原理と復帰摂理歴史再考の必要性 <トップ> 独生女という虚構

02. 初臨のイエスと再臨主


■ 心情を源泉とする愛の神によって創造された被造世界

1 『原理講論』に明記されていないヤコブ路程

『原理講論』では、後編の第二章、第一節が「サタン屈伏の典型的路程」(p342〜p348)とされている。ここで注意しなければならないことは、「屈服」と「屈伏」の違いである。「服する」とは、“従う” という意味の他に、“ある仕事に就く” という意味がある。また、「伏する」は、“従う” という意味の他に、“隠れる” や “潜む” という意味がある。つまり、「サタン屈服」と「サタン屈伏」の違いは、サタンが人間に屈して天使長の立場に戻る” ことを「サタン屈服」サタンが人間に屈しはしたものの、隠れ潜んで様子を伺う状態にある” ことを「サタン屈伏」と理解するのが正しいといえる。後編、第二章の第一節では、“ヤコブ路程” を「サタン屈伏の典型路程」としている。

 ヤコブ路程は、とりもなおさず、サタンを屈伏してきた路程である。そして、サタンを屈伏させる路程は、サタンが侵入したその経路を、逆にたどっていかなければならない。(『原理講論』p343〜p344)

ここで、サタン屈伏の路程が、サタンが侵入した堕落の経路と逆の経路とは、復帰摂理がたどる経路として神の創造の順序に基づいたものである。故に、神の復帰摂理は “再創造摂理” であるともいえる。しかし、この “サタン屈伏の典型路程となったヤコブ路程” における詳細は『原理講論』のどこにも記されてはいない。只、文先生が直接語られた “御言” としてあるだけである。




2 「堕落性を脱ぐための蕩減条件」の意味するもの

 イサクの家庭を中心とする復帰摂理において、「実体基台」を立てる中心人物であったヤコブが、アベルの立場を確立して、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てるために、サタンを屈伏してきた全路程は、ヤコブによるその象徴路程を、形象的に歩まなければならないモーセ路程と、それを実体的に歩まなければならないイエス路程とを、あらかじめ示した典型路程であった。そして、この路程は、イスラエル民族と全人類が、摂理の目的を成就するために、サタンを屈伏させながら歩まなければならない、表示路程でもあるのである。(『原理講論』p342)

 @) アダムとエバの堕落による原罪と血統

図1
人類始祖となるアダムとエバの堕落は、どの様に始まり、どんな結果を招いたのかは、『原理講論』の前編第二章「堕落論」の第二節から第四節にかけて述べられている。結果として生じた原罪」とは、人類始祖となるアダムとエバから受け継がれた罪のことである。
天使長ルーシェルとエバが、ルーシェルの “不義なる言葉” によって誘惑され、不倫なる愛” の関係を結び(霊的堕落、更にアダムがエバの誘惑を受け、エバがルーシェルと結んだ “不義なる愛 によって主管を受けたアダムは “神の御言” を失い偽りの愛による不倫なる性関係(肉的堕落)を結び、「悪の(愛の)実」となる子女を産み、出生した子女は堕落したアダムとエバによってその “偽りの愛が伝授” され、サタン(偽りの愛)の「血統」として繁殖したのである(図1)。
こうして、アダムとエバによって生じた「原罪」は、その子女たちが「アダムとエバの “堕落性による不義なる愛の結実(血統)” 」 として生存し、繁殖することとなった。

 天使が神に反逆して、エバと血縁関係を結んだとき、偶発的に生じたすべての性稟を、エバはそのまま継承したのであり、こうして天使長の立場におかれるようになったエバと、再び血縁関係を結んだアダムも、またこの性稟を受け継ぐようになった。そして、この性稟が堕落人間のすべての堕落性を誘発する根本的な性稟となってしまったのである。これを堕落性本性という。(『原理講論』p122)

