「第三次世界大戦」について

ロシア化されたギリシャ正教 <トップ> ロシア正教は唯物論か否か

一、キリスト教の神学的問題と戦争
     3. 弁証法によるロシア正教


1. プラトンの弁証法とロシア正教

<参照>
 1850年代のロシアにおける正教的プラトン理解
  (北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター 下里俊行 : PDF / 本サイト



 (1) キリスト教と対立するプラトン哲学
  @ 弁証法と授受法の違い
    (@)弁証法とは
 弁証法という言葉は、古代ギリシアの哲学に初めて登場し、それは他人との議論の技術、または事物の対立という意味で使われていた。プラトンの初期対話篇で描かれる、比較的実像に忠実とされるソクラテスから導かれる解釈では、彼が実践した、ある一つの考え方が内在的に伴うことになる矛盾●●を明らかにするために、その主張に疑問を投げかけながら議論・問答することで、より妥当な真理に近づこうとする方法を意味する。問答法●●●と表現される。『統一思想要綱』では次のように説明されている。
 ヘーゲルはさらに弁証法が進行する形式も提示している。それが正―反―合、または定立―反定立―総合、または肯定―否定―否定の否定の三段階形式である。(『統一思想要綱』p136)

 すなわち事物の発展において、事物(肯定または正)は必ずその内部に自体を否定する要素(反)をもつようになり、両者が対立するようになるが(この状態を矛盾という)その対立(矛盾)は再び否定されて(否定の否定)、いっそう高い段階に止揚される(合)と説明している。これが正―反―合、または肯定―否定―否定の否定、あるいは定立―反定立―総合の三段階の弁証法的な進行形式でる。ここで止揚とは、事物が否定され、さらに否定されるとき、その事物の中の肯定的要素は保存されて新しい段階へと高められることをいう。(『統一思想要綱』p136)


 ある事象を「肯定(正・定立)」とすると、それを「否定(反・反定立)」する事象とが対立する。この状態を “矛盾” というが、「肯定」が真に成立するためには、それに対する「否定」が成立しないということを論証する必要がある。これが “否定の否定(合または総合)” の意味である。そうすることで「肯定」理論が “真実” となって「否定」理論が “偽り” とされる。この事は、元となる「肯定」に “否定” を否定した理論が付加されて新しい段階へと高められた「肯定」としての理論が成立するというのである。こうしてロシア正教は、従来のキリスト教と相対立ギリシャ哲学を持ち出して、弁証法によってその対立関係を克服することで、キリスト教の中でもより正統なキリスト教であることを論証付けようとしたのである。

    (A)授受法とは
 弁証法とは、一種の矛盾解消法と言えるだろう。ある事象(A)を、別の事象(B)が否定するとき、さらなる事象(C)を “否定を否定する根拠” として持ち出し、事象(A)を “より発展した事象(A′)” とするところにその目的がある。その根拠となる事象(C)によって獲得した事象(A′)は、それ自体が真理であることよりも、そこに至った結果がその目的に叶った方便として成り立てば善いのである。
 これに対して授受法は、「相対する事象が授け受けの関係によって互いに発展する●●●●●●●という法則」である。
 被造物の一つ一つは、内的に互いに相対関係を結んでいる二つの要素をもっている。主体的要素対象的要素がそうである。それだけでなく、個体は外的に他の個体との間に主体と対象の相対的関係を結ぶことによって、存在し、運動する。このような関係のもとで生物は生存し、繁殖し、発展する。ここで主体と対象が相対関係を結ぶということは両者が相対することを意味する。ところで主体と対象が向かい合って対するに際して、共通目的を中心として対する時と、共通目的なしに対する時がある。ここで主体と対象が共通目的を中心として互いに向かい合って対すること、すなわち相対関係を結ぶことを特に「相対基準を造成する」という。
 このように一つの個体が必ず他者と主体と対象の相対的関係を結ぶという事実を「相対性の法則」という。(『統一思想要綱』p473〜p474)

 事物の内部において、主体と対象の二つの要素が相対関係を結ぶとき、一定の要素または力を授け受けする作用が起きる。主体と対象間のこのような相互作用を授受作用という。この授受作用が行われるところで発展がなされる。(『統一思想要綱』p474)


 ある共通目的を基に相対基準を造成して授け受けの作用関係(授受作用)が成立し、分立された主体と対象がその相互作用によって共に発展するのが「授受法」である。この授受法と弁証法との違いは、一つは共通でき目的によって相対(分立)する立場に立つか、相反する目的によって対立する立場に立つかであり、もう一つは共に発展するか否かである。

