復帰摂理歴史の真実

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マルコポーロとコロンブス <トップ> 新大陸発見−北米編

■ 2. 大航海時代と南北アメリカ
     b. 新大陸発見−中南米編


大航海の先駆者


エンリケ航海王子(ポルトガル人)1394年3月4日〜1460年11月13日

 航海者を援助、指導し、アフリカ西岸を踏破させるなどした人物。

 1420年5月25日、テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、大西洋への進出に情熱を傾けた熱烈なキリスト教信者

 1419年、エンリケの派遣した人物によって、マディラ諸島が発見され植民地化されました。


 1441年にゴンサルヴェスのキャラベル船が出航し、西サハラに入りアザラシの群れを捕獲すると、上陸して沿岸部を探索して現地人を捕らえてエンリケに献上する奴隷としました。

 この事により1441年は、キャラベル船の登場とアフリカ奴隷史の最初の年となったのです。

 その後、キャラベル船団はブランコ岬に到達すると、アフリカの金や奴隷をヨーロッパに運ぶ、戦いと収奪の側面を見せ始める様になります。


 1444年、ディニス・ディアスがヴェルデ岬を超え、パルマ島を発見します。

 ヴェルデ岬には北・西アフリカとは全く違う漆黒の肌を持つ黒人が住んでいたのです。

 ここから東に伸びるギニア湾までの地方は正にヨーロッパにとっての宝の山となったのです。

 当初は一方的な収奪や誘拐など、攻撃的な姿勢で臨んだポルトガル人でしたが、ポルトガル摂政のべドロは平和的な態度で交易することを望み、1446年以降にのポルトガル船団は次第にマリ(マリ帝国)など現地の黒人国家の商隊と接触するようになると、ポルトガルの金交易ポルトガル王室が1452年に金貨を鋳造するほど、多大な富をもたらしたのです。

 1460年探検隊はシエラレオネ沿岸に到達し、エンリケは「王子の村」で66年の生涯を閉じます。


 1488年、ポルトガルはバルトメロウ・ディアスによって、アフリカ最南端の喜望峰を極めることとなります。





 ここで少し整理してみましょう。


マルコポーロ(1254年9月15日〜1324年1月8日) [イタリア北東のヴェネツィアの商人]
 「東方見聞録」はマルコポーロが書いたものではなく、収容所に収監されていた時の囚人仲間がマルコポーロの話す内容を聴きとって書いたものであり、「黄金の国ジパング」は勝手に付け加えられたもので、マルコポーロ自身は日本を訪れたことはありません。(前ページ参照

エンリケ航海王子(1394年3月4日〜1460年11月13日) [ポルトガルキリスト教徒
 アフリカ西岸を航海し、ポルトガルに“奴隷”と“金交易”によって、多大な“”をもたらした立役者。

コロンブス(1451年頃〜1506年5月20日) [イタリアのジェノヴァ出身、スペインで名を上げたキリスト教徒
 マルコポーロの「東方見聞録」にある「黄金の国ジパング」と、エンリケによってもたらされた金交易に魅せられ、ジパングを目指しますが、たどり着いたのはカリブ海諸島でした。
 しかし、ここでの蛮行は、スペイン軍の慣行と化して行く事になります。(前ページ参照

ヴァスコ・ダ・ガマ(1469年頃〜1524年12月24日) [ポルトガルの探検家]
 エンリケの航海したアフリカ西岸から、さらにアフリカ南岸を経てインドに到達し、インドへの航路を発見した人物。

フランシスコ・ピサロ(1470年頃〜1541年6月26日) [スペインの軍人]
 コロンブスの発見したカリブ海諸島の先に進み、南米大陸の発見者と言えるかもしれませんが、その事以上に、ピサロはインカ帝国を滅ぼした人物と言ったほうが良いかもしれません。


 ではこれから、ヴァスコ・ダ・ガマフランシスコ・ピサロについて少し見ていくことにします。




インドへの大航海


ヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル人)1469年頃〜1524年12月24日

 航海者・探検家でインドへの航路を発見した、ヨーロッパ最初の人物。


第一次航海

 1497年7月8日、リスボンを出航。

 1497年11月22日、アフリカ南端の喜望峰を通過し、モザンビークに到達。

 1498年5月20日、インド南西のカリカットに到達。

 1499年9月、ポルトガルに帰還。



第二次航海

インド洋提督」の称号を得る。

 1502年2月12日、インドへ出航。



第三次航海

 1524年、三度目の航海でインド西岸のゴアに到着後まもなく、ヴァスコ・ダ・ガマはマラリアに感染し、12月24日に死亡する。




インカ帝国を滅ぼした人物


フランシスコ・ピサロ(スペイン人)1470年頃〜1541年6月26日

 父は軍人で小貴族ですが、母は召使であったといわれ、教育されず、文字も知らないままで育ちました。

 1498年〜1502年、イタリア戦争に参加しました。

 1502年、イスパニューラ島へ渡ると、パナマ遠征に出ます。

 1524年と1526年の2度にわたり南アメリカを探検しました。

 1528年、スペインに戻り、カルロス1世からペルー支配の許可を得ます。

 1530年、パナマに戻ると、翌年パナマを出航し、ペルーへの侵入を開始しますが、インカ皇帝アタワルパを追って南進します。

 1532年、インカ皇帝アタワルパを生け捕りにすると、アタワルパの身代金として、膨大な金銀を受け取りますが、約束を翻して皇帝を処刑してしまいます(1533年7月)。

 1533年11月、インカ帝国の首都クスコに無血入場を果たすと、インカ帝国が滅亡してしまいました。

 1538年4月、これまで同行してきた、探険家アルマグロとの対立が始まり内戦になると、アルマグロを処刑してしまいます。

 1541年6月26日、結局アルマグロの遺児一派に暗殺され最期を遂げてしまいます。





滅ぼされた文明

 アステカ文明(中米)は、その前身であるマヤ文明として有名ですが、1519年にスペイン人が到来することによって、アステカの人々は古来からの伝説にとらわれ、スペイン人に対する対応を誤ってしまい1521年滅亡してしまうことになります。

 さて、インカ帝国アンデス文明ともに、スペイン人がやってきてキリスト教を押し付け、従わない主権を滅ぼしていきました。しかし、従わなかったのは、スペイン人が従わせようとしたキリスト教の神はすでに原始キリスト教にあった愛の神ではなく、物欲と権力欲に駆られた横暴を働く神としてしか見えなかったのです。挙句の果てに現地を植民地化して、原住民を奴隷化して豊かさを奪い取っていきました。

 この頃、すでにローマでは、宗教改革の狼煙が上がっていました。ポルトガルは東に、スペインは西に目を向けて多大な富をもたらしていた当時としては、キリスト教はさらに形骸化し、植民地支配の手段になっていたのかもしれません。

 コロンブスに始まったこの様な内容は、それを難しくしていた航海を一人の女王がそれを可能にするために奔走した事に端を発します。もしここでコロンブスの航海が難しくできなかったならば、中南米はどの様に発見され、どの様な現在を迎えていたことでしょう。(前ページ参照




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