「堕落性本性」は、『原理講論』(p123〜p124)によると次の4つに分類することができる。

1.神と同じ立場に立てない
天使長が堕落するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙したところにあった。
2.自己の位置を離れる
ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界においてもっていたと同じ愛の位置を、人間社会においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落したのであった。
3.主管性を転倒する
人間の主管を受けるべき天使が、逆にエバを主管し、またアダムの主管を受けるべきエバが、逆にアダムを主管するようになったところから、堕落の結果が生じたのである。
4.犯罪行為を繁殖する
もし、エバが堕落したのち、自分の罪をアダムに繁殖させなかったならば、アダムは堕落しなかったであろうし、エバだけの復帰ならば、これは容易であったはずである。しかし、エバはこれとは反対に、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。
図2
そもそも結論から言えば、堕落性本性の問題はエバの問題である。先に堕落したエバがアダムに対して主管性転倒さえしなければ、アダムは堕落せずに済んだのである。では、アダムを堕落させてしまったエバの動機となるものは、どこにあったのであろうか。それは、堕落性本性の「第1」と「第2」の性稟であり、それを置き換えたのが、“正妻” としての “妾” に対する愛の妬み(嫉妬)である(図2)。つまり、ヤコブ家庭において、レア(正妻)がラケル(妾)に抱いた怨讐としての情念がまさしくそれであった。

 A) 原罪からの重生

 罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう。その罪を分類してみれば、第一に原罪というものがあるが、これは人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をいい、この原罪はすべての罪の根となるのである。(『原理講論』p121)
 我々がコリントT一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という。(『原理講論』p266)

図3
さて、人間始祖となるアダムとエバによる霊的堕落と肉的堕落にって堕落の血統が生じた。その血統は、アダムとエバの肉的に不倫なる性関係(肉的堕落)によるものであり、それに先立ってエバと天使長ルーシェルによる非原理的な愛の力による淫行関係(霊的堕落)によって、血統的な「罪の根」となる「原罪」が生じたのである。故に重生」は、霊的堕落の蕩減復帰によって根本的に解決されなければならない(図3)。

 エバは天使との霊的な堕落によって受けた良心の呵責からくる恐怖心と、自分の原理的な相対者が天使長ではなくアダムであったということを悟る、新しい知恵とを受けるようになったのである。ここにおいて、エバは、今からでも自分の原理的な相対者であるアダムと一体となることにより、再び神の前に立ち、堕落によって生じてきた恐怖心から逃れたいと願うその思いから、アダムを誘惑するようになった。これが、肉的堕落の動機となったのである。(『原理講論』p110)
 罪の根は人間始祖が果実を取って食べたことにあったのではなく、蛇に表示された天使と不倫なる血縁関係を結んだところにあったということを知るようになった。したがって、彼らは神の善の血統を繁殖することができず、サタンの悪の血統を繁殖するようになったのである。(『原理講論』p104)

図4
重生」とは、生まれかわること。死んだ人間が再び生まれてくることを意味する。このことは、文先生の正妻(韓鶴子)における “四大心情圏の体恤たいじゅつ が成されたこと(正妻圏の復帰)によって、妾が正妻のような立場に立てる「皇族圏」が成立された(図4)ことによって、この地上に真の父母の存在が無くなっても、その皇族圏に立てる条件が成立すれば、妻を通じた夫の重生によって血統転換も可能となるのです。

ちなみに、「体恤」とは “他人の身になって同情し、いたわる” という意味であって、上記の場合では “妻(正妻)となる韓婦人が夫である文先生の復帰摂理における困難と苦労を、神の娘としての立場に立って同情し、夫の妹となって、奥さんとなって、お母さんとなって夫を労わる” こととなります。しかし、蕩減復帰摂理としてもう一つ残っています。それは、“妾の姉に立ち返って、姉として妾を妹のように愛する” ことで “夫を喜ばせる” ことが文先生にとって最大の労わりになるということです。これは、蕩減復帰摂理を担う文先生にとっての “きも” となる部分です。ここで、「妾」とは日本食口シック、中でも日本女性食口であることは言うまでもありません。

