復帰摂理歴史の真実 | |||||
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g. 伊藤博文と安重根 ■ 伊藤博文の暗殺と安重根 安重根 (1879年9月2日〜1910年3月26日) (左図左は安重根、右はその家族) 現在は北朝鮮にある黄海道の道都海州府首陽山の資産家で、多数の土地から小作料を取って生活する大地主(地方両班)の家に三男一女の長男として生まれました。通称は安應七(アン・ウンチル)。 父・安泰勲(左図左で右は母とされる)は幼少より英才として知られ、科挙を受けて進士に合格し、朝鮮では当時西学や天主教と呼ばれていたカトリックに改宗し、洗礼名はペテロとしました。 祖父・安仁寿は教育に熱心で、6歳の應七を漢文学校に入れ、次いで普通学校で学ばせたが、祖父が亡くなった14歳の時、應七は「書は以て姓名を記するに足る」と友人に言い、父の様に学業で身を立てないと言って、應七は不学を誇り、狩猟、銃、飲酒、歌舞、妓生、義侠を好む浪費家となりましたが、1894年、應七は16歳の時に金氏(キム・アリョ)を妻に娶り、後に二男一女をもうけました。 この年、甲午農民戦争(東学党の乱)があり、父・泰勲は東学党が郡内で外国人排斥や官吏を殺害して暴れまわっていたのを憂いて、70名余の私兵を集めて自警団を組織し、信川郡青溪洞に避難民や宣教師を保護すると、東学党・農民軍とも戦ってこれを撃退しました。 しかし翌年(1895年)、父・泰勲が東学党から奪った軍糧が、もともと魚允中や閔泳駿の年貢米だったということで、国庫金の掠奪であると訴えられ、行賞されるどころか逆に賊の汚名を着せられていまい、泰勲は京城に赴き、法官に三度無実を訴えましたが、聞き入れられず、判決もでませんでした。そのうちに閔氏の手勢に襲撃され、安一族はパリ外国宣教会から派遣されていたフランス人のジョゼフ・ウィレム(韓国名: 洪錫九)司祭に匿われました。この一件の後、父・泰勲は布教に熱心になり、應七も洗礼を受けて17歳で改宗し、洗礼名を「トマ(トマス)」としました。 1904年、日露が朝鮮半島などの植民地領有を巡って争った日露戦争が勃発しましたが、應七は日露の何れが勝っても韓国はその勝者の属国であると行く末を悲観しました。他方で、應七は宣戦布告の文面にある「東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする」ためとする建前を信じていて、その大義を日本が守らないのは全て政治家が悪いのであり、伊藤博文の策略のせいであると考えていました。 しかし伊藤の勢力が今は強くこれに抵抗しても徒死するだけで無益だと、應七と父・泰勲は話し合い、清国の山東半島や上海には韓国人が多数居留していると聞いていたので、安一族も外国に亡命して安全を図るべきだと考えて、應七は山東等の地を歴遊し上海に到着すると、そこで偶然に旧知のフランス人宣教師郭神父に遭遇しました。 郭神父が「お前はここへどうして来ているのか」と問いかけると、應七は韓国の惨状を示し「現状がこのとおりで、どうすることもできないので、やむをえず、家族を伴って外国に移住し、しかる後、在外の同胞と連絡し、あまねく列国に現状を説明して、賛同を得た後、時期の至るのを待って事を挙げ、目的を達成しようと思う」とうち明けます。これにたいして郭神父は、「家族を外国に移住させるというのは間違いである。2千万の韓民族がみんなお前のようにしたならば、国内はまさに無人になってしまい、これは、相手の望んでいる通りにすることになる」と指摘されて、大韓帝国の独立について朝鮮民族が団結するべきという意見を持つようになりました。 1905年、父・泰勲らは娘の嫁ぎ先や應七の妻の実家があった平安南道鎮南浦に引っ越していましたが、12月、應七が帰国した頃には父はもう亡くなっていました。父を青溪洞に葬った後、應七は大韓独立の日まで日常の飲酒を辞め、断酒をすることを決心しました。 1906年、私財を投じて三興学校と敦義学校という2つの学校を設立しました。