か彼女はジョンに対して非情なまでに冷たく接し、それまで使用していた小屋を取り上げ、取引される黒人達を収容しておくシェルターに彼を押し込み、食事もほんのわずかな量しか与えませんでした。空腹に耐えかねた彼は、シェルター内に生えていた植物の根を生のままかじって飢えをしのぎ、クロー氏が戻ってくると、以前のまともな待遇に戻されたのです。それまでの冷遇をクロー氏に話しても、彼は全く対処してくれませんでした。
 ジョンの不運はまだ続きました。クロー氏の使用人として更に別の船旅に出ていたジョンでしたが、彼がクロー氏を騙そうとしているという根拠のない疑いを他の乗組員からかけられ、クロー氏がそれを信じてしまいました。ジョンは甲板上に拘束され、食事も一日にご飯1口分しか与えてもらえず、それは陸に着くまで続いたのです。ちょうど雨季で天候は最悪な中、激しい風雨を遮るものはなく、粗末な着衣に空腹と雨ざらしの辛い時間は2日も続いたのです。
 やがて辛い状況に耐えられなくなったジョンは、父親に助けを求める一通の手紙を書きます。行方の知れない息子の身を案じた父親は、この手紙を受け取るとすぐに親友のマネスティ氏に再度依頼をして、彼の元へ迎えの船を手配したのです。
 その一方でジョンは、クロー氏から他の貿易船で働くことを許され、移った別の船の船長であるウィリアム氏がとてもいい人で、ジョンを1人前のパートナーとして扱ってくれ、貿易のマネージメントまで任せてくれる程に彼を信頼してくれたのです。ジョンはこの信頼に応えて一生懸命取引に没頭し、仕事に楽しさや充実感まで得られるようになっていたのです。
 ところで、マネスティ氏がジョンのために向かわせたグレイハウンド号は、黒人を乗せるための船ではなく、象牙蜜蝋などを運ぶ一般の商船でした。折角迎えの船が来てくれたのですが、すでにジョンを取り巻く状況はかなり改善しており、新しいボスであるウィリアム氏の下でのビジネスも順調であったため、ジョンはグレイハウンド号に乗ろうかどうか迷っていましたが、グレイハウンド号の船長に説得され、イギリスへ帰ることにしたのです。

  C グレイハウンド号での困難と回心

 ジョンを乗せたグレイハウンド号は積んでいた商品の取引を終え、1748年1月にイギリスへ向けて出発しました。帰りの道のりは700マイル以上の航路を何ヶ月も船の上で過ごさなければならない程の長旅でした。その間、彼は船に積んであったスタンホープ著「The Christian's Pattern」を手にしています。この書籍はトマス・ア・ケンピス著『キリストに倣いて』をスタンホープが書き直したもので、
  • 霊的生活の有益なる勧め
  • 内的生活の勧め
  • 内的慰安について
  • 聖体に関する敬虔な勧告
の4部から構成され、世俗の軽視苦行克己献身の勧めをその内容としています。
 この頃のジョンはまったく神の存在を信じてはいませんでした。それどころか、神を信じる周りの者たちをあざ笑い、からかい、神への冒涜を繰り返していたのです。幼い頃には母親からある程度はキリストの教えを受けていたはずですが、長い間海の上で荒んだ生活を続けている内に、見えないものを信じる豊かな心はいつしか失われていたのでした。最初はほんの暇つぶしに何気なく読み始めたジョンでしたが、その内容に次第に興味をひかれ始め、
「神なんているわけがない。いないに決まっている。でももしこの本に書いてあることが本当だとしたら?」

彼の中にわきあがってくる心の声に彼は慌てて耳を塞ぎ、また仲間との他愛のない笑い話に戻っていくのでした。しかしこの時の彼の疑問は、数ヵ月後の出来事を通してある種の確信へと変わっていくことになるのです。
 イギリスに向けて出発してから2ヶ月が経過していた3月の初め頃、グレイハウンド号の海路上を激しい西風が猛威を振るい始めていました。ある晩、ジョンは突然の激しい揺れと船室へ流れ込んでくる海水に驚いて目を覚まします。
「船が沈む!」

