明かされたカバラ
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■ 3. 苦難の道とトーラーと戒律の道
     b. 苦難と戒律


 よって、個人は心の点で霊性に対する願望を感じます。王の財宝からのコインのこと、そして、心に存在するその他613の願望も合わせ、このプロセスを逆回転させるために、少しずつ高位の段階、創造主の性質に類似するように変化させなくてはなりません。回帰・是正(ティクン)・変化・創造の思考の成就といったプロセスは必ず起きます。私達の全員、集団魂の60万の破片は再び接合し、肉体的で自己中心的な認知、苦難に満ちた世界から、完全に互いが一体化した状態に戻り、創造の目的地に到達します。それは創造主との一致、制限の無い最高の喜びによる完全な充足です。これは起きますが、問題は私達の合意の上で意識的に起きるか、又は強制で起こるのかと言うことです。目的地は一つで、保証されていますが、そこへは2つの行き方があります。1つが“苦難の道”と呼ばれるもの。もう1つが“トーラーとミツヴォット(戒律)の道”です
 苦難の道とは私達が既に歩んでいる道です。それは実際の道とは言えません。それは私達が“歴史”と呼ぶ苦痛を伴なう遅い人類の進化です。身体的な認知方法、直すべき性質に執着するようなこと、無意識に進化してきたことが原因で、私達は様々な出来事に後ろから突き動かされます。大災害、津波、戦争などに直面し、人生において痛みや苦しみを個人的に経験します。理由は、願望発達の是正プロセスに意識的に関与していないからです。この道を歩続ければ、いずれ悲劇を引き起こします。
 しかし、内面に心の点が現れると、それは意識的な関与になります。これがトーラーとミツヴォットの道です。トーラーは“(本心または良心による指示”を意味し、ミツヴォットは613の願望の特質の1つを利己的な表現から利他的な表現に変える事を意味します
 実は、人生における全出来事はミツヴァです。是正の機会が示されているのです。なお、私の意味するミツヴァとは、特定な行為の指図のような身体的な戒律ではありません。Shulchan Aruch や律法の表などに記載されている、身体的にこれをその時しなさいと言うものではありません。私は、身体的なことをするなと述べてるのではなく、内面的な是正”、“願望の是正”について言っているのです。
 よって、外的に行われる善行、それが宗教的なことだろうが、一般的な親切行為でも、それをしたところで、心は憎しみとエゴで満ちた状態から解放されません。外的な行為では何も判断できないのです。人生の出来事として送られてくる613の願望の1つについて言っているのです。人生の全ては、まず利己的な願望を感じる機会が与えられて、次にそれを利他的な形に変えることで、創造主の思考、その機会が与えられたことに潜む思考を理解出来るようになるために差し向けられています。なぜなら、霊的な空間の中に入って昇進する為には、自分の内的性質を霊的な性質に類似させること以外ないからです。従ってこの新しい願望、創造主への直進という願望は、創造主を知りたい、彼を直接的に感じたいことです。自分の願望と実際の出来事を通して、唯一、上位、上層段階の思考が何なのかを感じたい。私達に、完璧に作られた状況と機会を初めは不正な形でプレゼントのように与え、それが何であるかを分析し、そこに潜む彼の思考を感じること、それがミツヴァ、それがテックン(是正)、それが変化です。私達はこれらの125の状態を通り、完全な現実との連結状態から、分離された地位まで降下し、個人の人間および願望となりました。この125段階も613のミツヴォットによって完全に網羅されているので、これらの変化の是正は、梯子(ミツヴォット)を登らせ個人を回帰させます。
 もう1つの特徴は、各段階を降下したことが、遺伝子のように私達の中に刻み込まれていることです。全箇所で受取る意思がますます増えたことは、道筋を教えるパンくずのように記憶されてます。この心の点、私達のアセッションへのアクセスは、最初の霊的な遺伝子であり、実際には“レシモット”(記憶)と称される霊的な遺伝的連鎖の入口の点です。そして人生の全出来事は、受取る意思の613の変化を、授与する意思へつなげ創造主に接合させます。私達がしなくてはならないことを認識させる機会を与えるために、各出来事は完璧に並べられています。この是正、変化の行為、このティクン、は私達がするのではなく、霊的な光と接触したいという願望がもとになって行われます。願望を持つことで、光が働くのです。“まわりの光”が私達に対して働く行為です。ゾハルの書には“人々が自分自身を浄化しにくるとき上位から助けられる”と書いて有ります。言い換えると、4つの肉体的願望に、以前使われていた生理的な欲求が、授与の特質が何であるかを知らせる大きな欲求に変化したことの結果です。自分たちの力でこれに至ることは無理です。この働きは“神の働き”と呼ばれます。理由は、兵隊のように、神に課せられた仕事を遂行するというものではなく、私達の増大した願望がもとになって光が私達を浄化、変化、ティクンしてくれるからです。“光”という言葉を誤解しないで下さい。それは物理的な光ではありません。霊的な世界の性質は、属性の性質であることを忘れないで下さい。意図、気分の状態といった性質です。




♠ 統一原理との対比



 さて、このセッションではポイントとなる個所を先に述べておきましょう。
  1. 内面的な是正”と“願望の是正
  2. まず“利己的な願望を感じる機会”が与えられて、次にそれを“利他的な形に変えること
  3. そこに潜む彼(神)の思考を感じること
  4. 授与する意思”へつなげ“創造主に接合
 先ず最初となる問題は、ここでの“願望”とは「私達の全員、集団魂の60万の破片は再び接合し、肉体的で自己中心的な認知、苦難に満ちた世界から、完全に互い(神と人間)が一体化した状態に戻り、『創造の目的地』に到達します。それは「創造主との一致」、“制限の無い最高の喜びによる完全な充足」であると表現されています。下線赤で示した部分は、「『原理講論』第一章 第三節 創造目的(p64〜p69)」で主張している内容と何ら変わりはありません。上に挙げた4点もそうであることをこれから簡単に説明していきますが、それは前のセッションで取り上げた“メシヤのための基台”に他なりません。
 そこで、次の“利己的な願望を感じる機会”となります。これは、自分に潜む願望の分別、つまり利己的と利他的の区別を見極めることです。この期間を『原理講論』では、“サタン分立路程”と呼んでいます。この“サタン分立路程”とは、「本心(利他的願望)(小なり)邪心(利己的願望)」となった人間の心から邪心を切り離してしまうことではありません。カバラで言っているように、“そこに潜む彼(神)の思考を感じること”によって、本心(利他的願望)を強くして実行に起こせる様にすること。つまり、これが「信仰基台」となります。そして“授与する意思”につながって行き“利他的な形に変わる”ようになります。もちろん、そこでは(本心からの)喜びが伴っていなければなりません。この喜びの対象が確立した立場が「実体基台」を立てて、“メシヤのための基台”が完成した立場となります。
 これらのことが成されていく中で、邪心(利己的願望)の作用が弱まり、塊となって居座っていたものが融けて消えていくようになる状態を“蕩減”と表現しています。決して、無理やり取り除こうとするものではありません。


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