1907年、父の知人金進士から白頭山よりも北方にある間島や海参蔵(ウラジオストク)には韓人百数万人が居留して物産豊富であると教えられて、應七はロシアの地で事業を起こすことを考えるようになりましたが、先に資金を調達すべく平壌で友人の安秉雲らと石炭商を営み始めました。しかしこれに失敗し、数千元という多額の金を失いました。 この年の7月、伊藤博文が訪韓して第三次日韓協約が締結され、第二次日韓協約(1905年)にも内心では反感を持っていた高宗の指示により第2回万国平和会議へ派遣されていた密使が抗議活動をして、所謂ハーグ密使事件が露見し、高宗は強制退位となり、皇太子に譲位するという一連の展開がありました。軍隊解散とそれに伴う義兵闘争の高まりの中で国内が不穏となると、應七は急に家族を置いて、安多黙と名乗って友人李照夏と共に間島へ渡りました。なお「多黙」は洗礼名トマの当て字です。しかし間島にも日本軍が進出していて、足の踏み場もないような状態だったので、各地方を視察した後、夏の終わりにロシア領に入ってウラジオストクに到着しました。 ウラジオストクで知り合った李範允は、間島管理使として清国と戦い、日露戦争時にはロシアに協力して亡命中の人物で、應七は大韓独立のために兵を起こし伊藤を倒そうと議論しましたが、李に財政的準備がないと最初は拒否されました。しかし別に厳仁燮と金起龍という2人の義侠と知り合ったので、彼らと義兄弟の契りを結び、厳を長兄・安を次兄・金を末弟とし、3人で韓国人を相手に義を挙げる演説を各地で行いました。彼らは「日露が開戦した時に宣戦布告文で東洋平和の維持と韓国独立を明示しながらその信義を守らず、反って韓国を侵略して五箇条条約や七箇条条約を課し、政権掌握、皇帝廃位、軍隊解散、鉄道、鉱山、森林、河川を掠奪した」と日本を非難し、それに怒った「二千万の民族が三千里の国内で義兵として蜂起しているが、賊は強く義兵を暴徒と見なして殺戮すること十万に至る」と苦境を訴え、日本の対韓政策がこのように残虐であるのは「日本の大政治家で老賊の伊藤博文」のせいであり、「伊藤は韓国民は日本の保護を受けて平和であると天皇を欺き、外国列強を欺き、その耳目を掩うて奸計を弄し」ており、よって「この賊を誅殺しなければ、韓国は必ず滅び、東洋もまさに亡びる」と演説して伊藤暗殺の同志を募り、一方で独立運動の火が消えてしまわないように義兵運動の継続も訴えたので、これに応じる者、あるいは賛同して資金を出す者があり、金斗星(金都世)や李範充等と300名の義兵を組織することができました。これをもって、1908年6月、咸鏡北道に進入して日本軍と交戦したのです。 日本軍人と民間人とを捕虜としましたが、万国法で捕虜の殺戮は禁止されているから釈放すべしという安と、日本人を殺しに来たのにそれをしないのはおかしいという仲間と口論して、部隊を分かち別行動をしたところで日本軍に襲撃されて散り散りになってしまいます。その後、集結するも6、70名程度に減り、食料が無くなり、村落で残飯を恵んでもらう有様となり、仲間を探している途中で再度伏兵狙撃にあって部隊は四散しました。数名で苦労して豆満江に戻ってきて、本人の言うところの「敗軍の将」として生還したのです。 1909年正月、同志12名と共に「断指同盟」を結成して薬指を切り(指詰め)、その血で大極旗の前面に「大韓獨立」の文字を書き染めて決起しました。 3月21日大東共報(創刊は「海朝新聞」)の付紙面に安應七名義で寄稿し、大韓帝国の国権回復のために同胞に団結を訴えました。国内外に同志を派して情勢を探り、同年1909年9月頃、伊藤博文を暗殺することになったのです。 <参照> ・ 伊藤博文射殺犯・安重根の小伝 ・ 安重根|獄長日記 (ブログ) ▼ 伊藤博文の暗殺犯人はロシア特務機関 1909年(明治42年)10月26日、伊藤博文は当時枢密院議長(同年6月に韓国統監を退任)で、満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(左図)と会談するために、外交団を連れてハルビン市に赴き、午前9時、哈爾浜駅に到着しました。 