誰かが叫びました。甲板では船員が激しい波にさらわれ海へと投げ出されていきます。船体は激しく損傷し強風に舵はきかず、船員が出来ることと言えば必死になって海水を外に汲み出すことぐらいでした。水を汲み出せど汲み出せど激しい波を受けて破損した船体から次々と流れ込んで来る海水。もう沈没は時間の問題かと思われた状況の中で彼らにとって運が良かったのは、積んでいた大量の蜜蝋や木材が水より軽く、それらが何とか壊れかけた船を浮かせるに足りる浮力を持っていたことでした。
 強風がおさまって来たのは明け方の頃でした。しかし波はまだ依然として荒く、船員達は海に投げ出されないように自分の体をロープでしばりつけ、昼頃になってもまだ海水を必死になってかき出し続けました。船員達は少しでも漏水を食い止めようとシーツや衣類をかき集め、破損した船体の隙間に詰め込み上から板を打ち付けていきます。何時間作業を続けても一向におさまらない漏水に、誰もが最悪の状況を予感しつつ、ずぶ濡れでクタクタの心と体に鞭打ちながら、船員達は休むことなく懸命に体を動かし続けたのです。
 ジョンは9時間以上の排水作業で疲れ切り、半ばあきらめたように横になり休んでいると、しばらくして船長から呼ばれて舵を任されます。彼は、荒れ狂う海原を前に舵輪を握りしめながら、ふとこれまでの22年間の自分の人生を思い起こしました。母親の死、父親との航海、彼女との出会い、海軍への連行、脱走、黒人取引。母の教えを忘れ、父の期待を裏切り、軍役から逃げ出し、そして神を愚弄しあざ笑っていた自分。沈み行かんとする船の上で我々が助かるとすればもはや神の奇跡以外にはありえません。しかし僕のように罪深き人間を神様はきっと許してくれないだろう。彼はそんな絶望的な思いを抱きつつも、最後まで諦めることなく一縷の望みにかけて舵を握り続けたのです。
 気が付けば、船員総出の努力の甲斐があってか、漏水はおさまり、船の揺れも幾分穏やかになっていました。大きな危機を一つ乗り越えた彼らでしたが、もう一つの大きな問題が残っていました。「食料不足」という問題が彼らを更に苦しめたのです。船体の一部を破壊する程の強風と荒波により、家畜はすべて海に投げ出され、食料を入れた樽は砕けて中身が飛び散り、もはや食べられる状態ではなくなっていました。運良く残っていたのは塩漬けのタラと飲料水の樽のみだったのです。
 気が付くと船はアイルランドの西方沖を漂い、遥か遠くに陸が見えてきたものの、沖へ沖へと吹き付ける風によって港に近づけず、波間を漂い、船員達は不安と空腹と必死に戦いながら、船を陸へ近づけようとできる限りの努力を続けたのです。
 そんな彼らの願いが神に届いたのか、イングランド沖を2週間も風に流され諦めかけていたその時、突然風向きが変わり、彼らを陸の方へ導き始めたのです。穏やかな風は、壊れかけた船体を優しくいたわり、港へと近づくと、ついに彼らは嵐の日から約1ヶ月後の1748年4月8日、アイルランド北部のドニゴール州スウィリー湾にたどり着きました。嵐のような天候は一変し、まるで神が彼らのために少しの間だけ晴れ間をもたらしてくれていたかのようでした。奇跡とも言うべき数々の現象を目の当たりにしたジョン(当時22歳)は、心の底から沸き上がる確信とともにこう呟きました。
「私には分かる。祈りを聞き届けてくださる神は存在すると。私はもはや以前のような不信な者ではない。私はこれまでの不敬を断ち切ることを心から誓う。私は神の慈悲に触れ、今までの自分の行動を心から反省している。私は生まれ変わったのだ。」


  D 奴隷貿易船の船長となり、メアリーと結婚

 グレイハウンド号がたどり着いたアイルランドから故郷のイングランドに戻ったジョンは、父親が仕事で航海に出ていたため、父親の友人でありグレイハウンド号のオーナーであったマネスティ氏を訪ねました。当時ジョンはまだ23歳という若さでしたが、マネスティ氏に気に入られ、彼の船の船長として働くことを勧められます。ジョンはこの提案をとても喜びましたが、自分にはもう少し経験が必要だと考え、まずは船員として色々な事を学び、納得がいく仕事ができるようになってから船長として働きたい旨をマネスティ氏に伝えました。そこでマネスティ氏は、ジョンをハーディー船長のブラウンロー号に一等航海士として乗船させ、将来の船長候補としての経験を積ませることにしました。奴隷貿易船だったブラウンロー号は西アフリカへ向かい、熱帯の厳しい気候の中、彼は昔のように川に沿って黒人達を買い集める任務に従事していきました。乗組員や黒人達は熱病で次々に倒れ、黒人達の暴動で死傷者が出るなど、以前と変わらず大変な航海だったようですが、彼は船の上で独学でラテン語の勉強を続け、聖書も少しずつ読み進めていき、知識と精神の向上に努め続けていました
 アフリカでの航海を終えてリバプールへ戻ってくると、一等航海士としての役目を立派に果たして帰ってきたジョンの姿を見て、マネスティ氏は約束どおり彼に船長の地位を与え、ジョンもこれを喜んで受け入れたのです。船長としての次の航海シーズンまで時間があったため、ジョンはチャタムにいる初恋の彼女メアリー・キャットリットに会いに行きました。この頃彼女は20歳過ぎで、ジョンは24歳になっていました。ジョンは彼女に結婚を申し込むと、彼女は彼の求愛を受け入れ、1750年2月12日、チャタムの聖マーガレット教会で2人は結ばれたのです。