 四番目の皇族圏復帰は、正妻圏が復帰されてきて、めかけが正妻になり、正妻が妾になるような立場で立つのだから、マリヤの立場が姉さんになり、エリサベツは妹として神様の妾の立場で蕩減復帰して、まるっきり反対にして、神に帰らなければならないのが蕩減復帰原則です。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p139)
 これから特別に、先生はそういうようなことを教育するのです。堕落のゆえに四大心情圏を破壊したのだから、蕩減復帰は、エバがなしてきたのと同じような所で、一八〇度転覆するのです。
 四大心情圏を女が体恤しないと、宇宙の転換点を正すことができません堕落の瞬間に、四大心情圏、四大心情を失ってしまいました。子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情を一遍に崩壊させてしまったことを、いつ女として体恤するかという蕩減復帰です。同じように体恤するのです。それが、キリスト教を中心として、歴史を通して一点を求めてきた、新郎新婦が出会う時です。その時に女たる者はみな、神の娘として、妹として、奥さんとして、お母さんとしての心情を爆発的に体恤しないと、変わらないのです
 そのような大もとが、再び生れてこなければならないのです。そういう体恤をした場合、「旦那さん」と言えば、旦那さんは遠い所にいるのではありません。もう既に、自分の中に入っているのです。それは主体だからです。そのような愛の本郷地を求めていくのが、人間の本来の生来の生涯、生活です。真の父母という観念が分かりましたか? それは宇宙の根本的な基本姿勢となっているのです。(『文鮮明先生の日本語による御言集 特別編1』p172〜p173)

 B) 「ヤコブの典型路程」の失敗とイエスの誕生

さて、ヤコブ路程に戻って、イエス誕生までの内容を図5を参考に簡単に見ていくことにする。

図5
ヤコブ家庭から、「女のカインとアベルによる蕩減復帰摂理」が始まった。本来なら、姉(カイン)のレアがヤコブの “正妻” となった上で、妹(アベル)ラケルが “妾” として、アブラハムの神、イサクの神を信仰するヤコブの愛の対象の立場に立たなければならなかった。しかし、ラケルは父ラバンの偶像テラピム信仰を根強く受け継いできたため久しく子を宿すことができなかったのである。挙句の果てに、ラケルはヨセフの弟ベニヤミンを出産した直後死んでしまった(創世記35章18節〜19節)。
この間レアは、夫ヤコブに対する “愛の怨讐” となった妹を一度も愛せなかったのである。その為、ヤコブを中心とした摂理は、ユダを中心とした摂理に移行することになった。

以下の内容は創世記38章になるが、ユダは父ヤコブの愛するヨセフを死なせてしまったと思い込んで心を痛めて(創世記37章)逃避し、異邦人となるカナン人の娘シュアを妻に娶った。シュアは三人の男の子を産むと、長子エルの妻となったのがタマルであった。
月日が経って、ユダの妻シュアが死んだ(創世記38章12節)。それまで子を宿すことのできなかったタマルは、舅のユダを騙して関係を結び、双子の男の子をはらんだのである。長子となるゼラが先に胎から手を出して「の糸」がその手に結ばれた。しかし、ゼラは胎中にいたペレヅに引き戻され、争った末にタマルの胎中から先に出て来たのがペレヅであった。この長子として誕生するはずのゼラが胎中に引き戻され、次子となる筈だったペレヅが先に誕生して長子として迎えられたことは、「胎中における長子権復帰」(胎中聖別)が成されたのであって、血統転換されたということにはならない。血統転換が成されるには、ある条件が必要である。

タマルは、“ヤコブ(イスラエル)の血統” を愛してユダの嫁となった。タマルは、夫が亡くなると舅のユダによってレビラト婚の破綻が生じ、寡婦となった。この為、ユダにはタマルを扶養する義務が生じた。また、ユダの妻シュアが亡くなることによって、タマルにはユダによって子を産める権利が生じた。しかしその後、ユダはタマルと夫婦関係を持たなかった(創世記38章26節)ことから、タマルはユダの “” の様な立場に立っていたも言える。父ヤコブから逃避していたユダは、こうしたタマルの愛と覚悟によって父との一体化が可能となったのである。