ハルビン駅(右上図)はロシアが利権を持つ東清鉄道の駅で、当時の満洲はまだ清国領でしたが、路線と駅構内はロシアに管轄権があったのです。 伊藤・ココツェフの会談は、治安の悪さのため市内に席を設けずに列車内で設定されました 長春駅からは東清鉄道民生部部長アファナーシエフ少将や同営業部長ギンツェらのロシア側接待員も同乗して出迎えていました。ココツェフは予定通りにロシア側の列車で先に到着して待っており、伊藤は日本側の列車車内を訪れたココツェフの挨拶を受けました。車内で20分ほど歓談した後、ココツェフがロシア側の列車に宴の席を設けていると招待したので、伊藤はこの招待を受けて、議員室田義文と議長秘書官古谷久綱も列席することになりました。列車を移る際に、ココツェフは伊藤に敬意を表すためにロシア兵を整列させたので閲兵してもらいたいと言い、伊藤は平服であったために一度辞退したが、ココツェフが重ねて希望したので一行は駅ホームに出て、整列したロシア兵の閲兵を受けることになりました。 構内には清国兵もおり、外国領事や在留日本人の歓迎団なども控えていました。伊藤らが列になってロシア要人らと握手を交わしていたところに、群衆を装って近づいていた安重根が、ロシア兵の隊列の脇から手を伸ばし、10歩ほどの至近距離から拳銃を発砲しました。彼は7連発銃の全弾を乱射しました。自伝によれば、安は伊藤の顔を知らず、「顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人」を伊藤博文であると思い、その人物に向けて4発を発砲しました。しかし人違いで失敗したとあっては一大事と考えて、「その後ろにいた人物の中で最も威厳のあった人物」にもさらに3発連射したと言います。ただし事件直後の古谷秘書官の電報では、7連発銃のうち6発が発砲されたと報告されています。 ・ 安重根の銃と伊藤博文の遺体から発見された弾 さて、伊藤博文に随行し銃弾を被弾しながら一命を取り留めた外務官の室田義文は、伊藤博文の遺体の処置にも立ち合っています。3発の銃弾によって絶命した伊藤博文ですが、その内2発は体内に銃弾が留まっており、右肩を砕き右乳下に止まった銃弾は右腕関節を貫通して臍下に止まりました。彼は、その銃弾の摘出作業を目撃しています。室田は摘出された銃弾を確認し、「フランス騎馬隊のカービン銃(左図上)の銃弾だった」と証言しています。 ところが、安重根が犯行の際に所持していたのは7連式のブローニング拳銃(左図下)で、兵列の影に隠れる様に「しゃがんで撃った」と自白していますので、伊藤の身体に残された弾痕は、右上から左下へと入っているのですから、伊藤より高い位置から銃弾を発射しなければなりません(右図)。 日露戦争前の伊藤は、日露協商推進を締結する事で日露友好を画策する親露派でしたが、日本国内ではロシア南下政策を脅威に感じ親英派が主流となり、日英同盟が結ばれ日露戦争に発展していきます。このため、ロシア側では、伊藤は親露派ではなく対ロシア諜略として親露派を演じいたと判断し、伊藤博文を暗殺したと室田義文はロシアの関与を疑っていました。外務省もロシア特務機関の影響下にある「韓民会(ロシア特務機関の影響下にある組織)」を重点的に捜査したのです。 しかし、日本側に伊藤博文暗殺を関与した人物がいた可能性もありました。「ハルビン韓人会」元会長の楊成春(左図)は安重根とも懇意な関係であると共に、日本の政治結社「黒龍会」を通じ杉山茂丸とも面識がありました。楊成春は、外務省の取り調べを終えた直後、同じ「ハルビン韓人会」に所属する鄭淳萬によって射殺されます。 安重根が獄中で執筆した「東洋平和論」、西欧列強から東アジアを守るには、日中韓が力を合わせるべきとし、