  E 聖職者となり、奴隷貿易反対運動へ

 1750年8月に彼が25歳の若き船長として乗り込んだのは、2本のマストを擁するスノー型帆船アーガイル号でした。彼の下についた30人の部下の模範となるべく、規律の維持と食料の節制に努めました。船内は定期的に清掃され、黒人達もデッキで体を洗ってもらうことができていました。黒人の暴動が起きたときも冷静に対処し、罰を与える時も(当時にしては)人道的な扱いとなるよう心がけていたのです。ジョンはその後も順調に新たな航海をこなしていきましたが、ある時突然の病気に襲われたことがきっかけとなり、1754年の航海を最後に航海の仕事から身を引いています。
 病気をきっかけに船を下りたジョンは、その後マネスティ氏の紹介を受けて、リバプールの潮流調査官を1755年から5年間務めました。その後ジョンは、福音伝道家で英国教会の執事であったジョージ・ホウィットフィールド(1714〜1770)と出会い、彼の熱狂的な弟子となります。
 一方で、これまで独学で学んできたラテン語に加え、ギリシャ語やヘブライ語まで独学の幅を広げ、メソジスト派の創設者であるジョン・ウェスレーと関わり、影響を受け牧師になるための勉強を始め、聖職者としての道を歩むことを決意したジョン・ニュートンは、イングランド北部にあるヨークの大司教に一旦は拒否されたものの、イングランド東部のリンカンの司祭から聖職位を授かり1764年の38歳で、イングランド中南東部バッキンガムシャー州にあるオルニー教会(右図)の副牧師職になることができたのです。
 1767年、ジョンが42歳の時に、うつ病の静養のために移住してきたウィリアム・クーパーと未亡人のメアリー・アンウィンに出会い友達になり、オルニーへ引っ越すことを勧めます。1769年より、グレートハウスで毎週の祈りの集会を始めると、クーパーと共にこの集会のために讃美歌を書き始めました。1773年クーパーが精神に異常をきたすとニュートン宅に8ヶ月同居するようになり、1779年に『オルニー讃美歌集』という讃美歌集を出版したのです。この中に後に有名になる『アメイジング・グレイス』が収録されていました。その年、ロンドンのセント・メアリー・ウルノス教会(左図)に教区牧師として赴任します。1780年にはオルニーを去り、ロンドンの聖メリー・ウールノース教会の司祭となって晩年まで説教を続けました。

<参照>
 ニュートンと「恩恵」のゆくえ (青山学院大学文学部 教授 久野陽一 : PDF)

 また、その頃から奴隷貿易反対運動に関わり、1785年ウィリアム・ウィルバーフォース下院議員の相談に乗ると、下院議員を辞めて聖職者になりたいという本人の希望を断念させ、福音主義の議員の立場から奴隷貿易反対をすべきであると忠告します。そして、1807年、ジョンが81歳の時、英国国会法で奴隷貿易の廃止が決定されたのです。
 1807年ジョン・ニュートンは82歳で死去し、亡骸はセント・メアリー・ウルノス教会の地下納骨所に、妻と共に埋葬されました。現在は、地下鉄工事のためにオルニーの町に改葬されています。(左図はオルニー教会にあるジョン・ニュートンの墓)
 西アフリカのシエラレオネにある解放奴隷クリオ人が入植したニュートンと言う町の名は彼の名から因んで名付けられています。彼が人々に与えた影響は計り知れない程大きく、晩年こんなことを述べていたそうです。

