復帰摂理歴史の真実

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新大陸発見−中南米編 <トップ> ローマ教皇庁からイギリスへ

■ 2. 大航海時代と南北アメリカ
     c. 新大陸発見−北米編



 ここでは、メイフラワー号が北米に到着する1620年11月11日までの歴史を簡単に見ていきます。

 そこから見えてくるのは、南北アメリカはキリスト教が産んだ南米長子カイン)と北米次子アベル)の歴史と言えるかもしれません。

 そして、そこにはどちらも“女王”が関わっていたことは復帰摂理の歴史性を思わせます。




新大陸発見の先駆者達



アメリゴ・ヴェスプッチ(イタリア人)1454年3月9日〜1512年2月22日。

 測量士。

 1500年 カブラルが、ポルトガル王の命によって喜望峰を超えてインドに向かう途上で、南緯16度52分の地点でブラジルを発見しました。

 ポルトガル王は、発見された土地が単なる島なのか、あるいはスペインが既にその北側を探検していた大陸の一部なのか知ることを望みましたが、その為に測量士であるヴェスプッチがその調査の責任者となりました。

 アメリゴ・ヴェスプッチが初めて新大陸の発見を認識し発表したことによって、彼の名前をとって“アメリカ”と命名されました。

 この新大陸“アメリカ”の発見は“南米”でした。





レイフ・エリクソン(アイスランド生まれのノルマン人)

 アイスランド生まれのレイフは、グリーンランドを発見しグリーンランドで育ちました。若い頃に祖父の故郷のノルウェーに渡って滞在すると、ノルウェー王と会見してキリスト教に改宗し、グリーンランドに帰ると教会を建てました。

 レイフはノルウェーからの帰還後、997年に西へと探検航海に出ました。最初にカナダのバフィン島にたどり着き、そこから南に向かいラブラドル半島を経てニューイングランドまたはニューファンドラン島付近まで到達していました。

 レイフ・エリクソンとアイスランド・グリーンランドのヴァイキングたちが、クリストファー・コロンブスの大航海時代における「発見」に先立つこと500年前に、すでに北アメリカに上陸していたヨーロッパ人であったことは確実な事です。





スペインの盛衰と、オランダとイングランドの台頭


 イベリア半島はイスラーム勢力の支配下にありましたが、キリスト教徒の再征服事業(レコンキスタ)1492年をもって完了すると、ポルトガルとスペインはアジアの産物を求めて大航海時代が始まりました。

 当時、十字軍以来イスラーム世界を通じてヨーロッパに知られていた東洋の香辛料は、高緯度地方の長い冬を生き抜くための食肉保存と味付けのために必要なきわめて高価なもので、同じ重さの銀と交換されるほどでした。

 その東洋を目指してアフリカ西岸を航海したポルトガルは“金交易”での豊かな富に恵まれました。

 その影響からスペインも負けずと、マルコポーロの「東方見聞録」にある“黄金の島ジパング”を目指して富を夢見てコロンブスを送り出し、ポルトガルの後を追うがごとく出航させましたが、たどり着いたカリブ海諸島では、キリスト教の信仰を強要し、従わないものは粛清し、原住民を奴隷のごとく扱い金や豊かな産物をむさぼりとっていくのでした。挙句の果てにはインカアステカなどの古代文明は消え去ってしまい植民地化されてしまいました。

 一方ポルトガルは、ヴァスコ・ダ・ガマがインドにたどり着くと東洋で広く交易を始めていくようになります。当然、スペインやポルトガルの王や貴族たちがキリスト教の布教にも務めていくようにもなるのですが、このスペインとポルトガルの間に紛争が始まります。


 この紛争には、ローマ教皇が仲介となり1493年に大西洋上に教皇による分界線を定め、1494年トルデシリャス条約によって教皇子午線の西をスペイン東をポルトガルに分けると、1529年サラゴサ条約(東の子午線)を締結してそれぞれの勢力範囲を決めました。