1878年(明治11年)に大久保利通が起草した「興亜論」に沿ったもので、金玉均が中心とする「開化派」により韓国でも広く浸透した考え方です。 21年の歳月をかけ、「開化派」と宗教組織「東学党」が合流し、アジアを日本を中心とした合邦国家となり、開国文明化による新秩序構築するアジア主義を標榜し14万とも100万とも謂われる会員数を誇る「一進会」が、「日韓併合」を望んだ時代に移行していました。安重根が伊藤博文を殺害した理由は「日韓併合」を阻止する為ですから、「合邦制」の一点だけで殺害した事になります。 しかし、伊藤博文は、大日本帝国が韓国を保護するのは「富強が実るまで」であって、韓国併合に反対する初期興亜論を支持者で安重根と同じ考えです。杉山が伊藤の命を狙った理由も「日韓併合」に反対していたからで、同じ「併合反対派」だった伊藤を安が殺す動機が無いようにも思えます。 安重根は自白調書で、「伊藤博文は孝明天皇を毒殺(「孝明天皇暗殺説」参照)した人物で、韓国を欺こうとしている」。つまり、主君を毒殺する様な伊藤博文が「日韓併合」反対という立場を取っていても、信用出来なかった為に凶行に及んだというのです。 安重根は、大韓帝国皇太子の李垠と伊藤博文が並ぶ写真(左図)を見て、伊藤博文によって韓国王族が孝明天皇と同じく毒殺される事を非常に危惧していました。 ・ 安の最期 安は公判中から許可を得て自伝である「獄中記(安応七歴史)」を書き進めており、1910年3月15日にこれを脱稿しました。彼はさらに「東洋平和論」を書き始めたので、担当検察官として次第に懇意となった溝渕孝雄に、書き終えるまでの時間的な猶予と、死刑の時に身に纏う白い絹の衣装を一組の都合を願い出ました。獄中には洪神父や安定根・安恭根の実弟2人も面会に来ました。絹衣装は他からも提供されましたが、死装束の純白の韓服は安命根が用意して本人に渡されました。1週間程度で書いた「東洋平和論」は、結局序文を書き終えたのみで短い文章で終わりました。また安は日本人看守らに人気で、求められるがままに多数の墨書も書き残しています。 3月26日、刑場に向かう前、弟達との最後の面会が許されました。これには水野吉太郎と鎌田正治の両弁護士も同席した。 安は弟達に妻子の面倒を頼みました。また安は熱心な信者で、死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、妻への最後の手紙では、自分の息子は聖職者になるようにと書いたといいます。 同日午前9時、伊藤の月命日と絶命した時刻に合わせて、死刑が執行されました。 <参照> ・ 在日朝鮮人の戯言(ブログ) ・ 【残念】”安重根”ではなかった!!伊藤博文暗殺の犯人はロシア特務機関! ・ 伊藤博文暗殺の真相 黒幕はロシア!? ・ 伊藤博文暗殺の闇 室田義文の逝去ほどなく公刊された『室田義文翁譚』 には、伊藤に当たった弾丸は、安のピストルが発砲したものではなく、階上から撃たれたフランス製のカービン銃の弾で、駅の二階の食堂から発砲されたと書かれていて、彼は狙撃手は少なくとも2名であったと主張していました。室田は「犯人は安重根ではない」との主張を当時から持っていたと言いますが、外交上由々しき問題となるので否定されたのであると説明しています。 ロシアは暗殺に関与したと疑われることを恐れ、日本も日露関係の悪化を恐れて、警備の責任を問うたり深く追求したりしませんでした。室田によれば、彼は真相究明を求めて後に抗議したと言われていますが、真犯人探しが外交問題に発展するということで山本権兵衛が反対して、日本の官憲によって抗議の声は封殺されたのだと言われています。(「ウィキペディア」より) ▼ 日露間の極東情勢 <参照> ・ 日露関係から見た伊藤博文暗殺―両国関係の危機と克服(PDF) 麻田雅文 日本学術振興会 特別研究員(PD) (本サイト) ・ 日露戦争後の日露関係 @ 対日警戒派 1906年3月にロシア極東の行政の要である沿アムール総督に着任したウンテルベルゲルは、就任当初から日本が再び戦争を仕掛けてくる、という再戦論を前提に地域政策を推進しました。「日本の来るべき戦争の目的は太平洋岸からロシアを撃退し(中略)、北韓国境から北氷洋岸までの広い地帯を領有することにある」、と彼は見ていました。