 マタイによる福音書第1章を見れば、4人のふしだらな女性が出てきます。バテシバタマルルツラハブがまさにその人たちです。なぜ聖書にこのような女性たちの名前が出てくるのでしょうか。何の理由もなくただ現れるのではありません。それだけの事由があるのです。新約聖書のマタイによる福音書第1章は旧約聖書の創世記第1章に該当するものであり、記された歴史的悲運の事情が、再びマタイによる福音書と関係をもって現れるのです。いわば、新しい歴史の道は、創世記の歴史的な悲運の内容から始まったということを暗示するために、創世記のような悲運の内容が聖書にしばしば記録されているのです。(『神の摂理から見た南北統一』 p63〜p64 1980.11.18 )

図6
タマルにはじまる “4人のふしだらな女性” としてのラハブルツバテシバはを経てマリアに至る(図6)のである。


 C) ヤコブの血筋となったモーセとダビデの血統から見えてくること

 


 D) 神の再創造の主眼となるのは無原罪の「独生女」ではない

 




3 イエスの実体路程としての失敗

 @) エリサベツの怨讐となったマリヤと庶子としてのイエス

 

 A) 洗礼ヨハネの失敗によるイエスの天使に対する主管性復帰と十字架

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊≠ノ導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(「マタイによる福音書」4章1節〜11節)
 人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。(「申命記」8章3節)
 あなたがたの神、主を試みてはならない。(「申命記」6章16節)
 あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。(「申命記」6章13節)

 

 




4 霊性としての聖霊とキリスト教

 では、具体的に聖霊はどのようなお方でしょうか。エバがもし完成していたなら、実体の母となっていたはずですが、堕落することによってエバの霊性が神様に収められました。そうして、その霊性はイエス様がこの地上で新婦を迎えればその新婦に再臨して実体の形象をまとおうとしたのですが、イエス様の新婦の基盤がなくなることによってその霊性は再臨できず、イエス様は実体の父母の立場に立つことができませんでした。ですから、仕方なくイエス様は聖霊と共に霊的父母の立場になるしかなかったのです。(『神様の摂理から見た南北統一』 79p)

 @) 二性性相の神としての神霊と聖霊と人間の良心



 


<参照>
エバの摂理完了と男性復帰(上)

 A) 『原理講論』における三位一体の観点から

 イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。したがって、イエスと聖霊は霊的重生の使命だけをなさっているので、信徒たちも、やはり、霊的な三位一体としてのみ復帰され、いまだ、霊的子女の立場にとどまっているのである。ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。(『原理講論』p268)

 




5 蕩減摂理時代から愛援摂理時代へ

 霊界と地上界の歴史を経て、今では太平洋沿岸をみな経、大西洋を経て上陸したのちにアラスカで何をしたのかといえば、八定式をしたのです。八定式は、縦的な蕩減歴史的路程、横的な個人、家庭、氏族、民族、国家、世界蕩減路程、八段階縦横の路程を経て定着することによって長子権復帰が起こり、この地の世界の人間の前には、蕩減の路程が解消されるのです。八定式をすることによってそうなのです。先生が宣布したのです。八月三十一日アラスカで。(『宗族的メシヤ』p334)
 長子権が復帰され、御父母様が抱いてあげることにより、父母の愛の圏内で長子権復帰のための歴史時代の戦争史、闘争史がなくなり、愛でもって和合できる、蕩減が必要でない時に入ってきたというのです。そのようなことをするためには八定式をしなければならないのです。
 八定式をすることによってその息子、娘を、長子と次子を前においた父母が生じて、このような子供たちを許してあげたので、そのあとには父母容赦圏時代が来るのです。
 それで愛援摂理時代を宣布するのです。救援摂理ではありません。愛でもって援助する救援時代なのです。今までは、蕩減復帰救援だったのですね? それがなくなるのです。長子権復帰をすることによって、兄弟たちが父母の懐にただそのまま抱かれ得る立場に入ってきて、父母の愛を中心として、父母に許しを受けることのできる環境をつくっておいたので、この地上に統一教会に反対する勢力はなくなるのです。反対する時代は過ぎ去るのです。今、そのようになったのです。アメリカに、統一教会の文先生に反対する人がいないのです。いるといってもそれは、共産党の本当のアカと解放神学の連中のみなのです。全部、世の中を知らない者たちなのです。(『宗族的メシヤ』p335)

