明かされたカバラ
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■ 1.基本的概観
     b. 五感を越えるもの


 神秘主義に関して言うと、カバラは科学であり、神秘主義ではありません。それ(神秘主義)は不思議で理解出来ないものに直結する方法です。その理由は、単に現在の認識段階で、それらの働きを理解をしていないからです。科学技術を知らない孤島に住む部族に、ライターを持っていくのと同じです。あなたは火の神と思われるでしょう。手のひらで火を出す何らかの神秘的な存在として、それは単に何が明かされていて、何が隠されているかの問題です。それが魔術だと言う事、魔術とは上層の力を使い、人を操作して、欲しいものを取得し、利得または、他者に危害を加えることなどを伴いますが、道徳上の内的性質が変わらない限り、上層の力に触れることは全く不可能です
 カバラにおける達成とは、内的変化の問題です。それなくして、力との接触は不可能です。これは、誰かの空想以外に何の関係もないことです。数名の人だけがカバラの勉強を許され、条件があると言うこと。ユダヤ人でないとダメと言うこと。そうではありません。なぜなら、カバリスト達はユダヤの生まれでない人も教えてきました。偉大なカバリスト達には、実に異邦人もいます。アンクロース、ラビ・アキーヴァ、大勢います。カバリストの全員が、立派な生徒をとったのです。身体的特性ではなく、「イェフッド」と言われる内面的特性を基準にしていました。それについては、後で説明します。
 グマラやミンナなどの叡智を事前に精通しなければならないことについては、もし、トーラーやグラマに記されていることが理解できないなら、カバラも理解出来ません。事前に精通しておく必要があると言うのではなく、予備の叡智に、スピリチュアリティ(霊性)を発見できないのなら、スピリチュアリティ(霊性)に関して、直接説明する書物に移行しなければならないと言うことです。
 この世界の事を指すトーラーの言語や、アガダなどの物語の言語を誤解しないように、魔除やお守り、そして数字や文字を使っての創造、または人を悪から守ることについて、これらはカバラの扱うことと全く逆なことです。それは実に禁止されています。上層の力を個人的な理由で利己的に使うことは、偶像崇拝とみなされています。それに、身を守る必要のあるものなどは存在しません。よって聖水、魔除け、赤い糸などは心理的なもので、カバラとは全く関係ありません。
 最後に、東洋の宗教とカバラとの混同について。私達は何も知らなかったと言う理由で、スピリチュアリティを率直に扱う仏教やヒンズー教とカバラを連結させました。それは単に、スピリチュアリティを扱うカバリストの書物が開示されていなかったからです。しかし、それは変わりました。1995年からカバラの全書物は開示されました。カバラの生徒として受け入れられ、気軽に安心してカバラを見ることができ、自分が求むものを探せる唯一の条件、カバラを学ぶ生徒になるために唯一必要なことは、その要求が自分にあると言うことです。人生の意味や、出来事の起きた理由、そして自分の役割に対する答えなど、もし、これらの答えが他で見つからないなら、それが必要条件です。全てのカバリストはその様に言いました。アリの時代以降、彼は必要条件は、この願望があることと言いました。偉大なカバリストで、エルサレムのチーフ・ラビでもあるラヴ・クックも、誰がカバラを勉強出来るのかを尋ねられた時、彼は「すべての人」と答えました。よって、そうではないのです。
 最後に、私の最も好きな神話は、カバラを勉強すると頭が狂うと言うこと。好きな理由は、全てに言えることですが、それは単に、ものの見え方です。カバラにおける達成の結果として、人に起きる内面的変化の種類、現実の理解と、繋がりの達成によっての彼らの感じる喜び、喜びの源は普通の考え方とはとても異なります。それは逆であり、その理由は、その考えが霊的な世界に存在するものだからです。よって、スピリチュアリティと反対の目的を持つ人にとっては、正気でないように見えます。でも、本当は違います。
 そしてカバラが隠された科学と言われる第三の理由は、それが五感から隠れたものを扱うからです。それは、他の方法では答えられない質問を答えます。それが答える質問は、基本的に「私の人生の意味とは何か」と言うことです。これは、深く厳しい質問です。なぜならこの疑問を持ち、伝統や科学やアートや文学や心理学が、教えることに答えを見つけられない人は、私の人生の意味とは何か、と言う質問を答えること以外、単にどんなものにも満足出来ません。このような人は、五感を越えるものを感じる用意ができています。




♠ 統一原理との対比



 ここでのカバラにおける達成とは、内的変化による上層の力との接触であるとしています。それは欲望が変化することによって、者の見え方が変わり、喜びは外から与えられることではなく、内面から沸き起こってくるものであるとしています。それは、身体的五感から来るものではなく、霊性(スピリチュアリティ)としての第六感であると説きます。
 『原理講論』では、人間の心には堕落によって“本心の指向する欲望と“邪心の指向する互いに矛盾する欲望が同時に内在し、人間を破滅状態に陥れるとしています。この破滅状態を解決するためには、宗教と科学が統一された“新しい真理”によって、“邪心”とはどこから来て、“本心”が指向するものは何なのかを知り、“本心に従って生きることであるとしています(『原理講論』総序 p21p38)。
 前のセクションでカバラの“上層の力”は神の万有原力のことであるといいましたが、これは次のセクションにおける“授与する意思”と“受け取る意思”に他なりません。『原理講論』で言う“授受作用における根本的な力のことを言います。また、『原理講論』で言う“本心”の指向する欲望というのは、対象に“授ける(愛する)”ことによって、その対象から「喜び」を“受ける”ことができることを「本心が本来求める欲望」であるとしています。これらに共通するのは、「神に通じる霊性としての授受しようとする欲望”」です。


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