そのため日本との緊張緩和は見せかけにすぎない、と繰り返し政府に報告していたのです。政府の中で、彼の見解を支持していたのがスホムリーノフ陸相です。陸相はココフツォフが極東視察中の1909年10月18日にも、ピョートル・ストルイピン首相に、「目下のところ最も攻撃的な敵は日本とオーストリアです」と書き送っています。 A 対日協調派 一方、イズヴォリスキー外相は1907年の第一次日露協約締結後のインタヴューで、日本はあと10年間ロシアに対して攻勢に出ることはないだろう、と語っていました。伊藤が暗殺された後も、日本は脅威ではないという認識を変えず、1909年11月22日にスホムリーノフに宛てた手紙では、日本の軍事力強化は認めましたが、その仮想敵がロシアであるとは言い難い、と強調しました。 このように「日本の軍事的脅威に対し極東の防衛をどう強化すべきか」という問題として外務省と陸軍の対日評価は正反対となり、対日警戒派と協調派の対立は、1909年には国防問題をめぐって激しくなっていきました。 ・ ココフツォフの極東視察 1909年10月26日に行われた、伊藤・ココフツォフ会談は、ココフツォフが極東視察途上の出来事で、10月24日より4日間のハルピン浦塩などの視察途上での会談として急きょ設定されました。 ところで、このココフツォフの極東視察の目的は、彼が皇帝に提出した視察の復命書によれば、広範な目的が開陳されています。
第二点はロシアの内政問題であり、沿アムール地方は長らく外国製品の関税なしでの輸入を認める自由港制をとっていました。しかし、この制度は日露戦争前にはイギリスの圧力を受けて大連に適用され、代わりに沿アムール地方では廃止されました。日露戦争後には、ロシアが大連を日本に譲り渡したため、改めて沿アムール地方に自由港制が導入されたため、外国資本を利するという理由でココフツォフが1909年1月に自由港制を撤廃しました。 ・ 急がれた伊藤・ココフツォフ会談と清朝の関心 清朝は、1909年10月26日の伊藤・ココフツォフ会談によって、中東鉄道が持つハルビンと長春間の路線がロシアから日本へ引き渡されるのではないかと、その会談の目的を探り出そうとやっきになっていました。 では実際のところ、その会談目的は何だったのか。
第二点の生糸の運賃低減とはどのような問題なのか。後藤の提案を受けて、1909年12月にヴェ ンツェリ副理事長は詳細をココフツォフ蔵相に書き送っています。それによれば、中国や日本などからヨーロッパに輸出される生糸はスエズ運河経由が主流で、ロシアもフランスやドイツなど西ヨーロッパから生糸を買い付けていました。中東鉄道はこれに対抗して、シベリア鉄道を経由した生糸の輸送で利益をあげるべく、1906年から検討を開始していました。その際に輸出元となる満鉄と中東鉄道は会合を持ったり、輸出運賃を算出しています。 すなわち横浜から海路でマルセイユまで運び、そこから鉄道でモスクワまで運ぶのには75日から90日を要し、生糸1プード当たり4ルーブル60コペイカかかります。シベリア鉄道だと所要日数は30日に短縮できますが、生糸は1プード当たり6ルーブル50コペイカかかります。そこで、シベリア鉄道経由のネックである運賃を海路より低くすることが課題となりました。生糸は当時の日本の主要な輸出品であったので、この問題は日本にとっても重要な意味を持っていました。 第三点は清朝の中国東北における利権回収に対して、日露が共同して対抗することを目論んだものです。特に、日露戦争に敗北したロシアは、清朝に対して守勢に立たされ、1909年5月には中東鉄道の収用地における主権が清朝にあることを認めた条約が調印されています。清朝を後押ししたのは英米独で、ロシアの特権を認めず、中国東北の「門戸開放」を求めていたのです。勢いに乗る清朝は、同年6月にロシアと中国東北における海関設置に関する協議も開始し、9月までにハルビンや松花江と黒龍江の沿岸に海関を設置しました。 こうした動きを横目で見る日本は、利権回収の動きが満鉄に波及することを懸念して、列強の中で唯一ロシアを支持していました。