"My memory is nearly gone, but I remember two things, that I am a great sinner, and that Christ is a great Saviour."
「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。 一つは、私がおろかな罪人であること。もう一つは、キリストが偉大なる救い主であること。」


<参照>
 アメイジング・グレイス(Amazing Grace):すばらしき恩寵
 アメイジング・グレイスの謎 ジョン・ニュートンの人生・伝記



 (2) 東インド会社

 東インド会社とは、インド・アジア地域との貿易独占権を与えられた企業のことです。17世紀から19世紀なかばにかけて、重商主義・帝国主義にもとづく経済活動のなかで大きな役割を果たしました。
 ここでいう「インド」とは、当時の世界の中心であったヨーロッパを基準に、アジアなどの東側を「東インド」、南北アメリカなどの西側を「西インド」と呼んでいました。有名なのは、インドの植民地経営に従事したイギリス東インド会社や、世界最古の株式会社として知られるオランダ東インド会社などです。ちなみに鎖国中の日本が長崎の出島に設置していたオランダ商館は、オランダの会社の支店でした。このほかにもフランスやウェーデン、デンマークで東インド会社が設立され、貿易に従事していました。

  @ イギリスの東インド会社の歴史

 イギリス東インド会社は1600年に、女王のエリザベス1世からアジア貿易の独占権を得て設立されました。当時は、フランシス・ドレークという人物がイギリス人として初めて世界一周を達成し、世界の海への進出を目指していた時期でした。インドネシアなどの香辛料を得ることを主な目的とし、インドのスーラトやジャワ島のバンテンに拠点を置いて、オランダなどと貿易利権を巡って激しく争います。しかし1623年、オランダ領東インド(現在のインドネシア)のアンボイナ島にて、オランダがイギリス商館を襲撃して職員全員が殺される「アンボイナ事件」が発生しました。殺害されたなかには、傭兵として雇われていた日本人も含まれていたようです。これによってイギリス東インド会社による香辛料貿易は挫折アジアからの撤退を余儀なくされることとなりました。活動の拠点をインドに移すことにします。  オランダの勢力によって東南アジアや東アジアから締めだされたイングランドは、1639年マドラス(現チェンナイ)、1661年ボンベイ(現ムンバイ)、1690年カルカッタ(現コルカタ)など、盛んにインドに進出しました。
 目的はインドの主力商品、綿布と茶でした。インドの綿布は積出港の名がなまったキャラコとして有名ですが、茶は紅茶としてイングランド人の国民的飲料となっています。
 ところが、インドではカルカッタ・マドラス・ボンベイなどを中心に、今度はフランス東インド会社と争います。1757年に起きた「プラッシーの戦い」でフランスを破り、インドの覇権を握ることに成功しました。そしてこれ以降、単なる貿易会社にとどまらず、政治的にもインドを支配するようになっていくのです。

  A オランダの東インド会社の歴史

 オランダに設立された東インド会社は、正式には「連合東インド会社」といいます。設立されたのは1602年でイギリスよりも後ですが、イギリスは航海ごとに出資者を募る方式で、恒常的な株式会社ではありませんでした。そのためオランダの東インド会社が、世界最古の株式会社となります。「会社」といいつつも、従事するのは商業活動だけではありません。条約締結権や交戦権、植民地経営権など国家に準じる権限を、喜望峰からマゼラン海峡までの広大な地域で発揮していました。
 当時のオランダは、スペインからの独立を目指す「八十年戦争」の真っただ中。貿易制限をかけられて香辛料などが入手できなくなっていたため、独自の航路を開拓することで対抗していったのです。イギリスやポルトガルなどとも激しく争い、台湾、スリランカ、マラッカなどを占領していきます。そして、1623年の「アンボイナ事件」でイギリスの東インド会社を退け、さらに鎖国していた日本の江戸幕府と結んでポルトガルを追い落とし、アジアにおける貿易をほぼ独占することに成功しました。
 しかしオランダ東インド会社が順調に権益を獲得していく一方で、オランダ本国の国力は徐々に衰えていきます。たび重なる戦争で消耗し、ついにイギリスに海上帝国の覇権を奪われてしまいました。また18世紀になると香辛料貿易は不振になり、イギリスがおこなっていた綿織物や茶などの貿易が盛んになります。1795年にはフランス革命政府に本国を占領されることとなりました。
 このような混乱のなかでオランダ東インド会社も解散。黄金期を支えた海外植民地の多くは、イギリスに接収されていきました。

<参照>
 5分でわかる東インド会社!イギリスとオランダ、日本との関係等を簡単に解説


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