 @) 長子権復帰と母子協助による愛援摂理時代


 1989年8月31日の「八定式」の制定以降、1990年3月27日「真の母」勝利宣言が成され、文先生は1991年12月6日金日成と会見すると、1992年4月10日世界平和女性連合が創設され総裁に韓鶴子女史が就任しています。




6 血統転換を成す本質は真の愛

 @) 世界平和統一家庭連合における「血統」の概念における欺瞞

 

 A) 真の愛の実体となる真の母によって誕生する神の血統

 神の愛とは、要するに神の絶対愛をいう。神は絶対者であるために、神の愛は絶対的愛である。ここでいう絶対とは、世俗的な意味の絶対とは異なる。ここでの絶対は、永遠不変性無限性普遍性をいう。神は永遠的存在であり、存在しないところがないのであって、いつでも、どこでも存在されるのである。したがって神の愛もまた永遠であり、存在しないところがないのである。このような内容をもつ愛が絶対的愛であり、真の愛である
 例えていえば、真の愛は太陽光線のようである。太陽光線は地球上のどこでも照らさない所がなく、常に休みなく継続して永遠に照らしている。それと同じく、真の愛とは、包括的であり、全人類だけでなく、すべての万物に対してまでも、施し与える愛である。被造物全体が真の愛の対象である。真の愛の対象から除外される存在は、この宇宙にはない。普通、愛といえば、人間同士が与えて受ける愛のことをいうが、真の愛とは、人間同士はもちろん、敵までも、ひいては万物までも愛する、そのような愛である。(『統一思想要綱』720p)

 

 B) 儒教による徳治主義が生み出した韓国特有の「孝」に対する価値観

  「」は、特に儒教や中国仏教、道教の倫理において、自分の両親、年長者、先祖に対して愛と尊敬を示す美徳である。

徳治主義」とは、徳のある統治者がその持ち前の徳をもって人民を治めるべきであるとした孔子の統治論に由来する儒教の政治理念・思想。古くは徳化などと呼ばれていた。

儒教における「」とは、人間の道徳的卓越性を表し、具体的には仁・義・礼・智・信の五徳(五常)や孝・悌・忠の実践として表される。そして、徳は人間の道徳性から発展して統治の根本原理とされ、治世者の優れた徳による教化によって秩序の安定がもたらされると考えられた。

 C) 日本型の “義” による「忠・孝」一体で “仁” の核となる「忠恕の精神」を持つ

 この版の改訂にあたっては、主に具体例の追加にとどめた。だが「孝」についての一章を加えられなかったことは残念である。「孝」は「忠」とともに、日本人の倫理の両輪とされている。「孝」の一章を書くことが難しかったのは、それに対するわが国民の態度を知らないからではなく、むしろこの徳に対する西洋人の感情を私が知らないからである。そのために満足のいくような比較論を書くことができなかったのである。(『いま、拠って立つべき日本の精神&錘m道』p7)

 



聖書にあらわれた系譜性 (奈良大学紀要 小田丙午郎 : PDF)
東アジアの儒教的経営と不正会計 (大東文化大学経営学部 沢修一 : PDF)
日本人の忠と中国人の孝(下)(日本工業大学教授 呉志良 : PDF)
独生女(独り娘)の理解を深めるために ― 真のお母様の無原罪性について
忠義 - 盲目的な服従ではなく、「義」に尽くす覚悟



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