しかし、日本が9月4日に「満洲及び間島に関する日清協約」を締結したことは、一種の裏切りとしてロシアの諸新聞を強く刺激したのです。その論調は日本の外交攻勢を責めるもので、清国と日本の接近を危惧するものもした。 9月20日にはイズヴォリスキー外相は本野大使に、小村外相による満洲六案件交渉の達成がロシアへの対抗を意図するものだとする世評が強くて、自分は困難な地位にある、と苦情を述べ ています。 10月11日付 けのマレーフスキー=マレーヴィッチ駐日大使の電報によれば、伊藤は出発前に大使へ次のよう に語りました。彼が言うには、「公的な資格なしで行くけれども、中東鉄道と満鉄の協定と(両国の)商業関係の進展に関連して、日露のより緊密な関係(構築)が可能かどうか明らかにするため、この視察と、特にココフツォフ閣下との会談を利用したい」とのことでした。会談の続きで、彼はロシアに対する自らの変わらない友好的な感情を約束し、いま中国で列強の相互の利益が衝突してしまっている極東での諸事業については、日露両国の緊密な協力が必要である、という考えを披露しました。この電報からは、伊藤がココフツォフとの会談で日露関係をより深めたいと考えていたことが分かります。また伊藤は朋友の井上馨に、旅行に際しては日清両国の親善と共に「露国蔵相とも会って相互の親善を図る」と語っていました。 前述したように、いわゆる間島協約によって日露関係は依然として微妙であったことを考えると、伊藤がその改善を望んでいたのも不思議ではありません。 伊藤の使命は、後藤から託されていた区々とした案件もあったろうが、日露関係の進展という漠然としたものが主眼でした。そのためには、両国の利害が重なり、ある時はぶつかる、中国東北での利害の調整が必要だったのです。 具体的には、第一に中国東北における日本の国立銀行の設置、第二に1909年9月に結ばれた満洲及び間島に関する日清条約に関して(特に領事館の設置)、第三に松花江における日中合弁の汽船会社の設立が話し合われる可能性が高いと報告しました。 伊藤博文枢密院議長は、「ロシアとの友好関係の促進に、政府は出来る限り配慮せよ」と明治天皇が発言したのを受けて、満洲案件を片付けるために向かいましたが、伊藤の暗殺によって満州を挟んで日露は大きく変貌していきました。 ・ アメリカのロシアへの接近 折しも、アメリカもロシアへの接近を図っていました。1909年10月2日には、モルガングループ(左図は、モルガン財閥の創始者ジョン・モルガン)が出資して、イギリス企業が現在の遼寧省錦州と黒龍江省黒河を結ぶ錦愛鉄道の敷設を請け負う契約が、アメリカのウィラード・ストレート前瀋陽領事の仲介で結ばれました。11月にはアメリカのフィランダー・ノックス国務長官(右図)が日本とロシアに中国東北で の鉄道事業の中立化を申し込みます。ノックスが目論んでいたのはロシアに接近することで日本を外交的に孤立させることでした。しかし、ニコライ2世は提案を蹴って日本との連携を選選び、1910年1月21日にロシアと日本は共同でアメリカの中立化案を拒否しました。 ロシア閣内ではスホムリーノフ陸相が日本への警戒心を解きませんでした。彼はイズヴォリス キー外相に、もはや日本との戦争が最終局面に入ったという認識を1909年11月18日に示しています。陸軍参謀総長や海軍大臣の同じような提言もあり、ココフツォフはしぶしぶウラジオストク要塞 への補助金の支出を認めました。しかし、12月11日の極東政策をテーマにした閣僚会議で、イズヴォリスキー外相は日本との協力を更に深化させる方針につき、閣僚全員の同意をとりつけました。ところが、翌年の1910年になるとスホムリーノフ陸相の関心はしだいに清朝の軍事的台頭に向けられ、日本との中国東北の分割を模索していきます。1911年に辛亥革命が起きた時、彼はその計画を実行に移そうとします。
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