    (B)授受法としての相克作用
 ところで、授受法にはもう一つの側面がある。それが次の相克作用である、
 授受作用は主体と対象の相対的要素または相対的個体の間に行われるが、主体と主体(あるいは対象と対象)は互いに排斥し合う。このような排斥現象を相克作用という。相克作用は自然界においては、本来、潜在的なものにすぎないのであって、表面化されるものではなく、主体と対象の授受作用を強化あるいは補完する役割をもっている
 例えば自然界において、陽電気と陽電気(あるいは陰電気と陰電気)は互いに排斥し合うが、これは主体(陽電気)と対象(陰電気)の授受作用を強化、補完するための作用なのであり、それ自体としては表面化されるものではない。したがって自然界においてはこのような相克作用によって秩序が乱されることはない。
 ところが人間社会における新しい指導者と過去の指導者の対立がその例である。このような相克作用において、二つの主体(保守派の主体と改革派の主体)はそれぞれの対象層(人民大衆)と授受作用を行って各自の勢力を形成し、その結果、二つの勢力が対決するようになるのである。そのとき、二つの主体(指導者)の中の、一方は神の摂理●●により近い立場に立っており、他方はより遠い立場に立つようになる。前者を善の側といい、後者を悪の側という。したがって社会における主体と主体の相克作用は善悪の闘争として現れる。そしてその闘争において善の側が勝利すれば、歴史の進む方向は少しずつ善の方向へ転換してゆくのである。
 しかし、たとえ堕落した社会●●●●●●であっても、相克作用はその本来の授受作用の補完性を現す場合もなくはなかった。例えば国家と国家、または民族と民族が平和的に競争しながら、文化的、経済的に発展していくという場合がそうである。(『統一思想要綱』p475〜p476)


 同じ共通目的をその目的としていても、主体と主体(または対象と対象)によってその目的に対する趣旨やその観点に違いがあれば、互いに排斥(相克)しあうようになる。しかし、それぞれの目的とするところが全く反するか否か、善か悪か、正しいか間違いか等、価値観の相違によって闘争に発展するというのである。これは、人間堕落の結果、善悪闘争による神の復帰摂理歴史として現れてきた。

<参照>
 プラトンの弁証法



  A プラトン哲学を「古典」とした3つの懸案
    (@)キリスト教の唯一神とプラトンの多神教的要素との矛盾
 3つの懸案の一つ目が、キリスト教の唯一神に対して、プラトンの著作に散見される多神教的要素との矛盾である。キリスト教神学者がプラトン哲学の内容を自らの思索の源泉として利用するためには、「異教的●●●プラトン」を何よりも先ず「キリスト教化」(キリスト教に適合するように解釈 = 多神教的要素の否定)しなければならない。
 プラトンは、ギリシャの多神教という異教的性格とギリシャ人という民族的特殊性を帯び、彼自身は神々からの直接的な啓示や霊感を受けた予言者や詩人ではなく、むしろそれらの神話的・宗教的伝承を素材とし、それらを知的観想によって加工・解釈した在俗の哲学者の典型であったとした。

    (A)ロシア正教独自の古典とするための「ロシア正教化」
 次に懸案とされたのが、プラトンの「キリスト教化」をロシア正教会独自の古典●●●●●とすることであり、ロシア正教に適合する解釈●●●●●●としての「ロシア正教化」である。
 プラトン哲学は、異教性異民族性在俗的知性という特殊性の諸契機をおびているが故に、いわば創世以来の全人類の多種多様な肉的素材的存在を媒介した「一つの真理」、つまり「唯一神についてのイデア」を詩的・具象的に顕現させる生きた語りの象徴としたのである。
 ここで語られるものが「真実」である限りにおいてプラトンとキリスト教とは一致するのであり、伝承された諸神話を素材として知性と道徳的心情を信仰に結びつける「語りの姿勢」において、プラトンは東方からスラヴ・ロシアに伝承された実践的愛智フィロソフィア(Bとして後述)と調和するして、プラトンとロシア正教との間に架け橋が見いだされたと結論付けている。