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 この頃アメリカ大陸では、ヨーロッパ各地から多くの植民者がわたって植民地化の時代を迎えました。スペイン王室は、植民者に先住民支配の信託を与えて征服者や入植者に対して、その功績や身分に応じて一定数のインディオを割り当てて、一定期間使役する権利を与えるとともに、彼らを保護してカトリックに改宗させることを義務としました(エンコミエンダ制)。

 まもなくして、インディオを使役して鉱山でを掘り出し、カリブ海域でサトウキビの栽培が始まり、ヨーロッパ大陸の需要のためだけに強制労働が課せられ、労働不足を補うために黒人奴隷をアフリカ西海岸に求めました(奴隷貿易)。


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 このような中で、スペインフェリペ2世(1527年5月21日〜1598年9月13日)のころ絶頂期を迎えましたが、イングランドエリザベス1世(1533年9月7日〜1603年3月24日)はスペインの覇権に挑み、海賊たちがスペイン船を襲うのを公認、承認しました。

 1577年、南イングランド出身で熱心な新教徒でもあった海賊フランシス・ドレーク船長は、「新大陸」沿岸を航行するスペイン船を私掠船で次々に襲って銀を奪い、莫大な富を得て、そのまま太平洋を横断してイングランドに帰還した、史上2番目の世界周航者です。


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 さて、カトリック系のスペインに対しカルヴィン派が多いネーデルラント(低地地方)がスペインに対して反乱を起こしました(八十年戦争)。イングランドはネーデルラント側を支持したため、イングランドとスペインの関係は悪化します。

 1588年アルマダの海戦により、イングランドがスペインの無敵艦隊を壊滅したことを契機としてスペインの勢力は下り坂となり、北部ネーデルラント(オランダ)とイングランドが覇権争いを繰り広げることとなります。

 北部ネーデルラント7州は、スペインとの戦争中の1581年連邦共和国としてとして独立宣言して、17世紀はじめに事実上の独立をはたしたのが共和制オランダでした。

 反宗教改革の中心だったスペインは、フェリペ2世の時代にカルヴィン派の商工業者の多いネーデルラントに旧教(プロテスタント)を強制したため、それに反発した人々の八十年戦争が起こって、次第にスペインの支配から離反していくことになったのです。

 この頃からすでに“宗教改革”の動きが起こり始めていたのですが、その第一弾は“カルヴィン主義”によるものですが、この事に関してはこの後の「宗教改革」のページで述べることにいたします。


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 さて、アジアの重要中継点をポルトガルから奪ったオランダは、中国やインド、ベトナムの生糸を日本に運んでを入手すると、それを元手に香辛料・砂糖・茶・陶磁器などのアジアの産品を獲得して、アジア各地やイスラーム世界、ヨーロッパに転売して隆盛を築きました。

 この様にオランダの黄金時代を迎えている頃、ヨーロッパでは最大の混乱として三十年戦争が起こります。「17世紀の危機」と称されている不況がヨーロッパ全体を覆っていたのは気候の寒冷化による農作物の不作、疫病の流行、宗教の対立などにより各国では王と貴族が対立し、農民は一揆を起こすなどの混乱が起こり、ついには神聖ローマ帝国で新教と旧教の宗教対立と複雑な地域の事情が複合して始まったのが三十年戦争です。

 この頃オランダのフーゴー・グロティウス(法学者)は国際法の確立を提唱し、それぞれ主権を主張する国々は、宗教や文化の違いをこえて対等に外交交渉をくり返していく中で、戦争のルールを定めることによって勢力均衡をはかることとし、1648年10月24日にヨーロッパのほとんどの大国が参加して、現在のドイツでウェストファリア条約が締結され、30年続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争に終止符が打たれました。


※ ※ ※


 時を同じくして、中国大陸では1616年ヌルハチによって統一された“女真族”が満州の地に後金王朝(後の清朝)を建国し、日本では徳川家康によって1603年江戸幕府が開かれ、1630年代には鎖国政策に転じてオランダ船と中国船による貿易だけに制限するようになりました。




