女性が夫君や家のために身を捧げるのは、男が主君や国のために身を捧げるのと同じく、自らの意思で行い、名誉あることであった。いっさいの人生の謎は自己放下をしなければ解決しないが、この自己放下こそが男の忠義、家に対する女の献身の本質である。男は主君の奴隷ではないが、女も夫君の奴隷というわけではない。女の役割は「内助」として正式にみとめられるものであった。主従関係は階層をなし、女は夫君のために自己を空しくし、男は主君のために自己を空しくし、主君は天に従うとされていたのである。たしかに、このような教説には問題があり、キリスト教がすぐれているのはまさにこの点にあるといえる。キリスト教では、この世にある一人ひとりの個人に、直接創造主への責務を負うことを求めているからである。しかし、ここには、たとえ個人としての自己を殺してでも、自らより高いものに仕えるという、奉仕の概念がある。キリストの教えのうちもっとも偉大で、キリストの地上の御業の聖なる核をなすものが、この奉仕の概念である。そしてそれを共有しているという点で、武士道は永遠の真実に根ざしているということができるのである。(『対訳 武士道』p288〜p290)
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