<参照>
 哲学の意味とは愛智でありすべての学問でもある3つの理由

    (B)世俗的なプラトン哲学とキリスト教の啓示神学との関係
 プラトン哲学は、キリスト教の「啓示への信仰」からみれば、それとは独立した「世俗学問」としての哲学の古典であった。この両者の関係性をどの様に解決するのかという問いに対して、まずキリスト教の「啓示」を人々の常識的分別や理性と感情に馴染むように納得させる手段として「哲学」を位置づけ、弁証法的解決による「ロシア正教化」を決定づけたのである。
 古代ギリシャ哲学を異教哲学とし、多神論から一神論への神概念の「浄化」は人間の道徳的規範の樹立と表裏一体のものであったとして、@「異教」の教えによって道徳を尊重しようとする心情は侮辱され、犯罪と悪徳が宗教によって神聖化されていたが、このような情況を憂えて哲学者たちは一神論を樹立した。その哲学者たちのなかでも「異教哲学」が多神論的異教信仰を道徳的に克服する中で到達した最高水準こそ、ソクラテスとプラトンの「人格的唯一神概念」であったとして、プラトンの神概念とキリスト教の神概念との近接化が計られた。( 赤下線 @ ロシア正教会は、西欧キリスト教社会を道徳的心情が欠如したと批判。)
 唯一神による世界の “無からの創造” という人知を超越した神秘は、かつての哲学者の知性に「啓示」が与えられなかったために、神の本質を見極めようとして様々な難問に直面した。中でもプラトンは神の本質について、ある時は形而上学的探求、またある時は弁証法によって様々な概念を導き出したものの、最終的に彼は自らの教説の不十分さに対して神による啓示の必要性を認識し、神の本質の探求を断念した。これに対して、キリスト教は「異教哲学」が到達できなかった概念と道徳律としての、未だ知られざる神の側からの「啓示」としてのキリスト教が登場したというのである。

<参照>
 ロシア正教会の歴史



  B 愛智フィロソフィアの手法は弁証法
    (@)智恵を愛するという意味での “愛智” と弁証法
 前頁(「ロシア化されたギリシャ正教」参照)で取り上げたイヴァン4世は、「ツァーリズム」と呼ばれるロシア型の専制政治を志向し、大貴族の専横を抑えることに精力を傾注した。ピョートル1世(在位:1682年〜1725年)の時に確立したツァーリズムは、ツァーリ(君主)によるロシア帝国の絶対君主制体制のことを指すが、農奴制とともにヨーロッパ諸国と違う特色を形作るものである。この様な時代背景をもって培われたのが、ロシアにおけるキリスト教のプラトン化である。

<参照>
 ロシアの農奴制
 1861年 ロシアの農奴解放の実態:問題だらけでロシア革命の遠因に

 フリードリヒ・シェリング(1775年1月27日〜1854年8月20日)は、フィヒテヘーゲルなどとともにドイツ観念論を代表するドイツの哲学者である。彼は主観と客観の同一性を唱え、精神と自然とを絶対者の二つの現象形式であるとして、絶対者においては主観と客観が無差別的に同一であると主張した。自然の根源を世界霊(宇宙霊)とし、精神と自然との最高の統一形態を芸術に見出し、『美的観念論』によってロマン主義哲学の基礎を築いた。
 シェリングの『美的観念論』における「」は、自由と必然、主観と客観、意識と無意識 の自己内における調和とその根源的一致を指した。シェリングの実践哲学によれば、意思の限定域としての「行為」は、意思と現象との合致において現われるとした。このような美的統一観を、哲学の最も基本的な根拠とみなすところに『美的観念論』と称される所以がある。このシェリングの哲学と強い繋がりを持っているのが、他ならぬロシアでる。
 ロシアのキリスト教と強い結びつきを保ってきたプラトン哲学にとって、シェリング哲学がプラトンから影響を受けていることは必然的にを関連付けて取り上げられた。この様なロシア思想界において誕生したのが『愛智会』である。
 哲学に興味を持つ青年たちが中心になって1823年に愛智会が作られると、シェリング哲学に興味を持った彼らは、世界霊●●●あるいは宇宙や世界の有機的結合●●●●●●●●●●●といった概念を独自に適用して、「あらゆる知の目的、哲学の目的とは、世界と人間の調和である」として、この「目的」はシェリングの「すべての知識は主観的なものと客観的なものとの一致にもとづいている。我々の知識における、すべての単に客観的なものの総体を我々は自然●●と呼ぶことができる。これに対してすべての主観的なものの総体は自我●●あるいは叡智●●と呼ばれる」としたのである。
 シェリングの世界霊についての教義は、プラトンの哲学体系における最も重要な教義の一つであり、イデア論との類似性は彼を「新たなプラトン」と呼んだ。ヘーゲルとシェリングの関係は、古代におけるアリストテレスとプラトンの関係に等しく、創作、詩的霊感、魅力的な言い回しはプラトンとシェリングにあり、判断力、最高に洗練された弁証法、数学的な言語はアリストテレスとヘーゲルの特質である。

<参照>
 ソクラテスにおける「無知の知」と「愛智」 (関西大学文学部教授 中澤務 : PDF / 本サイト
 プラトンと愛智会、シェリング (日本のロシア文学者 坂庭淳史 : PDF / 本サイト
 シェリングにおける自然と芸術 : カントとの関連に おいて (大阪大学大学院学生 岡林洋 : PDF / 本サイト
 キルケゴールとドイツ・ロマン主義
 シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph Schelling)
 唯物論


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