復帰摂理歴史の真実
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■ 第三部 終章 
     b. 文先生の復帰摂理と現地の整備


1.「現地の整備」は如何にすべきか
 (1) 御言による皇室圏拡大が唯一の復帰摂理となった
  @ 長子権を復帰したカイン女性としてのあるべき道
    (@)  








 (2)「武士道」に見る重要な観点
  @  
 女性が夫君や家のために身を捧げるのは、男が主君や国のために身を捧げるのと同じく、自らの意思で行い、名誉あることであった。いっさいの人生の謎は自己放下じこほうげをしなければ解決しないが、この自己放下こそが男の忠義、家に対する女の献身の本質である。男は主君の奴隷ではないが、女も夫君の奴隷というわけではない。女の役割は「内助」として正式にみとめられるものであった。主従関係は階層をなし、女は夫君のために自己を空しくし、男は主君のために自己を空しくし、主君は天に従うとされていたのである。たしかに、このような教説には問題があり、キリスト教がすぐれているのはまさにこの点にあるといえる。キリスト教では、この世にある一人ひとりの個人に、直接創造主への責務を負うことを求めているからである。しかし、ここには、たとえ個人としての自己を殺してでも、自らより高いものに仕えるという、奉仕の概念がある。キリストの教えのうちもっとも偉大で、キリストの地上の御業の聖なる核をなすものが、この奉仕の概念である。そしてそれを共有しているという点で、武士道は永遠の真実に根ざしているということができるのである。(『対訳 武士道』p288〜p290)

 ここまでの記述から、武士道の下で女性の地位がきわめて低かったという印象を持たれたとすれば、私は歴史の真実をゆがめたことになる。女性は男性と同じように扱われなかったということは、まちがいなく言える。しかし、「違い」と「不平等」は異なるものであることをきちんと理解しないことには、この問題についての誤解はたえないだろう。
 男性そのものが、今でも例えば法廷や選挙の投票などで、とうてい平等とはいえないということを考えると、男女間の平等の問題を論じることが虚しく感じられる。アメリカの独立宣言では、すべての人間は生まれながらにして平等であると述べられたが、精神的、あるいは肉体的な面での生まれながらの才能について触れられていない。ローマの政治学者ウルピアヌスがはるか昔に述べたこと、すなわち法の前ですべての人間が平等であるということを蒸し返しているにすぎない。この場合、法的権利が、平等かどうかを決める尺度であった。社会における女性の地位を調べるのに、法的権利のみが尺度であるなら、それがどのあたりなのかを述べることは、体重をポンドとオンスで述べると同じくらい容易たやすいことであろう。だが問題は、男と女の社会的地位を相対的に比べる正確な基準が存在するかどうか、ということである。金と銀の価値を比べて結果を数値化するように、女性と男性の地位を比較することが正しいのだろうか? それで十分なのだろうか? そのような計算方法では、人間に備わっているもっとも重要な価値、すなわち人間としての本性を考慮の外においてしまうのではないだろうか? 男性女性それぞれが、この地上での役目を果たすにはおよそ様々の条件が必要であることを考えると、男性と女性の地位を比較するのに用いる基準は、複合的なものでなければならないだろう。経済学の言葉を借りるなら、「多重的な基準」ということになる。武士道にはそれ独自の、二項的な基準があった。女性の価値を、戦場と家庭という二つの基準で測った。戦場では価値がなく、家庭での価値がすべてであった。女性の待遇は、この二つの判定に対応していた。社会・政治的単位としての扱いは小さかったが、妻・母として最大の敬意と深い愛情を受けた。ローマのような軍事的な国家で、婦人がなぜあれほどの尊敬を受けたのだろうか? それは、マトローナ、すなわち母親だったからではなかろうか? 戦士、立法家ではなく、母親として男の前に立って、平伏させたのである。武士道でも同じことである。父や夫たる者が戦場や野営地に出て不在のときには、すべて家を取り仕切るのを任されたのは母や妻であった。子の教育ばかりか、子を敵の手から守る仕事でさえ母親に委ねられたのである。先に述べた女性の武術修練は、子の教育を賢く監視し、実施することができることを主たる目的としていたのだ。
 なまかじりの知識の外国人の間で、とても浅はかな考えが広まっている。日本では妻のことを「荊妻けいさい」などと呼ぶが、これは女性が軽んじられている証拠だ、というのである。日本語では家族をさして「愚父」や「豚児」、自分のことを「拙者」などと謙遜するのが普通であるといえば、分かってもらえるだろうか?
 日本人の結婚観は、「夫と妻は一つの肉たるべし」という点において、いわゆるキリスト教徒の先をいくように思われる。アングロサクソンの個人主義は、夫と妻が別々の人間であるという感覚を捨てきれない。それゆえ仲違いすると別々の「権利」を意識し、仲がよいときは言葉のかぎりをつくしておよそ馬鹿げた愛称や愚にもつかない甘い言葉をべたべたと用いる。夫か妻が他人に向かって、つれ合いのことを「わたしのよき半身(better half)」が美しいだの、賢いだの、温かいなどと褒めそやすのは、日本人の耳にはたいへん理性にもとる所作である。自分自身のことをさして、「聡明なわたし」とか「愛すべき人柄」などと言うのは悪趣味もよいところではないか? 日本人には自分の妻や夫を褒めるのは、自分自身のことを褒めるのと同じだという感覚がある。そして自分を褒めるのは、控えめにいってもよい趣味とはいえないと、日本人は感じる。願わくば、キリスト教徒の国々でもそうであってほしいものだ!このようにくだくだと脱線に及んだのは、妻のことを謙遜する礼儀は、武士にとってはきわめて普通のことであるからだ。(『対訳 武士道』p296〜p302)








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