<参考ページ>

 宗教改革
 ジョン・ウィクリフ (宗教改革の先駆者)

 女真族のホームページ
 白頭山




 1517年マルティン・ルターによってドイツのプロテスタント宗教改革が始められた。
 1536年カルヴァン、「キリスト教要綱」出版。
 1603年、日本は、徳川家康による江戸幕府が開かれる。
 1616年、中国大陸はヌルハチによって、後金王朝建国する。
 1618年30年戦争勃発
 1620年メイフラワー号が北米に到着する。
 1639年、日本は鎖国政策を開始する。
 1648年30年戦争終結する。


 ルターによって燻っていた宗教改革の火は燃え上がり、カルヴァンによってヨーロッパ全土を覆い、30年と言う原理的3数を経てメシヤ再降臨の具体的な摂理が展開されたと言えるでしょう。

 そのヨーロッパで選び抜かれた神の使者メイフラワー号北米神への信仰とキリストの愛の種が蒔かれました。

 同じ頃に、東洋では女性が犠牲となってメシヤ誕生への摂理が展開されて行くようになります。“女真族”や“白頭山”はもちろんですが、日本でも徳川家康に多大な影響を与えたのは細川ガラシャ愛と信仰だったことは特筆すべき内容かもしれません。






フェリペ2世 (スペイン王)1527年5月21日〜1598年9月13日

 スペイン帝国・スペイン黄金世紀最盛期の国王で、絶対主義の代表的君主の一人とされています。

 神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とポルトガル王マヌエル1世の娘イザベルとの間に生まれました。

 「異端者に君臨するくらいなら命を100度失うほうがよい」と述べているほど、フェリペ2世はカトリックによる国家統合を理想としました。本人も熱心なカトリック教徒であったとされています。

 1580年ポルトガル併合によって、フェリペ2世はインディアス(新大陸)、フィリピン、ネーデルラント、ミラノ公国、フランシュ=コンテ(以上カスティーリャ王国領)、サルデーニャ島、シチリア島、ナポリ王国(以上アラゴン連合王国領)、ブラジル、アフリカ大陸の南西部、インドの西海岸、マラッカ、ボルネオ島(以上ポルトガル王国領)という広大な領土を手に入れ、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるスペイン最盛期を迎えました。

 1584年には日本から来た天正遣欧少年使節を歓待しています。



エリザベス1世 イングランドアイルランドの女王(在位1558年〜1603年)

 1601年11月、議会と対立したエリザベスは有名な「黄金演説」を行います。


 聴衆の皆さん!

 我々はあなた方の宣言を聞き、あなた方の状況に対する懸念を認めます。
 私達の愛情を打ち消すほど、己の問題にかかわずらう君主はいません。
 私の目の前に置かれた宝石ほど、高価な宝石などありえません。それこそが、あなた方の「」なのです。いかなる宝や金貨よりも尊ぶゆえにそれを称賛する術を知るが故に、いかにそれが貴重かを心に留め、愛するのです。
 そして思うに、神は私を高い地位に就けられたけれども、私をあなた方の愛情を得て統治してきたという事にこそ、私の王冠の栄光であると考えている。
 私は神が私を女王にならしめた事ではなく、かくも深く感謝を捧げてくれる臣民を統べる事を喜びます。
 それ故に、私は己の義務を果たす事以上の事を為そうとは望みません。
 ...私は定められた命以上に長く生きて統治する事を望んでいるわけではないが、その統治はあなた方に良き事をはかるべきものである。(あなた方は、これまで、私以上に力強く賢明な君主を持ってきたし、またこれからも持つであろう。しかし...) 私以上にあなた方を愛し、心にかける君主は今まで持ったことはなかったであろうし、これからも持つことはないであろう。


 その後、エリザベスによって、不法な独占特許状は廃止されました。


 <参考ページ>

  エリザベスT世 生誕日
  国王至上法
  礼拝統一法



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